正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊻[郭子瑜かくしゆ郭汜かくし郭脩かくしゅう郭循かくじゅん)・郭純かくじゅん郭遵かくじゅん郭諶かくじん]です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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か㊻

郭(かく)

郭子瑜かくしゆ

生没年不詳。許劭きょしょう許子将きょししょう)にいだされた賢者の1人。

汝南先賢伝じょなんせんけんでんに言う。

許劭きょしょう許子将きょししょう)は、さく(頭巾)売りをしていた樊子将はんししょういだしたのを初めとして、虞永賢ぐえいけん牧豎ぼくじゅ牧童ぼくどう)からいだし、李淑才りしゅくさい郷閭きょうりょ(村里)の中からし出し、郭子瑜かくしゆくらを置いた馬を世話する役人(鞍馬之吏)から抜擢ばってき楊孝祖ようこうそを引き上げ、和陽士わようし和洽わこう和洽かこう)]を推挙した。

この6人の賢者はいずれも当代の立派な人士であった。


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郭汜かくし郭氾かくはん郭多かくた

郭汜(かくし)

生没年 ?〜197年
出身地 涼州りょうしゅう張掖郡ちょうえきぐん
所属勢力 董卓とうたく→独立

董卓とうたく配下の校尉こうい董卓とうたく誅殺ちゅうさつの報が入ると、李傕りかくらと長安ちょうあんを包囲して陥落させ、王允おういんを斬った。

その後、李傕りかく樊稠はんちゅうらと朝廷で権力を握ったが、やがて李傕りかくと対立する。

献帝けんてい洛陽らくよう雒陽らくよう)に向かうと、李傕りかく和睦わぼくして献帝けんていを追ったが捕らえることはできず、その後は権勢を失って、最期は配下の伍習ごしゅうに殺害された。


郭脩かくしゅう郭修かくしゅう)・孝先こうせん郭循かくじゅん

生年不詳〜しょく延熙えんき16年(253年)春正月没。雍州ようしゅう西平郡せいへいぐんの人。蜀書しょくしょ後主伝こうしゅでん蜀書しょくしょ費禕伝ひいでんでは郭循かくじゅん

平素より品行に優れ、西州せいしゅうにおいて名前がよく知れ渡っていた。

しょく延熙えんき12年(249年)、しょく衛将軍えいしょうぐん姜維きょういせつを与えられ、雍州ようしゅう西平郡せいへいぐんに出陣したが、勝利を得ることなく帰還した。

この時、姜維きょういに捕らえられた郭脩かくしゅうしょくに連行され、劉禅りゅうぜんは彼を左将軍さしょうぐんに任命した。

郭脩かくしゅう劉禅りゅうぜんを刺殺しようと思っていたが、そばに近づく機会がなく、いつも慶賀けいがの際には拝礼しつつ前方に進み出たが、側近の者にとどめられたので、事は成就じょうじゅしなかった。

延熙えんき14年(251年)夏、しょく大将軍だいしょうぐん費禕ひい成都せいとに帰還したが、成都せいとにいる雲気を観て占う占師が「みやこ宰相さいしょうの位がなくなっている」と述べた。そのため冬には再び北方の漢寿かんじゅに駐屯することになった。

延熙えんき15年(252年)、費禕ひいは幕府を開くことを許された。

延熙えんき16年(253年)春正月、大宴会がもよおされ、から降伏した郭脩かくしゅうもこの大宴会に出席していた。費禕ひい大将軍だいしょうぐんとなりながら本性のおもむくままに博愛心を示し、帰順したばかりの者でもすぐに信用して楽しげに酔いつぶれていたところ、郭脩かくしゅう費禕ひいを刺殺した。


嘉平かへい5年(253年)8月、斉王せいおう曹芳そうほう)は詔勅しょうちょくを下して郭脩かくしゅうの行いをたたえ、彼に長楽郷侯ちょうらくきょうこうを追封して領邑りょうゆう千戸を与え、威侯いこうおくりなした。

斉王(曹芳)の詔勅・全文
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今は亡き中郎ちゅうろう西平郡せいへいぐん出身の郭脩かくしゅうは、節操をみがき品行を高め、心の持ち方は正しかった。以前、しょくの大将・姜維きょうい郭脩かくしゅうの郡に侵入し略奪を働いた時、捕らえられて連れて行かれた。先年、にせ大将軍だいしょうぐん費禕ひいが多くの軍勢を駆り立てて秘かに隙を突こうとくわだて、途中、漢寿かんじゅに立ち寄り大勢の賓客ひんかくまねいて宴会をもよおした時、郭脩かくしゅうは満座の中でやいばを振りかざして費禕ひいを斬った。その勇敢さは聶政じょうせい*1に勝るものがあり、その功績は傳介子ふかいし*2凌駕りょうがしている。我が身を犠牲にして仁を成しげ、生命を捨てて信義を選び取った人物と言って良い。そもそも、死後に褒賞と恩寵おんちょうを加えるのは、忠義を称揚するためであり、幸いを子孫にまで及ぼすのは、将来の人に勧奨するためである。よって郭脩かくしゅう長楽郷侯ちょうらくきょうこうを追封し、領邑りょうゆう千戸を与え、威侯いこうおくりなする。子にその爵位を継がせ、奉車都尉ほうしゃといに任命し、銀千へい・絹千匹を下賜かしする。生者と死者に名誉と恩寵おんちょうさずけ、末永く後世に伝えるものである。

脚注

*1戦国せんごく時代のテロリスト、しょう侠累きょうるいを刺殺した。

*2かんの人。楼蘭王ろうらんおう安帰あんきを斬殺した。


裴松之はいしょうしはその注において、

「理由もなくもっともらしい態度でとんでもないところで無駄死にしたのだから、なんの信義も認められず、なんの功績を樹立したとも言えない。『もろやなぎえだを折ってはたけかきねにする』ようなもので、狂人とは彼のような者を言うのである」

酷評こくひょうしている。


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郭純かくじゅん

生没年不詳。漢葭県長かんかけんちょう武陵太守ぶりょうたいしゅ

永安えいあん6年(263年)、しょく併呑へいどんされたことを受け、では「荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐん五渓蛮ごけいばんの居住地がしょくと接していることから、そむいて反乱を起こすのではないか」と盛んに議論が行われ、その結果、鍾離牧しょうりぼく平魏将軍へいぎしょうぐんに任命し、武陵太守ぶりょうたいしゅを兼ねさせて武陵郡ぶりょうぐんに派遣した。

の方では、漢葭県長かんかけんちょう郭純かくじゅんを仮に武陵太守ぶりょうたいしゅの職につかせ、益州えきしゅう涪陵郡ふりょうぐんの住民たちをひきいて武陵郡ぶりょうぐん遷陵県せんりょうけん赤沙せきさに駐屯し、しょ蛮夷ばんい邑君ゆうくんたちを誘ったところ、蛮夷ばんいの中には叛旗はんきひるがえして郭純かくじゅんに応じる者も出てきた。

そこで郭純かくじゅんがさらに進んで酉陽県ゆうようけんに攻撃をかけると、武陵郡ぶりょうぐん全体が恐慌をきたした。


これに撫夷将軍ぶいしょうぐん高尚こうしょうらは「しょ蛮夷ばんいを教化・慰撫いぶすること」を主張したが、鍾離牧しょうりぼくは、

「外からの侵略が郡内に及び、民衆たちをたぶらかそうとしている時には、その根が深くならないうちに叩きつぶして抜き取らねばならない」

と言い、配下のわずか3千の兵をひきいて昼夜兼行で道を進め、山岳地帯の険阻けんそな場所をぬって2千里近い行軍を行うと、叛旗はんきひるがえした頭目とうもくたち百余人とその一味の者、合計千人余りの首を斬った。

その結果、郭純かくじゅんたちの勢力は四散し、五渓ごけいの地は鍾離牧しょうりぼくによって平定された。


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郭遵かくじゅん

生没年不詳。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん晋陽県しんようけんの人*3後漢ごかん八俊はっしゅん八雋はっしゅん*4の1人。

後漢ごかん順帝じゅんてい永和えいわ6年(141年)秋、大将軍だいしょうぐん梁商りょうしょうの病気が重くなると、梁商りょうしょうは「従事中郎じゅうじちゅうろう周挙しゅうきょ清廉せいれん高潔こうけつで忠正であり、重用すべきです」と順帝じゅんてい遺言ゆいごんした。

この頃、たびたび災異があったので、順帝じゅんてい梁商りょうしょう遺言ゆいごんを思い出し、周挙しゅうきょ顕親殿けんしんでんして災異のことをたずねた。

すると周挙しゅうきょは、朝廷に無能な寵臣ちょうしんが多いことをげ、「秘かに州郡に厳命して強勢の豪族やだい姦賊かんぞくを調べ、時をはからい捕らえ討伐すべきです」と言上した。


漢安かんあん元年(142年)8月、順帝じゅんていみことのりを下して、

  • 侍中じちゅう周挙しゅうきょ
  • 侍中じちゅう杜喬ときょう
  • 守光禄大夫しゅこうろくたいふ*5周栩しゅうく
  • 前の青州刺史せいしゅうしし馮羨ふうせん
  • 尚書しょうしょ欒巴らんは
  • 侍御史じぎょし張綱ちょうこう
  • 兗州刺史えんしゅうしし郭遵かくじゅん
  • 太尉長史たいいちょうし劉班りゅうはん

たち、普段から威名のある8人を守光禄大夫しゅこうろくたいふ*5に任命し、せつを持たせてそれぞれ各地に派遣し、貪欲とんよくな官吏と清廉せいれんな官吏を調べてまわらせた。

彼らは墨綬ぼくじゅ県令けんれい県長けんちょう)の位にある者に罪があれば、その場で逮捕することを許され、刺史しし二千石にせんせき太守たいしゅ)の場合には駅伝で上書し、県令けんれいより位が下の者はただちに捕らえて弾劾だんがいし、また一方で、清廉せいれん・忠義で民に利益を恵み、人々をやすんずるような表彰すべき者がいれば、みな状(報告書)をえて上奏した。

こうして8人の勅使ちょくしは同時に拝謁はいえつされ、天下の人々は彼らを号して「八俊はっしゅん八雋はっしゅん*4」と呼んだ。

脚注

*3百度百科によると、後漢郭遵残碑ごかんかくじゅんざんひに「郭君諱遵字□□太原晋陽人也」とあるようですが、後漢郭遵残碑ごかんかくじゅんざんひを直接確認できていません。

*4後漢書ごかんじょ周挙伝しゅうきょでんでは「八俊はっしゅん」、蜀書しょくしょ張翼伝ちょうよくでんが注に引く続漢書ぞくかんじょでは「八雋はっしゅん」。

*5しゅ」とは位階の低い官が高位の官職を代行することで、「こう」の反対言葉である。


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郭諶かくしん

生没年不詳。兗州えんしゅう東郡とうぐんの人。曹操そうそう配下の西曹掾せいそうえん

建安けんあん20年(215年)、曹操そうそう散関さんかんから雍州ようしゅう武都郡ぶとぐんに出て益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐん張魯ちょうろ征伐に向かい、陽平関ようへいかんに至った。

張魯ちょうろ五官掾ごかんえんを派遣して降伏を申し入れたが、弟の張衛ちょうえいは承知せず、数万人の軍勢をひきいて陽平関ようへいかんで守りを固めたので、曹操そうそう軍は前進することができなかった。

張魯ちょうろ巴中はちゅうに逃亡したものの、曹操そうそう軍は兵糧が尽きてしまい、曹操そうそうは帰還しようとした。

すると西曹掾せいそうえん郭諶かくしんは、

「いけません。張魯ちょうろはすでに降伏し、その使者を引きとどめていまだに帰しておりませんし、たとえ張衛ちょうえいが同調しないとしても、孤立しているので攻め落とすことができます。敵地深く軍を遠征させ、突き進みますれば、必ず勝利を得られましょう。撤退すれば、敗北をまぬかれませんぞ」

と言ったが、曹操そうそう躊躇ためらっていた。

夜、野生の鹿・数千頭が張衛ちょうえいの陣営を突き壊したので、張衛ちょうえい軍は大いに驚いた。

またその夜、曹操そうそう配下の高祚こうそらがあやまって張衛ちょうえいの軍勢と出くわした。高祚こうそらがさかんに軍鼓ぐんこを打ち鳴らして軍勢を呼び集めようとしたところ、張衛ちょうえいは大軍に急襲されたのだと思い込んで恐れおののき、ついに降伏した。


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