正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㊳潁川郡えいせんぐん郭氏かくし②(郭弘かくこう郭躬かくきゅう郭晊かくしつ郭鎮かくちん郭賀かくが郭禎かくてい郭時かくじ郭禧かくき郭鴻かくこう)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

潁川郡郭氏②系図

潁川郡郭氏②系図

潁川郡えいせんぐん郭氏かくし②系図


※親が同一人物の場合、左側が年長。


この記事では潁川郡えいせんぐん郭氏かくし②の人物、

についてまとめています。


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か㊳(潁川郭氏②)

第1世代(郭弘)

郭弘かくこう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。子は郭躬かくきゅう

一族は代々高官についていた。

郭弘かくこう小杜律しょうとりつ*1を学び、潁川太守えいせんたいしゅ寇恂こうじゅん決曹掾けっそうえんに任命されて裁判を行うこと30年に至ったが、郭弘かくこうの法律の運用は公平であった。

郭弘かくこうに判決を下された人々は、みなその判決に納得してうらみに思う者はなく、郡内の人々は彼を徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん于公うこう*2になぞらた。

95歳で亡くなった。

脚注

*1前漢ぜんかん杜延年とえんねんがまとめた判例集。

*2徐州じょしゅう東海郡とうかいぐんの人。前漢ぜんかん丞相じょうしょう于定国うていこくの父。東海郡とうかいぐん決曹掾けっそうえんとなり、その裁判は公平で、法律により罰せられた者も、于公うこうさばいた者はみなうらまなかった。


第2世代(郭躬)

郭躬かくきゅう仲孫ちゅうそん

生年不詳〜永元えいげん6年(94年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭弘かくこう。次子に郭晊かくしつ

若くして父・郭弘かくこうの学問(小杜律しょうとりつ*1)を継承し、常に数百人の弟子に講義をしていたが、のち郡吏ぐんりとなり、公府(三公さんこう)に辟召まねかれた。

永平えいへい年間(58年〜75年)に奉車都尉ほうしゃとい竇固とうこ匈奴きょうど征伐をした際、騎都尉きとい秦彭しんほうがその副官となったが、その秦彭しんほうが別働隊の屯営で法にのっとって人を斬った時、竇固とうこは「秦彭しんほうは独断専行であった」と上奏し、彼を誅殺ちゅうさつすることをうた。

そこで顕宗けんそう明帝めいてい)は、公卿こうけい・朝臣を召集して秦彭しんほうの罪科を議論させたところ、議論に参加した者はみな竇固とうこの上奏に賛同していたが、郭躬かくきゅうはただ1人、

「法律にのっとれば、秦彭しんほうはこれを斬ることができます」

と言った。これに明帝めいていが、

「軍征において校尉こういは大将の統制下にあるはずだ。(誅殺ちゅうさつする権限を示す)斧鉞ふえつを持たない秦彭しんほうが、独断で人を殺すことは許されるだろうか」

うと、郭躬かくきゅうは、

「大将の統制下とは、大将が直接指揮する部曲ぶきょく(部隊)においてのことです。秦彭しんほうは別働隊を任されて本営と独立して指揮をっていたのですから、これには当たりません。兵事は一刻を争いますので、処罰に先んじて大将にうかがいを立てる必要もありません。また、かんの制度における棨戟けいげき*3斧鉞ふえつに当たります。法律上、秦彭しんほうは無罪です」

と答え、明帝めいてい郭躬かくきゅうの言葉に従った。


また、兄弟で共に人を殺した者がおり、処罰が決まらなかった時のこと。

明帝めいていは兄が弟を正しく教えさとさなかったことを重くみて、兄を死刑として弟の死罪を減じたが、中常侍ちゅうじょうじ孫章そんしょうみことのりを伝える時、あやまって「兄弟共に死刑である」と言ってしまった。

尚書しょうしょがこれを「孫章そんしょうみことのりを勝手に変えたので、その罪は腰斬ようざんに当たります」と上奏すると、明帝めいてい郭躬かくきゅうしてこれについてうた。

すると郭躬かくきゅうは「孫章そんしょうの罪は罰金に当たります」と言い、「法令には故意こいと過失の区別がございます。孫章そんしょうが命令を間違えて伝えたことは過失に当たり、過失は刑罰が軽くなります」と説明した。

明帝めいていが「孫章そんしょうは囚人と同県であった。過失ではなく故意こいにやったのではないか」と言うと、郭躬かくきゅうは、

「『しゅうの道は砥石といしのように平らで、矢のように真っぐ』であり、『君子は人が自分をあざむいているのではないかとうたがってかかることはしない』と言います。君王は天にのっとり、刑罰は個別的な場合に合わせて恣意的しいてきもちいられてはなりません」

と言い、明帝めいていは「その通りだな」と言った。

その後郭躬かくきゅう廷尉正ていいせいうつったが、法に触れて罷免ひめんされた。


のちに3度うつって、元和げんわ3年(86年)に廷尉ていいを拝命した。

郭躬かくきゅうは一族で代々法律をつかさどり、寛容かんようで公平であることにつとめた。法務官を統括するに及んで、判決を下し刑罰をさだめ、あわれみゆるすことが多く、そこでもろもろの重罪の法令で刑罰を軽くするべきもの41ヶ条を列挙して上奏し、それらはすべて施行されてれいに明記された。

章和しょうわ元年(87年)、天下の囚徒で4月丙子へいし以前に収監された者をゆるして死罪一等を減じ、むち打ちにすることなく、涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんおもむかせて辺境の守備に当たらせたが、逃亡していまだに見つかっていない者には法令は適用されなかった。

この時、郭躬かくきゅう封事ふうじ*4を上奏して、

「陛下(章帝しょうてい)の恩愛が囚徒の死罪を減じて辺境の守備に当たらせたのは、人命を重んじたからです。今、死罪で逃亡している者はおおむね1万人にのぼり、さらに恩赦おんしゃ以来、逮捕した者も多くおります。ところが詔令しょうれいは適用されず、みな死罪に当てられております。つつしんで考えますに、天子てんしの恩愛は寛大かんだいゆるさないものはなく、死罪以下すべての囚徒が再び生きられるようになりましたが、逃亡していた者だけは逮捕されてもその恩沢を受けておりません。わたくしが思いますには、恩赦おんしゃの前に死罪をおかして恩赦おんしゃの後に投獄された者は、みなむち打ちにすることなく、金城郡きんじょうぐんおもむかせていのちまっとうさせ、辺境に利益をもたらすべきです」

と申し上げた。

粛宗しゅくそう章帝しょうてい)は郭躬かくきゅう封事ふうじ*4を「し」とし、すぐにみことのりを下してこれをゆるした。

郭躬かくきゅうは法律の条文についての意見を報告して朝廷の裁断(善悪の判断)を求め、それによりいのちの助かった者も多かった。

永元えいげん6年(94年)、郭躬かくきゅうは在職中に亡くなった。

脚注

*1前漢ぜんかん杜延年とえんねんがまとめた判例集。

*3行列の前方を行く者が持った儀礼用のげき

*4密封して意見などを上奏する文書。


第3世代(郭晊・郭鎮)

郭晊かくしつ

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭躬かくきゅう郭躬かくきゅうの次子(中子)。

郭晊かくしつもまた法律に通じていた。

官位は南陽太守なんようたいしゅに至り、治績をあげて名声をはくした。


郭鎮かくちん桓鐘かんしょう

生年不詳〜永建えいけん4年(129年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭躬かくきゅうの弟。子に郭賀かくが郭禎かくてい郭時かくじ。弟に郭禧かくき伯父おじ郭躬かくきゅう

若い頃から家学である「法律」をおさめた。

太尉府たいいふ辟召まねかれ、再びうつって延光えんこう年間(122年〜125年)に尚書しょうしょとなった。

中黄門ちゅうこうもん孫程そんていが、中常侍ちゅうじょうじ江京こうけいらを誅殺ちゅうさつして済陰王せいいんおう劉保りゅうほう順帝じゅんてい)を即位させるに及び、郭鎮かくちん羽林兵うりんへいひきいて衛尉えいい閻景えんけいを刺し殺して大功をげた。

再びうつって尚書令しょうしょれいとなった。太傅たいふ三公さんこうは、

郭鎮かくちんは敵の白刃はくじんをものともせず賊臣ぞくしんをその手で斬り殺し、姦悪の徒は駆逐されて宗廟そうびょうは安寧となりました。その功績は(呂氏りょしを滅ぼした)劉章りゅうしょうに匹敵します。爵位と封土を与え、その忠義と堅い節操を鼓舞するのが良いでしょう」

と上奏し、郭鎮かくちん定穎侯ていけいこうに封ぜられて食邑しょくゆう2千戸を与えられた。

その後河南尹かなんいんを拝命し、廷尉ていいに転任したがのち罷免ひめんされ、永建えいけん4年(129年)に家で亡くなった。

順帝じゅんていみことのりを下して墓所を下賜かしし、のち郭鎮かくちんの子・郭賀かくがが亡くなると、郭鎮かくちんの功績を追慕して昭武侯しょうぶこうおくりな下賜かしした。


第4世代(郭賀・郭禎・郭時・郭禧)

郭賀かくが

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭鎮かくちん。弟に郭禎かくてい郭時かくじ

郭鎮かくちんの長子である郭賀かくがは爵位を継ぐべき立場であったが、小弟の郭時かくじに爵位をゆずって行方ゆくえくらました。

数年後、順帝じゅんてい大鴻臚だいこうろみことのりを下し、州郡に命令して郭賀かくがを探させたので、郭賀かくがは仕方なく姿を現して封爵を受け、累遷るいせんして廷尉ていいに至った。

郭賀かくがが亡くなると、順帝じゅんてい郭賀かくがの父・郭鎮かくちんの功績を追慕し、みことのりを下して郭鎮かくちん昭武侯しょうぶこうおくりな下賜かしし、郭賀かくがおくりな成侯せいこうとした。


郭禎かくてい

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭鎮かくちん。兄に郭賀かくが。弟に郭時かくじ

郭賀かくがの弟・郭禎かくていもまた法律に長じていたので、官位は廷尉ていいに至った。


郭時かくじ

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭鎮かくちん。兄に郭賀かくが郭禎かくてい

兄の郭賀かくがから父・郭鎮かくちんの爵位をゆずられたが、受けなかった。


郭禧かくき

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭鎮かくちんの弟。子に郭鴻かくこう

若い頃から家学である「法律」に通暁つうぎょうし、また儒学じゅがくを好んだことから名声があった。

延熹えんき年間(158年〜167年)に郭禧かくきもまた廷尉ていいとなり、建寧けんねい2年(169年)に劉寵りゅうちょうに代わって太尉たいいとなった。


第5世代(郭鴻)

郭鴻かくこう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陽翟県ようてきけんの人。父は郭禧かくき

官位は司隸校尉しれいこういに至り、城安郷侯じょうあんきょうこうに封ぜられた。



潁川郡えいせんぐん郭氏かくし郭弘かくこう以降、数世代にわたってみな法律学を伝え、子孫でこう三公さんこう)に至った者は1人、廷尉ていいは7人、こうに封ぜられた者は3人、刺史しし二千石にせんせき太守たいしゅ)・侍中じちゅう中郎将ちゅうろうしょうになった者は20余人、侍御史じぎょし廷尉ていいの属官である廷尉正ていいせい廷尉監ていいかん廷尉平ていいへいになった者は数え切れない程である。


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【三国志人物伝】総索引