正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊺(郭凱かくがい郭隗かくかい郭懐かくかい郭昕かくきん郭憲かくけん郭貢かくこう)です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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か㊺

郭(かく)

郭凱かくがい

生没年不詳。司隷しれい左馮翊さひょうよくの人。かん代の名棋士めいきし

かんの時代、司隷しれい左馮翊さひょうよく出身の、

  • 山子道さんしどう
  • 王九真おうきゅうしん
  • 郭凱かくがい

らは囲碁が上手であったが、曹操そうそうは彼らに匹敵する能力を持っていたという。


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郭隗かくかい

生没年不詳。戦国せんごく時代、えん昭王しょうおうに仕えた賢士。

燕王噲えんおうかいの3年(紀元前318年)、燕王噲えんおうかい鹿毛寿ろくもうじゅの進言に従って宰相さいしょう子之ししに国をゆずったが、3年で国は大いに乱れた。民は恐れうらみ、えん将軍しょうぐん市被しひ太子たいしへいはかって子之ししを攻めようとした。

これを知ったせいの諸将は「内乱に乗じて攻めれば、必ずやえんを破ることができるでしょう」と言い、そこでせい湣王びんおう太子たいしへいの元に人をって味方することを伝えた。

これに力を得た太子たいしへい子之ししを攻めたが勝つことができず、戦いが数ヶ月に及ぶと士卒たちは恐れうらみ、民の心は離れた。

すると孟軻もうか孟子もうし)は斉王せいおう湣王びんおう)に「今、えんつのは文王ぶんおう武王ぶおうの時のごとき好機です。この機をのがすべきではありません」と進言した。

そこで斉王せいおう湣王びんおう)が章子しょうし匡章きょうしょう)に命じてえんたせると、疲弊ひへいしたえんの士卒は抵抗せず、燕王噲えんおうかいは討ち死にして子之ししは逃亡した。

その2年後、えんの国人は相談して太子たいしへいを立てた。これがえん昭王しょうおうである。


荒廃こうはいしたえん国のおう位にいた昭王しょうおうは、身を低くしてへりくだり、贈り物を十分にして賢者をまねこうと思い、郭隗かくかいという者に言った。

せいわしの国の内乱に乗じ、襲いかかってえんを破った。わしえんが小国で報復するには力不足であることを知っている。だがもし賢士を国にまねき、先王の恥をそそぐことができるのならば、それこそがわしの願いである。先生にはどうか適任者を探して欲しい。わしは身をもってその人に従おうと思う」

すると郭隗かくかいは、

おう昭王しょうおう)が賢士をまねきたいとおぼすなら、まずかい郭隗かくかい)よりお始めください。そうすれば、私以上の賢士が千里の彼方かなたからやって来るでしょう」

と言った。*1

そこで昭王しょうおうは、郭隗かくかいに師事し、彼のために宮殿を改築した。するとより楽毅がくきが、せいより鄒衍すうえんが、ちょうより劇辛げきしんが来るなど、郭隗かくかいが言った通り、士が先を争うようにえんにやって来た。


昭王しょうおう燕王噲えんおうかい孤児こじ慰問いもんし、民とかんを共にすること28年、えんの国はみ栄え、士卒たちの士気は旺盛おうせいとなった。

そこで昭王しょうおうは、楽毅がくき上将軍じょうしょうぐんに任命し、しん三晋さんしんちょうかん)とはかってせいつと、せい軍は敗れ、湣王びんおうは国外に逃亡した。

えん軍は敗走する軍を追ってせいの都・臨淄りんしに入ると、宝物を奪い取り、宮室・宗廟そうびょうを焼いて、きょ即墨そくぼくを除くせいの諸城を降伏させた。

脚注

*1この郭隗かくかいの進言は、「大事を成すためには手近なことから着手せよ」または転じて、「言い出した者から始めよ」という意味の「かいより始めよ」という故事成語の語源となった。


郭懐かくかい

生没年不詳。の第3代皇帝・曹芳そうほうに使えた役者。

曹芳そうほうは成人したにもかかわらず政治を行わず、学者をさげずみ遠ざけ学業をおろそかにし、毎日郭懐かくかい袁信えんしんといったつまらぬ役者どもを引き入れて女色におぼれていた。

その様子は、彼らに建始殿けんしでん芙蓉殿ふようでんの前で真っ裸になって女官たちとたわむれさせ、その様子を后妃こうひたちと見物して楽しみ、ある時は郭懐かくかい袁信えんしんに妖婦の格好をさせて度の過ぎた悪ふざけをさせ、広望観こうぼうかんの上から道行く人が目をおおう様子を楽しみ、またある時は、陵雲台りょううんだいすみとばりを張って親族の婦人をまねき入れ、郭懐かくかい袁信えんしんに酒をがせて酔いつぶし、乱交に及ぶような有り様であった。


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郭昕かくきん

生没年不詳。大司馬だいしば公孫淵こうそんえんの配下。大司馬だいしば長史ちょうし公孫淵こうそんえんに奉じた上書を作成した1人。

太和たいわ2年(228年)、公孫淵こうそんえん公孫恭こうそんきょうを脅迫してその位を奪い取ると、公孫淵こうそんえん明帝めいてい曹叡そうえい)から揚烈将軍ようれつしょうぐん遼東太守りょうとうたいしゅの位をさずけられたが、その一方で南方に使者をつかわして孫権そんけんよしみを通じ、贈り物のやり取りをしていた。

ところが、「孫権そんけんが遠方のため当てにできない」と思うようになった公孫淵こうそんえんは、孫権そんけんの使者・張弥ちょうび許晏きょあんを斬ってその首をに送り届け、その結果、明帝めいてい曹叡そうえい)は公孫淵こうそんえん大司馬だいしばに任命し、楽浪公らくろうこうに封じて、持節じせつと領郡はこれまで通りとした。


景初けいしょ元年(237年)、明帝めいてい曹叡そうえい)は幽州刺吏ゆうしゅうしし毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)らに璽書じしょを持たせて、公孫淵こうそんえんし寄せようとした。

公孫淵こうそんえんはこの変事が毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)の独断によるものではないことを知るや、備えを固めると共に、使者を派遣してびを入れ、みずか燕王えんおうを称して同盟国になりたいと申し出る一方、属官に上書させ、に対して自己の正当性を主張した。

上書の文頭には「大司馬だいしば長史ちょうしの臣・郭昕かくきん参軍さんぐんの臣・柳浦りゅうほら789人が申し上げます」とある。


公孫淵こうそんえんは結局、軍隊を出動して幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん遼隧県りょうすいけんで迎撃し、毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)らと交戦して撤退させた。

公孫淵こうそんえんはついに自立して燕王えんおうを名乗り、百官・有司ゆうし(役人)を置いた。使者に持節じせつを持たせて鮮卑せんぴ単于ぜんう玉璽ぎょくじを与え、辺境の民衆を支配させて、鮮卑せんぴ族に誘いをかけての北方を荒らし回らせた。


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郭憲かくけん幼簡ようかん

生没年不詳。雍州ようしゅう西平郡せいへいぐんの人。

雍州ようしゅう西平郡せいへいぐん右姓ゆうせい(名家)であった。

建安けんあん年間(196年〜220年)に郡の功曹こうそうをとなり、州が辟召したがかなかった。仁愛と誠実さによって郡全体から心を寄せられた。

建安けんあん17年(212年)、韓約かんやく韓遂かんすい)が軍勢を失って羌族きょうぞくの地域から帰還し、郭憲かくけんの元に身を寄せた。

多くの人々は韓約かんやく韓遂かんすい)をらえて手柄にしようと望んだが、郭憲かくけんは彼らをとがめ怒って、

「人が追いめられて私を頼って来たのだ。それをどうして危険におとしいれようとするのだ?」

と言い、韓約かんやく韓遂かんすい)を擁護し手厚く待遇した。

その後、韓約かんやく韓遂かんすい)が病死すると、田楽でんがく陽逵ようきらは韓約かんやく韓遂かんすい)の首を斬り取って曹操そうそうの元に送ろうとし、その功績者の名簿の中に郭憲かくけんの名前も加えようとしたが、郭憲かくけんは名簿の中に名前をせられることを承知せず、

「私は韓約かんやく韓遂かんすい)が生きている時でさえ手を下すことに耐えられなかったのだ。死人をつかまえて功績を求めることに耐えられようか」

と言ったので、陽逵ようきらは郭憲かくけんの名前を加えることを取りやめた。


当時[建安けんあん20年(215年)]、曹操そうそう漢中かんちゅうを攻撃している最中のため、涼州りょうしゅう武都郡ぶとぐんに駐屯していたので、陽逵ようきらはそこに韓約かんやく韓遂かんすい)の首を送り届けた。

曹操そうそうは以前から郭憲かくけんの名前を聞き知っていたが、列記者の中に郭憲かくけんの名前がないことを不思議に思い、陽逵ようきらにそのことをたずねた。

陽逵ようきらが事情を詳しく答えると、曹操そうそうは彼の節義に感服し、上奏の時に合わせて郭憲かくけんの名前を列記して、陽逵ようきらと共に関内侯かんだいこうの爵位をたまわった。このことから、郭憲かくけんの名声は隴右ろうゆうに響き渡った。

郭憲かくけん黄初こうしょ元年(220年)に病気で亡くなったが、正始せいし年間(240年〜249年)の初め、国家はさかのぼってその事柄をたたえ、再びその子に関内侯かんだいこうの爵位をたまわった。


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郭貢かくこう

生没年不詳。後漢ごかん末期の豫州刺史よしゅうしし

興平こうへい元年(194年)、曹操そうそうが2度目の陶謙とうけん征伐に出陣すると、張邈ちょうばく陳宮ちんきゅう曹操そうそうの根拠地である兗州えんしゅうげて謀叛むほんし、秘かに呂布りょふを迎え入れた。

張邈ちょうばくが、曹操そうそうから留守を一任された兗州えんしゅう済陰郡せいいんぐん鄄城県けんじょうけんを守る荀彧じゅんいくの元に劉翊りゅうよくを派遣して、

呂将軍りょしょうぐん呂布りょふ)が曹使君そうしくん曹操そうそう)の陶謙とうけん征伐の加勢に来られました。すみやかに兵糧を供給してください」

と通告すると、荀彧じゅんいくはこれを「張邈ちょうばく謀叛むほんしたのだ」とさとり、即刻兵を整えてそなえを固め、早馬を走らせて東郡太守とうぐんたいしゅ夏侯惇かこうとんし寄せた。

この時、曹操そうそうは全兵力をげて陶謙とうけん攻撃に向かっていたため兗州えんしゅうに残された兵は少なく、この間に督将とくしょう(隊長)や大吏たいり(上級官吏)の多くは張邈ちょうばく陳宮ちんきゅうの謀略に加担してしまった。

夏侯惇かこうとん鄄城県けんじょうけんに到着すると、その夜のうちに反乱を計画した者・数十人を処刑したので、ようやく人々は落ち着いた。


この頃、豫州刺史よしゅうしし郭貢かくこうが数万の兵をひきいて城下にやって来たが、「郭貢かくこう呂布りょふと共謀している」という者がおり、人々は恐れおののいた。

郭貢かくこう荀彧じゅんいくとの会見を申し入れて来たので、荀彧じゅんいくが出掛けようとすると、夏侯惇かこうとんらは、

「君(荀彧じゅんいく)は1州のちん(おさえ)です。行けば必ずや危険な目にうでしょう。行ってはなりません」

と言ったが、荀彧じゅんいくは、

郭貢かくこう張邈ちょうばくらは、立場上平素から結託していたはずはない。今、いち早くやって来たのは、はかりごとがまださだまっていないからに違いない。まだ決心しないうちに彼を説得すれば、たとえ味方としては役に立たなくとも、中立の立場を取らせることはできる。もし初めからうたがってかかったなら、彼は腹を立てて決心してしまうだろう」

と言って郭貢かくこうと会見した。

郭貢かくこう荀彧じゅんいくに恐れた様子がないのを見て、鄄城県けんじょうけんはまだ容易よういに攻めきれないと判断し、軍を引きげて立ち去った。


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