正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(98)(韓士元・韓衆・韓荀・韓遂・韓嵩)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(98)
韓(かん)
韓士元
生没年不詳。士元は字。蜀漢に仕えた人物。
楊戯の『季漢輔臣賛』に、
士元は折り目正しい言葉を吐く。衛文経と韓士元については、いずれもその名前・事跡・出身地の郡県名は伝わっていない。
とある。
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韓荀(韓𦳣・韓猛・韓若)
生没年不詳。袁紹配下の将。
建安5年(200年)、曹操が袁紹と長期間にわたって官渡で対峙していた時のこと。
袁紹は別将の韓荀を派遣して西方の道を遮断させたが、曹仁が鶏洛山において韓荀を攻撃し、大いにこれを撃ち破った。これに懲りた袁紹は2度と再び別働隊を派遣しなくなった。
曹操軍の兵糧がちょうど底を突いた時、荀攸が曹操に、
「間もなく袁紹の運車(輸送車)が近くを通過します。その将・韓𦳣(韓荀)は向こう気が強く敵を侮る男ですので、攻撃すれば撃ち破ることができるでしょう」
と進言し、曹操が「誰を派遣すれば良いだろう?」と問うと、「徐晃が良いでしょう」と答えた。
そこで曹操は、徐晃と史渙を派遣してこれを迎え撃たせ、韓𦳣(韓荀)の部隊を撃破・敗走させてその輜重を焼き払った。
袁紹配下の許攸が曹操の下に降って来るのは、このすぐ後のことである。
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韓遂・文約(韓約)
生没年不詳。涼州・金城郡の人。元の名は韓約。
出自
初め同郡出身の辺允と共に西方の州で名を知られ、辺允は督軍従事となり、韓約は計吏として京師[洛陽(雒陽)]に赴いた。
(大将軍の)何進は以前からその名声を聞いていたため特別に目通りを許したところ、韓約は何進に「閹人(宦官)たちを誅滅するように」と進言したが、何進は聞き入れなかったので、郷里に帰ることを求めた。
涼州で反乱を起こす
光和7年(184年)冬、たまたま涼州の宋揚と北宮玉*1らが反乱を起こし、人質とした辺允と韓約を主に推戴した。この時、辺允は辺章、韓約は韓遂と名を改めている。
その後、辺章は病気にかかって亡くなったが、韓遂は宋揚らに強制され、やむを得ず官軍を阻んで反乱を主導した。軍勢は10余万、天下は動揺した。
脚注
*1『魏書』武帝紀が注に引く『典略』より。『後漢書』『資治通鑑』では宋建と北宮伯玉。
涼州・北地郡の先零羌と湟中義従胡の北宮伯玉と李文侯が、枹罕県・河関県の盗賊・宋建、王国と共に反乱を起こし、護羌校尉の伶徴を殺害した。
長平観の戦い
初平3年(192年)、董卓が誅殺されて李傕・郭汜らが朝廷の実権を握ると、韓遂・馬騰らは降伏し、軍勢を率いて長安に到着した。この時、韓遂は鎮西将軍に任命されて涼州に帰還し、馬騰は征西将軍に任命されて司隷・右扶風・郿県に駐屯した。
興平元年(194年)3月、李傕が馬騰の「穀物を得たい」との要求を拒否した。これに激怒した馬騰が使者を派遣して、益州牧・劉焉に「共に李傕らを誅殺する」ことを提案すると、長安にいる劉焉の息子・左中郎将の劉範らが「城内から呼応して李傕らを誅殺する」ことを約束した。
馬騰と李傕らが衝突したことを知った韓遂は、当初、彼らを和睦させようと長安に向かったが、結局馬騰と合流した。
ところが馬騰と韓遂が兵を率いて長平観まで来た時、劉範らの計画が発覚し、馬騰と韓遂は李傕の兄の子・李利、郭汜、樊稠らと長平観において戦ったが、1万人余りの犠牲を出して敗れ、涼州に撤退した。
この時韓遂は、司隷・右扶風・陳倉県まで追撃してきた同郷の樊稠と言葉を交わしたが、このことによって樊稠は李傕らに内通を疑われ、後に誅殺されている。
涼州に帰ると、韓遂と馬騰は義兄弟の契りを結んで極めて親しくしていたが、後に互いに侵攻し合うようになった。
朝廷との和解
建安2年(197年)、曹操が司隸校尉の鍾繇と涼州牧の韋端を使者に立て、馬騰と韓遂を和解させた。この時、馬騰と韓遂はそれぞれ人質として子供を参内させ、天子(献帝)に仕えさせている。
建安7年(202年)、袁尚が勝手に任命した河東太守・郭援が司隷・河東郡に侵攻すると、馬騰は鍾繇が派遣した張既の要請に従い、子の馬超に1万人余りの精鋭と韓遂らの兵を指揮させ、鍾繇の元に派遣した。
建安13年(208年)、曹操は荊州を征討するにあたって、関中(函谷関の西側の地域)に割拠する馬騰らを警戒し、馬騰を衛尉に任命して入朝させた。以降、子の馬超がその配下の兵を統率することになる。
建安14年(209年)、韓遂が曹操の元に閻行を派遣したところ、閻行は益州・犍為郡の太守を拝命し、また自分の父が宿衛(宮中警護)に入れるように請うた。
戻った閻行が韓遂に「私は年老いた父を都に行かせることにしました。将軍(韓遂)も一子を派遣して丹赤(嘘偽りのない心)を示すべきです」と言うと、韓遂は「数年の間は様子をみていよう」と言ったが、結局その子を閻行の父母と共に東に派遣した。
建安15年(210年)、韓遂は自ら上奏して雍州刺史・邯鄲商を殺害した涼州・武威郡の太守・張猛を討伐した。
潼関の戦い
建安16年(211年)正月、張魯が益州・漢中郡を占拠したため、3月、曹操は鍾繇に討伐を命じ、夏侯淵らに司隷・河東郡を出て鍾繇と合流するように命じた。
この時、関中(函谷関の西側の地域)の諸将はこの鍾繇の遠征に疑心を抱き、ついに馬超は韓遂・楊秋・李堪・成宜らと共に反乱を起こして潼関に陣を取った。
これに曹操は曹仁を派遣して彼らを討伐させたが、「関西(関中)の兵は精悍ゆえ堅く守って戦ってはならぬ」と命じ、秋7月、自ら西征に赴いて馬超らと関所を挟んで陣を敷いた。
数度の戦闘の後、馬超らは「黄河以西の土地の領有を認める」ことを求め、曹操が賈詡の計略を採用して表向きこれを了承すると、韓遂は曹操との会見を求めた。
韓遂の父と曹操は孝廉の同期で、韓遂と曹操は同時期に旗揚げした儕輩(仲間)である。2人は馬を交えてしばらくの間語り合ったが、曹操は軍事には言及せず、ただ京都での昔話に花を咲かせ、手を打って笑い楽しんだ。
韓遂が帰って来ると、馬超は「公(曹操)は何と言った?」と尋ね、韓遂は「それが何も言わなかったのだ」と答えた。これは事実であるが、馬超らはこの韓遂の言葉を疑った。
また別の日、曹操から韓遂に書簡が送られて来たが、その書簡には消したり書き改めたりした箇所が多く、あたかも韓遂が改定したかのように見せかけられていたので、馬超らはいよいよ韓遂に疑念を抱いた。
曹操は日を改めて会戦を挑み、これを大破して成宜・李堪らを斬った。韓遂・馬超らは涼州に、楊秋は涼州・安定郡に逃走し、関中は曹操によって平定された。
韓遂・馬超が敗走すると、韓遂の子と孫は処刑され、馬騰は馬超の罪に連座して三族を滅ぼされた。
再び反乱を起こす
建安18年(213年)、涼州・漢陽郡にいた馬超が羌・胡を利用して再び反乱を起こした。これに氐族の王・千万(千萬)が呼応して興国に駐屯すると、曹操は夏侯淵を討伐に派遣した。
建安19年(214年)春正月、涼州・南安郡の趙衢、涼州・漢陽郡の尹奉らが馬超を討伐してその妻子の首をさらし、馬超は益州・漢中郡に逃亡した。
韓遂は涼州・金城郡・金城県に移って氐族の王・千万(千萬)の部落に入り、羌族1万余騎を率いて夏侯淵と戦ったが、大敗して涼州・西平郡に逃走。夏侯淵は諸将と共に興国を攻め、これを平定した。
韓遂の死
建安20年(215年)3月、曹操は張魯討伐のために西征し、司隷・右扶風・陳倉県に至った。
夏4月、曹操軍が陳倉県から散関に出て河池に至ると、1万余人の軍勢を擁する氐人の王・竇茂は険阻な地形を恃んで服従しなかった。
5月、曹操が竇茂を撃ち破ると、涼州・西平郡、金城郡の麴演、蔣石ら諸将は、韓遂の首を斬って曹操に送った。涼州で反乱を起こしてから32年、70余歳であった。
韓遂の死について
韓遂の最期については諸説ある。
『魏書』王脩伝・注・『魏略』
建安17年(212年)、韓遂は軍勢を失って羌族の地域から帰還し、郭憲の元に身を寄せた。
多くの人々は韓遂を捕らえて手柄にしようと望んだが、郭憲は「人が追い詰められて私を頼って来たのだ。それをどうして危険に陥れようとするのかっ!」と彼らを咎め怒り、韓遂を擁護して手厚く待遇した。
その後韓遂は病死したが、田楽・陽逵らは出掛けて行って韓遂の首を斬り取ると、益州・漢中郡を攻撃中の曹操の元に届けた。
『魏書』張既伝・注・『典略』
建安年間(196年〜220年)、韓遂が司隷・弘農郡・華陰県から敗走して湟中に還った時、部下たちは散り去ったが、成公英だけは一人付き従っていた。(同・『魏略』)
韓遂が湟中にいる時、彼の娘婿の閻行は「韓遂を殺害して曹操に降伏しよう」と韓遂に夜襲をかけたが、陥とすことができなかった。
韓遂が姻戚から攻撃を受けるまでに落ちぶれたことを嘆き、成公英に「蜀(益州)に亡命するしかない」と漏らしたところ、成公英は「しばらく羌族に身を寄せてで夏侯淵が去るのを待ち、散り去った部下や羌・胡を招き集めて対抗する」ように進言した。韓遂がこの計略に従うと、男女数千人が付き従った。
韓遂が羌・胡数万を合わせ、夏侯淵が帰還する際に留め置いた閻行を攻撃しようとしたため、閻行は逃走したいと思っていたが、たまたま韓遂が死に、成公英は曹操に降伏した。
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韓嵩・徳高
生没年不詳。荊州・南陽郡・義陽県の人。
若い頃から学問を好み、貧しくても節操を曲げなかった。世が乱れたことを知ると、三公の命令にも応ぜずに、同好の士・数人と荊州・南陽郡・酈国の西の山中に隠れ住んだ。
光和7年(184年)に黄巾の乱が起こると韓嵩は南方に避難したが、そこで劉表に逼られて別駕となり、従事中郎に転任した。
劉表が郊外で(天子にのみ許された)天地を祭る儀式を行った時、韓嵩は諫めたが聞き入れられず、次第に反感を持たれるようになった。
建安5年(200年)、曹操と袁紹が長期間にわたって官渡で対峙していた時のこと。袁紹は人を遣って劉表に助力を求めたが、劉表はこれに承諾しておきながら兵を出さず、また曹操を佐けるでもなく、長江・漢水の一帯を支配して天下の形勢が変化するのを傍観していた。
この時、従事中郎の韓嵩と別駕の劉先は「荊州を挙げて曹操に従う」ように進言し、劉表の大将・蒯越もこれを勧めたが、劉表は狐疑逡巡した結果、韓嵩を曹操の元に派遣して(情勢の)虚実を観察させた。
この時、韓嵩は天子から侍中に任命され、荊州・零陵郡の太守に昇進された。
帰還した韓嵩が「曹操の威光と恩徳」について充分に説明し、劉表の子を人質として送るように進言した。これを聞いた劉表は「韓嵩が裏切って曹操の立場から発言しているのではないか」との疑いを持ち、大いに怒って韓嵩を斬り捨てようとしたが、劉表の妻の蔡氏が諫めると、処刑を取りやめて彼を拘禁した。
建安13年(208年)、曹操が劉表討伐の軍を起こしたが、まだ到着しないうちに劉表が病死。次子の劉琮が後を継ぐと、韓嵩と蒯越、東曹掾の傅巽は「曹操に帰順するように」と進言し、劉琮は荊州を挙げて曹操に降伏した。
曹操によって荊州が平定された時、韓嵩は病床にあったが、自分の家で大鴻臚の印綬を拝領した。
備考
『襄陽記』に、
向朗は若い頃、司馬徳操(司馬徽)に師事し、徐元直(徐庶)・韓徳高(韓嵩)・龐士元(龐統)といずれも親しかった。
とあり、韓嵩も司馬徽の門下生であった可能性が高い。
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