正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊴潁川郡えいせんぐん郭氏かくし③(郭誕かくたん郭玄信かくげんしん)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

潁川郡郭氏③系図

潁川郡郭氏③系図

潁川郡えいせんぐん郭氏かくし③系図


※親が同一人物の場合、左側が年長。


この記事では潁川郡えいせんぐん郭氏かくし③の人物、

についてまとめています。


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か㊴(潁川郭氏③)

第1世代(郭誕)

郭誕かくたん元奕げんえき

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。子に郭玄信かくげんしん

曹操そうそう武帝ぶてい)に仕える監軍かんぐんであった。


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第2世代(郭玄信)

郭玄信かくげんしん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭誕かくたん

鄧艾とうがいは幼くして襄城じょうじょう典農部民てんのうぶみんとなったが、同じ役についた石苞せきほうと同じく12、3歳だった。

建安けんあん23年(218年)、大医令たいいれい*1吉本きつほん許都きょと豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけん]で曹操そうそう討伐のクーデターを起こした時、謁者えっしゃであった郭玄信かくげんしんは連座して刑を受け、家で暮らしていた。

その後使者の役目をおおせつかった郭玄信かくげんしん典農司馬てんのうしば御者ぎょしゃを求め、鄧艾とうがい石苞せきほうを与えられた。10余里の間 彼らと語り合って気に入った郭玄信かくげんしんは「2人共大いに出世して佐相さしょう(大臣)にまでなるに違いない」と判断した。

鄧艾とうがいのち典農功曹てんのうこうそうとなり、使者として司馬懿しばいの元におもむいたことを切っ掛けに抜擢ばってきされることとなった。

脚注

*1郭玄信かくげんしんの記述がある魏書ぎしょ鄧艾伝とうがいでんが注に引く世語せごの原文は少府しょうふだが、魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎには「かん大医令たいいれい吉本きつほん少府しょうふ耿紀こうき司直しちょく韋晃いこうらと共謀して(以下略)」とあり、魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎに合わせた。


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【三国志人物伝】総索引