正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊲潁川郡えいせんぐん郭氏かくし①(郭嘉かくか郭奕かくえき郭深かくしん郭敞かくしょう郭猟かくりょう)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

潁川郡郭氏系図

潁川郡郭氏系図

潁川郡えいせんぐん郭氏かくし①系図


この記事では潁川郡えいせんぐん郭氏かくし①の人物、

についてまとめています。


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か㊲(潁川郭氏①)

第1世代(郭嘉)

郭嘉かくか奉孝ほうこう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。子に郭奕かくえき

雌伏の時

若年にして将来をとおす見識を持っていた。かんの末期、天下が乱れていたので、郭嘉かくかは20歳頃から姓名事跡をくらまし、秘かに英傑たちと手を握り、俗世間とは付き合わなかった。そのため当時の多くの人々には知られず、見識のある者だけが彼を評価していた。27歳の時に司徒府しとふし出された。

郭嘉かくかは最初、北方に行って袁紹えんしょうと会ったが、「袁紹えんしょうとは協力して天下の大難を救い、覇王・王者の事業をさだめることは難しい」と判断して立ち去った。

曹操に仕える

建安けんあん元年(196年)、郭嘉かくか荀彧じゅんいく推薦すいせんにより、曹操そうそうし出された。そこで郭嘉かくかと天下の事を議論した曹操そうそうは、「わしに大業をさしめるのは、間違いなくこの人である」と言い、郭嘉かくかもまた喜んで、退出すると「私はまことの主君を得た」と言った。郭嘉かくか曹操そうそうに上表されて司空しくう軍祭酒ぐんさいしゅとなった。

呂布討伐

建安けんあん2年(197年)、曹操そうそうが「わし袁紹えんしょうを討伐したいと思っているが、奴の領地は広く兵は強いので、力では相手にならない」と言うと、郭嘉かくかは「袁紹えんしょうの10の敗因と曹操そうそうの10勝因」をべ、袁紹えんしょうが北の公孫瓚こうそんさんと戦っている間に、東の呂布りょふを討つことを進言した。

そこで曹操そうそう呂布りょふを征伐して3度撃破し、呂布りょふは退却して守備を固めた。この時、士卒たちが疲弊ひへいしていたので、曹操そうそうは軍を引きげて帰還したいと思ったが、郭嘉かくかは勝ちに乗じて一気に攻撃するように進言し、その結果呂布りょふらえることができた。

劉備の処遇

呂布りょふに敗れた劉備りゅうび曹操そうそうの元にのがれてくると、曹操そうそう劉備りゅうび豫州牧よしゅうぼくに任命した。

この時、ある人は「劉備りゅうびには英雄のこころざしがあります。今始末しておかないと、後に必ずわざわいをなすでしょう」と進言したが、郭嘉かくかはこの言葉を認めた上で、

「追いめられて身を寄せて来た者を殺しては、これからまねくべき智謀の士はさいしんいだき、別の主君を選ぶでしょう。1人のわざわいを除くことによって、かえって四海(天下)の期待をくじくことになります」

と言った。この郭嘉かくかの進言を聞いた曹操そうそうは、笑いながら「君はよく分かっているな」と言った。*1

建安けんあん4年(199年)、曹操そうそう劉備りゅうびに命じて袁術えんじゅつを迎撃させようとすると、郭嘉かくか程昱ていいくと共に車で駆けつけて「劉備りゅうびを自由にすれば変事が起こりますぞ」といさめたが、すでに劉備りゅうびは立ち去った後であり、結局劉備りゅうび徐州じょしゅうで兵をげてそむいた。


建安けんあん5年(200年)、袁紹えんしょう官渡かんとで対峙した曹操そうそうは、一刻も早く徐州じょしゅう劉備りゅうびを征伐したいと考えていたが、もし袁紹えんしょうにその背後を突かれたならば、進退にきゅうしてしまう事を恐れ、郭嘉かくかに相談した。

すると郭嘉かくかは「袁紹えんしょうは決断が遅いので、すぐに攻めて来ることはないでしょう。劉備りゅうびは兵を起こしたばかりで人々を心服させておりません。今すぐ劉備りゅうびを攻撃すれば、必ずや撃ち破ることができるでしょう。今こそ存亡の好機、のがしてはなりません」と進言した。

そこで曹操そうそう劉備りゅうびを征伐し、劉備りゅうびは敗北して袁紹えんしょうの元にのがれたが、それでも袁紹えんしょうは出陣しなかった。

脚注

*1魏書ぎしょ郭嘉伝かくかでんが注に引く魏書ぎしょより。これと並んで注に引かれている傅子ふしでは、逆に劉備りゅうびを殺すように進言している。

河北平定

その後郭嘉かくかは、曹操そうそうにつき従って袁紹えんしょうを破り、また袁譚えんたん袁尚えんしょう討伐につき従ってたびたび勝利を得た。将軍しょうぐんたちは勝ちに乗じてさらに攻撃しようとしたが、郭嘉かくかは「袁譚えんたん袁尚えんしょうは、事を急げば助け合いますが、攻撃をゆるめればきっと争い合うようになるでしょう」と言い、曹操そうそうはこの意見に従って、荊州けいしゅう劉表りゅうひょうを征伐する振りをして南に向かった。

軍が豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん西平県せいへいけんに着いた頃、袁譚えんたん袁尚えんしょう郭嘉かくかの予想通り冀州きしゅうの主権を争い合うようになり、敗れた袁譚えんたん曹操そうそうに降伏を願い出た。曹操そうそうは引き返して冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんを平定し、その後、袁譚えんたんそむくとこれを攻撃して冀州きしゅうを平定した。冀州きしゅうが平定されると、郭嘉かくか洧陽亭侯いようていこうに封ぜられた。

またこの時、郭嘉かくか河北かほくの名士をまねくように進言し、実行された。


建安けんあん12年(207年)、曹操そうそう幽州ゆうしゅうに逃走した袁尚えんしょうと彼をかくま烏丸族うがんぞくを征討しようとした。

この時、部下たちの多くは「劉表りゅうひょう劉備りゅうび許県きょけんを襲撃させるのではないか」と心配したが、郭嘉かくかは「劉表りゅうひょうはただ座って議論するだけの人物である」と論じ、烏丸族うがんぞく征討を支持した。

曹操そうそうの軍勢が冀州きしゅう河間国かかんこく易県えきけんまで来ると、郭嘉かくかは「軍事は神のごと迅速じんそくさをとうとびます(兵は神速しんそくたっとぶ)。輜重しちょうめ置いて軽装の兵のみで急行し、敵の不意を突くのがよろしいでしょう」と進言した。

曹操そうそうはこの進言に従って真っ単于ぜんうの本拠地を目指し、蹋頓とうとつ名王めいおう以下のおもった者を斬った。袁尚えんしょう袁煕えんき幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに逃亡したが、遼東太守りょうとうたいしゅ公孫康こうそんこうに斬られ、曹操そうそうの元に首が届けられた。

郭嘉の死

烏丸うがん征伐から帰還すると郭嘉かくか危篤きとくとなり、曹操そうそうは何度も見舞いの使者をったが、38歳で亡くなった。

曹操そうそうは「800戸を加増し、合わせて千戸とする」ように上書し、貞侯ていこうおくりなして、子の郭奕かくえきに後を継がせた。

曹操の評価
  • 郭嘉かくかは深く計略に長じ、物事の本質に通じており、曹操そうそうはよく「奉孝ほうこう郭嘉かくかあざな)だけがわしの意図をよくわきまえている」と言っていた。
  • 陳羣ちんぐんは「郭嘉かくかの品行がおさまらぬ」と批判し、たびたび朝廷で郭嘉かくかを起訴したが、郭嘉かくかは平然としてかいさなかった。曹操そうそうはさらに一層 郭嘉かくかを尊重したが、陳羣ちんぐんが「よく公正さを保持している」ことにも満足していた。
  • 郭嘉かくか葬儀そうぎに臨席した曹操そうそうは、荀攸じゅんゆうらに言った。「諸君らはみなわしと同年輩で、ただ奉孝ほうこう郭嘉かくかあざな)だけが一番若かった。天下の事が済めば、彼に後事をたくそうと思っていたのに、若くして死んでしまった」
  • 曹操そうそう荀彧じゅんいくに手紙を送ってべた。「奉孝ほうこう郭嘉かくかあざな)に対する追惜ついせきの念は、心を離れようとしない。の者がくだした時事・軍事に対する判断にかなう者はいなかった。
    また、人間は病気を恐れる者が多いものだ。南方には流行病はやりやまいがあることから、奉孝ほうこう郭嘉かくかあざな)は常に『私が南方に行けば、生きて帰れまい』と言っていた。それなのに、一緒に計略を論じ合うと『先に荊州けいしゅうを平定するのが妥当だとうです』と言うではないか。
    これはただ計略の判断が真心から出ているだけでなく、何としても功業を打ち立てんとして、定命をも放棄ほうきした言葉だ。彼の人に仕える心はこれ程であったのだ。どうして私がこのことを忘れることができようかっ!」
  • 曹操そうそう荊州けいしゅうを征伐して帰還し、巴丘はきゅう疫病えきびょうの流行にって軍船を焼いた時、嘆息たんそくして言った。「郭奉孝かくほうこう郭嘉かくか)がおれば、わしをこんな目にわせなかったであろうに…。かなしいかな奉孝ほうこうっ!いたましいかな奉孝ほうこうっ!しいかな奉孝ほうこうっ!」

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郭奕かくえき伯益はくえき

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭嘉かくか。子に郭深かくしん

父・郭嘉かくかの後を継いだ。

太子文学たいしぶんがくとなったが、早くになくなった。

魏書ぎしょでは「物事の道理に通暁つうぎょうしていた」とたたえられているものの、王昶おうちょう家誡かかいでは、

酒脱しゃだつ(さっぱりしていて俗気ぞくけがないこと)で理解が早くものりであったが、度量の広さという点では不足しており、気に入ればその人を”山”のように重んじるが、気に入らなければ”草”のように軽んじるなど、他人を尊敬したり軽蔑けいべつしたりする様子が極端であった。

私は知人として彼に親しみを感じていたが、我が子がそのような行為をすることを願わない」

と評された。


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生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭奕かくえき。子に郭猟かくりょう。兄弟に郭敞かくしょう

父・郭奕かくえきの後を継いだ。


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生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭奕かくえき。兄弟に郭深かくしん

才能と見識があり、位は散騎常侍さんきじょうじにまで昇った。


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生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭深かくしん

父・郭深かくしんが亡くなると、その後を継いだ。


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【三国志人物伝】総索引