正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊸金城郡郭氏(郭智・郭沖)です。
スポンサーリンク
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
潁川郡郭氏③系図
金城郡郭氏系図
この記事では金城郡郭氏の人物、
についてまとめています。
スポンサーリンク
か㊸(金城郭氏)
第1世代(郭智)
郭智・君謀
生没年不詳。涼州・金城郡の人。子に郭沖。
東安太守*1であった。
司隷校尉の杜畿や太僕の李恢*2と親交があった。
脚注
*1青州・東安郡の太守。『魏書』武帝紀に「建安4年(199年)秋8月、公(曹操)は冀州・魏郡・黎陽県に軍を進め、臧覇らを青州に進入させて斉・北海・東安を撃ち破り、于禁を黄河の河岸に駐屯させた」とある。
*2蜀の李恢とは別人。『魏略』には「李義」とあり、裴松之は「義はおそらく恢の別名であろう」と言っている。
「郭智」の関連記事
第2世代(郭沖)
郭沖
生没年不詳。涼州・金城郡の人。父は郭智。
父の郭智は、司隷校尉の杜畿や太僕の李恢*2と親交があった。
李恢*2の子の李豊は優れた人物と交際を結び、その才知によって天下に名が知れていたが、郭智の子の郭沖は、内面は優れていたが、外見が良くなかったので郷里で称揚されなかった。
杜畿が尚書僕射となると、李豊と郭沖はそれぞれ「子孫の礼」をとって杜畿に会見したが、2人が退出した後、杜畿は嘆息して、
「孝懿(李恢の字)には子がない。子がないだけでなく、おそらく家もなくなるだろう。君謀(郭智の字)は死なないのと同じことだ。その子が彼の仕事を充分受け継ぐだろう」
と言ったが、当時の人はみな「杜畿の判断は間違っている」と思った。
ところが、李恢*2の死後、李豊は中書令となったが父子兄弟みな死刑に処せられ、郭沖は幽州・代郡の太守となり、父が亡くなるとその仕事を引き継いだので、ようやく世の人々は杜畿の人を観る眼に感服した。
晋の初め、扶風王・司馬駿(司馬懿の第6子)が関中の抑えとして赴任していた時、司馬の劉宝、長史の桓隰ら諸官属の士大夫たちが、蜀の諸葛亮について議論した。
その時発言した者の多くは、諸葛亮が、
- 正当な君主に身を寄せなかったこと
- 蜀の人々を疲弊させたこと
- 力量が少ないのに計画が大きかったこと
- 自分の徳や力量を測らなかったこと
を非難したが、郭沖は、
「諸葛亮の状況に応じた智略は管仲・晏嬰(共に春秋時代の斉の名相)に勝っているが、功業が成就しなかったために論者の判断が狂うのだ」
と考え、諸葛亮の事跡の中から、表にあらわれず世間に知られていない事柄として、次の5ヶ条を述べた。
- 劉備が益州の劉璋を降伏させた後のこと。「高祖(劉邦)に倣って刑罰や禁制を緩め、民心を慰撫する」ことを願う法正に対し、「政治が苛酷であった秦と違い、刑罰が厳格に行われていないことが弊害を引き起こしている」として、法律を厳格に実施することによって蜀の人士の規律を取り戻した。
- 曹操が送り込んだ刺客が劉備と面会した時のこと。諸葛亮が姿を現すと刺客は廁(トイレ)に立った。諸葛亮はその者の態度がおかしいことに気づき、「曹操の刺客」であることを見抜いたが、刺客は逃げ去った後だった。
- 諸葛亮が陽平県に駐屯していた時のこと。魏延ら諸軍を東方に下らせ、1万の兵だけを残して城を守っていた。この時、司馬懿が20万の軍勢を率いて城から60里(約25.8km)の地点に至ったが、すでに魏延らも遠く離れており打つ手がなかった。そこで諸葛亮は一計を案じ、四方の城門を開け放って見せたところ、司馬懿は伏兵があることを疑って撤退した。
- 諸葛亮が祁山より出撃して隴西・南安を降伏させ、天水を包囲し、冀城を攻め落とし、姜維を虜にし、男女数千人を駆り立てて蜀に帰還した。人々はこぞって祝賀を述べたが、諸葛亮は悲しげな表情で「これしきのことで祝われては却って恥ずかしく思うだけです」と陳謝した。
- 魏の明帝(曹叡)が自ら蜀を討伐しようと雍州・涼州の屈強な兵士30余万を率いて剣閣に向かった時のこと。この時諸葛亮は祁山にいて、8万の守備兵の2/10ずつを休養のため交代で下山させていたが、魏軍が陣を構えた時、ちょうど交代の時期にあたっていた。属官たちはみな「下山させるのを1ヶ月間延期するべきです」と主張したが、諸葛亮は予定通り下山させるように命じた。帰還する者は感激して「諸葛公(諸葛亮)の恩愛は死んでも報いきれない」と言って留まり、張郃を殺し司馬懿を退けて、1度の戦いで大勝を博した。
劉宝らはそれ以上批判できず、扶風王・司馬駿(司馬懿の第6子)は感動して郭沖の言葉を是とした。
※『蜀書』諸葛亮伝の注において裴松之は、この郭沖の5ヶ条について、1つ1つ理由を挙げて否定している。
脚注
*2蜀の李恢とは別人。『魏略』では「李義」とあり、裴松之は「義はおそらく恢の別名であろう」と言っている。
「郭沖」の関連記事
スポンサーリンク