正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊶安平郡郭氏(郭永・董氏(堂陽君)・郭孚・郭昱・郭皇后(文徳郭皇后)・郭都・郭成・郭表・孟武・郭詳・郭訓・郭述・郭釗)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
安平郡郭氏系図
安平郡郭氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
郭永と郭表の父の兄弟の順は不明。
この記事では安平郡郭氏の人物、
についてまとめています。
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か㊶(安平郭氏)
第1世代[郭永・董氏(堂陽君)]
郭永
生没年不詳。冀州・安平郡・広宗県の人。妻は董氏(堂陽君)。子に郭浮、郭昱(娘)、郭氏(郭皇后・娘)、郭都、郭成。
先祖は代々長吏であった。官は南郡太守まで至ったが、早くに亡くなった。
娘の郭氏(郭皇后)が幼少の頃、郭永は「この子は儂の娘の中の王だ」と言い、女王という字をつけた。
魏の太和4年(230年)、明帝(曹叡)は郭永に安陽郷敬侯の諡を追贈した。
魏の青龍4年(236年)、明帝(曹叡)は甥の郭表を観津侯としたのに応じて、郭永を観津敬侯に改封し、使者を遣わして策命を奉じ、太牢の犠牲を捧げて祭祀を行わせた。
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董氏(堂陽君)
生没年不詳。夫は郭永。子に郭浮、郭昱(娘)、郭氏(郭皇后・娘)、郭都、郭成。
3男2女を生んだが、早くに亡くなった。
魏の太和4年(230年)、明帝(曹叡)に都郷君の諡を追贈された。
魏の青龍4年(236年)、明帝(曹叡)は甥の郭表を観津侯としたのに応じて、董氏を堂陽君に改封し、使者を遣わして策命を奉じ、太牢の犠牲を捧げて祭祀を行わせた。
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第2世代(郭孚・郭昱・郭皇后・郭都・郭成・郭表)
郭孚
生没年不詳。冀州・安平郡・広宗県の人。父は郭永。母は董氏(堂陽君)。妹に郭昱、郭皇后。弟に郭都、郭成。
高唐令(青州・平原国・高唐県の県令)となったが、早くになくなった。
魏の青龍4年(236年)、明帝(曹叡)は従兄弟の郭表を観津侯としたのに応じて、郭孚に梁裡亭戴侯の諡を追贈し、使者を遣わして策命を奉じ、太牢の犠牲を捧げて祭祀を行わせた。
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郭皇后(文徳郭皇后)
中平元年(184年)3月乙卯の日(10日)〜魏の青龍3年(235年)没。冀州・安平郡・広宗県の人。字は女王。父は郭永。母は董氏(堂陽君)。兄に郭孚。姉に郭昱。弟に郭都、郭成。子に孟武。従兄に郭表。母方の親戚に劉斐。
郭氏・郭夫人・郭貴嬪・郭后・文徳皇后・郭太后とも。
出自
郭氏(郭皇后)が生まれた時、常ならぬ現象(瑞兆)があったと言う。
早くに両親を失い、戦乱によって流浪して銅鞮侯の家の召使いに身を落としていた。
文帝(曹丕)
建安18年(213年)に曹操が魏公となった時、見出されて東宮(皇太子の御殿)に入った。郭氏には智略があり、曹丕が後継者に決まったことについても郭氏の画策があった。
曹丕が王位につくと、郭氏は夫人となり、帝位につくと貴嬪となった。甄后[明帝(曹叡)の母]が自害を賜ったのも、文帝(曹丕)の郭貴嬪への寵愛が原因であると言える。
魏の黄初3年(222年)、文帝(曹丕)が郭貴嬪を皇后に立てることを望んだところ、中郎の桟潜は「身分卑しき者を突然高貴な位につけること」に反対したが、文帝(曹丕)は聞き入れず、郭貴嬪を皇后に立てた。
郭皇后は、東宮(皇太子の御殿)にいた頃から皇后の位につくまで、文帝(曹丕)の特別な寵愛を受けながら、慎み深く永寿宮(皇太后)の世話をしていたので、孝行だと評判になっていた。
郭皇后が皇后となった時、柴貴人も寵愛を受けていたが、郭皇后は彼女を教育して導いた。
また後宮の貴人たちの中には、時に過失を犯す者もいたが、郭皇后はいつもそれを覆い隠してやり、譴責を受ける場合には必ず文帝(曹丕)に対してその理由を説明してやった。
文帝(曹丕)がひどく立腹している場合には、その者のために頓首(頭を地面にすりつけるように拝礼すること)して許しを乞うことまでしたので、後宮の者から怨みを受けることがなかった。
このように、郭皇后は慎ましい性格で音楽を好まず、いつも前・後漢を通じて最も模範的な皇后とされる後漢の明徳馬后の人となりを慕っていた。
郭皇后は早くに兄弟を亡くしていたため、従兄の郭表に父・郭永の後を継がせ、奉車都尉に任命した。
また、母方の親戚の劉斐が他国の者と結婚したり、姉・郭昱の子、孟武が郷里に戻って小妻(妾)を求めようとすると、郭皇后は「漢王朝の皇后の親族で無事であった者が少ないのは、すべて驕慢と奢侈のためです。慎重にしなくてはなりません」と諫めた。
魏の黄初5年(224年)、文帝(曹丕)が東方征伐に赴いた際、郭皇后は許昌の永始台に留まっていたが、ちょうど百日以上も雨が降り続いた。この長雨により城壁や楼閣が壊れたことから、担当官吏が別のところに移るように上奏したが、郭皇后は「春秋時代、楚の昭王の夫人・貞姜が、江水の氾濫時にも立ち去らず溺死した」例を挙げ、居場所を移さなかった。
魏の黄初6年(225年)、文帝(曹丕)が東方の呉の征伐に広陵まで赴いた時、郭皇后は譙宮に留まっていた。この時、宿直警護のため残っていた従兄の郭表が、川を堰き止めて魚を捕ろうとしたところ、郭皇后は「川は物資輸送のための道です。堰き止めてはなりません」とこれを諫めた。
明帝(曹叡)
明帝(曹叡)が即位すると、郭皇后に皇太后の尊称を奉り、永安宮と呼んだ。
魏の太和4年(230年)、明帝(曹叡)は詔勅を下し、郭太后の親族たちを取り立てて、彼女の両親に諡を追贈した。
魏の青龍3年(235年)春、郭太后は許昌で亡くなり、葬礼の制度に従って陵墓が建造され、3月庚寅の日(11日)、[文帝(曹丕)の]首陽陵の西に埋葬された。
郭太后の死について
郭太后の死については異説があります。
『魏書』文徳郭皇后伝・注・『魏略』
明帝(曹叡)は即位した後、母の甄后がすでにこの世にいないことを思い起こして悲しみ、郭太后はそれを憂慮して突然亡くなった。*1
甄后は死に際して、明帝(曹叡)のことを李夫人に託していた。
郭太后が亡くなると、李夫人は初めて明帝(曹叡)に「甄后が讒言によって災禍に遭い、大斂(遺体を棺に収める儀式)を受けることもできず、振り乱した髪が顔に覆いかぶさっていたこと」を語った。
明帝(曹叡)は悲しみ嘆いて涙を流し、郭太后の殯*2と埋葬をすべて甄后の時と同様に行うように命じた。
『魏書』文徳郭皇后伝・注・『漢晋春秋』
その昔、甄后が誅殺されたのは、郭后への寵愛が原因であり、甄后の殯*2の時には振り乱した髪で顔を覆わせ、口に糠を詰め込ませた。その後、文帝(曹丕)は郭后を皇后に立てると、彼女に明帝(曹叡)を養育させた。
明帝(曹叡)はこのことを知ってからというもの、常に心に怒りを抱き、何度も泣きながら甄后が死んだ時の状況を尋ねた。
郭后が、
「先帝[文帝(曹丕)]がご自分で殺害なさったのに、どうして私を詰問なさるのですか。それにお前は、人の子でありながら死んだ父を仇なし、前の母のために後の母を、罪もないのに殺して良いものでしょうか」
と言うと、明帝(曹叡)は立腹してついに郭后を殺害し、殯*2を行う者に「甄后の時のようにせよ」と命じた。
『魏書』明帝紀・注・顧愷之『啓蒙注』
魏の時代、ある人が周王の墳墓を暴いて殉葬された女子を見つけたところ、数日後に息を吹き返し、数ヶ月後には話せるようになった。年は20歳ばかり。郭太后は彼女をかわいがり養った。
それから10年あまりで郭太后が亡くなると、この女は悲嘆にくれて慟哭し、1年余りして死んだ。
脚注
*1原文:明帝既嗣立,追痛甄后之薨,故太后以憂暴崩。
*2本葬まで貴人の遺体を棺に納め仮に安置してまつること。
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郭都
生没年不詳。冀州・安平郡・広宗県の人。父は郭永。母は董氏(堂陽君)。兄に郭孚。姉に郭昱、郭皇后。弟に郭成。
早くに亡くなった。
魏の青龍4年(236年)、明帝(曹叡)は従兄弟の郭表を観津侯としたのに応じて、郭都を武城亭孝侯に改封し、使者を遣わして策命を奉じ、太牢の犠牲を捧げて祭祀を行わせた。
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郭成
生没年不詳。冀州・安平郡・広宗県の人。父は郭永。母は董氏(堂陽君)。兄に郭孚、郭都。姉に郭昱、郭皇后。
早くに亡くなった。
魏の青龍4年(236年)、明帝(曹叡)は従兄弟の郭表を観津侯としたのに応じて、郭都を新楽亭定侯に改封し、使者を遣わして策命を奉じ、太牢の犠牲を捧げて祭祀を行わせた。
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郭表
生没年不詳。冀州・安平郡・広宗県の人。父は不明。子に郭詳、郭訓、郭述。
郭皇后は早くに兄弟を亡くしていたため、従兄の郭表に父・郭永の後を継がせ、奉車都尉に任命した。
魏の黄初6年(225年)、文帝(曹丕)が東方の呉の征伐に広陵まで赴いた時、郭表は郭皇后の宿直警護のため譙宮に留まっていた。この時郭表は、川を堰き止めて魚を捕ろうとしたが、郭皇后に、
「川は物資輸送のための道です。堰き止めてはなりません。また、堰き止めるための材木も乏しいのです。配下の隷民も目の前にいないとなると、当然お上の竹や木を盗み取って梁や堰を作らねばならないはずです。今、奉車殿(郭表)に不足しているのは、本当に魚なのですか?」
と諫められた。
魏の太和4年(230年)、明帝(曹叡)は詔勅を下して郭表を安陽亭侯に取り立て、また爵位を郷侯に進めて封邑を合計500戸に加増し、中塁将軍に昇進させた。
その後、昭徳将軍に昇進し、金紫(光禄大夫)と特進の位を授かった。
魏の青龍3年(235年)、郭皇后が亡くなると、明帝(曹叡)は郭表の爵位を進めて観津侯とし、5百戸を加増して合計千戸とした。
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第3世代(孟武・郭詳・郭訓・郭述)
孟武
生没年不詳。父は不明。母は郭昱。
孟武が郷里に戻って小妻(妾)を求めようとした時、郭皇后はそれを制止して、
「現在、世の中に女性は少ない。軍人たちに娶せるべきです。(皇后の)縁戚ということを利用して妾を娶ることは許されません。自戒して処罰を受ける最初の人間となることのないように」
と諫めた。
母の郭昱が亡くなると、孟武は彼女を手厚く埋葬し、祠堂を建立しようと望んだが、郭皇后はそれを制止して、
「戦乱以来、墳墓という墳墓が盗掘されたのは、すべて手厚い埋葬をしたからです。[文帝(曹丕)の]首陽陵を規範としなければなりません」
と諫めた。
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郭詳
生没年不詳。冀州・安平郡・広宗県の人。父は郭表。弟に郭訓、郭述。
魏の太和4年(230年)、詔勅により騎都尉に任命された。
魏の青龍3年(235年)、郭皇后が亡くなると、明帝(曹叡)は郭詳を駙馬都尉に昇進させた。
父・郭表が亡くなるとその後を継ぎ、郭表の爵位と領地を弟の郭述に分け与えて列侯に取り立てた。
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