正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑥。東海王氏(王朗・王詳・王粛・王惲・王恂・王虔・王愷・王元姫・王康・王隆)です。
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目次
凡例
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
東海郡王氏系図
東海王氏系図
この記事では東海王氏の人物、
についてまとめています。
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お②(東海郡王氏)
第1世代(王朗)
王朗・景興
生年不詳〜太和2年(228年)没。元の名は厳。徐州・東海郡・郯県の人。子は王粛。孫に王惲、王恂、王虔、王愷、王元姫(司馬昭の妻)。兄の子に王詳。
経書に通じていることから郎中に任じられ、徐州・彭城国・菑丘県の県長に任命される。後に師と仰ぐ太尉の楊賜が亡くなると官を捨てて喪に服し、孝廉に推挙されて三公の府に招聘されたが応じなかった。
関東に兵乱が起こると、徐州刺史・陶謙の治中従事を経て会稽太守に取り立てられたが、孫策の侵攻を受けて降伏。その後、曹操に召し寄せられて朝廷に入ると諫議大夫・参司空軍事に任命される。
魏が建国されると軍師祭酒の身分のまま魏郡太守を兼務し、少府、奉常、大理へと昇進して、鍾繇と共に裁きの見事さを称えられた。
文帝(曹丕)が帝位につくと改めて司空となり楽平亭侯に昇進。文帝(曹丕)は、当時の太尉・鍾繇、司徒・華歆、司空・王朗をして「この三公こそ一代の傑物である。後世、彼らの後を継ぐことは難しかろう」と言った。
明帝(曹叡)が即位すると蘭陵侯に昇進。500戸を加増され食邑1,200戸となり司徒に転任したが、太和2年(228年)に亡くなった。諡を成侯という。子の王粛が後を継いだ。
王朗は高い才能と広い学識を持っていたが、性質は厳格できちんとしており、慷慨家*1であった。大変礼儀正しく謙虚で慎ましく、婚姻による親戚からの贈り物も受け取ることがなかった。
常に恵み深いという評判がありながら、貧窮者を憐れまない世間の連中を非難しており、財物をほどこす場合、差し迫った者を救うことを優先した。
また、『易経』・『春秋』・『孝経』・『周官』(『周礼』)の伝(注釈)を書き著し、彼の奏議(上奏文)、論(議論文)、記(記事文)はすべて世に伝わっている。
「諸葛亮との舌戦に敗れて憤死した」とするのは『三国志演義』の創作である。
脚注
*1慷慨:世の不正などを嘆くこと。
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第2世代(王詳・王粛)
王粛・子雍
生年不詳〜甘露元年(256年)没。徐州・東海郡・郯県の人。父は王朗。子に王惲、王恂、王虔、王愷、王元姫(司馬昭の妻)。従兄弟に王詳。西晋の武帝(司馬炎)は外孫にあたる。
父・王朗が会稽太守であった時、楊州・会稽郡で生まれ、18歳の時、荊州の宋忠のもとで『太玄経』を読み、改めてそれについての解釈を作った。
黄初年間(220年〜226年)に散騎侍郎、太和3年(229年)に散騎常侍に任命される。
太和4年(230年)、大司馬の曹真が蜀を征討した時、「長雨と険しい地形による行軍と補給の困難さ」を理由に撤兵を上奏して認められたのをはじめ、しばしば政治に関する意見を上奏して朝儀に関与した。
散騎常侍の身分で秘書監を担当。崇文観祭酒を兼任し、正始元年(240年)に地方に出て広平太守となったが公務によって召し返され、その後は議郎、侍中、太常、光禄勲、中領軍を歴任した。
死後は衛将軍の官を追贈され、諡を景侯という。子の王惲が後を継いだ。
王粛は後漢の賈逵、馬融の学問に親しみ、鄭氏(鄭玄)*2を好まなかった。
学説の異同を集めて『尚書』・『詩経』・『論語』・「三礼」*3・『左氏』の解釈をし、父・王朗が書いた『易伝』を選択して定稿(完成原稿)を作ったが、すべて学官に立てられた。
また、王粛が論駁(相手の説に反対して論じ攻撃すること)した朝廷の制度、郊祀、宗廟、喪事、大小の問題は百余篇あった。
脚注
*2鄭玄とも。
*3『周礼』・『儀礼』・『礼記』のこと。
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第3世代(王惲・王恂・王虔・王愷・王元姫)
王惲
生没年不詳。徐州・東海郡・郯県の人。父は王粛。弟に王恂、王虔、王愷。姉妹に王元姫(司馬昭の妻)。祖父は王朗。伯父に王詳。兄弟は8人あった。
父・王粛の後を継いだが、王惲には子がなかったので、彼の死後国は断絶した。
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王恂・良夫
生没年不詳。徐州・東海郡・郯県の人。父は王粛。兄に王惲。弟に王虔、王愷。姉妹に王元姫(司馬昭の妻)。祖父は王朗。伯父に王詳。兄弟は8人あった。
広い見識を持ち、朝廷にあっては忠実・公正であった。河南尹(司隷・河南尹の太守)、侍中を歴任し、どこにおいても評判を立てられた。また、もっぱら公共の利益に関心を向け、自己の身を顧みない忠誠心を持っていた。
鬲県の県令・袁毅が駿馬を贈ったが、王恂は彼の貪欲振り知っていたので受け取らず、袁毅は最後に汚職によって失脚した。
また、2つの大学を建立し、「五経」を尊重したのは、どちらも王恂の建言によるものである。
景元4年(263年)に蘭陵侯に取り立てられ、咸熙年間(264年〜265年)に5等の爵位制度を定めた時には、父・王粛に著しい功績があったことから、改めて王恂を永子(永県の子爵)に取り立てられた。40余歳で亡くなり、車騎将軍を追贈された。
脚注
*4儒学で尊重する5部の経書。『易経』・『書経』・『詩経』・『礼記』・『春秋』のこと。
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王虔・恭祖
生没年不詳。徐州・東海郡・郯県の人。父は王粛。兄に王惲、王恂。弟に王愷。姉妹に王元姫(司馬昭の妻)。祖父は王朗。伯父に王詳。兄弟は8人あった。
優れた事務能力を称えられ、尚書まで官位が昇った。
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王愷・君夫
生没年不詳。徐州・東海郡・郯県の人。父は王粛。兄弟に王惲、王恂、王虔。従兄に王詳。姉妹に司馬昭の妻・王元姫(文明皇后)。
若い頃から才能・力量があったが、品行は良くなかった。衛尉の石崇と仲が良く、共に世間に豪奢を競い合い、後将軍の地位で終わった。
王愷が黄門侍郎の時のこと。評判の良い牽秀と仲が悪く、平素から軽蔑しあっていた王愷は、荀愷にほのめかし、都官を使って「牽秀が夜間、道中にあって高平国の守備兵・田興の妻と同車した」と誣告させた。
牽秀は即座に上奏文を奉って、誣告され陥れられることになった経過を訴え、王愷の醜行について論じたが、その文辞は極めて激烈であった。
当時の朝臣たちが多数証明してくれたけれども、牽秀の名誉はこのことのために損なわれた。
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王元姫
建安22年(217年)〜泰始4年(268年)没。徐州・東海郡・郯県の人。父は王粛。兄弟に王惲、王恂、王虔、王愷。祖父は王朗。伯父に王詳。
司馬文王(司馬昭)に嫁入りし、晋の武帝(司馬炎)と斉献王(司馬攸)を生んだ。
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第4世代(王康・王隆)
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