曹操の家系をたどってみると、祖父・曹騰は宦官、父・曹嵩は売官で太尉の位を得るなど、相当アクドイことをしてきた印象を受けますよね。ですが実際調べてみると、そうでもなさそうなのです。
曹操の父・曹嵩、養祖父・曹騰、養曾祖父・曹萌(曹節)の3人を大解剖します。
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曹操の養曾祖父・曹萌(曹節)
字は元偉。沛国・譙県の人で、前漢の相国・曹参の子孫とされています。
『魏書』武帝紀では曹節とされていますが、『武帝紀集解』による「曹節は誤りで曹萌」とする説が一般的です。
エピソード
ある日、曹萌の隣の家で、飼っていた豚が逃げ出しました。
豚を探しにきた隣人は、曹萌の家の豚を見て「これは私の豚ではないか」と、曹萌に詰め寄りました。曹萌の豚は、隣人の豚と同じ種類だったのです。
完全に勘違いですが、曹萌は言い争いをせず、黙って自分の豚を隣人に渡しました。
ですが数日後、逃げ出した豚がひょっこりと隣の家に帰ってきたのです。驚いた隣人は急いで曹萌に豚を返し、自分の行ないを恥じてあやまりました。
曹萌は一言も隣人を責めることなく、笑って豚を受け取りました。人々は皆、曹萌の仁徳温厚な行いを見て尊敬し、褒め称えたと言います。
子
『魏書』武帝紀には、曹萌の息子として、曹伯興、曹仲興、曹叔興、曹季興の4人の名前が記載されています。
この4人目の曹季興が、曹操の養祖父・曹騰になります。
また、曹仁、曹純の祖父である曹褒は曹萌の息子とされていますが、字が伝わっておらず、曹騰の3人の兄のうちの誰かということになりそうです。
さらに、『後漢書』党錮列伝には「冀州刺史の蔡衍が曹鼎の汚職を弾劾した際、曹鼎の兄である曹騰が便宜を図った」とあることから、少なくとも5人兄弟であったと思われます。
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曹操の養祖父・曹騰
字は季興。沛国・譙県の人。曹萌の子。曹操の父・曹嵩の養父。
曹騰は幼少のころに黄門の従官となり、皇太子・劉保(後の順帝)の学友の1人として選ばれます。
曹騰は皇太子に寵愛され、125年に順帝が即位すると小黄門となり、中常侍・大長秋にまで昇進しました。
宮中に30年あまり勤めて、安帝、順帝、沖帝、質帝の4人の皇帝に仕えて一度も落ち度がありませんでした。
エピソード
曹騰は多くの有能な人物を推薦し、曹騰に推薦された者はみんな高官に昇りましたが、彼らに恩着せがましい態度を取ることはなかったと言われています。
ある時益州刺史の种暠が、蜀郡太守が曹騰に私的に遣わせた使者の書簡を手に入れました。これを見た种暠は蜀郡太守を告発した上、曹騰に対しても免官して処罰すべきと上奏したのです。
この件は「書簡は一方的に出されたもので、曹騰の罪には当たらない」として却下されましたが、罪を問われた曹騰は意に介することなく、職務に忠実な种暠の行いを褒め称えました。
後に司徒となった种暠は「今の自分があるのは曹常侍(曹騰)のお陰だ」と人に語っていたと言われています。
また、桓帝が即位した際には、これまでの功績を認められて費亭侯に封じられ、特進の官位を与えられました。
特進には「官職を退いた者であっても朝廷の会議に参加することができる」という特権が与えられます。
子
曹騰は去勢された宦官ですので、子孫を残すことができません。曹操の父・曹嵩を養子にして、財産と費亭侯の爵位を相続させました。
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曹操の父・曹嵩
字は巨高。沛国・譙県の人。曹騰の養子。曹操の父。
出自
『魏書』武帝紀では、曹嵩の出自については明らかにされていません。
また、『曹瞞伝』、『世語』によると、曹嵩は夏侯氏の出身で夏侯惇の叔父にあたり、曹操と夏侯惇は従兄弟であるとされており、これまでこの説が一般的となっていました。
これによると、曹操は前漢の相国・曹参の家系、前漢の功臣・夏侯嬰の血筋と言うことになります。
曹嵩の出自の異説
また、曹嵩の出自には、曹洪の族父として知られる曹瑜の子とする説もあるようです。
曹瑜は前漢初期の左司馬・曹無傷の子孫で、曹萌の甥、曹騰の従兄弟にあたります。
庶長子・曹嵩と次嫡子・曹忠の2人の子がおり、曹嵩は同族の曹騰の養子に出され、曹忠が父の跡を継ぎました。
この説によると、曹瑜は曹操の実の祖父ということになり、曹操の血筋は夏侯嬰ではなく、劉邦の部下であった曹無傷の子孫ということになります。
豆知識
曹無傷は秦の末期、劉邦のもとで左司馬を務めていた人物です。
共に協力して秦と戦っていた項羽と劉邦ですが、項羽が秦の主力軍と戦っている間に秦の首都・咸陽を落とした劉邦は、函谷関の門を閉ざして項羽軍の入城を拒む素振りをみせました。
これに激怒した項羽が劉邦に40万の軍勢を差し向けると、劉邦を見限った曹無傷は、項羽に取り入るために劉邦を讒言する密使を送ります。
その後、項羽の叔父・項伯の計らいで劉邦に弁明をする機会(鴻門の会)が与えられたのですが、その席で項羽が曹無傷の行いを暴露したため、劉邦に裏切り者として処刑されました。
エピソード
曹嵩は司隷校尉となり、霊帝に抜擢されて、要職である大司農や大鴻臚を歴任し、187年には売官によって太尉に就任しています。
太尉の官職を得るために、曹嵩は実に1億銭の銭を霊帝に献上したと言われています。
187年4月に太尉に就任した曹嵩ですが、約1年という短期間で罷免されています。1億銭の銭を献上した元を取れたのか心配になりますね。
そんな曹嵩ですが、その性格は慎ましやかで忠孝を重んじていたと言われており、他人を陥れたり、民衆から搾取するようなエピソードは残されていません。
曹嵩は官職を退いた後、郷里の譙県で隠居生活をしていましたが、董卓と反董卓連合軍の戦いを避けて徐州・琅邪国に避難していました。
その後、曹操が兗州に地盤を築いたため、家族とともに兗州に向かう途中、陶謙の配下に殺されてしまいます。
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子
曹嵩には、曹操の他に少なくとも3人の子がいました。
- 曹徳
- 薊恭公・曹彬
- 朗陵哀侯・曹玉
この他に曹嵩の子と思われる人物には、曹疾と海陽哀侯がいます。
曹疾
曹徳と曹疾は、曹嵩が避難先の琅邪国から兗州に向かう際に同行し、曹嵩とともに陶謙の配下に殺されてしまいます。
2人は別々の史料に記載があり、2人同時に登場することがないことから、曹徳と曹疾は同一人物であるとする説が有力です。
海陽哀侯
海陽哀侯については『魏書』夏侯淵伝に、夏侯淵の長子・夏侯衡の正妻が、曹操の弟・海陽哀侯の娘であるとのみ記されています。
諱は記されておらず、曹徳もしくは曹疾と同一人物なのか、まったくの別人なのかも定かではありません。
曹操の弟たちはみんな早くに亡くなっているようで、歴史の表舞台に出ることはありませんでした。後に曹操の補佐をする曹姓の武将たちは、そのほとんどが曹騰の兄弟の子になります。
曹操の家系の評価
曹萌、曹騰、曹嵩と曹氏3代に渡って調べてみると、意外にもみんな良い人で、宦官である曹騰も、他人から後ろ指をさされるような悪事を働いている記録は見当たりませんでした。
ただし、曹萌の官職については記載がなく、高い官職には就いていなかったものと思われます。
つまり曹操の家系は、曹騰が宦官として栄達したために権力を得ることができた、ポッと出の家系であると言えます。
曹操は先祖について語ることがなかったことから、自分の家系にコンプレックスを持っていたのではないかと言われています。
新興の豪族である曹操の家系は、宦官の家系であることを除いても、代々三公を排出してきた袁紹、袁術のような名門と比べると、低い家柄であったと言えるかもしれません。