正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉟、太原郡たいげんぐん郝氏かくし郝昭かくしょう郝凱かくがい)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

太原郝氏系図

太原郡郝氏系図

太原郡たいげんぐん郝氏かくし系図


この記事では太原郡たいげんぐん郝氏かくしの人物、

についてまとめています。


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か㉟(太原郝氏)

第1世代(郝昭)

郝昭かくしょう伯道はくどう

生没年不詳。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐんの人。子に郝凱かくがい

勇猛で力強く、若くして軍隊に入って部曲督ぶきょくとく(部隊長)となり、度々戦功を立てて雑号将軍ざつごうしょうぐんとなった。

建安けんあん25年(220年)に曹操そうそうが亡くなると、雍州ようしゅう西平郡せいへいぐん麹演きくえんが反逆して護羌校尉ごきょうこういを自称したが、金城太守きんじょうたいしゅ蘇則そそくの討伐を受けて降伏した。

後に麹演きくえんがまたも近隣の郡と結んで反乱を起こすと、涼州りょうしゅう張掖郡ちょうえきぐん張進ちょうしん涼州りょうしゅう酒泉郡しゅせんぐん黄華こうか太守たいしゅを自称して麹演きくえんに呼応。涼州りょうしゅう武威郡ぶいぐんの3種族の蛮族ばんぞくは道を断絶させ、雍州ようしゅう涼州りょうしゅうの豪族たちは張進ちょうしんらにつき従った。

郝昭かくしょう魏平ぎへいは以前から金城県きんじょうけんに駐屯・守備していたものの、詔勅しょうちょくにより西方に渡ることを禁じられていたが、郝昭かくしょうは「大軍の到着を待っていては、ぞくの勢力は増大するばかりである。たとえ詔勅しょうちょくに違反しても、機にかなった方策を専断しても良いはずだ」と言う金城太守きんじょうたいしゅ蘇則そそくの言葉に従って、武威郡ぶいぐんを救援して3種族の蛮族ばんぞくを降伏させ、毌丘興かんきゅうこう毋丘興ぶきゅうこう)と共に張掖郡ちょうえきぐんにいる張進ちょうしんを攻撃して、蘇則そそく西平郡せいへいぐん平定に協力した。

太和たいわ元年(227年)春正月、西平郡せいへいぐん麹英きくえいが反乱を起こして臨羌県令りんきょうけんれい西都県長せいとけんちょうを殺害すると、郝昭かくしょう鹿磐ろくばんと共にこれを討伐して麹英きくえいを斬った。郝昭かくしょう河西かせい一帯を鎮守ちんじゅすること10年以上に及び、民衆や異民族はみな畏服いふくした。


太和たいわ2年(228年)12月、しょく諸葛亮しょかつりょうは、郝昭かくしょうが守る雍州ようしゅう扶風郡ふふうぐん陳倉県ちんそうけんを包囲すると、郝昭かくしょうと同郷の靳詳きんしょうつかわして城壁の外から郝昭かくしょうを説得させた。

郝昭かくしょうものやぐらの上からそれに答えて「の王室のおきては君もよく承知の通りだし、私の性格もまた君の知っている通りだ。私はから多大な恩顧おんこを受け、位も高い。君は何も言う必要はない。私はただ死をして戦うだけだ。君は立ち戻ってよろしく諸葛亮しょかつりょうに伝え、攻撃するが良いと伝えてくれ」と言った。

靳詳きんしょう郝昭かくしょうの言葉を諸葛亮しょかつりょうに報告したところ、諸葛亮しょかつりょうはまたもや靳詳きんしょうつかわして「軍勢の数も武器もかなわないのだから、無駄に自滅することのないように」と、重ねて郝昭かくしょうを説得させたが、郝昭かくしょうは「先に言ったことは変わらない。私は君を知っているが、せん(矢)は君のことを知らない」と言ってゆずらないので、靳詳きんしょうはついにあきらめて立ち去った。

諸葛亮しょかつりょうは、時運の軍勢数万に対し、郝昭かくしょうの兵はわずか千余りに過ぎず、またの救援軍もすぐには到着できないだろうと判断し、軍勢を前進させて郝昭かくしょうを攻撃し、雲梯うんてい*1衝車しょうしゃ*2を動員して陳倉城ちんそうじょうを攻めた。

これに郝昭かくしょうが、雲梯うんてい*1に向かって火矢を放つと、その梯子はしごの上にいた者たちはみな焼け死んでしまった。また衝車しょうしゃ*2に対しては、なわしばり合わせた石で押しつぶしてさいした。

次に諸葛亮しょかつりょうが、改めて高さ百尺(約24.2m)の井闌せいらんこうじょうとう)を作って城中に矢をかけ、土のかたまりほりめて真っぐに城壁を登ろうとすると、郝昭かくしょうは城壁の内側で2重の牆壁しょうへきを築いて対抗した。

諸葛亮しょかつりょうがまたトンネルを作って城壁の内部に侵入しようとしたところ、郝昭かくしょうは城内から地中を掘ってそのトンネルを横から断絶した。

昼夜にわたって攻城戦が続くこと20日余り、諸葛亮しょかつりょうは打つ手がなく、の救援軍が到着すると撤退した。


郝昭かくしょう詔勅しょうちょくによって「善守したこと」をたたえられ、列侯れっこう爵位しゃくいたまわった。

郝昭かくしょうが帰還した際、明帝めいてい曹叡そうえい)は彼を引見してその労をねぎらうと、中書令ちゅうしょれい孫資そんしの方を振り返って「君の郷里には、君と同じようならしい人物がいて、大将としてしゃくしゃくと光り輝いている。ちん(私)にはもはや何の心配もない」と言い、なお大いに彼を任用したいと思った。

おりしも郝昭かくしょうは病気で亡くなった。

脚注

*1城壁を乗り越えるための折りたたみ式の長い梯子はしごを搭載した攻城兵器のこと。

*2装甲がほどこされたこうじょうとうを搭載した攻城兵器のこと。臨衝りんしょう対楼たいろうとも呼ばれる。


郝昭かくしょう」の関連記事

第2世代(郝凱)

郝凱かくがい

生没年不詳。幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐんの人。父は郝昭かくしょう

父の郝昭かくしょうが亡くなる時、

「私は将軍しょうぐんであったから、将軍しょうぐんなんて大した物ではないことを知っているし、私はたびたび墓をあばいて、その木を取り出して武器を作ったから、手厚いまいそうが死者にとって何の役にも立たないことも知っている。

お前は必ず今の官服に包んで私をまいそうせよ。生きている人間にだけ居場所があるのだ。死んだ者にはその上どこに居場所があろうか。

ここは先祖代々の墓所から遠く離れているが、東西南北どこにしかばねめようと、お前の都合の良いようにせよ」

遺言ゆいごんされた。



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