正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(80)(桓範・桓慮)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(80)桓
桓(かん)
桓範・元則
生年不詳〜正始10年(249年)没。豫州(予州)・沛国の人。魏の臣。
出自
桓範の家は代々冠族(名家)であった。
建安年間(196年〜220年)末期に丞相府に入り、延康元年(220年)に羽林左監となった。文学の才能があることから、王象らと共に『皇覧』の編集にあたった。
明帝(曹叡)が即位した時、中領軍であった桓範は、明帝(曹叡)に尚書の徐宣を僕射に推薦し、明帝(曹叡)は徐宣を左僕射とした。
推薦の言葉・全文
明帝(曹叡)の時代に中領軍・尚書となり、征虜将軍・東中郎将・使持節・都督青・徐諸軍事に昇進して徐州・下邳国に駐屯した。
短気な性格
鄭岐との確執
ある時桓範は徐州刺史・鄭岐と屋を争い(?)、節*1を引き寄せて鄭岐を斬ろうとしたが、鄭岐の上奏により「非は桓範にある」とされ、罷免されて帰郷した。後に兗州刺史に復帰したが、怏々(満足できず不平なさま)として気が晴れなかった。
妻を殺害する
また桓範は「冀州牧に転任となる」という噂を聞いたが、当時、冀州は鎮北将軍に統属(管轄)されており、鎮北将軍の呂昭は才能と実績によって昇進し、元は桓範の下位にいた人物であった。
桓範は妻の仲長に向かって「これでは九卿となって三公に跪く方がマシだ。呂子展(呂昭)に頭を下げることなどできるかっ!」と言った。すると妻は「あなたは以前、東方(徐州)にいた時、勝手に徐州刺史を斬ろうとなさいました。人々はみなあなたの下にいるのは難しいと申しておりました。今また呂昭殿に頭を下げることを屈辱だとおっしゃるようでは、人の上に立つことも難しくなるでしょうね」と言った。
桓範は妻の言葉が痛いところを突いていることに腹を立て、刀環(刀の柄)で彼女の腹を突いた。この時妻は妊娠しており、流産して亡くなってしまった。
桓範は結局、病気と称して冀州に赴任しなかった。
脚注
*1桓範が持つ使持節は、二千石以下の官吏を処刑する権限を持つ。
蔣済との確執
その後、魏の正始年間(240年〜249年)に大司農を拝命した。桓範は以前台閣(政府)にいた頃、「職務に通暁している」と謳われていたが、大司農となるとまた清潔で簡明だと称賛された。
桓範は昔、『漢書』の中の諸雑事を抜き写し、自分の意向に沿って取捨選択し、『世要論』と名付けていた。
蔣済が太尉となった時のこと。土地神の祭りで数人の九卿と共に桓範と出会ったことがあった。この時桓範は自分の著書(『世要論』)を懐に持ち、「蔣済ならわだかまりなく公平に読んでくれるだろう」と、著書を取り出して周囲の人々に見せたところ、彼らはそれを順番に手渡して蔣済の元に差し出したが、蔣済はそれをじっくり見ようともしなかったので、桓範は内心これを恨んだ。
結局、桓範は他のことを論議していた時にその怒りをぶちまけ、蔣済に向かって「我の先祖は徳は少ないが、(名家であり)貴公たちとは違うのだ」と言った。蔣済は剛毅な性格ではあったが、桓範もまた剛毅な性格であることをよく知っていたので睨みつけたまま返事をせず、その場は各々退出した。
正始の変(高平陵の変)
曹爽への忠告
桓範は豫州(予州)・沛国の出身者のうち、仕官した順番が曹真の次に早かった。当時は曹爽が政治を補佐していたが、桓範を郷里の老宿として九卿の中で特に敬意を払っていたが、あまり親しくはしなかった。
正始10年(249年)正月、車駕[天子(曹芳)]が高平陵[明帝(曹叡)の墓]を参拝し、曹爽兄弟はみなこのお供をして城を出た。
これより以前、曹爽兄弟が度々連れ立って城外に出向いていたので、桓範は「万機(政治上の多くの大切な事柄)を取り仕切り、禁兵(近衛兵)を指揮する立場にあるあなた方が、連れ立って城外に出るのはよろしくありません。もし城門を閉鎖されでもしたら、誰が中に入れてくれましょうか?」と言った。
これに曹爽は「誰がそんなことをする勇気があるというのかっ!」と言ったが、それ以降は桓範の言葉に従って、兄弟が連れ立って城外に出向くことはなくなった。曹爽兄弟の全員が城外に出向いたのは、桓範の諫言以降、これが初めてであった。
曹爽の下に出奔する
その後、司馬懿がクーデターの兵を起こして城門を閉鎖すると、司馬懿は桓範が政務に通暁していることから名指しで彼を召し寄せ、中領軍を任せようとした。桓範はこのお召しに応じるつもりであったが、彼の息子が「天子(曹芳)が城外におられるのだから、南(高平陵)に赴くべきです」とこれを諫め、桓範が迷っていると、息子はさらに急き立てた。桓範が南(高平陵)に行こうとすると、大司農の丞(次官)や属吏はみな彼を引き止めたが、従わなかった。
桓範は飛び出して平昌城門まで来たが、城門はすでに閉鎖されていた。門候(門番)の司蕃は、以前、桓範が推挙した者だったので、桓範は彼を呼びつけて手に持った版(命令を書きつけた板)を示し、偽って「詔が下され我にお召しがかかった。速やかに開門せよっ!」と言った。司蕃が詔を見せるように求めると、桓範は彼を怒鳴りつけ、「卿は我の故吏*2ではないか。なぜそのようなことをする必要がある?」と言うと、司蕃は門を開けた。
桓範は城の外に出ると司蕃の方を振り返って「太傅(司馬懿)は反逆を企てた。卿も我について来いっ!」と言った。司蕃は徒歩でついて行こうとしたが追いつけず、途中で脇道に逃れた。
桓範が出奔して曹爽の下に駆けつけたことを知ると、司馬懿は蔣済に向かって「智囊(知恵袋)が行ったぞ」と言った。するとこれに蔣済は「桓範は智恵者ですが、駑馬は馬小屋の豆に引き寄せられるものです。きっと曹爽には(桓範の謀を)用いることはできないでしょう」と答えた。
脚注
*2辟召によって取り立てられた者のこと。故吏は(取り立ててくれた)上司の官職が高ければ高いほど出世が約束され、またその上司が罪を受ければそれに連座するなど、非常に強い結びつきを持っていた。
曹爽が司馬懿に降る
桓範は南で曹爽と出会うと、曹爽兄弟に「天子(曹芳)を奉じて許昌のへ行き、四方の軍勢を召集するように」と進言したが、曹爽は迷い、曹羲も黙ったままだった。
桓範は曹羲に「事ははっきりしております。卿は何のために書物を読んでいるのですかっ!今日で卿がたの一門はひっくり返るのですぞっ!」と言ったが、2人とも口を開かなかった。
桓範はまた曹羲に「卿の別営は闕(宮門)の南に近く、洛陽の典農の治所は城外にありますから、思いのままに召し寄せることができます。今、許昌への行程はわずか2日に過ぎず、許昌の別庫には兵士に供給するに充分な武器が揃っております。ただ心配なのは食糧ですが、大司農の印章は私が持っています」と言った。(大司農は銭・穀物・金・絹・貨幣に関することを取り仕切る)
曹羲兄弟は黙ったまま承知せず、このような状態が0時から5時頃*3まで続いた。そこで曹爽は刀を地面に投げつけると、共に天子(曹芳)のお供をして来た群臣たちに向かって「太傅(司馬懿)の計画を推し量るに、我ら兄弟を自分に屈服させようと望んでいるに過ぎない。ただ『我 1人が遠近の者たちとうまくいかない』というだけだっ!」と言った。
そう言って天子(曹芳)の前に進み出ると、「どうか陛下には詔を作られて臣を罷免し、皇太后の命令にお答えくださいますように」と言上した。
これを見た桓範は、曹爽が罷免されたのを手始めに、必ずや自分も義を唱えた罪に問われるに違いないと覚悟し、「(先代の)曹子丹(曹真)は立派なお方であったのに、生まれたお前たち兄弟は犢(子牛)同然だっ!この老いぼれは今日、お主ら兄弟に連座して一族皆殺しと決まったわっ!」と言った。
脚注
*3原文:中夜至五鼓。中夜は22時〜2時。五鼓は3時〜5時または4時〜6時、五更とも。
桓範の死
曹爽らを罷免した後、天子(曹芳)は(洛陽の)宮殿に還えるにあたって、桓範にお供を命じた。
桓範は洛水の浮橋の北まで来て司馬懿の姿を望み見ると、馬車から降りて無言で叩頭した。司馬懿は桓範を姓で呼んで「桓大夫よ、どうしてそんなことをなさるのかっ!」と言った。
車駕[天子(曹芳)]は宮殿に入ると、詔を下して桓範を元の位に復帰させた。桓範は闕(宮門)まで出向くと章(上奏文)を捧げて感謝の意を表し、報告を待った。
ちょうどこの時、司蕃が鴻臚(宮中の儀式や異民族の接待にあたる官)の元に自首して「以前、桓範が城外に出る時に語った言葉」を詳細に申し述べた。司馬懿は激怒して「他人をたぶらかして反逆に導いた場合、どんな罪に相当するか?」と問うと、係官は「法律の条文では、たぶらかされた者の罪を、代わりに受けることになっております」と答えた。
司馬懿は闕(宮門)で報告を待つ桓範の捕縛を命じ、役人たちは桓範を厳しく引っ立てて廷尉の元に送り、彼の三族は誅滅された。引っ立てられる時、桓範は部官(役人)に「縄を外せ、我もまた義士なのだ」と言ったという。
「桓範・元則」の関連記事
桓慮
生年不詳〜五鳳元年(254年)没。呉の前司馬。
二宮の変
呉の赤烏4年(241年)、孫権の太子・孫登が病気した。
翌年の赤烏5年(242年)、弟の孫和(孫和)が太子に立てられたが、孫権は孫和(孫和)の弟の孫覇を気に入って特別に目をかけ、魯王に封じて孫和(孫和)に対するのと変わりない待遇を与えた。
その後、孫和(孫和)の母・王夫人と全公主(孫権の娘)の仲が悪化すると、全公主(孫権の娘)は孫権に孫和(孫和)を讒言した。これにより孫和(孫和)は孫権の怒りを買い、王夫人は憂いのうちに亡くなった。
以降、孫和(孫和)は太子を廃されることを懼れるようになり、孫覇は太子の座を強く望むようになって、呉の臣下を巻き込んだ孫和(孫和)派と孫覇派の対立を生んだ。
赤烏13年(250年)、結局孫権は孫和(孫和)を廃して幽閉し、孫覇には自害を命じて孫亮を太子に立てた。
太元2年(252年)正月、孫和(孫和)は南陽王に封ぜられ、荊州・長沙郡に派遣された。
同年4月に孫権が崩御すると、孫和(孫和)の妃である張氏の舅・諸葛恪が政治の実権を握った。張氏は黄門の陳遷を遣わして、建業の中宮(皇后)に上疏させると共に、諸葛恪にも挨拶をさせた。
すると諸葛恪は陳遷に言った。
「お妃さまにお伝え下さい。『間もなく彼らよりも有利な立場にお立ていたします』と」
この言葉が世間に漏れ伝わると共に、諸葛恪には遷都の意図があって、武昌の宮殿を整備させていたことから、人々は「諸葛恪は孫和(孫和)を武昌に迎えようとしているのだ」と噂した。
建興2年(253年)に諸葛恪が孫峻によって誅殺されると、孫峻は世間の噂をもって孫和(孫和)から(南陽王の)璽綬を取り上げて新都に強制移住させ、さらに使者を遣って自害を命じた。
孫和(孫和)が妃の張氏に今生の別れを告げると、張氏は「幸せも不幸せも2人一緒でございましょう。1人生き残ることなど考えられません」と言って自害した。
国中の者が2人の死を悲しんだ。
桓慮
孫和(孫和)が無実の罪で殺されると、庶民(衆庶)までもがみな憤激と哀痛の念を懐いていた。
五鳳元年(254年)、前司馬の桓慮は、そうした人々の気持ちに乗じて部将や官吏を糾合し、共に孫峻を殺害して孫英を立てようと企てたが、事が発覚して関係者はみな誅殺された。
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