正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(79)(桓威・桓禺・桓元将・桓隰・桓邵・桓帝〔漢〕)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(79)桓
桓(かん)
桓威
生没年不詳。徐州・下邳国の人。魏の官吏。
縁故のない低い身分の出身ではあったが、18歳で『渾輿経』を著し、道家の教えに沿いつつ意見を示した。
青州・斉国の門下書佐・司徒署吏を経て、後に安成[豫州(予州)・汝南郡・安城県?]の県令となった。
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桓元将
生没年不詳。
魏の王朗が蜀の許靖に送った手紙の中に登場する。
王朗が荊州に従軍した時、鄧子孝と桓元将と会って、許靖の動静を聞いた。
備考
維基百科などでは桓邵と同一人物とされているが、その根拠は不明。
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桓隰
生没年不詳。司州・河南尹・滎陽県の人。西晋の扶風王・司馬駿(司馬懿の第6子)の長史。
晋の初め、扶風王・司馬駿(司馬懿の第6子)が関中の抑えとして赴任していた時、司馬の劉宝、長史の桓隰ら諸官属の士大夫たちが、蜀の諸葛亮について議論した。
その時発言した者の多くは、諸葛亮が、
- 正当な君主に身を寄せなかったこと
- 蜀の人々を疲弊させたこと
- 力量が少ないのに計画が大きかったこと
- 自分の徳や力量を測らなかったこと
を非難したが、郭沖は、
「諸葛亮の状況に応じた智略は管仲・晏嬰(共に春秋時代の斉の名相)に勝っているが、功業が成就しなかったために論者の判断が狂うのだ」
と考え、諸葛亮の事跡の中から、表にあらわれず世間に知られていない事柄として、次の5ヶ条を述べた。
- 劉備が益州の劉璋を降伏させた後のこと。「高祖(劉邦)に倣って刑罰や禁制を緩め、民心を慰撫する」ことを願う法正に対し、「政治が苛酷であった秦と違い、刑罰が厳格に行われていないことが弊害を引き起こしている」として、法律を厳格に実施することによって蜀の人士の規律を取り戻した。
- 曹操が送り込んだ刺客が劉備と面会した時のこと。諸葛亮が姿を現すと刺客は廁(トイレ)に立った。諸葛亮はその者の態度がおかしいことに気づき、「曹操の刺客」であることを見抜いたが、刺客は逃げ去った後だった。
- 諸葛亮が陽平県に駐屯していた時のこと。魏延ら諸軍を東方に下らせ、1万の兵だけを残して城を守っていた。この時、司馬懿が20万の軍勢を率いて城から60里(約25.8km)の地点に至ったが、すでに魏延らも遠く離れており打つ手がなかった。そこで諸葛亮は一計を案じ、四方の城門を開け放って見せたところ、司馬懿は伏兵があることを疑って撤退した。
- 諸葛亮が祁山より出撃して隴西・南安を降伏させ、天水を包囲し、冀城を攻め落とし、姜維を虜にし、男女数千人を駆り立てて蜀に帰還した。人々はこぞって祝賀を述べたが、諸葛亮は悲しげな表情で「これしきのことで祝われては却って恥ずかしく思うだけです」と陳謝した。
- 魏の明帝(曹叡)が自ら蜀を討伐しようと雍州・涼州の屈強な兵士30余万を率いて剣閣に向かった時のこと。この時諸葛亮は祁山にいて、8万の守備兵の2/10ずつを休養のため交代で下山させていたが、魏軍が陣を構えた時、ちょうど交代の時期にあたっていた。属官たちはみな「下山させるのを1ヶ月間延期するべきです」と主張したが、諸葛亮は予定通り下山させるように命じた。帰還する者は感激して「諸葛公(諸葛亮)の恩愛は死んでも報いきれない」と言って留まり、張郃を殺し司馬懿を退けて、1度の戦いで大勝を博した。
劉宝らはそれ以上批判できず、扶風王・司馬駿(司馬懿の第6子)は感動して郭沖の言葉を是とした。
※『蜀書』諸葛亮伝の注において裴松之は、この郭沖の5ヶ条について、1つ1つ理由を挙げて否定している。
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桓邵
生没年不詳。豫州(予州)・沛国の人。
袁忠が沛国相であった時、法によって曹操を処罰しようとしたことがあり、沛国出身の桓邵もまた曹操を軽んじ侮っていた。
その後、曹操の感情を害した辺譲が一家皆殺しにされると、袁忠と桓邵は共に交州に避難したが、曹操は太守の士燮に使者を遣って2人の家族を皆殺しにした。
桓邵は出頭し、庭に跪いて謝罪したが、曹操は「跪いて死を逃れることができると思っているのかっ!」と言い、結局彼を殺害した。
備考
維基百科などでは桓元将と同一人物とされているが、その根拠は不明。
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桓帝〔漢〕
生没年不詳。後漢第11代皇帝。諱は劉志。父は蠡吾侯・劉翼。母は匽氏。弟に劉碩。祖父は河間孝王・劉開。曾祖父は肅宗(章帝)。
即位
父の劉翼が亡くなると、その後を継いで蠡吾侯となった。
本初元年(146年)、梁太后(第8代皇帝・順帝の皇后)が劉志を夏門亭に徵し出して、彼女の妹を劉志の妻としようとしたが、ちょうどその時、第10代皇帝・質帝が崩御したので、梁太后は兄の大将軍・梁冀と禁中で話し合い、劉志を即位させることに決めた。
閏月、梁冀に節を持たせ、王のための青蓋車で劉志を迎えて南宮に入らせると、その日のうちに皇帝に即位させた。劉志はこの時15歳、これが後漢第11代皇帝・桓帝である。桓帝が即位した後も、なお梁太后が朝政に臨んだ。
梁太后の臨政
建和元年(147年)8月、梁氏(梁太后の妹)を皇后に立てた。
建和2年(148年)春正月、桓帝は元服し、天下に大赦した。
和平元年(150年)春正月、梁太后は桓帝に政権を奉還する詔を下した。本来、桓帝が元服した際に政権を奉還すべきところを、四方の盜竊(盗賊)が未だ収まっていなかったため、梁太后が臨政を続けていたのである。
2月、皇太后の梁氏(梁太后)が崩御した。
大将軍・梁冀の誅殺
延熹2年(159年)秋7月、皇后の梁氏が崩御し、懿献皇后(梁氏)を懿陵に葬った。
梁皇后の外戚として権勢を誇っていた大将軍・梁冀が叛乱を計画した。
8月、桓帝は前殿において司隸校尉の張彪に詔を下し、兵を率いて梁冀の邸宅を包囲させ、大将軍の印綬を取り上げると、梁冀と妻はみな自害した。
衛尉の梁淑、河南尹の梁胤、屯騎校尉の梁讓、越騎校尉の梁忠、長水校尉の梁戟ら内外の宗族(一族)数十人もみな誅殺され、太尉の胡広は連座して罷免され、司徒の韓縯と司空の孫朗は獄に下された。
また、鄧氏を皇后に立て、梁皇后が葬られた懿陵を追廃して貴人の冢とした。
宦官の台頭
桓帝は詔を下して梁冀の罪を列挙し、梁冀誅殺に功績のあった中常侍(宦官)の単超、徐璜、具瑗、左悺、唐衡ら5人の宦官を県侯に封じ、尚書令の尹勲ら7人を亭侯に封じた。
詔・全文
これ以降、旧来より桓帝と親しかった者たちが多数封爵を受けることとなった。
大司農の黄瓊を太尉、冀州・中山国出身の光禄大夫・祝恬を司徒、兗州・梁国出身の大鴻臚・盛允を司空とし、初めて秘書監の官を設置した。
11月、中常侍の単超を車騎将軍とした。
延熹3年(160年)春正月、車騎将軍の単超が亡くなった。
財政難
桓帝は大将軍・梁冀を誅殺して政治の実権を取り戻したが、相継ぐ天災による領民の救済や、各地の反乱・異民族の侵入などにより、漢王朝は財政難に陥った。
延熹3年(160年)9月、詔を下して、特定の職務のない官は臨時の措置として俸禄の支給を停止し、豊作の年になれば元の通りに戻すこととした。
秋7月、京師[洛陽(雒陽)]で(雨乞いの儀式の)雩祭を行った。
公卿以下(百官の)俸禄を減らして王侯から租税の半分を借り、関内侯・虎賁・羽林・緹騎営士・五大夫の官をそれぞれ価格に差をつけて売り出した。
延熹5年(162年)5月、中蔵府(帝室の財政を管理する内庫)の承禄署で火事があった。
冬10月、公卿以下(百官の)俸禄を借り上げ、また王侯からも租税を借りて軍糧を補い、濯龍宮の中蔵の銭を出してこれに還した。
延熹8年(165年)冬10月、貴人の竇氏を皇后に立てた。
党錮の禁
梁冀誅殺に協力した功績により宦官が重用されるようになると、彼らの汚職により朝廷は腐敗した。司隸校尉の李膺、太尉の陳蕃らは宦官たちを糾弾したが、逆に大規模な弾圧を受けることとなった。
延熹9年(166年)秋7月、太尉の陳蕃が罷免された。
冬12月、司隸校尉の李膺ら200余人が誣告を受け、党人とみなされて獄に下され、王府に名を記された。(第1次党錮の禁)
永康元年(167年)6月、天下に大赦を行い悉く党錮を解いた。
12月、桓帝が徳陽前殿で崩御した。享年36歳であった。皇后を尊んで皇太后とし、竇太后が臨朝した。
後世の評価
論
『東観漢記』には、
「桓帝は音楽を好み、琴笙に巧みであった。木蘭を植えて濯龍宮を建設し、華蓋を設けて浮図(仏陀)と老子を祠った」とある。これは「(国が滅びようとする時は)神にお伺いを立てる」ということであろうかっ!
梁冀を誅殺して桓帝が帝威を存分に振るうことができるようになった時、天下の人々はむしろ休息を望んでいたが、(単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡ら宦官の)5悪党は、梁冀の暴虐振りを継承して四方に垂れ流した。
(李膺・陳蕃・竇武・黄瓊・朱穆・劉淑・劉陶ら)忠賢の臣が、しばしば姦臣の排除に尽力していなければ、(夏帝・相が)斟氏を頼り(周の厲王が)彘に出奔したように(桓帝が亡命を)望んだとしても、不可能であっただろう」
とある。
贊
桓帝は宗室の傍系(庶流)でありながら、序列を飛び越えて天子の位に即いた。
政治は五倖(単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡)に委ねられ、刑罰は「3度の獄*2」で分かるように杜撰であった。
国を傾けるほど後宮を充実させたが、皇子が血統を継ぐことはなかった*3。
脚注
*2李賢注に「建和5年(151年)の李固・杜喬を陥れた獄、延熹3年(160年)の李雲・杜衆を陥れた獄、延熹9年(166年)の成瑨・劉質を陥れた獄を言う」とある。
*3李賢注に「桓帝が3度皇后を立て、また広く宮女5千人〜6千人を入内させながら、子ができなかったことに拠っている」とある。
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