正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊱(郝温・郝光・郝旦・郝普・郝萌)です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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か㊱
郝(かく)
郝温
生没年不詳。幽州・代郡の大官。
曹操が荊州を平定した建安13年(208年)頃、幽州・代郡は大いに乱れ、烏丸王とその大人(部族長)合わせて3人がそれぞれ勝手に単于と称して郡の政治を支配しており、当時の代郡太守は彼らを取り締まることができず、あろうことか郡の大官・郝温、郭端らは単于に与していた。
曹操は司隷・河東郡・聞喜県出身の裴潜に精鋭の軍を与え、彼らを討伐して鎮圧させようと考えたが、裴潜は「軍威をもって圧力をかけるべきではありません」と言い、1台の車だけで代郡に赴いて彼らを慰撫した。
すると単于たちは驚喜して、冠を外し額を地面に擦りつけ、前後にわたって掠奪した婦女子・財物をすべて返還した。
裴潜は郡内の大官のうち単于たちと一体となっていた郝温・郭端ら10余人を取り調べて処刑した。これにより北の国境地帯は大いに震え戦き、民衆は心から帰服した。
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郝光
生没年不詳。曹操配下の済南太守。
荊州を平定した曹操は、司馬芝を青州・済南郡(済南国)・菅県の県長に任命したが、当時天下は立て直されたばかりで法律を無視する者が多かった。
郡の主簿・劉節は古い家柄の親分で、千余軒の子分を持ち、郡の外に出ると盗賊となり、中に入ると役人の統治を乱していた。
しばらくして、司馬芝が劉節の子分の王同らを兵士として取り立てようとしたところ、彼の掾史が「劉節の家は前にも後にも役務を提供したことがございません。命令が届いた時には匿ってしまい、必ず保留扱いとなります」と言いましたが、司馬芝は聞き入れず、劉節に手紙を送って言った。
「君は大家であり、そのうえ郡では股肱の臣である。それなのに門下の客人はいつも役務に携わらないでいる。庶民たちの怨嗟の的となっている上、噂が上聞に達することもあるのだ。今、王同らを兵として徴発している。願わくはこの機会に出立させよ」
すでに兵は郡に集結しているのに、劉節は王同らを匿い、一方では督郵を動かして「兵士調達不足」の廉で県の責任を追求させたので、県の掾史は切羽詰まって、王同の代わりに行くことを願い出た。
そこで司馬芝は、早馬で済南郡に公文書を送り、詳しく劉節の罪を陳情した。
太守の郝光は平素から司馬芝を尊敬し信頼していたから、即座に劉節を王同の代わりに行かせたので、青州では司馬芝を「郡の主簿を兵卒とした」と囃した。
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郝旦
生没年不詳。烏丸族の大人(部族長)。
後漢の建武25年(49年)、烏丸族の大人(部族長)・郝旦ら9千余人が部下を引き連れて漢の朝廷にやって来た。
光武帝はその主立った首領たち80人以上を侯や王に封じ、彼らを長城の内側に居住させ、遼東属国・遼西郡・右北平郡・漁陽郡・広陽郡・上谷郡・代郡・雁門郡・太原郡・朔方郡の諸郡に分けて住まわせ、同じ烏丸族の者たちを内地に移るように招き寄せさせた。
彼らに衣食を支給し、護烏丸校尉*1の官を置いてその統治と保護に当たらせた。
こうした施策の結果、烏丸族は漢のために塞外(長城の外側)の偵察と警備の任務に当たり、匈奴や鮮卑に攻撃をかけるようになった。
脚注
*1司徒掾の班彪の上言によって護烏丸校尉の官が置かれ、その役所は上谷郡の甯城にあった。
郝普・子太
生没年不詳。荊州・義陽郡の人。
建安19年(214年)、劉備が蜀(益州)を平定すると、郝普は零陵太守に任命された。
孫権は諸葛瑾を派遣して荊州の諸郡を返還するように求めたが、劉備は応じなかった。そこで孫権は、長沙郡・零陵郡・桂陽郡の太守を任命して任地に赴かせたが、みな関羽に追い払われてしまった。
これにひどく立腹した孫権は、呂蒙に2万の兵を与えて長沙郡・零陵郡・桂陽郡の3郡を攻めさせた。呂蒙が軍を進めて廻し文をすると、長沙郡と桂陽郡の2郡は降伏したが、零陵太守の郝普だけは城に立て籠もって降伏しなかった。
これに劉備は、蜀(益州)を出て自ら南郡・公安県までやって来ると、関羽に3つの郡が呉に奪われるのを阻止させようとした。
孫権はこの時陸口にいたが、魯粛に命じて長沙郡・益陽県で関羽に対抗させ、呂蒙には郝普が籠もる零陵郡を放棄して、急いで軍を還して魯粛に力添えをするように命じた。
呂蒙は、長沙郡を平定して零陵郡に向かう途上、長沙郡・酃県で零陵太守・郝普と古なじみの鄧玄之を車に載せ、彼に降伏を勧めさせるつもりでいたが、そんな時に孫権からの「軍を還すように」との命令書を受け取った。
呂蒙はそのことを誰にも言わず、夜中に部将たちを集めて作戦を授け、夜明けと共に城を攻撃することを命じると、その席上にいた鄧玄之に、
「左将軍(劉備)は漢中郡で夏侯淵の包囲を受け、荊州・南郡にいる関羽には至尊(孫権)が自ら対陣しておられる(郝普に援軍は来ない)」
との嘘の情報を吹き込んで、郝普に降伏を勧めるように言った。
鄧玄之が郝普に会って呂蒙の意向を詳しく伝えると、郝普は畏れてついに降伏することを決意し、鄧玄之は先に戻って呂蒙に報告した。
すると呂蒙は、あらかじめ4人の部将にそれぞれ百人の兵を率いさせ「郝普が出て来たら、すぐに城門を固める」ように命じた。呂蒙は郝普を迎えに出て挨拶が終わると、郝普に孫権からの手紙を出して見せ、手を打って大笑いした。
郝普はその手紙を見て「劉備が公安県におり、しかも関羽は3郡奪還のために益陽県にいること」を知って、降伏したことを恥じて後悔し、地に突っ伏してしまった。
呂蒙は、孫皓(孫晧)*2を零陵郡に留めて後事を託すと、その日のうちに軍を率いて益陽県に赴いた。
劉備が和平の盟約を結びたいと言ってきたので、孫権は郝普らを蜀(劉備)に返し*3、湘水を境にして荊州を2つに分け、零陵郡は蜀(劉備)に返した。
魏の明帝(曹叡)は青州出身の隠蕃に、「偽って呉に投降し、廷尉の官に就いて重臣たちを離反するように仕向けよ」と命じた。
黄龍2年(230年)、隠蕃が呉に投降して来ると、侍中の胡綜は「隠蕃の上書は、誇大なことを述べている点では東方朔に共通するところがあり、巧妙な詭弁では彌衡に似てはおりますが、才能の点では両者のどちらにも及びません」と評価し、孫権は、隠蕃が盛んに司法のことを論じたことから、彼を廷尉監(裁判官)に任命した。
左将軍の朱拠と廷尉の郝普は「隠蕃には王者を補佐するに足る才能がある」と称賛し、中でも郝普は隠蕃と親しく交わり、いつも彼が「不当に低い待遇を受けている」と不平を鳴らしていた。
後に隠蕃が謀叛を謀り、事が発覚して誅殺されると、特に隠蕃に傾倒していた郝普は、孫権に「あなたは前に盛んに隠蕃を称賛し、しかも彼が不当な冷遇を受けているとして朝廷に恨み言を述べておった。隠蕃を謀叛に走らせたのは、みなあなたに責任があるのだ」との問責を受け、自殺した。
脚注
*2原文では孫河だが、孫河は建安9年(204年)に亡くなっているので、ちくま学芸文庫『正史三国志』の記述に従った。孫河と同姓同名の別人の可能性もある。
*3「蜀(劉備)に返された」とあるが、その後、呉(孫権)に仕えるようになった経緯は不明。楊戯の『季漢輔臣賛』には「(郝普は)呉の将軍・呂蒙に謀られ、開城して呂蒙の下に出頭した。呉において廷尉にまでなった」とあり、蜀(劉備)に返された記述はない。
出典
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郝萌
生年不詳〜建安元年(196年)没。司隷・河内郡の人。呂布配下の大将。
建安元年(196年)6月のある夜半、呂布の大将の郝萌が叛旗を翻し、兵を率いて呂布の政庁のある徐州・下邳国・下邳県の役所に侵入した。
郝萌は政堂(廳)に入る小門(閤)の外まで来て、声を揃えて大喚声を上げて小門(閤)を攻撃したが、小門(閤)が堅固だったので、中に入ることができなかった。
呂布は反乱者が誰か見当がつかなかったが、直ちに妻を引き連れて、頭巾もかぶらず肩も露わな姿で厠の天井から壁を伝って脱出し、都督の高順の陣営まで逃げて、すぐさま門を押し開けて中に入った。
すると高順は「将軍(呂布)、何か気づかれたことはありませんか」と問い、呂布は「河内(司隷・河内郡)の訛りがあった」と答えると、高順は「それは郝萌がです」と言った。
高順は即刻軍兵を武装させ、下邳県の役所に突入し、郝萌の軍勢に一斉に弓や弩(クロスボウ)を射かけた。郝萌の軍勢は算を乱して逃走し、夜明けに元の陣営に立ち戻った。
すると郝萌の部将・曹性が郝萌に叛いて決闘し、郝萌は曹性に斬りつけて傷を負わせ、曹性は郝萌の片腕を斬り落とした。高順は郝萌の首を斬り落とすと、曹性を寝台に載せて呂布の元へ送った。
呂布が経緯を問うと曹性は「郝萌は袁術の内意を受けていたのです」と言った。そして呂布が続けて「この計画を立てたのは誰だ?」と問うと、曹性は「陳宮が共謀者です」と答えた。
この時陳宮は席上におり、顔を真っ赤にしたため、側にいた者はみなそれと気づいたが、呂布は陳宮が大将であることから不問に付した。
曹性は「郝萌はいつもこの計画について尋ねますので、私は呂将軍(呂布)は総大将として神のご加護がございますので、攻撃することは不可能だと申しておりました。郝萌の気違い分からず屋振りがここまで来るとは、思いもよりませんでした」と言った。
呂布は曹性に向かって「卿は健兒だっ!」と言って手厚く看護してやり、負傷が治癒すると、元の郝萌の軍勢を鎮撫させ、その軍勢を統率させた。
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