正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(105)(顔斐・顔良・顔連)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(105)
顔(がん)
顔斐・文林
生没年不詳。兗州・済北国の人。魏の京兆太守。
農業政策
才能と学識があり、丞相・曹操に召し出されて太子洗馬に取り立てられ、黄初年間(220年〜226年)の初めに黄門侍郎となり、後に雍州・京兆郡*aの太守となった。
以前、司隷・京兆尹*aで馬超が敗れた後、京兆尹の民の多くは農業に専念しなくなり、(顔斐が赴任するまで)4人の二千石(太守)が歴任していたが、その場しのぎで長期的な解決策を打たなかった。
顔斐は着任すると、管轄内の県に命じて阡陌(田の畔道)を整備させ、桑や果物を樹えさせた。
また車や牛を持たない多くの民のために「農閑期に車を作るための材を取らせて互いに車の作り方を教え合うこと」を民に課し、牛を持たない民に豬と狗を飼わせ、それらを売って牛を買うように命じた。
当初、民たちはこれを煩わしいと思っていたが、1〜2年経つと、家ごとに車と大きな牛を所有するまでになった。
脚注
*a建安25年(220年)に司隷校尉部(司隷)から京兆尹・左馮翊・右扶風の3郡が分割され雍州に編入された。そのため建安25年(220年)以前は司隷・京兆尹、以降は雍州・京兆郡となる。
文治政策
顔斐は文学(学問)を奨励し、吏民の中で「書物を読みたい」と願う者の小徭(小さな夫役)の免除を認め、府下(役所の土地)に菜園をつくり、仕事の合間に耕作させた。
また租米を納める際に、車や牛に薪2束を積んで来させ、それを冬に凍った筆や硯を温めるために使った。
その結果 教化は大いに行き渡り、官吏は民に迷惑をかけず、民は官吏に面倒をかけなくなった。
雍州・京兆郡は馮翊郡、扶風郡と境界を接していたが、馮翊郡、扶風郡の2郡の道路は荒れ果てて塞がれ、田畑は雑草に覆われて民は飢え凍えていたのに対し、京兆郡ではみな整い開けて明るく、常に雍州10郡の中で最も豊かであった。
顔斐はまた己を清くし、ただ己の俸禄に頼るだけで吏民に賄賂を求めなかったので、吏民は彼が転任することを恐れた。
司馬懿に建白する
青龍年間(233年〜237年)中、京兆郡・長安にいた司馬懿が軍市(軍中の市)を立てると、軍中の官吏・兵士が県民を侮って害を加えることが多発した。
顔斐がこれを司馬懿に申し立てると、司馬懿は激怒して軍市候(軍市の見廻り)を召し出すと、すぐさま顔斐の面前で杖打ち百回を加えた。
この時、顔斐と同席していた長安の典農は「顔斐も謝罪するべきだ」と思い、こっそり顔斐に促したが、顔斐は謝罪することを承知せず、少ししてやっと言った。
「斐は『明公(司馬懿)は陝西の統治を任されたからには民衆を1つにまとめたいと願われ、その思いは絶対に人に動かされることがない』と拝察しております。今、典農はこっそりと斐に謝罪させようとしましたが、それこそ明公(司馬懿)のご意向に添わないことと存じます」
これ以降、司馬懿は官吏・兵士を厳しく律するようになり、軍営・郡県は各々の権限を維持できるようになった。
顔斐の死
その数年後、顔斐が平原太守に転任することになると、京兆郡の吏民たちが声を上げて泣きながら道を遮ったので車は進むことができず、10日余りしてようやく境界を出ることができた。
ところが、東に進み崤山に至ると顔斐は病気に苦しむようになった。
顔斐は平素から京兆郡に恋慕していたので、家族や従者が彼を励まして「平原様、頑張ってください」と声を掛けると、顔斐は「我の心は平原にはない。汝曹たちはなぜ我を京兆と呼ばんのだ?」と言った。
こうして顔斐が亡くなると、その柩は冀州・平原郡に還された。
京兆郡の人々はこれを聞くとみな彼のために涙を流し、碑を立てて彼を褒め称えた。
備考
『魏書』 倉慈伝に、
「太祖(曹操)の時代から咸熙年間(264年〜265年)まで、
- 豫州(予州)・陳国出身の魏郡太守・呉瓘
- 青州・楽安国出身の清河太守・任燠
- 兗州・済北国出身の京兆太守・顔斐
- 幷州(并州)・太原郡出身の弘農太守・令狐邵
- 豫州(予州)・魯国出身の済南相・孔乂
がいる。
ある者は憐れみをもって裁判を行い、ある者は正直さと慈しみ愛することを推し、ある者は清廉潔白に身を治め、ある者は悪事を摘発し隠事を暴き、すべて優れた二千石(太守)であった」
とあり、魏において優れた二千石(太守)の1人として数えられている。
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顔良
生年不詳〜建安5年(200年)没。袁紹配下の将。
袁紹の隆盛
建安4年(199年)、幽州の公孫瓚を滅ぼした袁紹はその軍勢を併合し、長男の袁譚を外に出して青州を治めさせ、次男の袁煕に幽州を、甥の高幹に幷州(并州)を治めさせた。
軍勢数十万、審配と逢紀に軍の事務を統轄させ、田豊・荀諶・許攸を参謀に、顔良と文醜を将帥に任命し、精鋭兵10万、騎兵1万騎を選り抜いて(曹操の本拠地である)豫州(予州)・潁川郡・許県を攻撃しようとした。
官渡の戦い
建安5年(200年)2月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を派遣して白馬にいる東郡太守・劉延を攻撃させ、袁紹自身は兵を率いて黎陽に赴き黄河を渡ろうとした。
この時、沮授が袁紹を諫めて「顔良は促狹*bで驍勇(強く勇ましい)といえども、彼1人に任せてはいけません」と言ったが、袁紹は聴き入れなかった。
夏4月、曹操が北に赴き劉延を救援しようとすると、荀攸は、
「今のままでは兵が少なく対抗できませんが、敵の力を分散させれば可能となります。公(曹操)には延津に向かわれ、兵を渡河させて敵の背後を突くと見せかけてください。袁紹は公(曹操)の動きに備えて西に向かうに違いありません。袁紹が動くのを待ち、軽兵をもって白馬を襲撃してその不意を突きますれば、顔良を擒にできるでしょう」
と説き、曹操はこの意見に従った。
袁紹は曹操の兵が黄河を渡ったと聞くと、すぐさま兵を分けて西に向かわせてこれに対応し、曹操は軍を率いて昼夜兼行で白馬に向かい、白馬の手前10余里(約4.3km)まで急行した。
これに顔良は大いに驚いて迎撃に出ると、曹操は張遼と関羽を先鋒とした。
遠くに顔良の麾蓋[旗印と車蓋(車の屋根)]を見つけた関羽は、馬に鞭打って万を数える敵中に馳せ入ると、顔良を刺しその首を斬り取って還って来た。
脚注
*b倫理観がなく、人をからかうのが大好きな人。
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顔連
生没年不詳。揚州・呉郡・無錫国の人。孫権配下の居巣県長。
建安18年(213年)春正月、曹操が歩騎40万を号して濡須口に進軍すると、孫権は7万の軍勢を率いてこれを防いだ。
この時、孫権の従兄である丹楊太守の孫瑜は、積極的に戦おうとする孫権に自重するように説いたが、孫権は聴き入れず、撃って出たものの何の成果も挙げられなかった。
その後 孫瑜は奮威将軍に昇進し、丹楊太守のまま揚州・丹楊郡・溧陽県から丹楊郡・秣陵県の牛渚に駐屯地を徙した。
孫瑜は益州・巴郡・永安県(魚復県)出身の饒助を揚州・廬江郡・襄安県の県長に、揚州・呉郡・無錫国出身の顔連を廬江郡・居巣国の県長に任命すると、2人は(九江郡と)廬江郡をまとめて孫権に帰順した。
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