正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊷西平郡郭氏[郭満・杜氏・郭立・郭芝・郭皇后(明元郭皇后)・郭悳(郭徳)・郭建・郭嘏]です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
西平郡郭氏系図
西平郡郭氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
この記事では西平郡郭氏の人物、
についてまとめています。
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か㊷(西平郭氏)
第1世代(郭満・杜氏・郭立・郭芝)
郭満
生没年不詳。涼州(雍州)・西平郡の人。娘は郭皇后(明元郭皇后)。
代々河右(河西)の豪族(大族)であった。
斉王(曹芳)が即位し、娘の郭皇后が皇太后となると、すでに亡くなっていた郭満は西都定侯を追贈された。
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杜氏
生没年不詳。夫は郭満。娘は郭皇后(明元郭皇后)。
代々河右(河西)の豪族(大族)であった。
斉王(曹芳)が即位し、娘の郭皇后が皇太后となると、郃陽君に封ぜられた。
郭立
生没年不詳。涼州(雍州)・西平郡の人。子に郭建。郭皇后(明元郭皇后)の叔父にあたる。
明帝(曹叡)が即位し、姪の郭氏(郭皇后)がその夫人となると騎都尉に任命された。
斉王(曹芳)が即位して郭皇后が皇太后となると、宣徳将軍となり列侯に封ぜられた。
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郭芝
生没年不詳。涼州(雍州)・西平郡の人。郭皇后(明元郭皇后)の従父*1にあたる。
明帝(曹叡)が即位し、姪の郭氏(郭皇后)がその夫人となると虎賁中郎将に任命され、斉王(曹芳)が即位して郭皇后が皇太后となると、散騎常侍・長水校尉に昇進した。
この時、西平郡・郭氏の一族はみな列侯に封ぜられたが、一族のうち郭芝が最も壮直(勇敢で率直)で、これ以前に自らの功績により侯に封ぜられていた。
魏の嘉平6年(254年)、郭芝は司馬師の意を受けて斉王(曹芳)に廃位することを伝え、郭太后を説得した。
司馬師のクーデターに賛同する者たちの上奏文の中に「関内侯臣郭芝」の名前がある。
脚注
*1従父は祖父の兄弟の息子。
参考記事
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第2世代[郭皇后・郭悳(郭徳)・郭建]
郭皇后(明元郭皇后)
生年不詳〜魏の景元4年(263年)12月没。涼州(雍州)・西平郡の人。父は郭満。
代々河右(河西)の豪族(大族)であった。
魏の黄初年間(220年〜226年)、雍州・西平郡で反乱が起こったため、身分を剥奪されて後宮に入れられた。
明帝(曹叡)が即位すると非常に寵愛されて夫人となり、明帝(曹叡)が危篤に陥った際についに皇后に立てられた。
斉王(曹芳)が即位すると、斉王(曹芳)は郭皇后を尊重して皇太后とし、永寧宮と呼んだ。
時に3人の皇帝*2が幼少であったため、補佐の大臣が政治を行ったが、国家の大事についてはすべてまず郭太后にお伺いを立ててから施行し、毌丘倹(毋丘倹)や鍾会らが反乱を起こした時も、みな郭太后の命令に仮託(かこつけること)して理由づけが行われた。
魏の景元4年(263年)12月に亡くなり、景元5年(264年)2月に高平陵[明帝(曹叡)の陵墓]の西に埋葬された。
脚注
*2斉王(曹芳)・高貴郷公(曹髦)・元帝(曹奐)の3人の皇帝。
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郭悳(郭徳)・彦孫 / 甄悳(甄徳)
生没年不詳。涼州(雍州)・西平郡の人。父は郭立。弟は郭建。
甄氏[明帝(曹叡)の母]の従孫・甄黄の後継ぎとして甄氏の姓を継ぎ、平原侯に封ぜられて、平原懿公主[明帝(曹叡)の娘・淑]の爵位を継いだ。
陳羣と楊阜は、この「他家の後を継ぎ、手柄も血縁関係もないのに義母の爵位を継ぐ」という典則に背く行為」に抗議し、事例を引いてその非を説いたが、覆すことはできなかった。
甄悳(甄徳)と弟の郭建は共に鎮護将軍となり、みな列侯に取り立てられて宿衛の任にあたった。
司馬師が政治を補佐するようになると、甄悳(甄徳)の元に娘を嫁がせたが、その娘が若死にすると、今度は司馬昭が自分の娘を後妻とした。これが京兆長公主である。
司馬師と司馬昭は、郭皇后と結びつくことを願い、そのために何度も婚姻を行ったのである。
甄悳(甄徳)には才能も学問もなかったが、素直で慎み深く謙虚であった。
魏の嘉平6年(254年)の司馬師のクーデターに賛同する者たちの上奏文の中に「平原侯臣郭悳(郭徳)」の名前がある。
魏の咸熙初年(264年)に広安県公に封ぜられて封邑1,800戸を与えられ、晋の泰始元年(265年)に晋が禅譲を受けると、特進の位を加えられた。
備考
『魏書』文昭甄皇后伝が注に引く『晋諸公賛』には、
「甄温は字を仲舒と言い、郭建・甄悳(甄徳)らと共にみな郭皇后の一族であったが、(以下略)」
とあるが、『魏書』文昭甄皇后伝が注に引く『魏書』には、
「甄氏[明帝(曹叡)の母]の父・甄逸の嫡孫である甄像の子」
とある。
当サイトでは、中山郡甄氏として扱う。
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郭建・叔始
生没年不詳。涼州(雍州)・西平郡の人。父は郭立。子は郭嘏。兄に郭悳(郭徳)。
器量があり博学であった。*3
郭皇后が皇太后となると父・郭立の爵位を継いだ。郭建と兄の甄悳(甄徳)は共に鎮護将軍となり、みな列侯に取り立てられて宿衛の任にあたった。
魏の嘉平6年(254年)の司馬師のクーデターに賛同する者たちの上奏文の中に「臨晋侯臣郭建」の名前がある。
魏の咸熙初年(264年)に臨渭県公に封ぜられて封邑1,800戸を与えられた。
晋の泰始元年(265年)に晋が禅譲を受けると、特進の位を加えられたが、晋の泰始年間(265年〜274年)に病気で亡くなった。
脚注
*3原文:有器局而強問。ちくま学芸文庫『正史三国志』を参考に「強問」を「強聞」として訳した。
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