正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉒、武威郡賈氏(賈詡・賈穆・賈訪・賈模・賈胤・賈龕・賈疋)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
武威賈氏系図①(『魏書』賈詡伝)
武威郡賈氏系図①
武威賈氏系図②(『新唐書』宰相世系五下)
『新唐書』にある賈氏の系図は『魏書』賈詡伝とは内容が異なっています。この記事は『魏書』賈詡伝を基に作成していますが、参考までに『新唐書』における賈詡の前後4代の系図を載せておきます。
武威郡賈氏系図②
- 賈沂:秘書監となった。父は遼東太守となった賈淵の第3子・賈丕。子に賈廷玉、賈秀玉。
- 賈秀玉:武威太守となった。子に賈衍。
- 賈衍:兗州刺史となった。子に賈龔。
- 賈龔:軽騎将軍となった。涼州・武威郡に居を移した。子に賈綵、賈詡。
- 賈詡・文和:魏の太尉となった。諡は肅侯(粛侯)。子に賈璣。
- 賈璣:駙馬都尉となり関内侯に封ぜられた。冀州・魏郡・長楽県に居を移した。子に賈通、賈延。
- 賈通:侍中、車騎大将軍となった。子に賈仲安、賈仲謀、賈仲達。
- 賈仲達:潁川太守となった。子に賈疋・彦度。
- 賈疋・彦度:軽車将軍、雍州刺史となり酒泉郡公に封ぜられた。子に賈乂、賈康。
参考記事
以下、『魏書』賈詡伝を基に、武威郡賈氏の人物、
についてまとめています。
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か㉒(武威賈氏)
第1世代(賈詡)
賈詡・文和
生没年不詳。涼州・武威郡・姑臧県の人。子に賈穆、賈訪。
出自
若い頃の賈詡を認める者はいなかったが、ただ涼州・漢陽郡出身の閻忠だけは彼を評価し、「賈詡には張良や陳平のような奇略がある*1」と言っていた。
孝廉に選ばれて郎となったが、病気のため官職を辞して西方へ帰る途中、司隷・右扶風・汧県まで来た時、氐族の叛民に遭って同行の数十人はすべて捕らえられた。
この時賈詡は「私は段公(段熲)の外孫である。お前たちは私を(殺した後)他の者たちとは別に埋葬せよ。私の家の者は、必ず充分に礼をして(遺体を)引き取るだろう」と言った。
これを聞いた氐族は、賈詡に危害を加えようとせず、盟約を結んで彼を送り出したが、その他の者はみな殺されてしまった。
当時太尉であった段熲は、以前長期にわたって国境指揮官をつとめていたことから、その権威は西方一帯に鳴り響いていた。実際、賈詡は段熲の外孫ではなく、その権威を利用したのである。賈詡がその場に応じて物事に対処するやり方は、みなこのような具合だった。
脚注
*1張良・陳平は共に前漢の高祖(劉邦)の策士。
董卓・李傕配下
中平6年(189年)、董卓が洛陽(雒陽)に入城すると、賈詡は太尉の掾(属官)のまま平津都尉に任命され、討虜校尉に栄転して司隷・弘農郡・陝県に駐屯する董卓の娘婿・牛輔に属した。
その後、長安で董卓が誅殺されると、牛輔もまた配下の攴胡赤児に殺害された。兵たちはみな恐れおののき、賈詡と同じく牛輔麾下の校尉・李傕、郭汜、張済らは「軍隊を解散して郷里に帰りたい」と考えた。
すると賈詡は、
「聞けば長安では『涼州人を皆殺しにしようと議論している』とか。あなた方が兵を棄ててしまえば、亭長 1人でさえあなた方を捕らえることができます。軍勢を引き連れて西へ向かい、行く先々で軍兵を集め、長安を攻撃して董公(董卓)の復讐をする方が良いでしょう。うまく事が運べば天子を奉じて天下を征伐するも良し、もしうまく運ばなければ、それから逃亡しても遅くはありません」
と言った。
李傕らは賈詡の言葉に従って西に向かい、長安を攻撃した。長安を陥落させた李傕らは、賈詡を左馮翊*2に任命し、その功績によって彼を侯に封じようととしたが、賈詡は「あれは生命を救うための計略でした。どこに功績などありましょうやっ!」と言い、固辞して受けなかった。
李傕らはさらに賈詡を尚書僕射に任命しようとしたが、賈詡は「尚書僕射は諸官を取り仕切る首長であり、天下の人々が期待をかける官職です。私は元々人を抑える名声はありませんから、人々を心服させることにはなりません。たとえ私が名誉と利益に盲目であったとしましても、どうすれば国家のためになるのかを考えますっ!」と言った。
そこで改めて尚書に任命され、官吏の選抜登用を司った。賈詡は多くの点で政治を正したが、李傕らは彼を信任しつつも煙たがるようになった。その後、母が亡くなったために官を辞し、光禄大夫の位を授けられた。
李傕と郭汜が長安の市中で戦闘を行うようになると、李傕は再度要請して賈詡を宣義将軍に任命した。この時李傕配下の張繡が、賈詡に「ここに長くいるべきではない。君はなぜ立ち去らないのだ?」と言ったが、賈詡は「私は国家からご恩を受けており、信義からいって背く訳にはまいりません。あなたはお行きなさい。私は行けません」と言った。
李傕は羌族数千人を召し寄せて郭汜を攻撃させようとしたが、羌族が度々宮門までやって来て、李傕が与えると約束した品々を催促するので、献帝は頭を痛め、賈詡に対策を立てさせた。賈詡は秘かに羌族の大将たちを呼び集めて飲食をし、彼らに爵位と宝物を与えることを承知すると、全員引き揚げていった。李傕はこれが原因で衰退した。
李傕らが和睦すると、天子(献帝)を長安から出した。この時賈詡は常に大臣たちを守り助けたが、天子(献帝)が長安を出た後、賈詡は印綬を天子(献帝)に返した(官職を辞任した)。
脚注
*2司隷・左馮翊の太守。
段煨配下
この当時、賈詡と同郡出身の将軍・段煨が司隷・弘農郡・華陰県に駐屯していたので、賈詡は李傕の下を離れて段煨の下に身を寄せた。
賈詡は元々名を知られた人物であったから、段煨の軍中で期待の的となった。段煨は内心彼に権力を奪われることを恐れながら、表面的には賈詡を立てて、完璧な礼をもって待遇したので、賈詡はますます不安になった。
張繡が荊州・南陽郡にいた時、賈詡は秘かに張繡と手を結んだ。
張繡が人を遣って賈詡を迎えに行かせ、賈詡が出発しようとした時、ある人が賈詡に「段煨はあなたを手厚く待遇していますのに、どうして立ち去られるのです?」と聞いた。
賈詡は答えて言った。
「段煨は猜疑心の強い性格で、私に対して警戒心を抱いています。礼は手厚いとはいっても、この先長く頼りにすることはできず、将来生命を狙われることになるでしょう。私が立ち去れば喜ぶに違いありませんし、また私が外部で強力な支援者と結びつくことを期待し、必ず私の妻子を大切にしてくれるでしょう。張繡の方も参謀がいないから、私を手に入れたいと願っています。ですから家族も私自身も、共に安全を保てるに違いありません」
こうして賈詡が赴くと、張繡は子孫の礼をもって彼を遇し、段煨は予想通り彼の家族の面倒をよく見た。
張繡配下
劉表と結ぶことを勧める
賈詡は劉表と同盟を結ぶことを張繡に進言した。
建安2年(197年)、曹操は張繡征伐を行ったが、ある日突然軍を撤退させた。張繡が自らこれを追撃しようとしたため、賈詡は「追撃してはなりません。追撃すれば必ずや敗北します」と進言したが、張繡は彼の意見を聞き入れず、曹操を追撃して大敗北を喫した。
張繡が戻って来ると、賈詡は「急いでもう一度追撃しなさい。もう一度戦えば、必ず勝ちます」と言った。これに張繡が「先程は君の意見を採用しなかったために、こんな羽目に陥った。だが、今敗北したばかりだというのに、どうして『もう一度追撃せよ』などと言うのか」と問うと、賈詡は「戦いの状況には変化があるもの。急いで追撃すれば、勝利は間違いありません」と答えた。
この言葉を信用して、散り散りになった兵卒をかき集めて追撃に出ると、賈詡の言った通り、曹操軍を散々に撃ち破ることができた。帰還した張繡が賈詡に「勝利できた理由」を尋ねると、賈詡は答えて言った。
「簡単なことです。将軍(張繡)は戦争がお上手ですが、曹公(曹操)には敵いません。敵軍は撤退し始めたとはいうものの、必ずや曹公(曹操)自ら殿となって追撃を断つに相違ありません。追撃の兵が精鋭であっても、大将が敵わない上に、敵の兵士もまた精鋭なのです。だから敗北間違いなしと予知しました。
曹公(曹操)は将軍(張繡)を攻撃するにあたって、策戦に間違いがあった訳ではなく、力を出し尽くさないうちに撤退したのですから、国内に何か事件が起こったに違いありません。将軍(張繡)を撃ち破った後は、軍兵に軽装をさせて全速で進むに相違なく、たとえ諸将を殿に残し、その将軍が勇猛であったとしましても、やはり将軍(張繡)には敵いません。だから敗残の兵をもって戦ったとしても、勝利間違いなしと思ったのです」
これを聞いた張繡は、初めて感服した。
曹操に従うことを勧める
建安4年(199年)、曹操と袁紹が官渡で対峙した際、袁紹は使者を遣わして張繡を招き、同時に賈詡に手紙を与えて味方に引き入れようとした。
張繡が承知しようとしたところ、賈詡は張繡が出席する会合の席上で、公然と袁紹の使者に対して「帰って袁本初(袁紹)に『兄弟(袁術)さえ受け容れることのできない者が、どうして天下の国士を受け容れられましょうぞ』と断ってください」と言った。
張繡は驚き恐れて、賈詡に「なんでそこまではっきり言うのか?」と言い、またこっそりと「こうなったからには、誰につけば良いのだ?」と尋ねると、賈詡は「曹公(曹操)に従うのが一番です」と言った。
これに張繡が「袁氏(袁紹)は強く曹氏(曹操)は弱い上に、曹氏(曹操)とは仇敵の間柄だ。彼に従うというのは、どうだろうか?」と言うと、賈詡は答えて言った。
「それこそ曹氏(曹操)に従うべき理由なのです。そもそも曹公(曹操)は、天子を奉じて天下に号令しております。これが従うべき第1の理由です。
袁紹は強大でありますから、我が方が少数の軍勢をつれて従ったとしても、我らを尊重しないに違いありません。これが従うべき第2の理由です。
そもそも天下を支配する志を持つ者は、当然個人的な怨みを忘れ、徳義を四海の外まで輝かせようとするものです。これが従うべき第3の理由です。
どうか将軍(張繡)には、躊躇われることのありませんように」
張繡はこの意見に従い、軍兵を引き連れて曹操の下に帰順した。
曹操配下
官渡の戦い
曹操は彼らと会見すると、喜んで賈詡の手を握り、「儂に天下の人々の信頼と尊重を与えてくれる者は君だ」と言い、上表して賈詡を執金吾に任命し、都亭侯に封じて冀州牧に栄転させた。この時、冀州はまだ平定されていなかったので、曹操は賈詡を側に留め置いて、参司空軍事とした。
袁紹が官渡において曹操を包囲し、曹操の兵糧が底を突いた時、曹操は賈詡に「いかなる計略を採ったら良いか」と聞いた。すると賈詡は、
「公(曹操)は、聡明さにおいて袁紹に勝ち、勇敢さにおいて袁紹に勝ち、人の使い方において袁紹に勝ち、機を逃さず決断する点において袁紹に勝っておられます。この4つの勝ちをお持ちになりながら半年かかっても片付けられないのは、一重に万全を期されるためであります。必ず機を逃さず決断を下されたならば、立ち所に片付けることができましょう」
と答え、曹操は「よし」と頷いた。
そこで軍勢を1つに合わせて撃って出て、袁紹の本営から30余里の陣営を包囲・攻撃し、これを撃ち破った。袁紹の軍勢は壊滅状態となり、河北は平定された。
曹操は自ら冀州牧を担当し、賈詡を太中大夫に転任させた。
赤壁の戦い
建安13年(208年)、曹操は荊州を撃ち破り、長江の流れに沿って東へ下ろうとしたが、この時賈詡は、
「明公(曹操)は先に袁氏を撃破なされ、今、漢水の南域を手中に収められまして、威名は遠方まで輝き渡り、軍事力はすでに強大になっておられます。もしも、旧国楚の豊かさを利用しつつ、軍吏・兵士を労い、民衆を慰撫なされて土地に落ち着かせ、楽しんで仕事をするように仕向けられたならば、軍兵を煩わせるまでもなく、江南は頭を下げて帰服するでありましょう」
と諫めた。曹操は聞き入れず、結局勝利を得られなかった。
渭水の戦い(潼関の戦い)
建安16年(211年)、曹操が韓遂・馬超と渭水の南で交戦した時、馬超らは和睦の条件として土地の割譲を要請すると同時に人質を要求してきたが、この時賈詡は「偽りの承諾をするのが良い」と主張し、韓遂と馬超を離間させる計略を授けた。
曹操はすべてに渡って賈詡の計を採用し、韓遂と馬超を撃ち破ることができた。
曹操の後継者争い
建安16年(211年)春正月、曹操の後継者である曹丕は五官中郎将に任命され、丞相の補佐をしていたが、当時、弟の臨菑侯・曹植の評判が高かったので、それぞれ党派ができ、曹丕の正当な後継者の地位を奪い取ろうとして、盛んに議論が起こっていた。
曹丕は人を遣って、賈詡に「自分の地位を固めるための方策」を尋ねさせた。これに賈詡が、
「どうか将軍(曹丕)には有徳の態度を尊重され、無官の人物のように謙虚な行いを実践なされて、朝から晩まで孜々として怠らず*3、子としての正しい道を踏み外されませんように」
と答えると、曹丕はこの意見に従い自ら深く修養に努めた。
また、曹操はかつて左右の者を遠ざけ、賈詡に後継者問題について諮問したところ、賈詡は押し黙ったまま答えなかった。曹操が「なぜ答えないのだ?」と問うと、賈詡は「今ちょうど考え事をしておりましたので、すぐにお答えできなかったのです」と答えた。
曹操がまた「何を考えていたのか?」と問うと、賈詡はそこでやっと「袁本初(袁紹)父子と劉景升(劉表)父子のことを考えていたのです*4」と答えた。曹操は大笑いし、その結果曹丕の太子の地位はついに定まった。
賈詡は、自分が曹操の元からの家臣ではないのに、策略に長じていることから疑惑を持たれることを恐れ、門を閉ざしてひっそりと暮らし、朝廷から退出した後は私的な交際をせず、息子や娘たちの結婚にも貴族の家柄を相手に選ばなかったので、天下の智謀家は、彼に心を寄せた。
脚注
*3学問などに一生懸命励み、努力して止まないさま。
*4袁紹と劉表はどちらも後継者問題で嫡子を廃し、死後内輪揉めの原因となった。
文帝(曹丕)臣下
文帝(曹丕)は即位すると賈詡を太尉に任命し、爵位を魏寿郷侯に上げて3百戸を加増し、合計8百戸とした。
文帝(曹丕)が賈詡に「私は命令に服従しない者を征伐して天下を統一したいと思うが、呉と蜀のどちらを先にしたら良いだろうか」と諮問したところ、賈詡は、
「攻撃・略取を事とする者は軍略を重視し、根本を樹立する者は徳による教化を尊重いたします。陛下(曹丕)には時運に応じて禅譲をお受けになり、地の果てまで支配しておいでです。もし文治の徳によって彼らを慰撫されつつ、変事が起こるのをお待ちになれば、これらを平らげることは困難ではございません。
呉・蜀は微々たる小国とは申しますものの、険固な山や川に依拠しております。蜀の劉備は優れた才能を有し、諸葛亮がよく国を治めておりますし、呉の孫権は真偽を見抜く見識を持ち、陸議(陸遜)が軍事情勢を見守っております。
或いは蜀は天険をたのみとして要害を守り、或いは呉は江湖に船を浮かべ、どちらも俄に手を下すことは困難であります。
用兵の方法としては、先に計略で勝利を得てから後に戦い、まず敵の力をはかり、大将の器量を判断するからこそ、一度行動を起こした際に、失策なく済むのです。
私が心秘かに群臣を見渡しますに、劉備・孫権に匹敵する者はおりません。天威をもって彼らに向かったとしても、なお万全の情勢だとは思えません。
昔、舜が干戚の舞(楯と鉞を手にした武舞)を舞うと、有苗族は帰服いたしました。私は、今は『文』を先に『武』を後にされるのが妥当であると考えます」
と答えたが、文帝(曹丕)は聞き入れず、その後江陵の戦役を起こし、多数の士卒が戦死した。
賈詡は77歳で亡くなり、肅侯(粛侯)と諡された。
「賈詡」の関連記事
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賈訪
生没年不詳。涼州・武威郡・姑臧県の人。父は賈詡。兄は賈穆。
文帝(曹丕)は即位すると、賈詡を太尉に任命し、爵位を魏寿郷侯に上げて3百戸を加増し、合計8百戸とした。
この時賈訪は、父・賈詡の領邑の内から2百戸を分け与えられ、列侯に封ぜられた。
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生没年不詳。涼州・武威郡・姑臧県の人。父は賈模。兄に賈胤。
兄の賈胤、従兄弟の賈疋と共に高官に昇り、揃って晋王朝において栄えた。
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生没年不詳。涼州・武威郡・姑臧県の人。父は不明*6。
従兄弟の賈胤、賈龕と共に高官に昇り、揃って晋王朝において栄えた。
脚注
*5字は『新唐書』による。『魏書』賈詡伝には字の記載なし。
*6『新唐書』の系図では、賈仲達の子として賈疋の名が見える。また『魏書』賈詡伝では賈詡の曾孫にあたるが、『新唐書』では玄孫にあたる。
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