桓譚・君山
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・相県の人。前漢末期〜後漢初期の人物。
『魏書』武帝紀が注に引く張華の『博物志』に「桓譚と蔡邕は音楽が上手、司隷・左馮翊出身の山子道、王九真、郭凱らは囲碁が上手であったが、太祖(曹操)はすべて彼らに匹敵する能力を持っていた」とある。
出自
父は前漢の成帝の時[竟寧元年(紀元前33年)〜綏和2年(紀元前7年)]に太楽令となった。桓譚は父の郎となったため、音律を好んで琴を弾奏するのが上手かった。
博学で多くのことに通じ、『五経』を広く習得したが、みな大義を読み解くだけで細かい章句に拘らなかった。また文章が上手く、古学を好み、劉歆や楊雄に師事して疑問や異論を分析した。
倡楽(役者や遊女の奏する音楽)を好み、外見や礼儀にこだわらない性格で、俗儒を批判することを好んだことから、排撃(非難し追い払おうと攻撃すること)されることが多かった。
傅晏と董賢
桓譚と傅晏
哀帝・平帝の間[綏和2年(紀元前7年)〜元始5年(6年)]、桓譚の位は郎に過ぎなかった。
傅皇后(哀帝の皇后)の父である孔郷侯・傅晏は、桓譚ととても仲が良かったが、当時、高安侯の董賢が過分に寵愛されており、彼の妹が昭儀(側室の称号)となって傅皇后への寵愛が日に日に衰えていたので、傅晏は鬱々としていた。
これを見た桓譚は「昔、武帝は衛子夫を皇后に立てたいと思い、秘かに陳皇后の過失を探って陳皇后を廃位し、衛子夫を皇后に立てました。今、董賢の妹が寵愛されており、『衛子夫の変』が繰り返されようとしています。憂えずにいられましょうかっ!」と言った。
傅晏は驚き動転して「どうしたものか?」と問うと、桓譚は「無罪の者に刑罰を加えることはできず、邪枉(邪で曲がった者)は正人(正しい人)に勝つことはできません。そもそも士は才智によって君主に必要とされ、女は媚道によって主人に求められるもの。皇后(傅皇后)は若く苦労を知らず、あるいは(董賢が)医者や巫女を駆使して外に方技(医術・占星・不老不死などの術)を求める(方技によって罪を着せる)ことにも備える必要があります。また、君侯(傅晏)は皇后の父として尊重され、多くの賓客と誼を通じていますから、必ずやその権勢と高位を非難されるでしょう。ここは門人たちを遠ざけ、謙虚で慎み深い態度を取ることに務めるべきであり、それこそが身を修め家を正して禍を避ける道です」と言った。
傅晏は「よし」と言うと、ついに常客(食客)を追い出し、後宮に入って皇后(傅皇后)に「桓譚の戒め」に従うように言った。
後に董賢は、桓譚が言った通り太医令の真欽に傅氏の罪や過失を探させ、ついに皇后(傅皇后)の弟である侍中の傅嘉*1を捕らえたが、詔獄(勅命によって設けられた特別法廷)に下しても罪が認められなかったため釈放された。こうして傅氏は哀帝の時代を全うすることができたのである。
脚注
*1原文は傅喜。劉攽は「『漢書』を見るに傅喜は皇后(傅皇后)の弟ではないので、傅嘉に改めるべきであろう」とする。
桓譚と董賢
その後董賢が大司馬となると、董賢は桓譚の名声を聞き、交わりを結ぼうとした。
すると桓譚は先に書簡を送って、董賢に「輔国保身の術(国家を輔け、我が身を保つ術)」を説いたが、董賢は用いることができず、ついに誼を通じることはなかった。
王莽〜更始帝期
王莽が摂政となり、漢を簒奪して皇帝を弑逆(殺害)しようとする頃になると、天下の士は競って王莽の徳を賛美し、符命(天命を示す前兆)を偽作して取り入ろうとしたが、桓譚はただ1人自分の意志を守り、黙然として(諂いの)言葉を言わなかった。
王莽の時に掌楽大夫となり、更始帝(劉玄)が即位すると、徴召されて太中大夫を拝命した。
光武帝期
1度目の上疏
世祖(光武帝)が即位すると、徴召されて待詔*2となり、上書して意見を述べたが用いられなかった。
後に大司空・宋弘の推薦により議郎・給事中を拝命し、上疏して「在るべき政治」を説いたが、桓譚の上疏は上奏されはしたものの、取り上げられなかった。
桓譚の上疏・全文
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臣は「国の興廃は政事にあり、政事の得失は輔佐の臣にかかっている」と聞いております。輔佐の臣が賢明であれば、俊才の士が朝堂に満ちて政事は世務の理に合致し、輔佐の臣が不明であれば、政論は時宜を失い過ちが多くなります。
そもそも国を有する君主はみな「賢者と共に教化を興し善を建てよう」としているのに政道が治まらないのは、世間一般で言う「賢者」と「輔佐の臣として必要な賢者」が異なっているからです。
昔、(春秋時代の)楚の荘王が孫叔敖に「寡人はまだ国是(国家の基本方針)を定める理由が分からない」と問うたところ、孫叔敖は「国是があることは、多くの者の悪む所です。恐らく王(荘王)は国是を定めることはできますまい」と答えました。
また荘王が「国是が定まらない原因は、王 1人にあるのか、それとも臣下にあるのか?」と問うと、孫叔敖は「王は士(臣下)に驕って『臣下は君主がいなければ富貴となれまい』と言い、また士(臣下)は君主に驕って『王は臣下がいなければ、無事には過ごせまい』と言い、君主は国を失うまで(臣下の大切さを)悟らず、士(臣下)は飢えや寒さに直面するまで(君主の大切さに)気づかないものです。このように君臣が相容れなければ、国是が定まることはありません」と答えました。
すると荘王は「なるほど。どうか相国・諸大夫と共に国是を定められよ」と言いました。このように、君主が輔佐の臣を全面的に信任してこそ、国是は定まるものなのです。
考えますに善政を行う者は、民の風俗・習慣を観察して教化を施し、悪い事態を想定してそれを防ぐものです。これらによって威と徳が共に興り、文と武が互いに用いられるもので、然る後に政事は治まり、騒ぎ乱れた者たちを定めることができるのです。
昔、董仲舒は「国を治めるということは、譬えるなら琴瑟(琴と瑟)のようなもので、音が調っていなければ弦を外して張り直さなければならない」と申しましたが、そもそも政事をやり直すことは、琴の弦を張り直すように簡単ではなく、多くの者に逆らい改革を行おうとする者は滅ぼされてきました。
賈誼はその才によって[京師(長安)を]放逐され、朝錯(晁錯)はその智によって刑死いたしました。世に優れた才能があると言われていても敢えて政策を論じる者がいないのは、このような前例を懼れているからです。
また法律や禁令を設ける目的はすべての「天下の奸」を防ぐのではなく、みな多くの人の望む所に合わせるためであり、大抵、国家にとって多くの便利・利益があることを選べばそれで良いのです。
そもそも官吏を置く目的はそれにより万人を治めるためであり、賞罰を設ける目的は善悪を明らかにすることにあり、悪人が誅傷されれば善人は福を蒙ります。
今、人々は互いに殺傷し合い、すでに法の裁きを受けたのに、個人で怨仇を晴らそうと子孫同士で報復し合っています。これによりその遺恨は以前よりも深くなり、家を滅ぼし生業を絶やすことになっても、世間ではこれを「豪健である」と称賛しています。そのため怯弱(臆病)であるにもかかわらず、しぶとく報復に走るのです。これは人々に自ら治めることを許しており、法律のない状況と言えます。
今、旧令を明らかにすれば、すでに官の誅に伏しながら私に傷殺し合う者は、その者が逃亡してしまえば、その家族がみな辺境に徙刑されています。傷つけ合う者には、通常よりも2等重い刑罰を加え、罪に連座した者が罪を贖うことをできなくさせるべきです。そうすれば民の怨恨は自然と解け、盗賊は終息するでしょう。
そもそも国を治める道は、本業(である農業)を奨励して末利(である商業)を抑制することにあります。そのため先帝[高祖(劉邦)]は2つの生業を兼ねることを禁止し、また商賈(商人)が官吏となることを禁止しました。これらを抑制することには、廉恥(心が清らかで恥を知る心が強いこと)を育む目的があったのです。
今、豪商たちは多くの銭貨を(貸し)与え、一般家庭の子弟は債務者となって奴隷と共に奔走しており、(豪商たちの)収入は封君(列侯)に匹敵しています。そのため多くの者はこれを真似て耕作せずに食おうとし、多くの贅沢に精通してそれらに耳目を奪われています。
今、豪商たちにお互いを告発させ、もし自分が努力して得たものでなければ、みな告発者に与えるべきです。そうすれば彼らも自分の仕事に専念し、敢えて人に銭貨を(貸し)与えず、その財力も弱まって、きっと田畑の仕事に精を出すでしょう。田畑が修まれば、穀物も田畑の限界まで収穫することができるようになります。
また、法令による判決を見ますに、量刑が一定でなく、あるいは同じ事でも適用される法律が異なっていたり、同じ罪でも求刑が異なっていることがあり、奸吏(心の邪な役人)たちは市で取引をして、生かしたい者には寛容な議論をし、陥れたい者には死罪と比較しています。これは刑罰に2つの基準を設けるものです。
今、義理に通じ法律に熟達した者に条文と判例を校定させ、法令を統一して郡国に通達し、旧来の条文を破棄すべきです。そうすれば、天下の法は統一され、獄舎に怨嗟の声が溢れることもなくなるでしょう。
脚注
*2学者などに与えられた官職で、宮中に待機して皇帝の下問に答える職。
2度目の上疏
当時、光武帝は讖緯(予言)を信じて多くの嫌疑を讖緯(予言)によって決定し、また功績に報いることが充分でなく、天下は未だ安定していなかった。
そこで桓譚は再び上疏してこれらのことを諫め解決策を示したが、光武帝は上奏文を見てなお一層、桓譚のことを不快に思った。
桓譚の上疏・全文
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臣は以前、瞽言(妄言)を献じましたが、未だに詔によるお答えがありません。憤懣遣る方なく、死を冒して再び述べることにいたしました。
愚夫の策謀は、政治を行う者にとって有益で、人心に合致し理に適っております。
現実を軽視して異聞を貴ぶのが人情というものですが、先王の記述を観ますに、みな仁義・正道を本とし、そこに奇怪(不思議な出来事)・虚誕(根拠のないことを大げさに言うこと)の事はありません。
思いますに、天道と性命(生まれながらの素質と天から授かった運命)は聖人も口にすることを憚りました。子貢(孔子の弟子)以下、これを語った者はなく、まして後世の浅儒がどうしてこれに通ずることができましょうかっ!
今、ずる賢い小才の方伎(方士)の者どもがいたずらに図書を増やし、讖記(予言の書)と詐称して欺き惑わせ、ご主君を誤らせております。どうして彼らを抑え遠ざけぬ道理がございましょうかっ!
臣・譚(桓譚)は「陛下は方士の『黄白の術(錬金術)』を退け、大変英明であられた」と、伏して聞き及んでおります。それなのに讖記(予言の書)を聞き入れようとなさるとは、どうなされたのでしょうかっ!
讖記の予言は時として現実と合致することもありますが、譬えるならそれはまぐれ当たりの卜数(占い)の類です。陛下には私の言葉に耳を傾けられ、聖意を表して群小の曲説を退け、『五経』の正義を述べられて雷同(考えもなく他の説に同調すること)の俗語を省き、物事に通じた者の正しい意見にご留意くださいませ。
また、臣は「世が安定して平和であれば『道術の士』を尊び、世が乱れれば『介胄(鎧兜)の士』を貴ぶ」と聞いております。
今、聖朝(漢)は皇統を中興(衰えていたものを再び繁栄させること)して人臣の主となりながら、四方の盗賊たちが未だにすべて帰服していないのは、権謀が用いられていないからに他なりません。
臣・譚(桓譚)が伏して観ますに、陛下は兵を用いて降伏させた者たちに、彼らが誘い合って従うような厚い恩賞を与えたことがなく、降伏者の中には困窮して財物を略奪する者が出ています。そのため(まだ降伏していない)兵長や渠率(賊・反逆者などの頭)たちは、みな疑念を抱いて党派を結成し、年月を経ても解散する気配はありません。
古人は「天下の人々はみな『取ることが取ること』だと知っているが、『与えることが取ること』であることを知らない」と言っております。
陛下にはどうか、封爵の基準を軽くして恩賞を重くし、兵士と共にこれらを分かち合えば、どうして招いても至らず、説いても承伏せず、向かっても開かず(受け入れず)、征伐を行って勝てないなどということがありましょうかっ!
このようにすれば、狭きものを広く、遅いことを速く、滅びた者をまた存続させ、失った者をまた得ることができるでしょう。
光武帝の怒りを買う
その後、詔により霊台の設置場所を議論させたことがあり、光武帝は桓譚に「吾は讖記(予言の書)によって霊台の場所を決めようと思うが、どうか?」と言ったところ、桓譚はしばらく黙り込んで「臣は讖記(予言の書)を読みません」と答えた。
光武帝がその理由を問うと、桓譚はまた「讖記(予言の書)は経典にあらず」と極言した。
すると光武帝は大いに怒り、「桓譚は聖[なる讖記(予言の書)]を譏り法を蔑した。司直に下して斬罪に処せっ!」と言うと、桓譚は流血するまで叩頭し、しばらくしてようやく許された。
(その代わりに左遷され、)地方に出て六安郡の郡丞となったが、鬱々として楽しまず、任地に赴任するまでの道中に病気で亡くなった。70余歳であった。
桓譚の著述
桓譚が著した「当世の行事について述べた書」は29篇。これを『新論』と号し、上書して献上すると、光武帝はこれを称賛した。光武帝はこれを読み、詔勅を下して「1巻の字数が多い」と言い、みな分けて上下とし、全29篇とした。
『新論』の第1は本造、第2は王覇、第3は求輔、第4は言体、第5は見徴、第6は譴非、第7は啓寤、第8は袪蔽、第9は正経、第10は識通、第11は離事、第12は道賦、第13は弁惑、第14は述策、第15は閔友、第16は琴道である。
第1の本造、第14の述策、第15の閔友、第16の琴道は各1巻。その他はみな上下巻があった*3。
その他、桓譚が著した賦・誄(追悼文)・書(書信)・奏(上奏)は全部で26篇あった。
『新論』の琴道篇は完成しておらず、冒頭の1章があるだけだったので、後に肅宗(章帝)が班固に命じてこれを完成させた。
元和年間(84年〜87年)に肅宗(章帝)が東方に巡狩して沛国に至った時、使者を派遣して桓譚の塚を祀らせた。(桓譚の)郷里[豫州(予州)・沛国・相県]はこれを光栄なこととした。
脚注
*3この通りに数えてみると全28巻となるが、詳細は不明。