正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊵太原郡郭氏(郭全・郭縕・郭淮・郭配・郭鎮・郭統・郭展・郭豫・郭槐・郭彰・郭奕・郭正)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
太原郡郭氏系図
太原郡郭氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
郭豫以下の兄弟の順は不明。
★は裴秀の妻。
★は王衍の妻。
この記事では潁川郡郭氏の人物、
についてまとめています。
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か㊵(太原郭氏)
第1世代(郭全)
郭全
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・陽曲県の人。子は郭縕。孫に郭淮、郭配、郭鎮。
大司農となった。
第2世代(郭縕)
郭縕
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・陽曲県の人。父は郭全。子に郭淮、郭配、郭鎮。
雁門太守*1であった。
脚注
*1幷州(并州)・雁門郡(鴈門郡)の太守。
第3世代(郭淮・郭配・郭鎮)
郭淮・伯済
生年不詳〜魏の正元2年(255年)没。幷州(并州)・太原郡・陽曲県の人。父は郭縕。弟に郭配、郭鎮。子に郭統。妻は王淩の妹。
曹操
建安年間(196年〜220年)に孝廉に推挙されて、平原府の丞*2に任命された。
建安16年(211年)、文帝(曹丕)が五官将(五官中郎将)となると、召されて門下賊曹に任命されたが、丞相兵曹議令史に転任して漢中征討に従軍した。
曹操は帰還する時、征西将軍・夏侯淵を漢中に留めて劉備を防がせたが、その時郭淮を夏侯淵の司馬とした。
建安24年(219年)正月、劉備が夏侯淵の陣営に攻め寄せ、夏侯淵が戦死して諸陣営は大混乱に陥った。この時、郭淮は病気で出陣していなかったが、逃げ散った兵たちを集め、盪寇将軍・張郃を大将(軍主)に推し立てたので、諸陣営はやっと落ち着いた。
次の日、劉備が攻め寄せて来ると、諸将は「衆寡敵せず」と「漢水に沿って陣営を作り、敵を防ぐ」ように主張したが、郭淮は「漢水から離れて陣営を築き、敵が半ばまで渡ったところを攻撃する方が良いでしょう」と言った。その結果、劉備はためらって渡って来なかった。
この事を聞いた曹操は、張郃に節を与え、再び郭淮を張郃の司馬とした。
文帝(曹丕)
曹丕が王位に即くと、郭淮は関内侯の爵位を賜り、鎮西長史に転任した。また征羌護軍を兼務して左将軍・張郃と冠軍将軍・楊秋を監督し、山賊の鄭甘や盧水の反乱蛮族(叛胡)を討伐してすべて撃ち破り平定した。これにより関中は初めて平定され、住民は安心して仕事に従事できるようになった。
魏の黄初元年(220年)、郭淮は「文帝(曹丕)が帝位に即いたことを奉賀する使者」として都にのぼることになったが、途中で病気にかかったため祝賀の宴に遅れてしまった。
文帝(曹丕)は厳しい態度で彼を責めたが、郭淮の弁解の言葉を気に入り、雍州刺史の代行に抜擢して射陽亭侯に封じ、5年して真の刺史とした。
郭淮は安定郡の羌族の大帥・辟蹏の反乱を討伐して撃ち破り、これを降伏させた。羌族が来降するたびに、郭淮はいつもまず人を遣ってその親類関係、男女の多少、年の長幼を調べさせておいた。会見の際には、1つ2つのことからその心情を察し、質問は行き届いていたので、みなその神の如き明瞭振りを称賛した。
明帝(曹叡)
魏の太和2年(228年)、蜀の丞相・諸葛亮が祁山に出陣して将軍の馬謖を街亭に派遣し、高詳を列柳城に駐屯させると、張郃は馬謖を攻撃し、郭淮は高詳の陣営を攻撃していずれも撃ち破った。
また、隴西の羌族の名家・唐蹏を枹罕で撃ち破り、建威将軍を加えられた。
太和5年(231年)、蜀が鹵城に出陣した。
この時、隴右地方には穀物がなく、関中から大量に輸送することを論議していたが、郭淮は威光と恩愛をもって羌族を手懐け、家ごとに穀物を出させて公平に輸送の労役を割り当てたので、兵糧は充足した。揚武将軍に転じた。
魏の青龍2年(234年)、諸葛亮は斜谷に出陣し、蘭坑で田畑を耕作した。
この時、司馬懿は渭南に駐屯していたが、郭淮は諸葛亮が北原を争うに違いないと判断し、「先に北原を占領するべきだ」と主張した。
論者の多くは賛成しなかったが、郭淮が「もし諸葛亮が渭水に跨がって高原に登り、兵を北山に連ねて隴への街道を絶ち切り、民衆や蛮族たちを揺り動かすならば、それこそ国家の利益ではございません」と言うと、司馬懿は彼の説に賛同し、郭淮を北原に駐屯させた。
北原に到着すると、塹壕や塁壁がまだ完成しないうちに蜀兵が多数来襲したが、郭淮はそれを迎撃した。
数日後、諸葛亮は兵力を誇示して西に移動した。諸将はみな「諸葛亮は西の陣営(西囲)を攻撃するつもりなのだ」と言ったが、郭淮は「この動きは陽動で、陽遂を攻撃するに違いない」と言った。
その夜、諸葛亮は陽遂を攻撃してきたが、備えがあったため近づくことができなかった。
厲公(曹芳)
魏の正始元年(240年)、蜀将の姜維が隴西に侵攻して来たが、郭淮は軍を進めて彊中まで追撃し、姜維は退却した。郭淮はそのまま羌族の迷当らを討伐し、従順な氐族3千余部落を鎮撫し強制移住させて関中を充実させた。左将軍に昇進した。
涼州の休屠胡・梁元碧らが2千余家の部落を率いて雍州に帰順した。郭淮は上奏して彼らを安定郡の高平県に住まわせ、西川都尉(西州都尉)を設置した。前将軍に転任したが、元通り州を宰領した。
正始5年(244年)、夏侯玄が蜀を討伐した時、郭淮は諸軍を指揮して先鋒となった。この時、郭淮が形勢不利と判断してすぐさま軍を敵地から抜け出させたため、大敗せずに済んだ。帰還すると、郭淮に節が与えられた。
正始8年(247年)、隴西・南安・金城・西平の諸羌族・餓何、焼戈、伐同、蛾遮塞らが結託して反乱を起こし、城邑を攻撃・包囲して南方から蜀兵を招くと、涼州の蛮族の名家・治無戴もまた反乱を起こしてこれに呼応した。
討蜀護軍の夏侯覇は、諸軍を指揮して為翅に駐屯した。郭淮の軍が狄道に到着した時、論者はみな「先に枹罕を討って平定し、内は暴悪な羌族を平らげ、外は賊の計画を打ち砕くべきだ」と主張したが、郭淮は「姜維は必ず夏侯覇を攻撃する」と判断し、そのまま渢中に入り、南に転じて夏侯覇を迎えた。郭淮の読み通り、姜維は為翅を攻撃したが、ちょうど郭淮の軍が到着したので逃走した。進撃して反乱した羌族を討伐し、餓何と焼戈を斬ると、1万余の部落が降伏した。
正始9年(248年)、蛾遮塞らが河関・白土の古城に駐屯し、河に拠って抵抗すると、郭淮は上流地域で行動すると見せかけて秘かに下流から兵を渡し、白土城を攻撃して大いにこれを撃ち破った。
この時、治無戴は武威を包囲したが、その家族は西海に留まっていた。郭淮は軍を進めて西海に赴き、襲撃して妻子を奪取しようとしたが、たまたま治無戴が敗れて帰って来たので、龍夷の北で戦って敗走させた。また、令居の暴悪な蛮人が石頭山の西に居を構え、街道を遮って魏の使者(王使)の往来を妨害していたので、郭淮は帰還の途中に立ち寄ってこれを討伐し、大いに撃ち破った。
その後、蜀将の姜維が石営に出陣し、彊川を通って西に向かい治無戴を出迎えると、陰平太守の廖化を成重山に留めて城を築かせ、敗れた羌族から確保していた人質を収容した。
郭淮が兵を分けて廖化を攻めようとすると、諸将は兵力を分散することに反対したが、郭淮は「姜維が駆けつける頃までには廖化を平定できる。姜維の軍を疲れさせることができ、蛮賊との連合も自然と離れるであろう」と言い、別に夏侯覇らを派遣して沓中に姜維を追わせ、自身は諸軍を率いて廖化を攻撃した。
結果、姜維は廖化の救援に駆けつけ、すべて郭淮の言った通りとなった。都郷侯に爵位を進めた。
嘉平元年(249年)、征西将軍・都督雍涼諸軍事に昇進し、雍州刺史の陳泰と策を練り、蜀の牙門将・句安らを翅の近くで降伏させた。
嘉平2年(250年)、詔によりこれまでの功績を称えられ、車騎将軍・儀同三司となり、持節と都督についてはこれまで通りとされた。また、陽曲侯に爵位を進められ、領邑は合計2,780戸となったが、3百戸を分割して1子を亭侯に取り立てた。
魏の嘉平3年(251年)、王淩は曹芳に代えて曹彪を擁立しようと企てたが、事が露見して司馬懿の討伐を受け、王淩は毒薬を飲んで自害し、王淩の妹である郭淮の妻も連座して逮捕された。
この時、督将や羌族の渠帥・数千人が叩頭して「妻を留めて欲しい」と要請した。郭淮は従おうとしなかったが、郭淮の5人の子が、叩頭して血を流しながら請願すると、郭淮は見過ごすに忍びず、やっと左右の者に妻を連れ戻すよう命じた。
妻を連れ戻すと、郭淮は司馬懿に「5人の子は我が身を惜しまず命乞いをしております。母が死を賜れば、5人の子は死を選ぶでしょう。5人の子を失えば、私も生きてはいられません。私は妻を連れ戻しましたが、罪に服する覚悟はできております」と言上した。司馬懿はこの文書が届くと、妻と彼らの罪を許した。
曹髦
魏の正元2年(255年)に亡くなり、大将軍を追贈され、貞侯と諡された。
脚注
*2青州・平原国・平原県の県令の次官。
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郭配・仲南
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・陽曲県の人。父は郭縕。兄に郭淮。弟に郭鎮。子に郭展、郭豫、女(裴秀の妻)、郭槐(広城君)。
高い名声があり、官位は城陽太守にまで昇った。
裴秀と賈充はどちらも郭配の女婿であった。
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第4世代[郭統・郭展・郭豫・郭槐・郭彰・郭奕(郭弈)]
郭統
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・陽曲県の人。父は郭淮。子に郭正。
父・郭淮の後を継いだ。
官位は荊州刺史にまで昇った。
郭展・泰舒
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・陽曲県の人。父は郭配。弟妹に郭豫、裴秀の妻、郭槐(広城君)、郭彰。
器量と才幹を有し、いくつかの職を歴任して優秀な成績を収め、太僕の官をつとめている時に亡くなった。
郭豫・泰寧
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・陽曲県の人。父は郭配。兄に郭展、弟妹に裴秀の妻、郭槐(広城君)、郭彰。女は王衍の妻。
相国参軍となって名を知られたが、早くに亡くなった。
女は王衍に嫁いだ。
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郭槐・媛韶(広城君)
魏の青龍5年(237年)〜西晋の元康6年(296年)没。幷州(并州)・太原郡・陽曲県の人。父は郭配。兄弟に郭展、郭豫。姉に裴秀の妻。弟に郭彰。子に賈黎民。娘に賈南風、賈午。
賈充に嫁ぐ
賈充の前妻・李氏の父・李豊が司馬師に誅殺されると、李氏は父に連座して流徙(流罪)となり、賈充は城陽太守・郭配の女・郭槐を娶ったが、その後、武帝(司馬炎)が即位すると、大赦により李氏は帰還を赦された。
武帝(司馬炎)は特別に「賈充に2人の夫人を置くこと」を許し、賈充の母・柳氏もまた「李氏を迎えるよう」に言ったが、賈充は嫉妬深い郭槐を恐れて、2人の夫人を置くことを辞退した。
郭槐の嫉妬
賈充の子・賈黎民が3歳の時のこと。楼閣のところで乳母に抱かれていた賈黎民は、賈充が入ってくるのを見て喜んで笑い、賈充にくっついて撫でてもらった。
それを遠くから見ていた郭槐は「賈充が乳母と私通しているのだ」と思い、即刻鞭で叩き殺したので、賈黎民は乳母を恋しがり病気になって死んでしまった。
後にまた男子が生まれたが、賈充が乳母が抱いている子の頭を撫で摩ったところ、郭槐はまた乳母を疑って殺害した。これにより、次の子も乳母を思慕して死んでしまったので、遂に賈充は後継ぎを残すことができなかった。
娘を太子妃とする
武帝(司馬炎)は太子妃として衛瓘の女を娶ろうとしていたが、賈充・郭槐夫妻は、元后に働きかけて賈充の女を娶らせた。初め、太子より1つ年下で12歳の賈午を娶らせようとしたが、体が小さく婚礼衣装が合わなかったために、太子より2つ年上で15歳の賈南風に変更された。
李氏を恐れる
賈充の前妻・李氏は、貞淑で美しく才能があり、行いも優れていた。
これより以前、郭槐は李氏に会うことを欲したが、賈充は会わせようとしなかった。
娘の賈南風が太子妃となると、郭槐は精一杯威厳を示して李氏の邸を訪ねたが、彼女を出迎えた李氏の姿を見た郭槐は、そのあまりの美しさと気品に気圧されて思わず膝を屈し、2度も拝礼(再拝)してしまった。これ以降、郭槐は李氏と出会うことを恐れ、行く先々で人を遣って、李氏がいないか偵察させるようになった。
賈充の後継ぎ
賈充が亡くなると、郭槐は外孫の韓謐を賈黎民の子として賈充の後継ぎにしようとした。
郎中の韓咸と中尉の曹軫は「礼には『大宗(宗家)に後継ぎがいなければ、小宗(分家)の子を後継ぎとする』とありますが『異姓を後継ぎとする』という文はありません」と諫めたが、郭槐はは従わなかった。
韓咸らは上書して後継ぎを改めることを求めたが、結局、武帝(司馬炎)は「韓謐を賈充の後継ぎとすることを認め、太宰(賈充)ほどの功績がない限り異姓の後継ぎを許さず、これを前例としてはならない」とした。これが賈謐である。
賈后(賈南風)を諫める
賈后(賈南風)には男子がなく、側室の子・愍懐太子(司馬遹)が太子に立てられていた。
広城君(郭槐)はたいそう愍懐太子(司馬遹)を敬い、事あるごとに賈后(賈南風)に「愍懐太子(司馬遹)に愛情を注げ」と言った。
また、賈謐(韓謐)は生まれの高貴さを恃みに、驕り高ぶって愍懐太子(司馬遹)を尊重しなかったので、広城君(郭槐)はいつも厳しく彼を叱っていた。
広城君(郭槐)の病気が重くなると、占術師が「広城君に封ぜられているのがいけない」と言ったので、改めて宜城君に封ぜられた。
宜城君(郭槐)の死
宜城君(郭槐)は臨終に際し、賈后(賈南風)の手を取って「くれぐれも愍懐太子(司馬遹)に尽くすように」と命じ、また、「趙粲と賈午は必ずあなたの政事を乱します。私が死んだら、彼らの言葉を聞き入れてはなりません。私の言葉を努々忘れないように」と言った。
宜城君(郭槐)が亡くなると、宣と諡し、殊礼が加えられた。当時の人々はこれ(良い諡号が与えられたこと)を譏ったが、敢えて口に出して言う者はいなかった。
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郭彰・叔武
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・陽曲県の人。父は郭配。兄に弟に郭淮、郭配、郭鎮。
賈后(賈南風)の従舅として平素から賈充と互いに親しくつき合い、賈充の妻(郭槐)は同母弟のように郭彰と接していた。
散騎常侍・尚書・衛将軍を歴任し、冠軍県侯に封ぜられた。
賈后(賈南風)が朝政を専断するとその権勢に参与し、郭彰の邸の門には賓客があふれた。当時の人が「賈郭」と言えば、賈謐と郭彰のことを指し、賈謐の「二十四友」の1人に数えられる。
死後、烈と諡された。
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郭奕・泰業(郭弈)
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・陽曲県の人。父は郭鎮。
高潔・簡素で、おくゆかしく大らかな度量があり、雍州刺史や尚書を歴任した。
第5世代(郭正)
郭正
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・陽曲県の人。父は郭統。
父・郭統の後を継いだ。
咸熙年間(264年〜265年)に5等級の爵位制度が実施されると、祖父・郭淮の前王朝での勲功が彰かであったため、改めて汾陽子に封ぜられた。
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