正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉑、会稽郡賀氏[賀純(慶純)・賀輔・賀斉・賀達・賀景・賀質・賀邵・賀恵・賀循・賀隰]です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
会稽賀氏系図
会稽郡賀氏系図
この記事では会稽郡賀氏の人物、
についてまとめています。
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か㉑(会稽賀氏)
第1世代[賀純(慶純)・賀輔]
賀純(慶純)
生没年不詳。揚州・会稽郡・山陰県の人。弟は賀輔。
賀氏は元来、慶氏という姓であった。
慶純は学者として人々から高く評価され、漢の安帝の時代に侍中や江夏太守をつとめた。
一旦は官を去ったが、荊州・江夏郡出身の黄瓊や益州・広漢郡出身の楊厚らと共に公の馬車が遣わされて、再び朝廷に徴し出された。
この時、安帝の父親の孝徳皇(清河王・劉慶)の諱を避けて、姓を賀氏と改めた。
賀輔
生没年不詳。揚州・会稽郡・山陰県の人。兄は賀純。子に賀斉。
揚州・会稽郡・永寧県の県長をつとめた。
第2世代(賀斉)
賀斉・公苗
生年不詳〜呉の黄武6年(227年)没。揚州・会稽郡・山陰県の人。父は賀輔。子に賀達、賀景。
出自
若くして郡の役人となり、揚州・会稽郡・剡県の県長代行をつとめた。
当時、県の役人であった斯従は、任侠を好んで悪事を働いていた。賀斉が彼を取り締まろうとすると、主簿の役人が諫めて「斯従は県内の豪族で、山越たちも彼に懐いております。もし彼を処分されますと、次の日には叛徒の一味が押しかけて参りましょう」と言ったが、賀斉はこれを聞いて大いに腹を立て、直ちに斯従を斬った。
斯従の一族郎党はすぐさま仲間を糾合して千人以上の者を集め、武器を取って県の役所に攻め寄せたが、賀斉は役人や住民たちを指揮し、城門を開いて撃って出ると、彼らを散々に撃ち破ったので、これ以降、賀斉の威声は山越たちの間に鳴り響くこととなった。
その後、太末県と豊浦県の住民が反乱を起こすと、彼は転じて太末県の県長を代行し、反抗する者は誅殺し、従順な者には保護を加えて、1年ほどの間に反乱をすべて平定した。
商升討伐
建安元年(196年)、会稽太守となった孫策に孝廉に推挙された。侯官県長の商升が王朗のために兵を起こすと、孫策は永寧県長の韓晏に南部都尉の職務を与えて討伐に向かわせ、代わりに賀斉を永寧県長に任命した。
韓晏が商升に敗れると、賀斉は韓晏に代わって南部都尉の職務にあたった。賀斉に教え諭された商升は、賀斉に降伏の意を示したが、配下の頭目の張雅や詹彊らは、共謀して商升を殺害すると、張雅は無上将軍を、詹彊は会稽太守を名乗って徹底交戦の構えを示した。
賀斉は敵方の勢いが盛んであるのに対して味方の兵士は少ないことから、軍を留めたまま兵士たちを休養させていたが、そうするうちに張雅が女婿の何雄と争いを始めた。賀斉は山越の者たちをたきつけて内部抗争を起こさせると、そこで初めて軍を進め、1度の戦いで散々に敵を撃ち破ったので、張雅・詹彊らは震え上がり、部下たちを引き連れて賀斉の軍門に降った。
会稽郡の反乱討伐
建安8年(203年)、揚州・会稽郡南部の建安県、漢興県(呉興県)、南平県で不服従民の洪明、洪進、苑御、呉免、華当らが反乱を起こすと、賀斉は建安県まで兵を進めてそこに南部都尉の役所を置いた。
この時賀斉は、松陽県長の丁蕃に豫章郡(予章郡)・余汗県に留まって敵の動きに備えるよう命じたが、彼は賀斉の指図を受けることを恥じて余汗県に留まろうとしなかったので、賀斉はやむを得ず丁蕃を斬った。そこで賀斉は、兵を分けてその一部を余汗県に留めて守備にあたらせると、洪明らを討伐して続けざまに勝利を収め、戦闘の中で洪明を斬ると、呉免、華当、洪進、苑御らはみな降伏した。
この戦いで6千人を斬首し、名のある頭目はことごとく捕虜にし、県や邑の機構を立て直し、この地域から選抜して兵士1万人を軍に編入し、この功により賀斉は、平東校尉に任命された。
丹楊郡の反乱討伐
建安13年(208年)、賀斉は威武中郎将に昇進し、揚州・丹楊郡(丹陽郡)の黟県(黝県)、歙県を討伐した。この時、武彊・葉郷・東陽・豊浦の4つの郷がまず降伏したので、賀斉は上表して意見を具申し、葉郷を昇格させて始新県を立てた。
しかしその後、歙県の不服従民の頭目・金奇は、1万戸を配下に収めて安勒山に立て籠もり、同じく毛甘も1万戸を配下に収めて烏聊山に立て籠もり、黟県(黝県)の頭目・陳僕や祖山らも2万戸を集めて林歴山(林歷山)に立て籠もってしまった。
林歴山(林歷山)は四面が切り立っていて、その高さは数十丈(1丈は約2.31m)、そこに通じる小道は険しく狭いため刀や楯を用いることができず、しかも叛徒たちが高みから石を落とすので、攻撃を加えることができなかった。
軍を止めたまま数日が経ち、部将や兵士の中には不満が募ってくると、賀斉は自ら山の周りを1周して攻撃を加え易そうな場所を見つけた。
賀斉は秘かに身軽で敏捷な兵士を募り、特別に作らせた鉄製の弋を持たせて山を切り開くと、夜闇に紛れてそこを登り、上からたくさんの布を垂らして下にいる者たちを引っ張り上げさせた。
そして、百数十人を上に登らせることに成功すると、四方に散らばって一斉に太鼓と角笛を鳴らさせた。叛徒たちは、夜中に太鼓が四方から一斉に鳴るのを聞いて、てっきり大軍がすべて登ってしまったのだと思い、要害に配置されていた者たちもみな逃げ戻ってしまった。
これにより陳僕らは大敗。残った者たちはみな降伏し、斬った首級は7千にのぼった。
賀斉は「歙県を分割して新定県・黎陽県・休陽県・幷県・黟県(黝県)・歙県の6つの県を立てる」ように上表。孫権は賀斉の意見を納れ、歙県を分割して新都郡を立てると、賀斉を太守に任命してその役所を始新県に置かせ、偏将軍を加官した。
呉郡の反乱討伐
建安16年(211年)、呉郡・余杭県の平民・郎稚が一族郎党を集めて反乱を起こし、数千人が集まった。賀斉は即座に郎稚らを撃ち破ると、上表して意見を具申し、余杭県を分割して臨水県が立てられた。
孫権の信頼
賀斉が命令を受けて孫権の元に伺候*1した後、任地の郡に戻ることになると、孫権は都の郊外まで出て祖道*2を行い、音楽が演奏され干戈(武器)を持った舞いが舞われた。
その席で孫権が「今、天下を定め、中原に都を置き、異俗の国々から珍貴な物を貢がせ、馴れにくい獣たちまで連れ立って舞いを舞わせようとすれば、あなた以外に誰が私の協力者となれよう」と言うと賀斉は「殿下(孫権)は人智を越えた武略をもって天運に応じられ、王者としての広大な事業を切り拓かれました。臣は、幸いにもこうした時に巡り合わせ、戦場において力一杯腕を振るうことができたのでございます。多くの方々の後ろにありつつ、ご事業にお力添えし、殿下(孫権)のため、鷹や猟犬のようにお指図に従ってお役に立ちたいというのが、臣の願いでございます。異俗の国々から珍貴な物を貢がせ、馴れにくい獣たちに連れ立って舞いを舞わせるといったことは、ご聖徳がそれを可能といたしますのであって、臣の能くするところではございません」と答えた。
賀斉に軿車(幌つきの馬車)と駿馬が下賜され、送別の宴も終わって孫権が車に入ると、賀斉にも下賜された馬車に乗るように命じた。賀斉が主君の前で車に乗るのは畏れ多いと辞退すると、孫権は側仕えの者に命じて賀斉を無理矢理車に乗せ、郡にいる時と同様に威儀を整え行列を作って出発させた。
孫権はその様子を望み見て、笑いながら「人たるもの、努力をせねばならぬ。立派な行いを積み、忠勤を重ねなければ、こうした栄誉は得られぬものだ」と言い、百歩余り進むのを見送った後、孫権は車を巡らせて宮殿に戻った。
豫章郡の反乱討伐
建安18年(213年)、揚州・豫章郡(予章郡)東部の平民、彭材・李玉・王海らが反乱を起こし、1万人以上の者がその配下に集まった。賀斉がこれを討伐して討ち平らげ、その首謀者を誅殺すると、他の者たちはみな降伏した。
賀斉は降伏した者たちの中から精悍な者を選び出して兵士とし、それに外れた者は県の戸籍に編入した。こうした功によって賀斉は奮武将軍に昇進した。
合肥の敗戦
建安20年(215年)、孫権の指揮の下で揚州・九江郡・合肥国に遠征した。この時、城中から繰り出してきた魏の兵と戦ううちに、徐盛が負傷して牙旗(将軍の旗指物)を失ったが、賀斉は兵を指揮して拒ぎ戦い、徐盛が失った旗を奪い返した。
軍を引き揚げることになった時、孫権は逍遥津(渡し場の名前)の北側で張遼の急襲を受け、すんでの所で生命も殆うかった。
この時賀斉は、3千人の兵を率いて渡し場の南にあり、虎口(非常に危険な場所)を逃れてきた孫権を迎え入れた。孫権は大きな軍船に乗り込むと、部将たちを集めて酒宴を開いた。賀斉は敷物を外すと、涙を流しながら言った。
「至尊の位にあられるご主君には、常に万全のご行動を取っていただかねばなりません。今日の出来事はお命にもかかわりかねないもので、臣下たちは怖れに心をおののかせ、天も地も失ってしまったかのようでございました。どうかこの事件を、一生の誡めとしていただきますように」
孫権は進み出て、賀斉の涙を拭いてやりながら言った。
「まったく恥ずかしい次第だ。この誡めを、単に紳に書きつけるだけでなく、心にも深く刻みつけよう」
尤突討伐
建安21年(216年)、揚州・鄱陽郡・鄱陽県の平民・尤突が、曹操の印綬を受けて魏に内通し、民衆たちを教唆(他人を扇動すること)して呉に対し反抗的な行動を取らせ、揚州・丹楊郡(丹陽郡)の陵陽県、始安県(安呉県?)、涇県もそろって尤突に呼応した。
これに賀斉は陸遜と力を合わせて尤突を討伐。数千人の首を斬ると、丹楊郡(丹陽郡)の3県もすべて降伏し、降伏した者たちの中から選抜して精鋭兵8千人を軍に編入した。この功により、賀斉は安東将軍の位を授かり、山陰侯に封ぜられて長江の畔にその駐屯地を進め、扶州から上流の皖県までの地域の軍事の総指揮にあたることになった。
曹休を退ける
黄武年間(222年〜229年)の初め、魏が曹休を派遣して討伐の軍を進めて来た時、呉の諸軍団に動員がかけられたが、賀斉は戦場までの道のりが遠かったため遅れて到着したことから、新市に軍を留めて防御にあたることとなった。
たまたま洞口にあった諸軍団が暴風に流されて水に沈み、その半分が失われて部将も士卒たちも色を失った。この時、賀斉はまだ渡河しておらず、彼の軍だけはまったく損傷を受けていなかったことから、部将たちはそれを後ろ楯にして勢いを盛り返した。
賀斉は豪奢で煌びやかなことを好む性格で、特にそれを軍事面で発揮した。武器・甲冑や軍用器械はとびきり精巧で上等なもので、乗船には彫刻や彩色を施し、透かし彫りで飾り、青い蓋(パラソル)を立てて絳い襜(カーテン)を垂らし、大小の楯や戈矛には葩爪模様を色鮮やかに描き、弓や矢にはすべて最高の材質のものを用い、蒙衝(駆逐艦)や戦艦の類は、遠くから見るとあたかも山のようであった。
曹休らは、そうした威容に恐れをなし、そのまま軍をまとめて引き返した。この功により、賀斉は後将軍に昇進し、仮節を与えられて徐州牧の任を授かった。
元々晋宗は、戲口を守備する部将であったが、その配下を引き連れて魏に奔った。魏では彼を再び南方に派遣して蘄春太守に任命し、着任した晋宗は安楽県を襲撃して、そこにいる人質たちを奪い取ろうと企てた。
孫権は晋宗のこうした行動を自分に対する侮辱だとして腹を立て、曹休が軍を引き揚げて軍事行動も一段落したことから、6月の夏の盛りに相手の意表を突こうと賀斉に命じ、麋芳や鮮于丹らを率いて蘄春県を襲撃させ、難なく晋宗を生け捕りにした。
それから4年後の黄武6年(227年)、賀斉は亡くなった。
脚注
*1貴人の側近くに仕えること。
*2道中の無事を祈る送別の儀式や宴会。
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第3世代(賀達・賀景)
賀達
生没年不詳。揚州・会稽郡・山陰県の人。父は賀斉。弟に賀景。子に賀質。
物惜しみをすることなく意気に感じて行動し、決断力を具え、果敢に事を行うことでは人々に抜きん出ていたが、自分の気持ちのままに振る舞うことがままあり、しばしば掟に背いたので、軍征において手柄を立てることがあっても爵位を与えられることがなかった。
太和2年(228年)、孫権に通じてきた公孫淵に対する返礼の使者として、張弥、許晏、中郎将・万泰、校尉・裴潜、軍将・虞諮(虞咨)らと共に幽州・遼東郡に赴いた時のこと。
軍将の賀達と裴潜は残りの軍兵を従えて船が停泊している場所に留まっていたが、公孫淵の長史・柳遠が賓客の礼をもって賀達と虞諮(虞咨)を招き寄せ、馬や貨物を用意して交易を求めて来た。
賀達と虞諮(虞咨)は疑心を抱いて下船せず、商人5〜6百人を下船させて交易させようとしたところ、鐘太鼓が打ち鳴らされたかと思うと、公孫淵の将軍・韓起が現れて彼ら目がけて矢を乱発した。3百余級が斬首され、負傷して海に飛び込んで溺死した者2百余人、その他は、投降したり山や谷に散り散りに逃げ込んだ末に飢え死にした。
賀達と虞諮(虞咨)の生死については不明。
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賀景
生没年不詳。揚州・会稽郡・山陰県の人。父は賀斉。兄に賀達。子に賀邵、賀恵。
滅賊校尉に任ぜられ、配下に対しては厳格かつ思いやりを持って指揮した。
その部隊の兵器が完全に整備されている点で、当時並ぶ者がなかったが、若くして亡くなった。
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第4世代(賀質・賀邵)
賀邵・興伯
呉の黄武5年(226年)〜呉の天冊元年(275年)没。揚州・会稽郡・山陰県の人。父は賀景。弟に賀恵。子に賀循。祖父は賀斉。
孫休が即位すると、賀邵は中郎から散騎中常侍となり、地方に出て呉郡太守となった。
孫晧(孫皓)の時代になると、中央に戻って左典軍となり、中書令に昇進し、太子太傅を兼務した。
孫晧(孫皓)が暴虐を振るい、驕り高ぶって、政事は日ごとに破綻を来した。
賀邵は上疏して、
「この数年来、朝臣たちの間の秩序は乱れて、本物と偽物の区別がつかなくなり、上も下も位にあるのは才能のない人物ばかり、文武の官も適任者を得てはおりません。
帝王としてのご事業を引き継がれました上は、身を慎んで道を履み行われ、天下という神秘な器を大切にされ、賢者を顕彰され善行ある者を表彰されて、諸々の政事をつつがなくお運びくださいますように」
と孫晧(孫皓)を諫めた。
賀邵は、常に公のために尽くし、正しい道を曲げようとしなかったがために、孫晧(孫皓)の取り巻きたちに煙たがられていた。そこで彼らはこの機会に共謀して「賀邵は楼玄と共に国家を誹謗している」と讒言した。
そのため2人は共に問責を受けることになり、その結果、楼玄は南州(広州)まで護送され、賀邵はやがて許されて元の職に復帰した。
後に賀邵は中風にかかって言葉が喋れなくなった。
官職を辞して数ヶ月が経った頃、孫晧(孫皓)は賀邵が「病気にかこつけて引退したのではないか」と疑い、捕らえて酒蔵の役人の元に預けて様々な拷問にかけた。賀邵は最後まで一言も喋らず、結局殺害された。享年49歳。呉の天冊元年(275年)のことであった。
賀邵の家の者たちは臨海郡に強制移住させられ、また同時に詔を下して楼玄の子や孫も誅殺された。
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賀恵
生没年不詳。揚州・会稽郡・山陰県の人。父は賀景。兄に賀邵。祖父は賀斉。
中書令の奚熙は、宛陵県令の賀恵を讒言した。
使者の徐粲を遣わして事実を質させたが、奚熙は、今度は「徐粲が賀恵の肩を持って裁断を引き延ばしている」と讒言した。
孫晧(孫皓)は宛陵県へ使者を遣って徐粲を斬らせると共に、賀恵を捕らえて獄に繋いだが、たまたま恩赦があって罪を免れた。
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第5世代(賀循)
賀循・彦先
呉の永安3年(260年)〜東晋の大興2年(319年)没。揚州・会稽郡・山陰県の人。父は賀邵。子に賀隰。
賀循は、一家の災難にあって海辺(臨海郡)に強制移住させられ、呉が晋に平定された後、やっと故郷に帰ることができた。
彼は、高く厳しく節操を守り、幼い頃から他の子供たちとは一緒にならず、言葉も行動もすべてが礼儀正しかった。学問を好んで広い知識を身につけ、特に三礼(『儀礼』『周礼』『礼記』)に詳しかった。
秀才に推挙され、揚州・呉郡の陽羨県と武康県、呉興郡・武興県の県令に任命された。その後、顧栄、陸機、陸雲が上表して推挙し、賀循は中央に召し出されて太子舍人となった。
顧栄らの上表・全文
石冰が揚州を攻め落とした時には、賀循も軍勢を集めて防衛に当たったが、事件が無事落着すると、そのまま門を閉ざして家の中に引き籠もった。
陳敏は反乱を起こすと、賀循を丹楊内史に任命しようとした。賀循は病気を理由にしてそれを固辞し、陳敏も強いて就任を迫ろうとはしなかった。
当時、江東の豪族たちはみな揃って陳敏の爵位を受けたが、賀循とその同郡出身の朱誕だけが、反徒の網にかかって一味となることはなかった。後に呉国の内史に任命されたが、職には就かなかった。
元皇帝(東晋の元帝)がまだ鎮東将軍であった頃、賀循をその幕府に招いて軍司馬に任命し、元帝が晋王になると、賀循を中書令に任命しようとしたが、彼は固辞して受けなかった。やがて太常に転任し、太子太傅を兼任した。
当時は東晋の朝廷が建てられたばかりで、どのような政治制度を取るべきかについて様々な疑問や意見があったが、宗廟の祭祀の決まりはすべて賀循が定めた他、朝廷・在野を問わず種々の事柄について彼の意見が求められ、儒学の大家として仰がれた。
東晋の大興2年(319年)、60歳で亡くなり、死後司空の官を贈られ、穆と諡された。
賀循の著した多くの著述や議論文は、みな世に広く伝え読まれた。
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第6世代(賀隰)
賀隰
生没年不詳。揚州・会稽郡・山陰県の人。父は賀循。
東晋の康帝期に臨海郡の太守となった。
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