正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(78)桓譚かんたんです。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(78)桓

桓譚(かんたん)

桓譚かんたん君山くんざん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく相県しょうけんの人。前漢ぜんかん末期〜後漢ごかん初期の人物。

魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎが注に引く張華ちょうか博物志はくぶつしに「桓譚かんたん蔡邕さいようは音楽が上手、司隷しれい左馮翊さひょうよく出身の山子道さんしどう王九真おうきゅうしん郭凱かくがいらは囲碁が上手であったが、太祖たいそ曹操そうそう)はすべて彼らに匹敵する能力を持っていた」とある。

出自

父は前漢ぜんかん成帝せいていの時[竟寧しょうねい元年(紀元前33年)〜綏和すいわ2年(紀元前7年)]に太楽令たいがくれいとなった。桓譚かんたんは父のろうとなったため、音律を好んで琴を弾奏するのが上手かった。

博学で多くのことに通じ、五経ごきょうを広く習得したが、みな大義を読みくだけでこまかい章句にこだわらなかった。また文章が上手く、古学こがくを好み、劉歆りゅうきん楊雄ようゆうに師事して疑問や異論を分析した。

倡楽しょうがく(役者や遊女の奏する音楽)を好み、外見や礼儀にこだわらない性格で、俗儒ぞくじゅを批判することを好んだことから、排撃はいげき(非難し追い払おうと攻撃すること)されることが多かった。

傅晏と董賢
桓譚かんたん傅晏ふあん

哀帝あいてい平帝へいていの間[綏和すいわ2年(紀元前7年)〜元始げんし5年(6年)]、桓譚かんたんの位はろうに過ぎなかった。

傅皇后ふこうごう哀帝あいてい皇后こうごう)の父である孔郷侯こうきょうこう傅晏ふあんは、桓譚かんたんととても仲が良かったが、当時、高安侯こうあんこう董賢とうけんが過分に寵愛ちょうあいされており、彼の妹が昭儀しょうぎ(側室の称号)となって傅皇后ふこうごうへの寵愛ちょうあいが日に日におとろえていたので、傅晏ふあん鬱々うつうつとしていた。

これを見た桓譚かんたんは「昔、武帝ぶてい衛子夫えいしふ皇后こうごうに立てたいと思い、秘かに陳皇后ちんこうごうの過失をさぐって陳皇后ちんこうごうを廃位し、衛子夫えいしふ皇后こうごうに立てました。今、董賢とうけんの妹が寵愛ちょうあいされており、『衛子夫えいしふの変』がり返されようとしています。うれえずにいられましょうかっ!」と言った。

傅晏ふあんは驚き動転して「どうしたものか?」とうと、桓譚かんたんは「無罪の者に刑罰を加えることはできず、邪枉じゃおうよこしまで曲がった者)は正人(正しい人)に勝つことはできません。そもそも士は才智によって君主に必要とされ、女は媚道びどうによって主人に求められるもの。皇后こうごう傅皇后ふこうごう)は若く苦労を知らず、あるいは(董賢とうけんが)医者や巫女みこを駆使して外に方技ほうぎ(医術・占星・不老不死などの術)を求める(方技ほうぎによって罪を着せる)ことにもそなえる必要があります。また、君侯くんこう傅晏ふあん)は皇后こうごうの父として尊重され、多くの賓客ひんかくよしみを通じていますから、必ずやその権勢と高位を非難されるでしょう。ここは門人たちを遠ざけ、謙虚けんきょつつしみ深い態度を取ることにつとめるべきであり、それこそが身をおさめ家を正してわざわいける道です」と言った。

傅晏ふあんは「よし」と言うと、ついに常客じょうかく食客しょっかく)を追い出し、後宮に入って皇后こうごう傅皇后ふこうごう)に「桓譚かんたんいましめ」に従うように言った。

のち董賢とうけんは、桓譚かんたんが言った通り太医令たいいれい真欽しんきん傅氏ふしの罪や過失を探させ、ついに皇后こうごう傅皇后ふこうごう)の弟である侍中じちゅう傅嘉ふか*1を捕らえたが、詔獄しょうごく勅命ちょくめいによってもうけられた特別法廷)にくだしても罪が認められなかったため釈放された。こうして傅氏ふし哀帝あいていの時代をまっとうすることができたのである。

脚注

*1原文は傅喜ふき劉攽りゅうはんは「漢書かんじょを見るに傅喜ふき皇后こうごう傅皇后ふこうごう)の弟ではないので、傅嘉ふかに改めるべきであろう」とする。

桓譚かんたん董賢とうけん

その後董賢とうけん大司馬だいしばとなると、董賢とうけん桓譚かんたんの名声を聞き、まじわりを結ぼうとした。

すると桓譚かんたんは先に書簡を送って、董賢とうけんに「輔国保身の術(国家をたすけ、我が身を保つすべ)」をいたが、董賢とうけんもちいることができず、ついによしみを通じることはなかった。

王莽〜更始帝期

王莽おうもう摂政せっしょうとなり、かん簒奪さんだつして皇帝を弑逆しいぎゃく(殺害)しようとする頃になると、天下の士はきそって王莽おうもうの徳を賛美さんびし、符命ふめい(天命を示す前兆)を偽作して取り入ろうとしたが、桓譚かんたんはただ1人自分の意志を守り、黙然として(へつらいの)言葉を言わなかった。

王莽おうもうの時に掌楽大夫しょうがくたいふとなり、更始帝こうしてい劉玄りゅうげん)が即位すると、徴召ちょうしょうされて太中大夫たいちゅうたいふを拝命した。

光武帝期
1度目の上疏じょうそ

世祖せいそ光武帝こうぶてい)が即位すると、徴召ちょうしょうされて待詔たいしょう*2となり、上書して意見をべたがもちいられなかった。

のち大司空だいしくう宋弘そうこうの推薦により議郎ぎろう給事中きゅうじちゅうを拝命し、上疏じょうそして「るべき政治」をいたが、桓譚かんたん上疏じょうそは上奏されはしたものの、取り上げられなかった。

桓譚かんたん上疏じょうそ・全文
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わたくしは「国の興廃こうはいは政事にあり、政事の得失は輔佐の臣にかかっている」と聞いております。輔佐の臣が賢明であれば、俊才の士が朝堂に満ちて政事は世務のことわりに合致し、輔佐の臣が不明であれば、政論は時宜じぎを失いあやまちが多くなります。

そもそも国をゆうする君主はみな「賢者と共に教化をおこし善を建てよう」としているのに政道が治まらないのは、世間一般で言う「賢者」と「輔佐の臣として必要な賢者」が異なっているからです。


昔、(春秋しゅんじゅう時代の)荘王そうおう孫叔敖そんしゅくごうに「寡人わたしはまだ国是こくぜ(国家の基本方針)をさだめる理由が分からない」とうたところ、孫叔敖そんしゅくごうは「国是こくぜがあることは、多くの者のにくむ所です。おそらくおう荘王そうおう)は国是こくぜさだめることはできますまい」と答えました。

また荘王そうおうが「国是こくぜさだまらない原因は、おう 1人にあるのか、それとも臣下にあるのか?」とうと、孫叔敖そんしゅくごうは「おうは士(臣下)におごって『臣下は君主がいなければ富貴となれまい』と言い、また士(臣下)は君主におごって『おうは臣下がいなければ、無事には過ごせまい』と言い、君主は国を失うまで(臣下の大切さを)さとらず、士(臣下)はえや寒さに直面するまで(君主の大切さに)気づかないものです。このように君臣があいれなければ、国是こくぜさだまることはありません」と答えました。

すると荘王そうおうは「なるほど。どうか相国しょうこく・諸大夫たいふと共に国是こくぜさだめられよ」と言いました。このように、君主が輔佐の臣を全面的に信任してこそ、国是こくぜさだまるものなのです。


考えますに善政を行う者は、民の風俗・習慣を観察して教化をほどこし、悪い事態を想定してそれを防ぐものです。これらによって威と徳が共におこり、文と武が互いにもちいられるもので、しかのちに政事は治まり、さわぎ乱れた者たちをさだめることができるのです。


昔、董仲舒とうちゅうじょは「国を治めるということは、たとえるなら琴瑟きんしつことおおごと)のようなもので、音が調ととのっていなければげんを外して張り直さなければならない」と申しましたが、そもそも政事をやり直すことは、ことげんを張り直すように簡単ではなく、多くの者に逆らい改革を行おうとする者は滅ぼされてきました。

賈誼かぎはその才によって[京師けいし長安ちょうあん)を]放逐ほうちくされ、朝錯ちょうそ晁錯ちょうそ)はその智によって刑死いたしました。世にすぐれた才能があると言われていてもえて政策を論じる者がいないのは、このような前例をおそれているからです。


また法律や禁令をもうける目的はすべての「天下のかん」を防ぐのではなく、みな多くの人の望む所に合わせるためであり、大抵、国家にとって多くの便利・利益があることを選べばそれで良いのです。

そもそも官吏を置く目的はそれにより万人を治めるためであり、賞罰をもうける目的は善悪を明らかにすることにあり、悪人が誅傷ちゅうしょうされれば善人は福をこうむります。

今、人々は互いに殺傷し合い、すでに法のさばきを受けたのに、個人で怨仇えんきゅうを晴らそうと子孫同士で報復し合っています。これによりその遺恨は以前よりも深くなり、家を滅ぼし生業なりわいを絶やすことになっても、世間ではこれを「豪健である」と称賛しています。そのため怯弱きょうじゃく(臆病)であるにもかかわらず、しぶとく報復に走るのです。これは人々にみずから治めることを許しており、法律のない状況と言えます。

今、旧令を明らかにすれば、すでに官のちゅうしながらわたくしに傷殺し合う者は、その者が逃亡してしまえば、その家族がみな辺境に徙刑しけいされています。傷つけ合う者には、通常よりも2等重い刑罰を加え、罪に連座した者が罪をあがなうことをできなくさせるべきです。そうすれば民の怨恨えんこんは自然とけ、盗賊は終息するでしょう。


そもそも国を治める道は、本業(である農業)を奨励しょうれいして末利(である商業)を抑制することにあります。そのため先帝[高祖こうそ劉邦りゅうほう)]は2つの生業なりわいを兼ねることを禁止し、また商賈しょうこ(商人)が官吏となることを禁止しました。これらを抑制よくせいすることには、廉恥れんち(心が清らかで恥を知る心が強いこと)をはぐくむ目的があったのです。

今、豪商たちは多くの銭貨を(貸し)与え、一般家庭の子弟は債務者となって奴隷と共に奔走ほんそうしており、(豪商たちの)収入は封君ほうくん列侯れっこう)に匹敵しています。そのため多くの者はこれを真似て耕作せずに食おうとし、多くの贅沢ぜいたくに精通してそれらに耳目を奪われています。

今、豪商たちにお互いを告発させ、もし自分が努力して得たものでなければ、みな告発者に与えるべきです。そうすれば彼らも自分の仕事に専念し、えて人に銭貨を(貸し)与えず、その財力も弱まって、きっと田畑の仕事に精を出すでしょう。田畑がおさまれば、穀物こくもつも田畑の限界まで収穫することができるようになります。


また、法令による判決を見ますに、量刑が一定でなく、あるいは同じ事でも適用される法律が異なっていたり、同じ罪でも求刑が異なっていることがあり、奸吏かんり(心のよこしまな役人)たちはいちで取引をして、生かしたい者には寛容かんような議論をし、おとしいれたい者には死罪と比較しています。これは刑罰に2つの基準をもうけるものです。

今、義理に通じ法律に熟達した者に条文と判例を校定させ、法令を統一して郡国に通達し、旧来の条文を破棄すべきです。そうすれば、天下の法は統一され、獄舎ごくしゃ怨嗟えんさの声があふれることもなくなるでしょう。

脚注

*2学者などに与えられた官職で、宮中に待機して皇帝の下問に答える職。

2度目の上疏じょうそ

当時、光武帝こうぶてい讖緯しんい(予言)を信じて多くの嫌疑けんぎ讖緯しんい(予言)によって決定し、また功績にむくいることが充分でなく、天下はいまだ安定していなかった。

そこで桓譚かんたんは再び上疏じょうそしてこれらのことをいさめ解決策を示したが、光武帝こうぶていは上奏文を見てなお一層、桓譚かんたんのことを不快に思った。

桓譚かんたん上疏じょうそ・全文
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わたくしは以前、瞽言こげん妄言もうげん)を献じましたが、いまだにみことのりによるお答えがありません。憤懣ふんまんる方なく、死をおかして再びべることにいたしました。

愚夫わたくしの策謀は、政治を行う者にとって有益で、人心に合致し理にかなっております。

現実を軽視して異聞をとうとぶのが人情というものですが、先王の記述を観ますに、みな仁義・正道をもととし、そこに奇怪きかい(不思議な出来事)・虚誕きょたん(根拠のないことを大げさに言うこと)の事はありません。

思いますに、天道と性命(生まれながらの素質と天からさずかった運命)は聖人も口にすることをはばかりました。子貢しこう孔子こうしの弟子)以下、これを語った者はなく、まして後世の浅儒せんじゅがどうしてこれに通ずることができましょうかっ!


今、ずるがしこい小才の方伎ほうぎ方士ほうし)の者どもがいたずらに図書としょを増やし、讖記しんき(予言の書)と詐称さしょうしてあざむまどわせ、ご主君をあやまらせております。どうして彼らをおさえ遠ざけぬ道理がございましょうかっ!

わたくしたん桓譚かんたん)は「陛下は方士ほうしの『黄白こうはくじゅつ(錬金術)』を退しりぞけ、大変英明であられた」と、して聞き及んでおります。それなのに讖記しんき(予言の書)を聞き入れようとなさるとは、どうなされたのでしょうかっ!

讖記しんきの予言は時として現実と合致することもありますが、たとえるならそれはまぐれ当たりの卜数ぼくすう(占い)のたぐいです。陛下には私の言葉に耳をかたむけられ、聖意を表して群小の曲説を退しりぞけ、五経ごけいの正義をべられて雷同(考えもなく他の説に同調すること)の俗語をはぶき、物事に通じた者の正しい意見にご留意くださいませ。


また、わたくしは「世が安定して平和であれば『道術の士』をたっとび、世が乱れれば『介胄かいちゅう鎧兜よろいかぶと)の士』をとうとぶ」と聞いております。

今、聖朝(かん)は皇統を中興ちゅうこうおとろえていたものを再び繁栄させること)して人臣のぬしとなりながら、四方の盗賊たちがいまだにすべて帰服していないのは、権謀がもちいられていないからに他なりません。

わたくしたん桓譚かんたん)がして観ますに、陛下は兵をもちいて降伏させた者たちに、彼らが誘い合って従うような厚い恩賞を与えたことがなく、降伏者の中には困窮こんきゅうして財物を略奪する者が出ています。そのため(まだ降伏していない)兵長へいちょう渠率きょすいぞく・反逆者などのかしら)たちは、みな疑念をいだいて党派を結成し、年月をても解散する気配はありません。

古人は「天下の人々はみな『取ることが取ること』だと知っているが、『与えることが取ること』であることを知らない」と言っております。

陛下にはどうか、封爵ほうしゃくの基準を軽くして恩賞を重くし、兵士と共にこれらを分かち合えば、どうしてまねいても至らず、いても承伏せず、向かっても開かず(受け入れず)、征伐を行って勝てないなどということがありましょうかっ!

このようにすれば、せまきものを広く、遅いことを速く、滅びた者をまた存続させ、失った者をまた得ることができるでしょう。

光武帝こうぶていの怒りを買う

その後、みことのりにより霊台れいだいの設置場所を議論させたことがあり、光武帝こうぶてい桓譚かんたんに「わたし讖記しんき(予言の書)によって霊台れいだいの場所を決めようと思うが、どうか?」と言ったところ、桓譚かんたんはしばらく黙り込んで「わたくし讖記しんき(予言の書)を読みません」と答えた。

光武帝こうぶていがその理由をうと、桓譚かんたんはまた「讖記しんき(予言の書)は経典けいてんにあらず」と極言した。

すると光武帝こうぶていは大いに怒り、「桓譚かんたんは聖[なる讖記しんき(予言の書)]をそしり法をなみした。司直しちょくに下して斬罪に処せっ!」と言うと、桓譚かんたんは流血するまで叩頭こうとうし、しばらくしてようやく許された。

(その代わりに左遷させんされ、)地方に出て六安郡りくあんぐん郡丞ぐんじょうとなったが、うつうつとして楽しまず、任地に赴任するまでの道中に病気で亡くなった。70余歳であった。

桓譚の著述

桓譚かんたんあらわした「当世の行事についてべた書」は29篇。これを新論しんろんと号し、上書して献上すると、光武帝こうぶていはこれを称賛した。光武帝こうぶていはこれを読み、詔勅しょうちょくを下して「1巻の字数が多い」と言い、みな分けて上下とし、全29篇とした。

新論しんろんの第1は本造ほんぞう、第2は王覇おうは、第3は求輔きゅうほ、第4は言体げんたい、第5は見徴けんちょう、第6は譴非けんひ、第7は啓寤けんご、第8は袪蔽きょへい、第9は正経せいけい、第10は識通しきつう、第11は離事りじ、第12は道賦どうふ、第13は弁惑べんわく、第14は述策じゅっさく、第15は閔友びんゆう、第16は琴道きんどうである。

第1の本造ほんぞう、第14の述策じゅっさく、第15の閔友びんゆう、第16の琴道きんどうは各1巻。その他はみな上下巻があった*3

その他、桓譚かんたんあらわしたるい追悼文ついとうぶん)・しょ書信しょしん)・そう上奏じょうそう)は全部で26篇あった。


新論しんろん琴道きんどう篇は完成しておらず、冒頭の1章があるだけだったので、のち肅宗しゅくそう章帝しょうてい)が班固はんこに命じてこれを完成させた。

元和げんわ年間(84年〜87年)に肅宗しゅくそう章帝しょうてい)が東方に巡狩じゅんしゅして沛国はいこくに至った時、使者を派遣して桓譚かんたんはかまつらせた。(桓譚かんたんの)郷里[豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく相県しょうけん]はこれを光栄なこととした。

脚注

*3この通りに数えてみると全28巻となるが、詳細は不明。


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【三国志人物伝】総索引