正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑱、平原国へいげんこく華氏かし③(華昆かこん華薈かわい華恒かこう華頤かい華徹かてつ華暢かちょう華軼かいつ華陶かとう華俊かしゅん華仰之かぎょうし]です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

平原華氏系図

平原国華氏系図③

平原国へいげんこく華氏かし系図

※左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。


この記事では平原国へいげんこく華氏かし③の人物、

についてまとめています。

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か⑱(平原華氏③)

第4世代(華昆・華薈・華恒・華頤・華徹・華暢・華軼)

華昆かこん敬倫けいりん

生没年不詳。青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけんの人。父は華廙かよく。弟に華薈かわい華恒かこう。子に華陶かとう

父・華廙かよくの爵位を継いだ。清潔純粋で折り目正しく、侍中じちゅう尚書しょうしょを歴任し、在官のまま亡くなった。


華薈かわい敬叔けいしゅく

生没年不詳。青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけんの人。父は華廙かよく。兄に華昆かこん。弟に華恒かこう

河南尹かなんいんとなった。荀藩じゅんはん荀組じゅんそと共にぞくから非難したが、臨穎県りんえいけん?に至ったところで、父子共に殺害された*3

世語せごに「華薈かわいは正義を重んじた」としるされている。

脚注

*3原文:薈字敬叔,為河南尹。與荀籓、荀組俱避賊,至臨穎,父子並遇害。


華恒かこう敬則けいそく

生没年不詳。青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけんの人。父は華廙かよく。兄に華昆かこん華薈かわい。子に華俊かしゅん。孫に華仰之かぎょうし

博学で清楚さをたたえられた。武帝ぶてい司馬炎しばえん)のむすめ滎陽長公主けいようちょうこうしゅめとり、駙馬都尉ふばといを拝命した。

元康げんこう初年(291年)に東宮とうぐうが建てられると、華恒かこう太子たいし賓友ひんゆうに選ばれ、関内侯かんだいこうの爵位をたまわ食邑しょくゆう100戸を与えられた。

司徒しと王渾おうこん辟召まねかれて倉曹掾そうそうえんとなり、散騎侍郎さんきじろうから累遷るいせんして北軍中候ほくぐんちゅうろうとなって領軍を拝し、散騎常侍さんきじょうじを加えられた。


愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)が即位すると、華恒かこう尚書しょうしょとし、彼の爵位を苑陵県公えんりょうけんこうに進めた。

劉聡りゅうそう長安ちょうあんに迫ると愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)は、華恒かこう鎮軍将軍ちんぐんしょうぐん潁川太守えいせんたいしゅに任命し、外から援助するようにみことのりを下した。これを受け、華恒かこう合義軍ごうぎぐん・2千人を集めて西(長安ちょうあん)に向かったが、まだ到着する前に関中かんちゅうが陥落してしまった。

州郡では群賊ぐんぞくさかんに起こり相継いで敗れていたので、華恒かこう潁川郡えいせんぐんてて東晋とうしんに渡ろうと考えたが、従兄いとこ華軼かいつ司馬睿しばえい元帝げんてい)に殺害されていたので、まず驃騎将軍ひょうきしょうぐん王導おうどうに手紙を送ってさぐりを入れた。

王導おうどうがこれを進言すると、司馬睿しばえい元帝げんてい)は「兄弟の罪は互いに及ばず、まして従兄いとこの罪など及ぶことがあろうかっ!」と言い、すぐさま華恒かこうして光禄勲こうろくくんとした。

華恒かこうが到着すると、司馬睿しばえい元帝げんてい)は、彼がまだ着任する前に、更に衛将軍えいしょうぐんとし、散騎常侍さんきじょうじを加えて本州ほんしゅう大中正だいちゅうせいとした。

その後、華恒かこう太常たいじょうを拝し、郊祀こうし*4について発議した。

これに尚書しょうしょ刁協ちょうきょう国子祭酒こくしさいしゅ杜彝といは「洛陽らくようかえって郊祀こうしおさめるべき」と言ったが、華恒かこうは「かん献帝けんてい許県きょけん郊柴こうさい郊祀こうし)をおさめました。ここ(建康けんこう)で修立(即位)すべきです」と主張した。これに司徒しと荀組じゅんそ司徒しと荀組じゅんそ驃騎将軍ひょうきしょうぐん王導おうどうがこれに賛同し、ついに郊祀こうしが定められて元帝げんてい司馬睿しばえい)が即位した。

その後、華恒かこうが病気を理由に解任を求めると、元帝げんてい司馬睿しばえい)は華恒かこう太常たいじょうに代わって廷尉えいいに任命し、特進とくしんを加えた。


太寧たいねい初年(323年)、華恒かこう驃騎将軍ひょうきしょうぐんうつり、散騎常侍さんきじょうじを加えられてせきとうすいりくしょぐんとなった。王敦おうとんが「華恒かこう護軍ごぐんに転任させる」よう上表したが、病気のため受けなかった。きんこうろくたいとなり、また太子太保たいしたいほとなる。

成帝せいてい司馬衍しばえん)が即位すると、華恒かこう散騎常侍さんきじょうじを加えられ国子祭酒こくしさいしゅとなった。

咸和かんわ初年(326年)、華恒かこう愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)の時にたまわった爵位と封邑ほうゆうを取り上げられ、王敦おうとんを討伐した功績により改めて苑陵県侯えんりょうけんこうに封ぜられて、再び太常たいじょうとなった。

咸和かんわ2年(327年)、蘇峻そしゅんの反乱により建康けんこうが陥落。蘇峻そしゅん成帝せいてい司馬衍しばえん)に石頭城せきとうじょうに移るよう迫ると、華恒かこう成帝せいてい司馬衍しばえん)に従って1年以上も苦難の時を過ごした。

以前、華恒かこう本州ほんしゅう大中正だいちゅうせいであった時、華恒かこうは同郷の任讓じんじょうが軽薄で不義理をしたため、彼を罷免ひめんした。任讓じんじょう蘇峻そしゅんの軍中にいて勢いに乗って多くの人々を殺害したが、華恒かこうを見るとたちまち彼をつつしうやまって、欲しいままにしいたげることはなくなった。

蘇峻そしゅんの弟・蘇逸そいつの命令で、任讓じんじょう鐘雅しょうが劉超りゅうちょうを殺害した際、蘇逸そいつ華恒かこうも殺害しようとしたが、任讓じんじょうが心を尽くして助命嘆願したお陰で難を逃れることができた。

成帝せいてい司馬衍しばえん)が元服して皇后こうごうを迎えることになったが、寇難こうなんにより典籍が失われ、婚冠の礼を行うことができなかった。そこで華恒かこうは、旧典を推尋すいじん*5して礼儀を選定し、さらに郊廟こうびょう辟雍へきよう・朝廷の規則を定めて施行した。


その後華恒かこう左光禄大夫さこうろくたいふうつり、開府を許されて、これまで通り常侍じょうじとされたが、華恒かこうは固辞して受けなかった。69歳で亡くなり、侍中じちゅう左光禄大夫さこうろくたいふ・開府を追贈され、けいおくりなされた。

華恒かこうは心が清く真面目で、高位にあっても老齢に至るまで倹約・質素を徹底していた。

華恒かこうが亡くなった時、家には余財が無く、ただ書物が数百巻あるだけだったので、当時の人々は彼をとうとんだ。

脚注

*4天子てんしが郊外で天地をまつる大礼。ここでは郊祀こうしおさめるために司馬睿しばえい天子てんしに即位すること。

*5あれこれと推測しながらたずねること。


華頤かい

生没年不詳。青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけんの人。父は華嶠かきょう。弟に華徹かてつ華暢かちょう

父・華嶠かきょうの後を継ぎ、長楽内史ちょうらくないしとなった。


華徹かてつ

生没年不詳。青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけんの人。父は華嶠かきょう。兄に華頤かい。弟に華暢かちょう

華徹かてつの父・華嶠かきょうは酒好きで大抵常に酔いつぶれていたので、彼が執筆していたうちの10典は完成しなかった。

秘書監ひしょかん何劭かしょうは「華嶠かきょうの中子・華徹かてつ佐著作郎さちょさくろうとして未完成の10典を完成させる」ように上奏したが、華徹かてつは最後までやりげる前に亡くなってしまった。


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華暢かちょう

生没年不詳。青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけんの人。父は華嶠かきょう。兄に華頤かい華徹かてつ

才知のすぐれた考えがあり、華暢かちょうあらわした文章は数万言にのぼる。

華暢かちょうの父・華嶠かきょうは酒好きで大抵常に酔いつぶれていたので、彼が執筆していたうちの10典は完成しなかった。

秘書監ひしょかん何劭かしょうは「華嶠かきょうの中子・華徹かてつ佐著作郎さちょさくろうとして未完成の10典を完成させる」ように上奏したが、華徹かてつは最後までやりげる前に亡くなってしまった。

その後、また繆徵きゅうちょうが上奏して華嶠かきょうの少子・華暢かちょう佐著作郎さちょさくろうとした。しん帝紀ていき列伝れつでん著作郎ちょさくろう張載ちょうさいらの史官しかんと共にあらわし、華暢かちょうは未完成の10典を完成させたが、永嘉えいかの乱で失われた。

華嶠かきょうの書は50余巻が現存する*2


寇乱こうらん外寇がいこうと内乱)に荊州けいしゅうに避難したが、ぞくに殺害された。40歳だった。

脚注

*2晋書しんじょあらわされた貞観じょうがん18年(644年)当時。


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華軼かいつ彦夏げんか

生没年不詳。青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけんの人。父は華澹かたん

華軼かいつは若くして才気があり、博愛で名が知られた。

初め博士はくしとなり、昇進を重ねて散騎常侍さんきじょうじとなった。その後、東海王とうかいおう司馬越しばえつに招かれて留府長史りゅうふちょうしとなり、永嘉えいか年間(307年〜313年)に振威将軍しんいしょうぐん江州刺史こうしゅうししとなった。

華軼かいつは争乱の時代にあっても常に「典礼」をたっとび、「典礼」を広めるため儒林祭酒じゅりんさいしゅの官職を設置して軍諮祭酒ぐんしさいしゅ杜夷といを任命した。

司馬越しばえつの「諸賊の討伐を助けよ」とのげきを受けた華軼かいつは、前江夏太守こうかたいしゅ陶侃とうかんを派遣して揚武将軍ようぶしょうぐんとし、兵3千をひきいて夏口かこうに駐屯させて援助させた。

華軼かいつは、州において威信と恩恵があったので、江州こうしゅうの豪士たちは友道をもって華軼かいつに接し、江東こうとうの歓心を得て、流亡の士は郷里に帰るかのように華軼かいつに身を寄せた。

当時、天子てんし懐帝かいてい司馬熾しばし)]は孤立して危険な状態にあり、四方は瓦解がかいしていたが、華軼かいつは「天下を良くしよう」とのこころざしを持っていたので、洛陽らくようへの貢物をおこたらず、臣下としての節を失わなかった。

華軼かいつ洛陽らくようへの使者に「もし洛陽らくようへの道が断絶していたら、この貢物は琅邪王ろうやおう司馬睿しばえい)に届けよ。それによって、私が司馬氏しばしのために尽くしていることを示すのだ」と言った。

当時、江州こうしゅうの郡県の多くは「琅邪王ろうやおう司馬睿しばえい)に従うべき」といさめたが、華軼かいつ洛陽らくよう懐帝かいてい司馬熾しばし)の任命を受けている身であり、懐帝かいてい司馬熾しばし)がまだ健在である以上、華軼かいつ司馬睿しばえいに従うことはできなかった。

司馬睿しばえい揚烈将軍ようれつしょうぐん周訪しゅうほう彭沢ほうたくに駐屯させて華軼かいつに備えさせた。


洛陽らくようが陥落すると、司空しくう荀藩じゅんはんは各地に檄文げきぶんを発し、琅邪王ろうやおう司馬睿しばえいを盟主とした。

盟主となった司馬睿しばえい長吏ちょうり改易かいえきを行ったが、華軼かいつがまた命令に従わなかったので、左将軍さしょうぐん王敦おうとん甘卓かんたく周訪しゅうほう宋典そうてん趙誘ちょうゆうらをひきいさせ、華軼かいつを討伐させた。

これに華軼かいつは、別駕従事べつがじゅうじ陳雄ちんゆう彭沢ほうたくに駐屯させて王敦おうとんを防ぎ、みずからは水軍をひきいてこれを外から援助したが、湓口ほんこうに駐屯した武昌太守ぶしょうたいしゅ馮逸ふういつが、周訪しゅうほうの攻撃を受けて撃破された。

江州刺史こうしゅうしし衛展えいてん華軼かいつに礼遇されなかったので、心中で常に不満をいだいていた。

ここに至り、衛展えいてん豫章太守よしょうたいしゅ周広しゅうこうと共に司馬睿しばえいに内応し、秘かに華軼かいつを襲撃して華軼かいつの軍を潰滅かいめつさせた。

華軼かいつ安城あんじょうのがれたが、衛展えいてんらは追撃して華軼かいつとその5人の子を斬り、それらの首を建鄴けんぎょうに送った。


以前、広陵こうりょう出身の高悝こうかい江州こうしゅうに仮住まいしていた時、華軼かいつ高悝こうかい辟召まねいて西曹掾せいそうえんとした。華軼かいつが敗れると、高悝こうかい華軼かいつの2人の子と妻をかくまい、共に苦難の年月を過ごした。

その後、天子てんしに即位した司馬睿しばえい元帝げんてい)によって大赦たいしゃが行われると、高悝こうかい華軼かいつの妻子を連れて出頭し、元帝げんてい司馬睿しばえい)は彼らを許した。


第5世代(華陶・華俊)

華陶かとう

生没年不詳。青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけんの人。父は華昆かこん

父・華昆かこんの後を継ぎ、司州ししゅう河南郡かなんぐん鞏県きょうけん県令けんれいとなったが、石勒せきろくに殺された。


華俊かしゅん

生没年不詳。青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけんの人。父は華恒かこう。子に華仰之かぎょうし

父・華恒かこうの後を継ぎ、尚書郎しょうしょろうとなった。


第6世代(華仰之)

華仰之かぎょうし

生没年不詳。青州せいしゅう平原国へいげんこく高唐県こうとうけんの人。父は華俊かしゅん

大長秋だいちょうしゅうとなった。



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