正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(106)(柯吾・柯最)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(106)
柯(か)
柯吾
生没年不詳。羌族の酋豪(首領)の1人。
[魏の太和2年(228年)〜魏の景初3年(239年)の間に]涼州刺史・徐邈に討伐された。
涼州刺史・徐邈
魏の太和2年(228年)、明帝(曹叡)は「涼州は絶遠の地で、南方は蜀寇(蜀漢)と接している(要地である)」ことから、徐邈を涼州刺史に任命し、使持節・護羌校尉を兼務させた。
着任した徐邈は、祁山に進出した蜀漢の諸葛亮(第1次北伐)に投降した隴右の3郡(安定郡・天水郡・南安郡)を破り、農業改革を行って枯渇していた倉庫を穀物で満たし、州境の軍用米の残りを支出して金・帛(絹)・犬・馬を買い、中国(中央)の費用に提供した。
また、民間が所有する武器を没収して府庫にしまい込み、仁義の名の下に学校を建てて訓戒を明示し、厚葬(壮麗な葬儀)を禁止し、淫祀(いかがわしいものを神として祭ること)を断絶させ、善を進め悪を黜けたため教化は大いに行き渡り、民は徐邈に心服した。
徐邈の異民族政策
西域との通行が開かれ、荒戎(遠方の蛮族)が入貢するようになったのは、すべて徐邈の勲功である。
また、叛いた羌族の柯吾を討伐して功績を立て、都亭侯に封ぜられて封邑3百戸を与えられ、建威将車を加えられた。
徐邈は羌・胡に対する場合、小さな過失は不問とし、もし大罪を犯した時にはまず部帥(部落の指導者)に告げて承知させ、死刑に処すべき者であって初めて斬首し、その旨を広く告げて回ったので、羌・胡は徐邈を信頼して服従し、その威光を畏れた。
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柯最
生没年不詳。鮮卑中部の大人の1人。
鮮卑の拡大
檀石槐が人々に推されて鮮卑の大人となり、高柳の北3百余里(約129km)の弾汗山、啜仇水の辺に庭(首都)を置くと、東西の部族の大人たちはみな彼に帰服した。
その兵馬は勢いが盛んで、南は漢の国境地帯で略奪を働き、北は丁令*1を拒ぎ、東は夫餘を撃退し、西は烏孫を攻撃し、東西12,000余里(約5,160km)、南北7,000余里(約3,010km)にわたる山川・水沢・塩地など、広大な匈奴の故地の悉くを手に入れた。
漢はこの鮮卑の勢力拡大を憂慮し、桓帝の時代に使匈奴中郎将の張奐を派遣して討伐させたが、勝つことができなかった。そこで漢は、檀石槐を王に封じて和親を結ぼうとしたが、檀石槐は拒否して印綬を受け取らず、鮮卑の侵入・略奪はいよいよ激しくなった。
そこで檀石槐は鮮卑の領土を中部・東部・西部の3部に分けた。
脚注
*1紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。丁零・丁霊・勅勒とも。
東部
幽州・右北平郡から東は遼東郡、夫餘・濊貊と接する辺りまでの20余邑を東部とし、
東部の大人には、
- 弥加
- 闕機
- 素利
- 槐頭
という者たちがいた。
中部
幽州・右北平郡から西は上谷郡までの10余邑を中部とし、
中部の大人には、
- 柯最
- 闕居
- 慕容
という者たちがいた。
西部
幽州・上谷郡から西は燉煌郡(敦煌郡)、烏孫と接する辺りまでの20余邑を西部とし、
西部の大人には、
- 置鞬落羅
- 日律推演
- 宴茘游
という者たちがいた。
彼らはみな大帥でもあり、檀石槐に属してその指揮下にあった。
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