正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑰、平原国華氏②[華廙・華岑・華嶠・華鑒(華鑑)・華澹・華簡]です。
スポンサーリンク
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
平原華氏系図
平原国華氏系図
※左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
この記事では平原国華氏②の人物、
についてまとめています。
関連記事
スポンサーリンク
か⑰(平原華氏②)
第3世代(華廙・華岑・華嶠・華鑑・華澹・華簡)
華廙・長駿
生没年不詳。青州・平原国・高唐県の人。父は華表。弟に華岑、華嶠、華鑒(華鑑)、華澹、華簡。子に華昆、華薈、華恒。
文筆の才があった。華廙の岳父(妻の父)・盧毓が姻戚を推挙することを避けたため、華廙は35歳まで官職が定まらず、晩年になって中書通事郎となり、晋の泰始年間(265年〜274年)の初めに、冗従僕射に遷った。
その後、華廙は武帝(司馬炎)に礼遇されて、黄門侍郎、散騎常侍、前軍将軍、侍中、南中郎将、都督河北諸軍事を歴任したが、父の華表が重病となると、すぐさま帰って旧例に従い喪に服した。
以前、中書監の荀勖が華廙の女を中子の嫁に求めたが、華廙は許さなかった。荀勖はこれを恨み、武帝(司馬炎)に華廙を彼の親族・袁毅の罪に連坐させるよう密告した。
また、大鴻臚の何遵は「喪服中の華廙を免官して庶人とし、封土を華表の孫・華混に継がせる」ように上奏したが、華混は逃避し、髪を切り発狂した振りをして口をきかなくなったので、爵位を継ぐことはできなかった。世間はこの華混の行いを称賛した。
華廙は10年間、家で子や孫に教誨(技術や知識などを教えること)し、経典を講誦(音読)して過ごし、経書の要点をまとめた『善文』を著した。
また、陳勰と共に自宅の側に豬闌(豚小屋)を造ったが、それを見た武帝(司馬炎)は華廙を憐れみ、陵雲台に登って華廙の苜蓿園*1の阡陌(道)が整然としているのを眺め見ては、華廙が側にいた昔を懐かしんだ。
太康初年(280年)、大赦があり、華廙は封土を継ぐことを許された。後に城門校尉に任命され、左衛将軍に遷り、数年して中書監となった。
恵帝(司馬衷)が即位すると侍中を加えられ、光禄大夫、尚書令となり、公に爵位を進めた。また、楊駿の招聘に応じたが、勝手に還ってしまったことがあり、役人に免官するように上奏された。その後、太子少傅に遷り、散騎常侍を加えられた。
後年、衰えて病気が重くなると、詔により遣わされた太医が華廙の治療にあたり、光禄大夫に位を進め、開府儀同三司を許された。
この頃、河南尹の韓寿が、賈皇后を通じて「自分の女を華廙の孫・華陶の嫁にしたい」と伝えたが、華廙は許さなかったので深い恨みを買い、遂に台司に登らなくなった。75歳で亡くなり、元と諡された。
脚注
*1苜蓿は紫馬肥(マメ科の多年草)。
華岑
生没年不詳。青州・平原国・高唐県の人。父は華表。兄に華廙。弟に華嶠、華鑒(華鑑)、華澹、華簡。
詳細不明。
『晋書』華表伝に「(華表に)6子あり。華廙、華岑、華嶠、華鑒(華鑑)、華澹、華簡」とある。
華嶠・叔駿
生年不詳〜元康3年(293年)没。青州・平原国・高唐県の人。父は華表。兄に華廙、華岑。弟に華鑒(華鑑)、華澹、華簡。子に華頤、華徹、華暢。
才気と学識があり、若い頃から評判が良かった。
司馬昭が大将軍となると、辟召かれてその掾属(属官)となり、尚書郎に任命され、車騎将軍の従事中郎に転任。泰始初年(265年)に関内侯の爵位を賜り、太子中庶子に遷った。
その後、地方に出て安平太守となったが、親が年老いていることを理由に職を辞し、さらに散騎常侍、中書著作、国子博士となり、侍中に遷った。
太康年間の末(289年)、武帝(司馬炎)は宴楽に耽って病気がちになった。病が快方に向かうと、華嶠らは不摂生を諫めたが、武帝(司馬炎)は聞き入れず、翌年に崩御した。
元康初年(291年)に宣昌亭侯に封ぜられ、楊駿が誅殺されると楽郷侯に改封され、尚書に遷った。
その後華嶠は、その知識と経験を買われて秘書監に転任し、散騎常侍を加えられ、中書・散騎・著作及び治礼音律・天文数術や南省の文章を門下生に撰集させ、それらを標準化した。
華嶠は以前から『漢紀』の文章が乱雑で煩わしいと憂え嘆き、改訂したいと思っていた。台郎となると、秘笈(秘蔵の書)をすべて閲覧することができたので、光武帝から献帝に至る195年間を、
- 帝紀:12巻
- 皇后紀:2巻
- 十典:10巻
- 伝(列伝):70巻
- 三譜
- 序伝
- 目録
の97巻にまとめた。
この時華嶠は、『漢紀』では外戚列伝の末尾に置かれていた皇后紀を帝紀の次に置き、『堯典』にあるように志を改めて典とした。
華嶠が書名を『後漢書』に改名して上奏すると、
- 中書監の荀勖
- 中書令の和嶠
- 太常の張華
- 侍中の王済
らはみな華嶠の文章を褒め、「秘府の蔵書とすべきだ」と言い、後に太尉の汝南王・司馬亮と司空の衛瓘が東宮傅となると、ついにそれを実行に移した。
華嶠が著した論議・難駁・詩賦は数十万言あり、また、彼が官制について上奏したことの多くは、実際に施行された。
華嶠は元康3年(293年)に亡くなり、少府を追贈され、簡と諡された。
華嶠は酒好きで大抵常に酔いつぶれていたので、彼が執筆していたうちの10典は完成しなかった。
秘書監の何劭は「華嶠の中子・華徹を佐著作郎として未完成の10典を完成させる」ように上奏したが、華徹は最後までやり遂げる前に亡くなってしまった。
その後、また繆徵が上奏して華嶠の少子・華暢を佐著作郎とした。魏・晋の帝紀と列伝は著作郎・張載らの史官と共に著し、華暢は未完成の10典を完成させたが、永嘉の乱で失われた。
華嶠の書は50余巻が現存する*2。
脚注
*2『晋書』が著された貞観18年(644年)当時。
「華嶠・叔駿」の関連記事
華鑒(華鑑)
生没年不詳。青州・平原国・高唐県の人。父は華表。兄に華廙、華岑、華嶠。弟に華澹、華簡。
詳細不明。
『晋書』華表伝に「(華表に)6子あり。華廙、華岑、華嶠、華鑒(華鑑)、華澹、華簡」とある。
華澹・玄駿
生没年不詳。青州・平原国・高唐県の人。父は華表。兄に華廙、華岑、華嶠、華鑒(華鑑)。弟に華簡。子に華軼。
3兄弟の中で一番有名で、河南尹となった。
華簡
生没年不詳。青州・平原国・高唐県の人。父は華表。兄に華廙、華岑、華嶠、華鑒(華鑑)、華澹。
詳細不明。
『晋書』華表伝に「(華表に)6子あり。華廙、華岑、華嶠、華鑒(華鑑)、華澹、華簡」とある。
スポンサーリンク