正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊵太原郡(たいげんぐん)郭氏(かくし)(郭全(かくぜん)・郭縕(かくうん)・郭淮(かくわい)・郭配(かくはい)・郭鎮(かくちん)・郭統(かくとう)・郭展(かくてん)・郭豫(かくよ)・郭槐(かくかい)・郭彰(かくしょう)・郭奕(かくえき)・郭正(かくせい))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

太原郡郭氏系図

太原郡郭氏系図

太原郡(たいげんぐん)郭氏(かくし)系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
郭豫(かくよ)以下の兄弟の順は不明。
★は裴秀(はいしゅう)の妻。
★は王衍(おうえん)の妻。


この記事では潁川郡(えいせんぐん)郭氏(かくし)の人物、

についてまとめています。

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か㊵(太原郭氏)

第1世代(郭全)

郭全(かくぜん)

生没年不詳。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。子は郭縕(かくうん)。孫に郭淮(かくわい)、郭配(かくはい)、郭鎮(かくちん)。

大司農(だいしのう)となった。


第2世代(郭縕)

郭縕(かくうん)

生没年不詳。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。父は郭全(かくぜん)。子に郭淮(かくわい)、郭配(かくはい)、郭鎮(かくちん)。

雁門太守(がんもんたいしゅ)*1であった。

脚注

*1幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・雁門郡(がんもんぐん)(鴈門郡(がんもんぐん))の太守(たいしゅ)。


第3世代(郭淮・郭配・郭鎮)

郭淮(かくわい)・伯済(はくせい)

生年不詳〜魏(ぎ)の正元(せいげん)2年(255年)没。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。父は郭縕(かくうん)。弟に郭配(かくはい)、郭鎮(かくちん)。子に郭統(かくとう)。妻は王淩(おうりょう)の妹。

曹操

建安(けんあん)年間(196年〜220年)に孝廉(こうれん)に推挙されて、平原府(へいげんふ)の丞(じょう)*2に任命された。

建安(けんあん)16年(211年)、文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))が五官将(ごかんしょう)(五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう))となると、召(め)されて門下賊曹(もんかぞくそう)に任命されたが、丞相兵曹議令史(じょうしょうへいそうぎれいし)に転任して漢中(かんちゅう)征討に従軍した。

曹操(そうそう)は帰還する時、征西将軍(せいせいしょうぐん)・夏侯淵(かこうえん)を漢中(かんちゅう)に留(とど)めて劉備(りゅうび)を防がせたが、その時郭淮(かくわい)を夏侯淵(かこうえん)の司馬(しば)とした。


建安(けんあん)24年(219年)正月、劉備(りゅうび)が夏侯淵(かこうえん)の陣営に攻め寄せ、夏侯淵(かこうえん)が戦死して諸陣営は大混乱に陥(おちい)った。この時、郭淮(かくわい)は病気で出陣していなかったが、逃げ散った兵たちを集め、盪寇将軍(とうこうしょうぐん)・張郃(ちょうこう)を大将(軍主)に推(お)し立てたので、諸陣営はやっと落ち着いた。

次の日、劉備(りゅうび)が攻め寄せて来ると、諸将は「衆(しゅう)寡(か)敵(てき)せず」と「漢水(かんすい)に沿(そ)って陣営を作り、敵を防ぐ」ように主張したが、郭淮(かくわい)は「漢水(かんすい)から離れて陣営を築(きず)き、敵が半(なか)ばまで渡ったところを攻撃する方が良いでしょう」と言った。その結果、劉備(りゅうび)はためらって渡って来なかった。

この事を聞いた曹操(そうそう)は、張郃(ちょうこう)に節(せつ)を与え、再び郭淮(かくわい)を張郃(ちょうこう)の司馬(しば)とした。

文帝(曹丕)

曹丕(そうひ)が王位に即(つ)くと、郭淮(かくわい)は関内侯(かんだいこう)の爵位を賜(たまわ)り、鎮西長史(ちんぜいちょうし)に転任した。また征羌護軍(せいきょうごぐん)を兼務して左将軍(さしょうぐん)・張郃(ちょうこう)と冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)・楊秋(ようしゅう)を監督し、山賊の鄭甘(ていかん)や盧水(ろすい)の反乱蛮族(叛(はん)胡(こ))を討伐してすべて撃ち破り平定した。これにより関中(かんちゅう)は初めて平定され、住民は安心して仕事に従事できるようになった。


魏(ぎ)の黄初(こうしょ)元年(220年)、郭淮(かくわい)は「文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))が帝位に即(つ)いたことを奉賀(ほうが)する使者」として都にのぼることになったが、途中で病気にかかったため祝賀(しゅくが)の宴(うたげ)に遅れてしまった。

文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は厳しい態度で彼を責めたが、郭淮(かくわい)の弁解の言葉を気に入り、雍州刺史(ようしゅうしし)の代行に抜擢(ばってき)して射陽亭侯(しゃようていこう)に封じ、5年して真の刺史(しし)とした。

郭淮(かくわい)は安定郡(あんていぐん)の羌族(きょうぞく)の大帥(たいすい)・辟蹏(へきてい)の反乱を討伐して撃ち破り、これを降伏させた。羌族(きょうぞく)が来降するたびに、郭淮(かくわい)はいつもまず人を遣(や)ってその親類関係、男女の多少、年の長幼を調べさせておいた。会見の際には、1つ2つのことからその心情を察(さっ)し、質問は行き届いていたので、みなその神の如(ごと)き明瞭(めいりょう)振りを称賛した。

明帝(曹叡)

魏(ぎ)の太和(たいわ)2年(228年)、蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)・諸葛亮(しょかつりょう)が祁山(きざん)に出陣して将軍(しょうぐん)の馬謖(ばしょく)を街亭(がいてい)に派遣し、高詳(こうしょう)を列柳城(れつりゅうじょう)に駐屯させると、張郃(ちょうこう)は馬謖(ばしょく)を攻撃し、郭淮(かくわい)は高詳(こうしょう)の陣営を攻撃していずれも撃ち破った。

また、隴西(ろうせい)の羌族(きょうぞく)の名家・唐蹏(とうてい)を枹罕(ほうかん)で撃ち破り、建威将軍(けんいしょうぐん)を加えられた。


太和(たいわ)5年(231年)、蜀(しょく)が鹵城(ろじょう)に出陣した。

この時、隴右(ろうゆう)地方には穀物(こくもつ)がなく、関中(かんちゅう)から大量に輸送することを論議していたが、郭淮(かくわい)は威光と恩愛をもって羌族(きょうぞく)を手懐(てなず)け、家ごとに穀物(こくもつ)を出させて公平に輸送の労役を割り当てたので、兵糧は充足した。揚武将軍(ようぶしょうぐん)に転じた。


魏(ぎ)の青龍(せいりゅう)2年(234年)、諸葛亮(しょかつりょう)は斜谷(やこく)に出陣し、蘭坑(らんこう)で田畑を耕作した。

この時、司馬懿(しばい)は渭南(いなん)に駐屯していたが、郭淮(かくわい)は諸葛亮(しょかつりょう)が北原(ほくげん)を争うに違いないと判断し、「先に北原(ほくげん)を占領するべきだ」と主張した。

論者の多くは賛成しなかったが、郭淮(かくわい)が「もし諸葛亮(しょかつりょう)が渭水(いすい)に跨(また)がって高原に登り、兵を北山(ほくざん)に連(つら)ねて隴(ろう)への街道を絶ち切り、民衆や蛮族たちを揺(ゆ)り動かすならば、それこそ国家の利益ではございません」と言うと、司馬懿(しばい)は彼の説に賛同し、郭淮(かくわい)を北原(ほくげん)に駐屯させた。

北原(ほくげん)に到着すると、塹壕(ざんごう)や塁壁(るいへき)がまだ完成しないうちに蜀兵(しょくへい)が多数来襲したが、郭淮(かくわい)はそれを迎撃した。

数日後、諸葛亮(しょかつりょう)は兵力を誇示(こじ)して西に移動した。諸将はみな「諸葛亮(しょかつりょう)は西の陣営(西(せい)囲(い))を攻撃するつもりなのだ」と言ったが、郭淮(かくわい)は「この動きは陽動(ようどう)で、陽遂(ようすい)を攻撃するに違いない」と言った。

その夜、諸葛亮(しょかつりょう)は陽遂(ようすい)を攻撃してきたが、備(そな)えがあったため近づくことができなかった。

厲公(曹芳)

魏(ぎ)の正始(せいし)元年(240年)、蜀将(しょくしょう)の姜維(きょうい)が隴西(ろうせい)に侵攻して来たが、郭淮(かくわい)は軍を進めて彊中(きょうちゅう)まで追撃し、姜維(きょうい)は退却した。郭淮(かくわい)はそのまま羌族(きょうぞく)の迷当(めいとう)らを討伐し、従順な氐族(ていぞく)3千余部落を鎮撫(ちんぶ)し強制移住させて関中(かんちゅう)を充実させた。左将軍(さしょうぐん)に昇進した。

涼州(りょうしゅう)の休屠胡(きゅうとこ)・梁元碧(りょうげんへき)らが2千余家の部落を率(ひき)いて雍州(ようしゅう)に帰順した。郭淮(かくわい)は上奏して彼らを安定郡(あんていぐん)の高平県(こうへいけん)に住まわせ、西川都尉(せいせんとい)(西州都尉(せいしゅうとい))を設置した。前将軍(ぜんしょうぐん)に転任したが、元通り州を宰領した。


正始(せいし)5年(244年)、夏侯玄(かこうげん)が蜀(しょく)を討伐した時、郭淮(かくわい)は諸軍を指揮して先鋒となった。この時、郭淮(かくわい)が形勢不利と判断してすぐさま軍を敵地から抜け出させたため、大敗せずに済んだ。帰還すると、郭淮(かくわい)に節(せつ)が与えられた。

正始(せいし)8年(247年)、隴西(ろうせい)・南安(なんあん)・金城(きんじょう)・西平(せいへい)の諸羌族(きょうぞく)・餓何(がか)、焼戈(しょうか)、伐同(ばつどう)、蛾遮塞(がしゃさい)らが結託して反乱を起こし、城邑(じょうゆう)を攻撃・包囲して南方から蜀兵(しょくへい)を招(まね)くと、涼州(りょうしゅう)の蛮族の名家・治無戴(ちぶたい)もまた反乱を起こしてこれに呼応した。

討蜀護軍(とうしょくごぐん)の夏侯覇(かこうは)は、諸軍を指揮して為翅(いし)に駐屯した。郭淮(かくわい)の軍が狄道(てきどう)に到着した時、論者はみな「先に枹罕(ほうかん)を討って平定し、内は暴悪な羌族(きょうぞく)を平らげ、外は賊(ぞく)の計画を打ち砕(くだ)くべきだ」と主張したが、郭淮(かくわい)は「姜維(きょうい)は必ず夏侯覇(かこうは)を攻撃する」と判断し、そのまま渢中(ふうちゅう)に入り、南に転じて夏侯覇(かこうは)を迎えた。郭淮(かくわい)の読み通り、姜維(きょうい)は為翅(いし)を攻撃したが、ちょうど郭淮(かくわい)の軍が到着したので逃走した。進撃して反乱した羌族(きょうぞく)を討伐し、餓何(がか)と焼戈(しょうか)を斬ると、1万余の部落が降伏した。


正始(せいし)9年(248年)、蛾遮塞(がしゃさい)らが河関(かかん)・白土(はくど)の古城に駐屯し、河に拠(よ)って抵抗すると、郭淮(かくわい)は上流地域で行動すると見せかけて秘(ひそ)かに下流から兵を渡し、白土城(はくどじょう)を攻撃して大いにこれを撃ち破った。

この時、治無戴(ちぶたい)は武威(ぶい)を包囲したが、その家族は西海(せいかい)に留(とど)まっていた。郭淮(かくわい)は軍を進めて西海(せいかい)に赴(おもむ)き、襲撃して妻子を奪取しようとしたが、たまたま治無戴(ちぶたい)が敗れて帰って来たので、龍夷(りゅうい)の北で戦って敗走させた。また、令居(れいきょ)の暴悪な蛮人(ばんじん)が石頭山(せきとうざん)の西に居(きょ)を構え、街道を遮(さえぎ)って魏(ぎ)の使者(王使)の往来を妨害していたので、郭淮(かくわい)は帰還の途中に立ち寄ってこれを討伐し、大いに撃ち破った。

その後、蜀将(しょくしょう)の姜維(きょうい)が石営(せきえい)に出陣し、彊川(きょうせん)を通って西に向かい治無戴(ちぶたい)を出迎えると、陰平太守(いんぺいたいしゅ)の廖化(りょうか)を成重山(せいちょうざん)に留(とど)めて城を築(きず)かせ、敗れた羌族(きょうぞく)から確保していた人質を収容した。

郭淮(かくわい)が兵を分けて廖化(りょうか)を攻めようとすると、諸将は兵力を分散することに反対したが、郭淮(かくわい)は「姜維(きょうい)が駆けつける頃までには廖化(りょうか)を平定できる。姜維(きょうい)の軍を疲れさせることができ、蛮賊(ばんぞく)との連合も自然と離れるであろう」と言い、別に夏侯覇(かこうは)らを派遣して沓中(とうちゅう)に姜維(きょうい)を追わせ、自身は諸軍を率(ひき)いて廖化(りょうか)を攻撃した。

結果、姜維(きょうい)は廖化(りょうか)の救援に駆けつけ、すべて郭淮(かくわい)の言った通りとなった。都郷侯(ときょうこう)に爵位を進めた。


嘉平(かへい)元年(249年)、征西将軍(せいせいしょうぐん)・都督雍涼諸軍事(ととくようりょうしょぐんじ)に昇進し、雍州刺史(ようしゅうしし)の陳泰(ちんたい)と策を練(ね)り、蜀(しょく)の牙門将(がもんしょう)・句安(こうあん)らを翅(し)の近くで降伏させた。


嘉平(かへい)2年(250年)、詔(みことのり)によりこれまでの功績を称(たた)えられ、車騎将軍(しゃきしょうぐん)・儀同三司(ぎどうさんし)となり、持節(じせつ)と都督(ととく)についてはこれまで通りとされた。また、陽曲侯(ようきょくこう)に爵位を進められ、領邑(りょうゆう)は合計2,780戸となったが、3百戸を分割して1子を亭侯(ていこう)に取り立てた。


魏(ぎ)の嘉平(かへい)3年(251年)、王淩(おうりょう)は曹芳(そうほう)に代えて曹彪(そうひょう)を擁立(ようりつ)しようと企(くわだ)てたが、事が露見(ろけん)して司馬懿(しばい)の討伐を受け、王淩(おうりょう)は毒薬を飲んで自害し、王淩(おうりょう)の妹である郭淮(かくわい)の妻も連座して逮捕された。

この時、督将(とくしょう)や羌族(きょうぞく)の渠帥(きょすい)・数千人が叩頭(こうとう)して「妻を留(とど)めて欲しい」と要請した。郭淮(かくわい)は従おうとしなかったが、郭淮(かくわい)の5人の子が、叩頭(こうとう)して血を流しながら請願すると、郭淮(かくわい)は見(み)過(す)ごすに忍(しの)びず、やっと左右の者に妻を連れ戻すよう命じた。

妻を連れ戻すと、郭淮(かくわい)は司馬懿(しばい)に「5人の子は我が身を惜(お)しまず命(いのち)乞(ご)いをしております。母が死を賜(たまわ)れば、5人の子は死を選ぶでしょう。5人の子を失えば、私も生きてはいられません。私は妻を連れ戻しましたが、罪に服する覚悟はできております」と言上した。司馬懿(しばい)はこの文書が届くと、妻と彼らの罪を許した。

曹髦

魏(ぎ)の正元(せいげん)2年(255年)に亡くなり、大将軍(だいしょうぐん)を追贈され、貞侯(ていこう)と諡(おくりな)された。

脚注

*2青州(せいしゅう)・平原国(へいげんこく)・平原県(へいげんけん)の県令(けんれい)の次官。


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郭配(かくはい)・仲南(ちゅうなん)

生没年不詳。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。父は郭縕(かくうん)。兄に郭淮(かくわい)。弟に郭鎮(かくちん)。子に郭展(かくてん)、郭豫(かくよ)、女(むすめ)(裴秀(はいしゅう)の妻)、郭槐(かくかい)(広城君(こうじょうくん)))。

高い名声があり、官位は城陽太守(じょうようたいしゅ)にまで昇った。

裴秀(はいしゅう)と賈充(かじゅう)はどちらも郭配(かくはい)の女婿(むすめむこ)であった。


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郭鎮(かくちん)・季南(きなん)

生没年不詳。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。父は郭縕(かくうん)。兄に郭淮(かくわい)、郭配(かくはい)。子に郭奕(かくえき)(郭弈(かくえき))

謁者僕射(えっしゃぼくや)となった。


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第4世代[郭統・郭展・郭豫・郭槐・郭彰・郭奕(郭弈)]

郭統(かくとう)

生没年不詳。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。父は郭淮(かくわい)。子に郭正(かくせい)。

父・郭淮(かくわい)の後を継いだ。

官位は荊州刺史(けいしゅうしし)にまで昇った。


郭展(かくてん)・泰舒(たいじょ)

生没年不詳。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。父は郭配(かくはい)。弟妹に郭豫(かくよ)、裴秀(はいしゅう)の妻、郭槐(かくかい)(広城君(こうじょうくん))、郭彰(かくしょう)。

器量と才幹を有し、いくつかの職を歴任して優秀な成績を収(おさ)め、太僕(たいぼく)の官をつとめている時に亡くなった。


郭豫(かくよ)・泰寧(たいねい)

生没年不詳。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。父は郭配(かくはい)。兄に郭展(かくてん)、弟妹に裴秀(はいしゅう)の妻、郭槐(かくかい)(広城君(こうじょうくん))、郭彰(かくしょう)。女(むすめ)は王衍(おうえん)の妻。

相国(しょうこく)参軍(さんぐん)となって名を知られたが、早くに亡くなった。

女(むすめ)は王衍(おうえん)に嫁(とつ)いだ。


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郭槐(かくかい)・媛韶(えんしょう)(広城君(こうじょうくん))

魏(ぎ)の青龍(せいりゅう)5年(237年)〜西晋(せいしん)の元康(げんこう)6年(296年)没。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。父は郭配(かくはい)。兄弟に郭展(かくてん)、郭豫(かくよ)。姉に裴秀(はいしゅう)の妻。弟に郭彰(かくしょう)。子に賈黎民(かれいみん)。娘に賈南風(かなんぷう)、賈午(かご)。

賈充に嫁ぐ

賈充(かじゅう)の前妻・李氏(りし)の父・李豊(りほう)が司馬師(しばし)に誅殺(ちゅうさつ)されると、李氏(りし)は父に連座して流徙(りゅうし)(流罪)となり、賈充(かじゅう)は城陽太守(じょうようたいしゅ)・郭配(かくはい)の女(むすめ)・郭槐(かくかい)を娶(めと)ったが、その後、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))が即位すると、大赦(たいしゃ)により李氏(りし)は帰還を赦(ゆる)された。

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は特別に「賈充(かじゅう)に2人の夫人(ふじん)を置くこと」を許し、賈充(かじゅう)の母・柳氏(りゅうし)もまた「李氏(りし)を迎えるよう」に言ったが、賈充(かじゅう)は嫉妬(しっと)深い郭槐(かくかい)を恐れて、2人の夫人(ふじん)を置くことを辞退した。

郭槐の嫉妬

賈充(かじゅう)の子・賈黎民(かれいみん)が3歳の時のこと。楼閣のところで乳母(うば)に抱(だ)かれていた賈黎民(かれいみん)は、賈充(かじゅう)が入ってくるのを見て喜んで笑い、賈充(かじゅう)にくっついて撫(な)でてもらった。

それを遠くから見ていた郭槐(かくかい)は「賈充(かじゅう)が乳母(うば)と私通しているのだ」と思い、即刻(そっこく)鞭(むち)で叩き殺したので、賈黎民(かれいみん)は乳母(うば)を恋しがり病気になって死んでしまった。

後(のち)にまた男子が生まれたが、賈充(かじゅう)が乳母(うば)が抱(だ)いている子の頭を撫(な)で摩(さす)ったところ、郭槐(かくかい)はまた乳母(うば)を疑って殺害した。これにより、次の子も乳母(うば)を思慕(しぼ)して死んでしまったので、遂(つい)に賈充(かじゅう)は後継ぎを残すことができなかった。

娘を太子妃とする

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は太子妃(たいしひ)として衛瓘(えいかん)の女(むすめ)を娶(めと)ろうとしていたが、賈充(かじゅう)・郭槐(かくかい)夫妻は、元后(げんこう)に働きかけて賈充(かじゅう)の女(むすめ)を娶(めと)らせた。初め、太子(たいし)より1つ年下で12歳の賈午(かご)を娶(めと)らせようとしたが、体が小さく婚礼衣装が合わなかったために、太子(たいし)より2つ年上で15歳の賈南風(かなんぷう)に変更された。

李氏を恐れる

賈充(かじゅう)の前妻・李氏(りし)は、貞淑(ていしゅく)で美しく才能があり、行いも優(すぐ)れていた。

これより以前、郭槐(かくかい)は李氏(りし)に会うことを欲(ほっ)したが、賈充(かじゅう)は会わせようとしなかった。

娘の賈南風(かなんぷう)が太子妃(たいしひ)となると、郭槐(かくかい)は精一杯威厳(いげん)を示して李氏(りし)の邸(やしき)を訪(たず)ねたが、彼女を出迎えた李氏(りし)の姿を見た郭槐(かくかい)は、そのあまりの美しさと気品に気(け)圧(お)されて思わず膝(ひざ)を屈(くっ)し、2度も拝礼(再拝)してしまった。これ以降、郭槐(かくかい)は李氏(りし)と出会うことを恐れ、行く先々で人を遣(や)って、李氏(りし)がいないか偵察させるようになった。

賈充の後継ぎ

賈充(かじゅう)が亡くなると、郭槐(かくかい)は外孫の韓謐(かんひつ)を賈黎民(かれいみん)の子として賈充(かじゅう)の後継ぎにしようとした。

郎中(ろうちゅう)の韓咸(かんかん)と中尉(ちゅうい)の曹軫(そうしん)は「礼には『大宗(宗家)に後継ぎがいなければ、小宗(分家)の子を後継ぎとする』とありますが『異姓を後継ぎとする』という文はありません」と諫(いさ)めたが、郭槐(かくかい)はは従わなかった。

韓咸(かんかん)らは上書して後継ぎを改めることを求めたが、結局、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は「韓謐(かんひつ)を賈充(かじゅう)の後継ぎとすることを認め、太宰(たいさい)(賈充(かじゅう))ほどの功績がない限り異姓の後継ぎを許さず、これを前例としてはならない」とした。これが賈謐(かひつ)である。

賈后(賈南風)を諫める

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))には男子がなく、側室の子・愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))が太子(たいし)に立てられていた。

広城君(こうじょうくん)(郭槐(かくかい))はたいそう愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))を敬(うやま)い、事あるごとに賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))に「愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))に愛情を注(そそ)げ」と言った。

また、賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))は生まれの高貴さを恃(たの)みに、驕(おご)り高ぶって愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))を尊重しなかったので、広城君(こうじょうくん)(郭槐(かくかい))はいつも厳しく彼を叱(しか)っていた。

広城君(こうじょうくん)(郭槐(かくかい))の病気が重くなると、占術師(せんじゅつし)が「広城君(こうじょうくん)に封ぜられているのがいけない」と言ったので、改めて宜城君(ぎじょうくん)に封ぜられた。

宜城君(郭槐)の死

宜城君(ぎじょうくん)(郭槐(かくかい))は臨終(りんじゅう)に際し、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の手を取って「くれぐれも愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))に尽くすように」と命じ、また、「趙粲(ちょうさん)と賈午(かご)は必ずあなたの政事を乱します。私が死んだら、彼らの言葉を聞き入れてはなりません。私の言葉を努々(ゆめゆめ)忘れないように」と言った。

宜城君(ぎじょうくん)(郭槐(かくかい))が亡くなると、宣(せん)と諡(おくりな)し、殊礼(しゅれい)が加えられた。当時の人々はこれ(良い諡号(しごう)が与えられたこと)を譏(そし)ったが、敢(あ)えて口に出して言う者はいなかった。


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郭彰(かくしょう)・叔武(しゅくぶ)

生没年不詳。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。父は郭配(かくはい)。兄に弟に郭淮(かくわい)、郭配(かくはい)、郭鎮(かくちん)。

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の従舅(おじ)として平素から賈充(かじゅう)と互いに親しくつき合い、賈充(かじゅう)の妻(郭槐(かくかい))は同母弟のように郭彰(かくしょう)と接していた。

散騎常侍(さんきじょうじ)・尚書(しょうしょ)・衛将軍(えいしょうぐん)を歴任し、冠軍県侯(かんぐんけんこう)に封ぜられた。

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))が朝政を専断するとその権勢に参与し、郭彰(かくしょう)の邸(やしき)の門には賓客(ひんかく)があふれた。当時の人が「賈郭(かかく)」と言えば、賈謐(かひつ)と郭彰(かくしょう)のことを指し、賈謐(かひつ)の「二十四友」の1人に数えられる。

死後、烈(れつ)と諡(おくりな)された。


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郭奕(かくえき)・泰業(たいぎょう)(郭弈(かくえき))

生没年不詳。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。父は郭鎮(かくちん)。

高潔・簡素で、おくゆかしく大らかな度量があり、雍州刺史(ようしゅうしし)や尚書(しょうしょ)を歴任した。


第5世代(郭正)

郭正(かくせい)

生没年不詳。幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・陽曲県(ようきょくけん)の人。父は郭統(かくとう)。

父・郭統(かくとう)の後を継いだ。

咸熙(かんき)年間(264年〜265年)に5等級の爵位制度が実施されると、祖父・郭淮(かくわい)の前王朝での勲功が彰(あきら)かであったため、改めて汾陽子(ふんようし)に封ぜられた。



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