正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉑、会稽郡かいけいぐん賀氏がし賀純がじゅん慶純けいじゅん)・賀輔がほ賀斉がせい賀達がたつ賀景がけい賀質がしつ賀邵がしょう賀恵がけい賀循がじゅん賀隰がしゅう]です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

会稽賀氏系図

会稽郡賀氏系図

会稽郡かいけいぐん賀氏がし系図


この記事では会稽郡かいけいぐん賀氏がしの人物、

についてまとめています。


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か㉑(会稽賀氏)

第1世代[賀純(慶純)・賀輔]

賀純がじゅん慶純けいじゅん

生没年不詳。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけんの人。弟は賀輔がほ

賀氏がしは元来、慶氏けいしという姓であった。

慶純けいじゅんは学者として人々から高く評価され、かん安帝あんていの時代に侍中じちゅう江夏太守こうかたいしゅをつとめた。

一旦いったんは官を去ったが、荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん出身の黄瓊こうけい益州えきしゅう広漢郡こうかんぐん出身の楊厚ようこうらと共におおやけの馬車がつかわされて、再び朝廷にし出された。


この時、安帝あんていの父親の孝徳皇こうとくこう清河王せいがおう劉慶りゅうけい)のいみなを避けて、姓を賀氏がしと改めた。


賀輔がほ

生没年不詳。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけんの人。兄は賀純がじゅん。子に賀斉がせい

揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん永寧県えいねいけん県長けんちょうをつとめた。


第2世代(賀斉)

賀斉がせい公苗こうびょう

生年不詳〜黄武こうぶ6年(227年)没。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけんの人。父は賀輔がほ。子に賀達がたつ賀景がけい

出自

若くして郡の役人となり、揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん剡県せんけん県長けんちょう代行をつとめた。

当時、県の役人であった斯従しじゅうは、任侠を好んで悪事を働いていた。賀斉がせいが彼を取り締まろうとすると、主簿しゅぼの役人がいさめて「斯従しじゅうは県内の豪族で、山越さんえつたちも彼になついております。もし彼を処分されますと、次の日には叛徒はんとの一味が押しかけて参りましょう」と言ったが、賀斉がせいはこれを聞いて大いに腹を立て、ただちに斯従しじゅうを斬った。

斯従しじゅうの一族郎党はすぐさま仲間を糾合きゅうごうして千人以上の者を集め、武器を取って県の役所に攻め寄せたが、賀斉がせいは役人や住民たちを指揮し、城門を開いて撃って出ると、彼らを散々に撃ち破ったので、これ以降、賀斉がせいの威声は山越さんえつたちの間に鳴り響くこととなった。

その後、太末県たいまつけん豊浦県ほうほけんの住民が反乱を起こすと、彼は転じて太末県たいまつけん県長けんちょうを代行し、反抗する者は誅殺ちゅうさつし、従順な者には保護を加えて、1年ほどの間に反乱をすべて平定した。

商升討伐

建安けんあん元年(196年)、会稽太守かいけいたいしゅとなった孫策そんさく孝廉こうれんに推挙された。侯官こうかん県長けんちょう商升しょうしょう王朗おうろうのために兵を起こすと、孫策そんさく永寧えいねい県長けんちょう韓晏かんあん南部都尉なんぶといの職務を与えて討伐に向かわせ、代わりに賀斉がせい永寧えいねい県長けんちょうに任命した。

韓晏かんあん商升しょうしょうに敗れると、賀斉がせい韓晏かんあんに代わって南部都尉なんぶといの職務にあたった。賀斉がせいに教えさとされた商升しょうしょうは、賀斉がせいに降伏の意を示したが、配下の頭目とうもく張雅ちょうが詹彊せんきょうらは、共謀して商升しょうしょうを殺害すると、張雅ちょうが無上将軍ぶじょうしょうぐんを、詹彊せんきょう会稽太守かいけいたいしゅを名乗って徹底交戦の構えを示した。

賀斉がせいは敵方の勢いが盛んであるのに対して味方の兵士は少ないことから、軍をとどめたまま兵士たちを休養させていたが、そうするうちに張雅ちょうが女婿むすめむこ何雄かゆうと争いを始めた。賀斉がせい山越さんえつの者たちをたきつけて内部抗争を起こさせると、そこで初めて軍を進め、1度の戦いで散々に敵を撃ち破ったので、張雅ちょうが詹彊せんきょうらはふるえ上がり、部下たちを引き連れて賀斉がせいの軍門にくだった。

会稽郡の反乱討伐

建安けんあん8年(203年)、揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん南部の建安県けんあんけん漢興県かんこうけん呉興県ごこうけん)、南平県なんぺけんで不服従民の洪明こうめい洪進こうしん苑御えんぎょ呉免ごめん華当かとうらが反乱を起こすと、賀斉がせい建安県けんあんけんまで兵を進めてそこに南部都尉なんぶといの役所を置いた。

この時賀斉がせいは、松陽県長しょうようけんちょう丁蕃ていはん豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)・余汗県よかんけんとどまって敵の動きにそなえるよう命じたが、彼は賀斉がせいの指図を受けることを恥じて余汗県よかんけんとどまろうとしなかったので、賀斉がせいはやむを得ず丁蕃ていはんを斬った。そこで賀斉がせいは、兵を分けてその一部を余汗県よかんけんとどめて守備にあたらせると、洪明こうめいらを討伐して続けざまに勝利をおさめ、戦闘の中で洪明こうめいを斬ると、呉免ごめん華当かとう洪進こうしん苑御えんぎょらはみな降伏した。

この戦いで6千人を斬首し、名のある頭目とうもくはことごとく捕虜にし、県やゆうの機構を立て直し、この地域から選抜して兵士1万人を軍に編入し、この功により賀斉がせいは、平東校尉へいとうこういに任命された。

丹楊郡の反乱討伐

建安けんあん13年(208年)、賀斉がせい威武中郎将いぶちゅうろうしょうに昇進し、揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の黟県いけん黝県ゆうけん)、歙県しょうけんを討伐した。この時、武彊ぶきょう葉郷ようきょう東陽とうよう豊浦ほうほの4つのきょうがまず降伏したので、賀斉がせいは上表して意見を具申し、葉郷ようきょうを昇格させて始新県ししんけんを立てた。

しかしその後、歙県しょうけんの不服従民の頭目とうもく金奇きんきは、1万戸を配下におさめて安勒山あんろくざんに立てもり、同じく毛甘もうかんも1万戸を配下におさめて烏聊山うりょうざんに立てもり、黟県いけん黝県ゆうけん)の頭目とうもく陳僕ちんぼく祖山そざんらも2万戸を集めて林歴山りんれきざん林歷山りんれきざん)に立てもってしまった。

林歴山りんれきざん林歷山りんれきざん)は四面が切り立っていて、その高さは数十じょう(1じょうは約2.31m)、そこに通じる小道はけわしくせまいためかたなたてもちいることができず、しかも叛徒はんとたちが高みから石を落とすので、攻撃を加えることができなかった。

軍をとどめたまま数日がち、部将や兵士の中には不満がつのってくると、賀斉がせいみずから山のまわりを1周して攻撃を加えやすそうな場所を見つけた。

賀斉がせいは秘かに身軽で敏捷びんしょうな兵士をつのり、特別に作らせた鉄製のよくを持たせて山を切り開くと、夜闇やあんまぎれてそこを登り、上からたくさんの布をらして下にいる者たちを引っ張り上げさせた。

そして、百数十人を上に登らせることに成功すると、四方に散らばって一斉に太鼓とつのぶえを鳴らさせた。叛徒はんとたちは、夜中に太鼓が四方から一斉に鳴るのを聞いて、てっきり大軍がすべて登ってしまったのだと思い、要害に配置されていた者たちもみな逃げ戻ってしまった。

これにより陳僕ちんぼくらは大敗。残った者たちはみな降伏し、斬った首級しゅきゅうは7千にのぼった。


賀斉がせいは「歙県しょうけんを分割して新定県しんていけん黎陽県れいようけん休陽県きゅうようけん幷県へいけん黟県いけん黝県ゆうけん)・歙県しょうけんの6つの県を立てる」ように上表。孫権そんけん賀斉がせいの意見をれ、歙県しょうけんを分割して新都郡しんとぐんを立てると、賀斉がせい太守たいしゅに任命してその役所を始新県ししんけんに置かせ、偏将軍へんしょうぐんを加官した。

呉郡の反乱討伐

建安けんあん16年(211年)、呉郡ごぐん余杭県よこうけんの平民・郎稚ろうちが一族郎党を集めて反乱を起こし、数千人が集まった。賀斉がせいは即座に郎稚ろうちらを撃ち破ると、上表して意見を具申し、余杭県よこうけんを分割して臨水県りんすいけんが立てられた。

孫権の信頼

賀斉がせいが命令を受けて孫権そんけんの元に伺候しこう*1した後、任地の郡に戻ることになると、孫権そんけんみやこの郊外まで出て祖道うまのはなむけ*2を行い、音楽が演奏され干戈かんか(武器)を持った舞いが舞われた。

その席で孫権そんけんが「今、天下を定め、中原ちゅうげんみやこを置き、異俗の国々から珍貴な物を貢がせ、れにくいけものたちまで連れ立って舞いを舞わせようとすれば、あなた以外に誰が私の協力者となれよう」と言うと賀斉がせいは「殿下(孫権そんけん)は人智を越えた武略をもって天運に応じられ、王者としての広大な事業を切りひらかれました。わたくしは、幸いにもこうした時にめぐり合わせ、戦場において力一杯腕を振るうことができたのでございます。多くの方々の後ろにありつつ、ご事業にお力えし、殿下(孫権そんけん)のため、たかや猟犬のようにお指図さしずに従ってお役に立ちたいというのが、わたくしの願いでございます。異俗の国々から珍貴な物を貢がせ、れにくいけものたちに連れ立って舞いを舞わせるといったことは、ご聖徳がそれを可能といたしますのであって、わたくしくするところではございません」と答えた。

賀斉がせい軿車へいしゃほろつきの馬車)と駿馬しゅんめされ、送別のうたげも終わって孫権そんけんが車に入ると、賀斉がせいにもされた馬車に乗るように命じた。賀斉がせいが主君の前で車に乗るのはおそれ多いと辞退すると、孫権そんけんそばづかえの者に命じて賀斉がせいを無理矢理車に乗せ、郡にいる時と同様に威儀を整え行列を作って出発させた。

孫権そんけんはその様子を望み見て、笑いながら「人たるもの、努力をせねばならぬ。立派な行いを積み、忠勤を重ねなければ、こうした栄誉は得られぬものだ」と言い、百歩余り進むのを見送った後、孫権そんけんは車をめぐらせて宮殿に戻った。

豫章郡の反乱討伐

建安けんあん18年(213年)、揚州ようしゅう豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)東部の平民、彭材ほうざい李玉りぎょく王海おうかいらが反乱を起こし、1万人以上の者がその配下に集まった。賀斉がせいがこれを討伐して討ち平らげ、その首謀者を誅殺ちゅうさつすると、他の者たちはみな降伏した。

賀斉がせいは降伏した者たちの中から精悍せいかんな者を選び出して兵士とし、それに外れた者は県の戸籍に編入した。こうした功によって賀斉がせい奮武将軍ふんぶしょうぐんに昇進した。

合肥の敗戦

建安けんあん20年(215年)、孫権そんけんの指揮のもと揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん合肥国がっぴこくに遠征した。この時、城中からり出してきたの兵と戦ううちに、徐盛じょせいが負傷して牙旗がき将軍しょうぐんの旗指物)を失ったが、賀斉がせいは兵を指揮してふせぎ戦い、徐盛じょせいが失った旗を奪い返した。

軍を引きげることになった時、孫権そんけん逍遥津しょうようしん(渡し場の名前)の北側で張遼ちょうりょうの急襲を受け、すんでの所で生命もあやうかった。

この時賀斉がせいは、3千人の兵をひきいて渡し場の南にあり、虎口ここう(非常に危険な場所)をのがれてきた孫権そんけんを迎え入れた。孫権そんけんは大きな軍船に乗り込むと、部将たちを集めて酒宴を開いた。賀斉がせいしきものを外すと、涙を流しながら言った。

至尊しそんの位にあられるご主君には、常に万全のご行動を取っていただかねばなりません。今日の出来事はおいのちにもかかわりかねないもので、臣下たちはおそれに心をおののかせ、天も地も失ってしまったかのようでございました。どうかこの事件を、一生のいましめとしていただきますように」

孫権そんけんは進み出て、賀斉がせいの涙をいてやりながら言った。

「まったく恥ずかしい次第だ。このいましめを、単におびに書きつけるだけでなく、心にも深くきざみつけよう」

尤突討伐

建安けんあん21年(216年)、揚州ようしゅう鄱陽郡はようぐん鄱陽県はようけんの平民・尤突ゆうとつが、曹操そうそう印綬いんじゅを受けてに内通し、民衆たちを教唆きょうさ(他人をせんどうすること)してに対し反抗的な行動を取らせ、揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の陵陽県りょうようけん始安県ちあんけん安呉県あんごけん?)、涇県けいけんもそろって尤突ゆうとつに呼応した。

これに賀斉がせい陸遜りくそんと力を合わせて尤突ゆうとつを討伐。数千人の首を斬ると、丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の3県もすべて降伏し、降伏した者たちの中から選抜して精鋭兵8千人を軍に編入した。この功により、賀斉がせい安東将軍あんとうしょうぐんの位をさずかり、山陰侯さんいんこうに封ぜられて長江ちょうこうほとりにその駐屯地を進め、扶州ふしゅうから上流の皖県かんけんまでの地域の軍事の総指揮にあたることになった。

曹休を退ける

黄武こうぶ年間(222年〜229年)の初め、曹休そうきゅうを派遣して討伐の軍を進めて来た時、の諸軍団に動員がかけられたが、賀斉がせいは戦場までの道のりが遠かったため遅れて到着したことから、新市しんしに軍をとどめて防御にあたることとなった。

たまたま洞口どうこうにあった諸軍団が暴風に流されて水にしずみ、その半分が失われて部将も士卒たちも色を失った。この時、賀斉がせいはまだしておらず、彼の軍だけはまったく損傷を受けていなかったことから、部将たちはそれを後ろ楯にして勢いを盛り返した。

賀斉がせい豪奢ごうしゃきらびやかなことを好む性格で、特にそれを軍事面で発揮した。武器・甲冑かっちゅうや軍用器械きかいはとびきり精巧で上等なもので、乗船には彫刻ちょうこくや彩色をほどこし、かしりで飾り、青いおおい(パラソル)を立ててあかとばり(カーテン)をらし、大小の楯やには葩爪はな模様を色鮮やかにえがき、弓や矢にはすべて最高の材質のものをもちい、蒙衝もうしょう(駆逐艦)や戦艦のたぐいは、遠くから見るとあたかも山のようであった。

曹休そうきゅうらは、そうした威容いように恐れをなし、そのまま軍をまとめて引き返した。この功により、賀斉がせい後将軍こうしょうぐんに昇進し、仮節を与えられて徐州牧じょしゅうぼくの任をさずかった。


元々晋宗しんそうは、戲口ぎこうを守備する部将であったが、その配下を引き連れてはしった。では彼を再び南方に派遣して蘄春太守きしゅんたいしゅに任命し、着任した晋宗しんそう安楽県あんらくけんを襲撃して、そこにいる人質たちを奪い取ろうとくわだてた。

孫権そんけん晋宗しんそうのこうした行動を自分に対する侮辱だとして腹を立て、曹休そうきゅうが軍を引きげて軍事行動も一段落したことから、6月の夏の盛りに相手の意表を突こうと賀斉がせいに命じ、麋芳びほう鮮于丹せんうたんらをひきいて蘄春県きしゅんけんを襲撃させ、難なく晋宗しんそうを生け捕りにした。


それから4年後の黄武こうぶ6年(227年)、賀斉がせいは亡くなった。

脚注

*1貴人のそば近くに仕えること。

*2道中の無事をいのる送別の儀式や宴会。


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第3世代(賀達・賀景)

賀達がたつ

生没年不詳。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけんの人。父は賀斉がせい。弟に賀景がけい。子に賀質がしつ

しみをすることなく意気に感じて行動し、決断力をそなえ、果敢に事を行うことでは人々に抜きん出ていたが、自分の気持ちのままに振る舞うことがままあり、しばしばおきてそむいたので、軍征において手柄を立てることがあっても爵位を与えられることがなかった。


太和たいわ2年(228年)、孫権そんけんに通じてきた公孫淵こうそんえんに対する返礼の使者として、張弥ちょうび許晏きょあん中郎将ちゅうろうしょう万泰ばんたい校尉こうい裴潜はいせん軍将ぐんしょう虞諮ぐし虞咨ぐし)らと共に幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんおもむいた時のこと。

軍将ぐんしょう賀達がたつ裴潜はいせんは残りの軍兵を従えて船が停泊している場所にとどまっていたが、公孫淵こうそんえん長史ちょうし柳遠りゅうえん賓客ひんかくの礼をもって賀達がたつ虞諮ぐし虞咨ぐし)をまねき寄せ、馬や貨物を用意して交易を求めて来た。

賀達がたつ虞諮ぐし虞咨ぐし)は疑心をいだいて下船せず、商人5〜6百人を下船させて交易させようとしたところ、鐘太鼓が打ち鳴らされたかと思うと、公孫淵こうそんえん将軍しょうぐん韓起かんきが現れて彼ら目がけて矢を乱発した。3百余級が斬首され、負傷して海に飛び込んで溺死できしした者2百余人、その他は、投降したり山や谷に散り散りに逃げ込んだ末にえ死にした。

賀達がたつ虞諮ぐし虞咨ぐし)の生死については不明。


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賀景がけい

生没年不詳。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけんの人。父は賀斉がせい。兄に賀達がたつ。子に賀邵がしょう賀恵がけい

滅賊校尉めつぞくこういに任ぜられ、配下に対しては厳格かつ思いやりを持って指揮した。

その部隊の兵器が完全に整備されている点で、当時並ぶ者がなかったが、若くして亡くなった。


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第4世代(賀質・賀邵)

賀質がしつ

生没年不詳。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけんの人。父は賀達がたつ。祖父は賀斉がせい

虎牙将軍こがしょうぐんの位にまで昇った。


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賀邵がしょう興伯こうはく

黄武こうぶ5年(226年)〜天冊てんさく元年(275年)没。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけんの人。父は賀景がけい。弟に賀恵がけい。子に賀循がじゅん。祖父は賀斉がせい

孫休そんきゅうが即位すると、賀邵がしょう中郎ちゅうろうから散騎中常侍さんきちゅうじょうじとなり、地方に出て呉郡太守ごぐんたいしゅとなった。

孫晧そんこう孫皓そんこう)の時代になると、中央に戻って左典軍さてんぐんとなり、中書令ちゅうしょれいに昇進し、太子たいし太傅たいふを兼務した。


孫晧そんこう孫皓そんこう)が暴虐を振るい、おごり高ぶって、政事まつりごとは日ごとに破綻はたんきたした。

賀邵がしょう上疏じょうそして、

「この数年来、朝臣たちの間の秩序は乱れて、本物と偽物の区別がつかなくなり、上も下も位にあるのは才能のない人物ばかり、文武の官も適任者を得てはおりません。

帝王としてのご事業を引き継がれました上は、身をつつしんで道をみ行われ、天下という神秘なうつわを大切にされ、賢者を顕彰けんしょうされ善行ある者を表彰されて、もろもろ政事まつりごとをつつがなくお運びくださいますように」

孫晧そんこう孫皓そんこう)をいさめた。

賀邵がしょうは、常におおやけのために尽くし、正しい道を曲げようとしなかったがために、孫晧そんこう孫皓そんこう)の取り巻きたちにけむたがられていた。そこで彼らはこの機会に共謀して「賀邵がしょう楼玄ろうげんと共に国家を誹謗ひぼうしている」と讒言ざんげんした。

そのため2人は共にもんせきを受けることになり、その結果、楼玄ろうげん南州なんしゅう広州こうしゅう)まで護送され、賀邵がしょうはやがて許されて元の職に復帰した。


後に賀邵がしょうは中風にかかって言葉がしゃべれなくなった。

官職を辞して数ヶ月が経った頃、孫晧そんこう孫皓そんこう)は賀邵がしょうが「病気にかこつけて引退したのではないか」と疑い、捕らえてさかぐらの役人の元に預けて様々なごうもんにかけた。賀邵がしょうは最後まで一言もしゃべらず、結局殺害された。享年きょうねん49歳。天冊てんさく元年(275年)のことであった。

賀邵がしょうの家の者たちは臨海郡りんかいぐんに強制移住させられ、また同時にみことのりを下して楼玄ろうげんの子や孫も誅殺ちゅうさつされた。


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賀恵がけい

生没年不詳。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけんの人。父は賀景がけい。兄に賀邵がしょう。祖父は賀斉がせい

中書令ちゅうしょれい奚熙けいきは、宛陵県令えんりょうけんれい賀恵がけい讒言ざんげんした。

使者の徐粲じょさんつかわして事実をたださせたが、奚熙けいきは、今度は「徐粲じょさん賀恵がけいの肩を持ってさいだんを引き延ばしている」と讒言ざんげんした。

孫晧そんこう孫皓そんこう)は宛陵県えんりょうけんへ使者をおくって徐粲じょさんを斬らせると共に、賀恵がけいを捕らえて獄につないだが、たまたま恩赦おんしゃがあって罪をまぬかれた。


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第5世代(賀循)

賀循がじゅん彦先げんせん

永安えいあん3年(260年)〜東晋とうしん大興たいこう2年(319年)没。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけんの人。父は賀邵がしょう。子に賀隰がしゅう

賀循がじゅんは、一家の災難にあって海辺(臨海郡りんかいぐん)に強制移住させられ、しんに平定された後、やっと故郷に帰ることができた。

彼は、高く厳しく節操を守り、幼い頃から他の子供たちとは一緒にならず、言葉も行動もすべてが礼儀正しかった。学問を好んで広い知識を身につけ、特に三礼さんれい儀礼ぎらい』『周礼しゅらい』『礼記らいき)に詳しかった。

秀才しゅうさいに推挙され、揚州ようしゅう呉郡ごぐん陽羨県ようせんけん武康県ぶこうけん呉興郡ごこうぐん武興県ぶこうけん県令けんれいに任命された。その後、顧栄こえい陸機りくき陸雲りくうんが上表して推挙し、賀循がじゅんは中央にし出されて太子舍人たいししゃじんとなった。

顧栄らの上表・全文
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つつしんで見ますに、呉興郡ごこうぐん武興県ぶこうけん県令けんれい賀循がじゅんは、徳行と器量とが深く豊かであり、純粋で広い才能と見識をそなえ、道の根本に常に心をそそいで、その風儀節操は厳しく高いものでございます。

彼はすでに3つのまちで実際の執務にあたって参りましたが、その統治は厳格さとやわらぎをそなえておりました。

小さな県で職務にあたっておりますため、彼の名前は多くの者の中にまぎれて目立たず、新しく帰属した国の出身者であるため、朝廷に(自分の心をよく知ってくれる人)もなく、はるかな土地につつましやかに暮らして、みずからを売り出そうとの気持ちもありません。

年月はまたたく間に過ぎて行きますのに、彼が世に出る手立てはようとしてなく、まことに同郷の者たちは賢愚を問わず、彼のために心の晴れぬ思いをいたしておるのでございます。

われわれは、みなぼんようの才しか持ちませぬものを、しばしば不相応のお取り立てをこうむり、ご恩沢を受けて、朝廷の末席にあずからせていただいておりますが、立派な人物が時代に合わず不遇でありますことを知りながら、自分のからの中ばかりに閉じこもってそれを上言せずにおれば、賢者をおおい隠したというとがめがあるのではないかと心配をいたし、それゆえ愚かで狭い量見(考え)からの考えではございますが、あえて死罪をおかして上表し、上聞に供する次第でございます。


石冰せきひょう揚州ようしゅうを攻め落とした時には、賀循がじゅんも軍勢を集めて防衛に当たったが、事件が無事落着すると、そのまま門を閉ざして家の中に引きもった。

陳敏ちんびんは反乱を起こすと、賀循がじゅん丹楊内史たんようないしに任命しようとした。賀循がじゅんは病気を理由にしてそれを固辞し、陳敏ちんびんいて就任をせまろうとはしなかった。

当時、江東こうとうの豪族たちはみなそろって陳敏ちんびんの爵位を受けたが、賀循がじゅんとその同郡出身の朱誕しゅたんだけが、反徒の網にかかって一味となることはなかった。後に呉国ごこく内史ないしに任命されたが、職にはかなかった。

元皇帝げんこうてい東晋とうしん元帝げんてい)がまだ鎮東将軍ちんとうしょうぐんであった頃、賀循がじゅんをその幕府にまねいて軍司馬ぐんしばに任命し、元帝げんてい晋王しんおうになると、賀循がじゅん中書令ちゅうしょれいに任命しようとしたが、彼は固辞して受けなかった。やがて太常たいじょうに転任し、太子たいし太傅たいふを兼任した。

当時は東晋とうしんの朝廷が建てられたばかりで、どのような政治制度を取るべきかについて様々な疑問や意見があったが、宗廟そうびょう祭祀さいしの決まりはすべて賀循がじゅんが定めた他、朝廷・在野を問わず種々の事柄について彼の意見が求められ、儒学じゅがくの大家としてあおがれた。

東晋とうしん大興たいこう2年(319年)、60歳で亡くなり、死後司空しくうの官を贈られ、ぼくおくりなされた。

賀循がじゅんあらわした多くの著述や議論文は、みな世に広く伝え読まれた。


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第6世代(賀隰)

賀隰がしゅう

生没年不詳。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけんの人。父は賀循がじゅん

東晋とうしん康帝こうてい期に臨海郡りんかいぐん太守たいしゅとなった。



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【三国志人物伝】総索引