正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(104)[顔俊(顔雋)・顔燭(顔斶・顔蠋)]です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(104)
顔(がん)
顔俊(顔雋)
生年不詳〜建安25年(220年)没。雍州・武威郡の人。
建安24年(219年)、雍州では、
- 武威郡の顔俊(顔雋)
- 張掖郡の和鸞
- 酒泉郡の黄華
- 西平郡の麹演
らが、それぞれ郡を挙げて反乱を起こし、自ら将軍と号して互いに攻撃し合った。
この時、顔俊は魏王・曹操に使者を派遣し、母と子を人質に差し出して救援を求めた。
曹操がこれについて張既に意見を求めると、張既は、
「顔俊らは、外は国威(朝廷の威光)を借りながら内では傲悖(傲慢と逆心)を抱いており、計が定まって勢力が拡大すれば即座に背くでしょう。今は蜀平定に注力すべき時ですので、しばらく彼らを並立させて闘わせ、(戦国時代の)卞荘子が虎を刺した時のように、座して共倒れするのを待つのがよろしいかと存じます」
と言い、曹操は張既の意見に従った。
その結果、1年余りして和鸞が顔俊を殺害し、武威郡の王秘がまた和鸞を殺害した。
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顔燭(顔斶 , 顔蠋)*1
生没年不詳。戦国時代の賢者(隠者)。
賢者を好む名君として知られていた斉の宣王が隠者の顔燭を引見した際、宣王の「王者と士ではどちらが貴いか?」との問いに「士こそ貴く、王者などは貴くありません」と答え、その理由を挙げて論証し、反論の余地を与えなかった。
これに感心した宣王は「自分を弟子にして交際してくれるなら」と破格の待遇を提示したが、顔燭はそれらを辞退して去った。
脚注
*1『魏書』文帝紀では顔燭、『戦国策』では顔斶、『東坡志林』では顔蠋。
以下は『戦国策』を基にしていますが、『魏書』文帝紀に合わせて顔燭としています。
以下詳細
斉の宣王が顔燭を引見し、「燭(顔燭)、前め!」と言うと、顔燭もまた「王、前め!」と言い返したので、宣王は不機嫌になった。
これに宣王の側近が、
「王は人君(君主)であり、燭は人臣(臣下)である。王が『燭(顔燭)、前め』と言われたのに対し、『王、前め』とは。それで良いと思っているのか?」
と言うと、顔燭は答えて言った。
「燭が王の前に進み出ましたならば、燭は権勢にへつらう者となりますが、王が燭の前に進み出られましたならば、王は趨士*2となります。
燭を権勢にへつらう者となさるより、王を趨士*2となされた方がよろしいでしょう」
すると宣王は顔を真っ赤にして怒って言った。
宣王「王者と士ではどちらが貴いか?」
顔燭「士こそ貴く、王者などは貴くありません」
宣王「その説に裏付けはあるか?」
顔燭「ございます。昔、秦が斉を攻めた時、(秦は魯に道を借り、)『柳下季*3の壟(墓塚)から50歩以内の土地で理由もなく薪を採る者があれば、容赦なく処刑する』と命じ、また『斉王の頭を挙げた者は万戸侯に封じ、金・千鎰(1鎰=20両)を下賜する』と言いました。
これは『生きた王の頭は、死んだ賢士の壟(墓塚)に及ばない』ことを意味しています」
宣王が不機嫌そうに黙っていると、側近たちはみな、
「燭(顔燭)よ、来め!燭(顔燭)よ、来め!
大王は千乗の地(戦車千乗を有する国)を領有して千石の鐘を鋳造し、万石の猹(高殿)をお建てになられた。
天下の仁義の士はみなやって来て役目を与えられ、弁舌・賢智の士はみな進み出て自説を語らない者はなく、東西南北を見ても服従しない者はいない。万物を求めて備わらないものはなく、民は誰1人として懐き従わない者はいないのだ。
今、そもそも士は高位の者でも卑下して匹夫・徒歩と称して野良で農畝(田畑)を耕し、下位の者と言えば、せいぜい辺鄙な田舎で村里の門番をしている程度のものだ。士の(王と比べて)賎しいこと甚しいっ!」
と言った。
すると顔燭はこれに答えて言った。
「いいえ、そうではありません。
『昔、大禹(禹)の時代には諸侯の国が1万もあった』と聞いております。
なぜか?それは(禹が)有徳の士を手厚くもてなす道を心得ていて、貴い士の力を得たからでございます。
ゆえに舜は農畝(田畑)から身を起こし、辺鄙な田舎から出て(堯から譲られて)天子となることができたのです。
その後(殷の)湯王の時代になりますと諸侯の国は3千となり、当代になりますと、南面して寡人(諸侯の自称)と称するものは、なんと24しかありません。
なぜそうなったかを考えれば、その違いは『士を貴ぶ策を行ったか行っていないか』にあるのではないでしょうか?
(1万もいた諸侯が)次第に誅滅され滅亡して一族を失った後で、閭里(村里)の門番になろうとしても、そのようなことができるでしょうか?
『易』の伝(注)に『上位にいて未だその実(賢臣)を得ていないのに名を馳せることを喜ぶ者は、その行いも必ずや傲慢・奢侈となり、傲慢・奢侈となれば必ずや凶運がつき従う。ゆえに実(賢臣)を得ていないのに名を馳せることを喜ぶ者は(その領土を)削られ、徳がないのに福を望む者は困窮し、功績がないのに禄を食む者は辱められ、必ずや禍を被るのである』とあり、また古語にも『功績を矜れば(身が)立たず、虛しい願いは叶わない』とあります。
彼らはみな、その名が輝くことを期待しながら、その実、徳など持ち合わせていないのです。
堯には9人の佐(補佐)、舜には7人の友、禹には5人の丞(補佐)、湯王には3人の輔(補佐)があり、今日に至るまで虛名をもって天下を成した者はおりません。
このようなことから、君王はしばしば問うことを羞とせず、下々に学ぶことを媿としません。
それゆえ堯・舜・禹・(殷の)湯王・周の文王は、自らの道徳を完成させて後の世に功名を揚げることができたのです。
古語にも『無形は有形の君であり、無端(始まりがないこと)は万事の本である』とあります。
そもそも上はその源(無形・無端)に、下はその流れ(有形・万事)に通じる至徳の聖人・聡明な哲人ともなりますれば、何の不吉が起こりましょうかっ!
老子は『たとえその身が貴くても必ず”賎”を本とし、たとえその位が高くても、必ず”下”を基とす』と言っております。
諸侯や王が『孤』『寡』『不穀』と自称しているのは、『賎』を本としているからではございませんか?
そもそも『孤』『寡』とは、困窮卑賎な人々の中でも下位にある人々です。諸侯や王がこのように自称するのは、人に謙って士を貴んでいるからではないでしょうか?
そもそも堯は位を舜に伝え、舜は禹に伝え、周の成王は周公旦に国事を委ねたにも拘らず、世々、明主と称えられております。
このことは、士が(王よりも)貴いことを明らかにするものでございます」
宣王はこれを聞くと、
「あぁっ!どうして君子(顔燭)を侮れようか。(士を軽んじたのは)寡人の過失であった!
今、『君子の言』と『細人の行い』をお聞きし(て感じ入り)ました。どうか(寡人を)弟子にしていただきたい。
もし顔先生(顔燭)が寡人と交際していただけるのならば、お食事は必ず太牢(牛・羊・豚)を用意し、外出する際には必ず乗車を用意し、(顔燭の)妻子の衣服は美しく雅やかにして差し上げましょう」
と言った。
ところが顔蠋はこれを辞退し、暇乞いをして言った。
「玉は山から産出されるものですが、研磨すれば原形は失われてしまいます。(研磨した玉が)宝貴(貴重)でないわけではありませんが、太璞(原始の素朴さ)は失われてしまいます。
士は鄙野(田舎の人里離れた場所)に生まれるものですが、推挙され選ばれれば俸禄を受けます。尊い身分に至ることがないわけではありませんが、そうなれば身も心も完全ではいられません。
どうか蠋を帰らせてください。
晚い時間に腹を空かして食事をすれば粗末な食べ物でも肉のように美味く、ゆっくり歩けば車に乗らなくても疲れることはありません。罪を犯さないことを貴い身分の代わりとし、貧しくとも清く正しい生活をすれば、常に満ち足りた心でいることができるのです。
(燭の)言葉をご判断なされるのは王の仕事であり、忠義を尽くして直言するのは燭の仕事です。大切な事柄はもうすっかり申し上げてしまいました。
どうかお暇することをお許しいただき、道中つつがなく村里の住居に帰らせてくださいますように」
こうして顔燭は、再拝して立ち去った。
顔燭は足ることを知っていた。(宣王に)反撃したからこそ、生涯辱めを受けずに済んだのである。
脚注
*2賢者に対して礼儀を尽くし、士に対して謙って交わること。礼賢下士。
*3魯の賢者・柳恵。
備考
延康元年(220年)10月、魏王・曹丕に禅譲の詔勅が下ると、まず尚書令・桓階らが2度上奏して禅譲を受けることを願ったが、曹丕は布令を下してこれを辞退した。
続いて上奏された侍中・劉廙、常侍・衛臻らの上奏文の中に「顔燭は太璞(玉の原石)がそのままの状態を保てないことを懸念し、分をわきまえて辞退した」ことが例示されている。
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