正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(99)(韓世雄・韓冉・韓宣・韓暹・韓宗)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(99)
韓(かん)
韓冉
生没年不詳。劉備の軍謀掾。
劉備は曹操が薨去(死亡)したことを聞くと、軍謀掾の韓冉を派遣して書を奉じ、合わせて錦布を貢いで弔問させたが、韓冉は病気と称して荊州・上庸郡に留まった。
上庸郡の役人によってその書が届けられた時、ちょうど魏では禅譲が終わったところだったので、[文帝(曹丕)は天子の]詔をもってこれに答え、韓冉を強制的に出頭させた。
文帝(曹丕)は、喪にかこつけて好みを求めるような劉備のやり方を悪み、荊州刺史に勅命を下して韓冉を斬らせ、使者の往来を絶った。
この報告書が届くと、ついに劉備は帝位に即いた。
備考
上記は韓冉に関する以下の記述を組み合わせたものです。
『蜀書』先主伝・注・『魏書』
劉備は曹操が薨去(死亡)したことを聞くと掾の韓冉を派遣して書を奉じ、合わせて賻贈の礼*2をもって弔問させた。
文帝(曹丕)は、喪にかこつけて好みを求めるような劉備のやり方を悪み、荊州刺史に勅命を下して韓冉を斬らせ、使者の往来を絶った。
『蜀書』先主伝・注・『典略』
劉備は軍謀掾の韓冉を派遣して書を奉じ、合わせて錦布を貢いで弔問させたが、韓冉は病気と称して荊州・上庸郡に留まった。
上庸郡の役人によってその書が届けられた時、ちょうど魏では禅譲が終わったところだったので、[文帝(曹丕)は天子の]詔をもってこれに答え、韓冉を強制的に出頭させた。
この報告書が届くと、ついに劉備は帝位に即いた。
脚注
*2喪のある家に贈る進物。香典。
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韓宣・景然
生没年不詳。冀州・勃海郡の人。
韓宣は小柄な体格であった。
建安年間(196年〜220年)に丞相(曹操)によって軍謀掾に召されたが、仕事もなく冀州・魏郡・鄴県に滞在していた。
ある日韓宣は鄴県の宮中に出入りする際、東掖門の内側で臨菑侯・曹植に出会った。韓宣は道を空けようとしたが、新雨(新緑の頃に降る雨)のため水たまりが邪魔をして避けることができなかったので、扇で顔を隠して道端でじっとしていた。
曹植は、韓宣が去らない上に礼をとらないことが癪に障り、車を止めて従者に韓宣の官職を尋ねさせると、韓宣は「丞相軍謀掾です」と答えた。
曹植が「列侯に対して失礼ではないか?」と問うと、韓宣は「『春秋』に『王の直臣は、たとえ微(卑賤)といえども諸侯の上に列する』とあります。宰士(丞相の属官)が下士の諸侯に礼をとるなど聞いたことがありません」と言った。
曹植がまた「もしその通りだとしても、父(曹操)の吏(役人)ならば、その子に会えば礼をとるべきではないか?」と言うと、韓宣もまた「礼において臣と子は一例(同列)とされておりますが、歳で言えば宣の方が上です」と言った。
曹植は「韓宣を言い負かすことは難しい」と悟り、彼を許して去ると、太子(曹丕)に「韓宣は弁が立つ男だ」と言った。
黄初年間(220年〜226年)に尚書郎となったが、職務上のことで殿前において処罰を受けることになり、すでに縄をかけられ杖刑(杖打ちの刑)が執行されるのを待っていた。
そこへ文帝(曹丕)の輦(天子の車)が通りかかり、「この者は誰だ?」と問うと、左右の者が「尚書郎、勃海郡の人・韓宣です」と答えた。すると文帝(曹丕)は「ああ、以前子建(曹植)が話していた韓宣であるかっ!」と言い、特別に彼を許して縄を解かせた。
韓宣は大そう寒い中、杖刑(杖打ちの刑)を受けるために袴を脱いで褌をつけ、後ろ手に縛られていたが、赦免されると褌も腰から下ろさないまま小走りで去った。文帝(曹丕)は彼を目で追いながら笑いだし、「彼は瞻諦(下を向く)の士であるな」と言った。
後に韓宣は地方に出て清河太守と東郡太守を歴任し、明帝(曹叡)の時代に尚書大鴻臚となったが、数年して亡くなった。
評価
韓宣は前後にわたって官位にあったが、有能と無能の間にあってよく自分を抑えて人を恕した。
荊州・南陽郡出身の韓曁は賢明な人柄で、平素の徳行によって大鴻臚となっていたが、その後に大鴻臚となった韓宣もまた職に相応しい人物だと称され、鴻臚たちの中で「大鴻臚と小鴻臚、前後の治績が何と似ていることよ」と語られた。
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韓暹
生年不詳〜建安2年(197年)没。元は司隷・河東郡の白波賊の頭目であった。
献帝の東遷
興平2年(195年)7月、天子(献帝)は張済の手引きで長安を脱出したが、郭汜の妨害に遭い、楊奉の陣営に逃げ込んで洛陽(雒陽)を目指した。李傕と郭汜が再度和睦してこれを追うと、楊奉は元白波賊の頭目である韓暹・胡才・李楽らを急ぎ招き寄せて合流し、李傕・郭汜らと大戦となった。
この戦いに敗北した楊奉軍は、李傕・郭汜らの追撃を受けながら黄河を渡って司隷・河東郡・安邑県に到達し、そこを都とした。
この時韓暹は、征東将軍に任命されている。
大将軍に任命される
建安元年(196年)秋7月、楊奉と韓暹は天子(献帝)を擁して洛陽(雒陽)に帰り、楊奉は韓暹と別れて司隷・河南尹・梁県に駐屯。韓暹と董承は洛陽(雒陽)に留まって警備にあたり、韓暹は大将軍・司隸校尉に任命された。
その後韓暹が功績を誇って横暴になると、これを煩わしく思った董承は秘かに曹操を召し寄せた。
曹操が軍勢を率いて洛陽(雒陽)に到着すると、韓暹は誅殺されることを恐れて楊奉の元に逃れたが、天子(献帝)は「韓暹・張楊には洛陽(雒陽)まで自分を護衛した功績があった」とし、詔を発して彼らの罪の一切を不問とした。
9月、曹操が天子(献帝)を豫州(予州)・潁川郡・許県に遷そうとすると、楊奉と韓暹は司隷・河南尹・梁県を出てこれを遮ろうとしたが間に合わなかった。
冬10月、曹操が楊奉・韓暹討伐の軍を起こすと、楊奉と韓暹は大敗して南方に逃走し、曹操はそのまま司隷・河南尹・梁県を攻撃して陥落させた。
徐州をめぐる争い
建安2年(197年)、徐州の呂布が袁術との縁談を破棄すると、激怒した袁術は、徐州・揚州の辺りを荒らし回っていた楊奉・韓暹と連合して呂布を攻撃した。
この時、呂布から軍需物資の提供と引き換えに「協力して袁術を攻撃する」ことを持ちかけられた楊奉・韓暹は、呂布軍と示し合わせて袁術軍の将・10人の首を斬った。
その後、呂布に敗れて曹操の元に身を寄せ、豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)にいた左将軍・劉備が楊奉を誘い出して会見し、その席で彼を捕らえて斬った。韓暹は楊奉を失って孤立し、懼れて幷州(并州)に逃げ還ろうとしたが、豫州(予州)・沛国・杼秋県の屯帥(守備隊長)・張宣によって殺害された。
備考
当時の劉備は呂布と敵対関係にあり、また以前楊奉と韓暹が敵対した曹操の保護下にあった。この時、楊奉がなぜ劉備との会見に応じたのかは不明である。
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