正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊹(郭彝かくい郭援かくえん郭恩かくおん)です。

スポンサーリンク

凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


スポンサーリンク


か㊹

郭(かく)

郭彝かくい

生年不詳〜嘉平かへい2年(250年)没。尚書しょうしょ

後漢ごかんの末期、豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん出身の胡昭こしょうあざな孔明こうめい)は、初め冀州きしゅう避難ひなんしたが、袁紹えんしょう召命しょうめいを辞退して郷里に逃げ帰った。

曹操そうそう司空しくう丞相じょうしょうとなると、しきりに厚礼をもって彼を招聘しょうへいしたが、胡昭こしょう召命しょうめいに応じて忠誠をささげた上で、丁重に官位にことを辞退した。

曹操そうそうはこれを認め、胡昭こしょう司隷しれい弘農郡こうのうぐん陸渾県りくこんけん陸渾山りくこんざんの山中に転居してみずから農耕に従事した。胡昭こしょうは自己の生き方を楽しんで経籍けいせきを読むことを喜びとし、村里(閭里りょり)の敬愛を集めた。


斉王せいおう曹芳そうほう)の正始せいし年間(240年〜249年)、

  • 驃騎将軍ひょうきしょうぐん趙儼ちょうげん
  • 尚書しょうしょ黄休こうきゅう
  • 尚書しょうしょ郭彝かくい
  • 散騎常侍さんきじょうじ荀顗じゅんぎ
  • 散騎常侍さんきじょうじ鍾毓しょういく
  • 太僕たいぼく庾嶷ゆぎ
  • 弘農太守こうのうたいしゅ何楨かてい

らはわるわる胡昭こしょうを推薦した。

嘉平かへい2年(250年)になって、胡昭こしょうを公用車で特別にし出したが、ちょうど亡くなったところだった。


郭彝かくい」の関連記事

郭援かくえん

生年不詳〜建安けんあん7年(202年)没。袁尚えんしょうが勝手に任命した河東太守かとうたいしゅ鍾繇しょうようおいにあたる。

建安けんあん7年(202年)に袁紹えんしょうが病死すると、曹操そうそう黄河こうがを渡って袁紹えんしょうの子・袁譚えんたん袁尚えんしょうを攻撃した。

袁尚えんしょう冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんにおいて曹操そうそうに抵抗すると共に、匈奴きょうど南単于みなみぜんう呼廚泉こちゅうせん司隷しれい河東郡かとうぐん平陽国へいようこくで反乱を起こさせ、彼が勝手に任命した河東太守かとうたいしゅ郭援かくえん幷州刺史へいしゅうしし高幹こうかん司隷しれい河東郡かとうぐんに侵攻させた。

この時、その通り道に当たる城やまちはすべて降伏したが、絳邑県長こうゆうけんちょう代行の賈逵かきだけは降伏せずに城を固守していたので、郭援かくえん呼廚泉こちゅうせんを呼び、両軍を合わせて激しく攻撃を加えた。

これに絳邑県こうゆうけんの長老たちは、郭援かくえんに「賈逵かきを殺害しない」という約束を取りつけて降伏したが、賈逵かきはそれより前に、間道づたいに人をって河東太守かとうたいしゅ王邑おうゆう印綬いんじゅを送り、「急いで(河東郡かとうぐんかなめである)皮氏県ひしけんを占拠せよ」と伝えた。

賈逵かきの名声を聞いた郭援かくえんは「彼を将軍しょうぐんにしたい」と思い、武器を突きつけて脅迫したが、賈逵かきは一切動じなかった。

その後、郭援かくえん絳邑県こうゆうけんの軍勢を合わせてさらに兵を進めようとすると、賈逵かきは「郭援かくえん皮氏県ひしけんを占拠すること」を恐れて一計を案じ、郭援かくえん謀士ぼうし祝奥しゅくおうを迷わせて郭援かくえんの軍勢を7日間引き止めたので、郡(河東郡かとうぐん)は皮氏県ひしけんを確保することができ、敗北せずに済んだ。


一方、司隷校尉しれいこうい鍾繇しょうようは諸軍をひきいて平陽国へいようこく呼廚泉こちゅうせんを包囲していたが、高幹こうかん郭援かくえんの軍勢の勢いが盛んであったため、関中かんちゅう将軍しょうぐんたちは評議して「包囲をいて引きげたい」と願った。

これに鍾繇しょうようは、

関中かんちゅうが我らにそむかずにいるのは、我が方の威名を恐れているからだ。もしここで引きげて彼らに弱味を見せたならば、民衆はみな仇敵きゅうてきに一変し、国にたどり着くことはできないだろう。正に戦わずしてみずから敗れることになる」

と言い、涼州りょうしゅう将軍しょうぐん馬騰ばとう新豊令しんぽうれい張既ちょうきを派遣して曹操そうそう鍾繇しょうよう)に味方するように説得した。

この時、涼州りょうしゅう馬騰ばとう韓遂かんすいらは秘かに郭援かくえんらと通じていたが、配下の傅幹ふかん馬騰ばとうに利害をいて曹操そうそう鍾繇しょうよう)に味方するように説得したので、馬騰ばとうは子の馬超ばちょうに1万人余りの精鋭と韓遂かんすいらの兵を指揮させて鍾繇しょうようの元に派遣し、高幹こうかん郭援かくえんの軍を迎え撃たせた。

鍾繇しょうようが陣営を築くと、郭援かくえんは多くの人が止めるのも聞かず、軽率に汾水ふんすいを渡った。これを待っていた鍾繇しょうようは、郭援かくえんの軍が半分も渡りきらないうちに、馬超ばちょう軍と共に攻撃をしかけて大いに撃ち破り、呼廚泉こちゅうせんを降伏させた。

この時、馬超ばちょう軍の先鋒・龐悳ほうとく龐徳ほうとく)が郭援かくえんの首を斬ったが、それが郭援かくえんだとは知らなかった。

その後、みなが「郭援かくえんは死んでいるはずなのに、その首が手に入らない」と騒いでいたので、龐悳ほうとく龐徳ほうとく)が遅れてこう弓袋ゆぶくろ)の中から1つの首を取り出すと、鍾繇しょうようはそれを見て声を上げて泣いた。

龐悳ほうとく龐徳ほうとく)が鍾繇しょうように謝罪すると、鍾繇しょうようは「郭援かくえんわしおいではあるが、国賊こくぞくである。おんみはどうしてそれを謝るのだ」と言った。


郭援かくえん」の関連記事

郭恩かくおん義博ぎはく

生没年不詳。利漕りそう利漕県りそうけん?)の住民。管輅かんろ周易しゅうえきと「天文占い」の師。

才能と学問があり、周易しゅうえき春秋しゅんじゅうに通じ、天文占いにもたくみであった。

管輅かんろ郭恩かくおんについて周易しゅうえきを学んだが、数十日もつと、もう心にさとるところがあって、議論をすれば師の郭恩かくおんしのぎ、郭恩かくおんから天文占いを学ぶと30日間夜通し寝ることがなかった。

管輅かんろが学んで1年もたないうちに、郭恩かくおんの方から周易しゅうえきや天文のかなめについてたずねるようになり、ある時、郭恩かくおんは宴席をもうけて管輅かんろ 1人だけをまねき、

「私の兄弟3人はみな『足え(躄疾へきしつ)』のやまいにかかっているが、原因が分からない。こころみに私の為にを立てて、その原因を知らせてくださらぬか。『もし鬼神(殃者ようじゃ)のとがめを受けているのなら、天道は人をゆるす』と言う。どうかあなたの才能を出ししみされず、私の為に神々に福を祈って欲しい」

と、自分の悩みを打ち明けた。そこで管輅かんろ筮竹ぜいちくを得たが、その意味が分からなかった。

ちょうど日も暮れたのでそのまま泊まることとなったが、真夜中になって管輅かんろ郭恩かくおんに言った。

筮竹ぜいちくで得たには、あなた方の家の墓が出ています。墓の中には女の亡者もうじゃ(女鬼)がいて、あなたの伯母おば叔母おばに違いありません。昔、飢饉ききんがあった時に、彼女が持っていた数しょうの米に目をつけた者がいて、井戸の中に突き落とし、さらに大きな石を落として頭を割ってとどめを刺しました。その祭られない魂がうらみ悲しんで、みずから天に訴えたのです」

郭恩かくおんが悲しみの涙で衣服を濡らし、

かん王朝の末年に、実際にそのようなことがありました。あなたはえてその犯人の名前を言われなかったが、私がその名前を語らないのは礼を守るためなのです。兄弟たちは『足え(躄疾へきしつ)』になってから30年以上にもなり、脚は棘子いばらのようになっています。もう治すことはできないでしょうから、ひたすらこのわざわいが子孫に及ばないようにと祈ります」

と言うと、管輅かんろは、

「火によって形づくられたものは完全には消え去ることはありませんが、水によって形づくられたものは後に残ることはありませんので、 子孫に災いが及ぶことはないでしょう」

と言った。


また、管輅かんろ郭恩かくおんの家に行った時のこと。はとが飛んできてはりの上でひどく悲しげに鳴いた。

これを見た管輅かんろは、

「きっと東方から、豚1頭と酒一つぼたずさえて、老人がやって来ます。あなたは客人を迎えて喜ばれますが、ちょっとした事故があるでしょう」

と言った。

次の日、管輅かんろが占ったとおりの客人がやって来たので、郭恩かくおんは客人に、酒をひかえ、肉を食べず、また火に気をつけるように言って、管輅かんろが予言した事故をけようとした。

ところが、とりを弓でて料理を作ろうとした時、が樹々の間を抜けて、数歳の女の子の手に激しく当たり、血が流れて驚きおそれた。*1


郭恩かくおん管輅かんろから鳥の鳴き声による占いを習っていた時のこと。

管輅かんろは、

「あなたはこうした道を好んではおられますが、天から与えられた才が少ない上に、音律も理解されておりません。恐れながら、私があなたの師となることは難しいでしょう」

と言い、8つの方向の風の変化や5つの音階が持つ意味をき、音律(律呂)によって鳥たちの声の高さをさだめ、六甲ろっこう*2を時間や日数を数えるための基本とすることをべて、繰り返し様々な方向から説明を加えた。

郭恩かくおんは数日間、静かにじっと深く考えをめぐらせていたが、結局何も得るところがなく、

「才能が突出している者でもない限り、こうしたことを探求することは難しい」

と言って、ついに(占いを)めてしまった。

脚注

*1郭恩かくおんは客人に肉を食べないように言っておきながら、とりろうとしている。客人が持ってきた酒と豚をけようとしたのか?

*2じっかん十二じゅうにを組み合わせてできる干支えとひとめぐり(六十干支ろくじっかんし)のうち、こうがつくもの6つ(甲子こうし甲戌こうじゅつ甲申こうしん甲午こうご甲辰こうしん甲寅こういん)を取り出したもの。これに特別な意味を与えて占いなどに使っていた。


郭恩かくおん」の関連記事


スポンサーリンク


【三国志人物伝】総索引