建安11年(206年)の曹操による幷州(并州)の高幹征伐と、曹操が刺史に任命した梁習の幷州(并州)統治、その後の各地の反乱についてまとめています。
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目次
幷州(并州)の平定
高幹の背反
建安10年(205年)、曹操が烏丸族を征討したことを聞いた幷州刺史・高幹は、荊州の劉表と結んで幷州(并州)をあげて反乱を起こしました。
高幹はこっそりと軍兵を派遣して冀州・魏郡・鄴県を襲撃しようとしますが、鄴県を守備する荀彧の兄・監軍校尉の荀衍に敗北。また、司隷・弘農郡を荒らし回っていた張晟と共に司隷・河東郡に侵攻しましたが、曹操の要請を受けた馬騰らの将軍たちに撃ち破られて幷州(并州)に逃走し、壺関城[幷州(并州)・上党郡・壺関県]を守りました。
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高幹の死
建安11年(206年)春正月、曹操は自ら幷州(并州)に逃走した高幹征伐に出陣します。
これを聞いた高幹は、部下の夏昭と鄧升を城(壺関城)の守備に残し、自分は匈奴の元に行って単于(匈奴の首長)に救援を求めますが、単于はこれを引き受けませんでした。
曹操が壺関城を包囲すること3ヶ月、城は陥落し、高幹は劉表を頼って荊州に逃走しましたが、上洛都尉の王琰に捕らえられ、斬り殺されました。
豆知識
幷州(并州)征伐時の曹丕
『魏書』崔琰伝に、
「太祖(曹操)は幷州(并州)を征討した時、崔琰を冀州・魏郡・鄴県に留め置き、文帝(曹丕)を助けさせた」
とあります。
上洛都尉・王琰の妻
『魏書』袁紹伝が注に引く『典略』に、
「上洛都尉の王琰は高幹を捕らえた手柄によって侯に取り立てられた。この時、彼の妻は部屋で大声をあげて泣いた。王琰が富貴を得れば、別に妾を娶って自分への愛が奪われると考えたからである」
とあります。
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梁習の幷州統治
南匈奴を帰服させる
幷州(并州)が平定されると、曹操は梁習に別部司馬の官のまま幷州刺史を代行させます。
当時の幷州(并州)は、前刺史・高幹によって荒廃・混乱しており、州の境には蛮人(胡・狄)たちが威声を張ってのさばっていたので、幷州(并州)の官民が逃亡したり謀叛を起こした場合、それら南匈奴の部落に逃げ込みました。
また、南匈奴の有力者たちは軍勢を擁して侵入しては被害を与えており、互いに煽動し、しばしば分裂して勢力を張り合っていました。
幷州刺史の任に就いた梁習は、彼らに呼びかけて説得し、彼らの指導者たちを礼をつくして召し出し、少しずつ推挙して幕府に出頭させました。
そして指導者たちがすっかりいなくなると、それから順序に従って成人男子を徴発し、義勇兵とし、また、大軍が北方の征討に訪れた際には、武勇の士として軍に分属してもらいたいと要請します。
そうして大軍が去ってしまった後で、次第にその家族を移住させ、何度かに分けて冀州・魏郡・鄴県に送り、その人数は合わせて数万人となりました。
また命令に従わない者には兵を出して討伐し、斬った首の数は4桁に、降伏した者の数は5桁に登りました。
南匈奴の単于は恭順の意を表し、名王(官名:匈奴の諸部族の王)は額を地に着け、部族民たちは内地の戸籍のある人と同様にお上の仕事に奉仕したので、国境地帯はすっかり静まり、住民は田野に出て農業・蚕業に励み、命令や禁令が行き渡るようになりました。
名士を推挙する
梁習はまた、州内の名士である、
- 常林
- 楊俊
- 王淩
- 王象
- 荀緯
らを推挙します。
曹操は全員を県長とし、彼らはみな世間に名を揚げました。また、幷州(并州)の長老たちは「自分たちが聞き知っている中で、梁習以上の刺史はいない」と彼を称えます。
曹操は梁習の行政を称賛し、関内侯の爵位を与えて改めて本官に任命しました。
荀彧が仲長統を招く
以前、兗州・山陽郡出身の仲長統*1が幷州刺史であった高幹の元を訪れたところ、高幹は彼をよく待遇し、世の中の状況について質問しました。
すると仲長統は、
「君は雄大な意志をお持ちですが大きな才能はなく、人物を好んでおられますが人を見分けることができません。君のために深く警告する次第です」
と答えましたが、平素より自信過剰な高幹は彼の言葉を受け容れませんでした。そして、仲長統が立ち去ってからいくらも経たないうちに高幹は失敗したので、以降、幷州(并州)・冀州の人々は仲長統を認めるようになります。
仲長統は、諸郡が任命・招聘しても常に病気を理由に就任しないと言いながら、沈黙していると思うとしゃべり出したり、態度がクルクル変わるので、当時の人々の中には彼を「狂人」と呼ぶ者もいました。
尚書令の荀彧は政府の中枢の仕事を担当し、人物を好み、変わったことを愛しましたが、仲長統の名を聞くと、彼を招聘して尚書郎に取り立てました。
脚注
*1姓は仲長、名は統。字は公理。
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幷州(并州)平定後の情勢
各地の反乱
武威太守・張猛の反乱
秋7月、たまたま武威太守の張猛が反逆して雍州刺史の邯鄲商を殺害し、
「あえて邯鄲商の遺体を弔う者があれば、死刑に処し容赦しない」
と命令を下しました。
破羌県長の龐淯は、それを聞くと官を棄て、昼夜を徹して遺体を安置してある所に馳せ参じて号泣すると、張猛の門に行き、匕首を懐に隠して張猛を殺害しようとします。
張猛は彼が義士であることをわきまえ、命令して殺させませんでした。この事件により龐淯は、忠烈さをもって聞こえ渡りました。
また、その後張猛は州兵に討ち取られます。
以上は『資治通鑑』と『魏書』龐淯伝を基にしていますが、『魏書』龐淯伝が注に引く『典略』では、武威太守・張猛の反逆を建安14年(209年)のこととし、張猛は翌年に韓遂の討伐を受けて自殺したことになっています。
『後漢書』献帝紀にも「建安11年(206年)秋7月、武威太守の張猛が雍州刺史の邯鄲商を殺害した」とあるため、ここに記します。
管承を征討する
8月、曹操は東に進軍して、青州・北海国・淳于県まで行くと、楽進と李典を派遣して海賊の管承を征討し、これを撃ち破ります。管承は海中の島に逃げ込み、海岸地帯は平定されました。
昌豨の反乱
この頃、徐州・東海郡の昌豨*2がまたも反逆したので、曹操は于禁に彼を征討させました。
于禁は急行して昌豨*2を攻撃しますが、攻め落とせずにいたため、曹操は夏侯淵を派遣して于禁に協力させました。これにより昌豨*2の10余りの屯営を攻め下します。
すると昌豨*2は、旧知の間柄であった于禁の元に出頭して降伏しますが、諸将はみな「昌豨*2が降伏したからには公(曹操)の元に送るべきだ」と主張しました。
すると于禁は、
「諸君は公(曹操)の常令を知らぬのか。『包囲された後に降伏した者は赦のさない』とある。そもそも法律を奉じ命令を実行するのは、上に仕える者の守るべき節義である。昌豨*2は旧友ではあるが、私は節義を失って良いものか」
と言い、自ら出向いて昌豨*2に別れを告げ、涙を落としながら彼を斬りました。
この時、青州・北海国・淳于県に軍を置いていた曹操は、これを聞いて感歎して、
「昌豨*2が降伏する時、儂の元に来ず于禁を頼ったのは、運命ではなかろうか」
と言い、以降、益々于禁を重んじるようになりました。
脚注
*2別名:昌狶・昌務・昌覇とも。
曹操の布令
10月、曹操が「治中従事・別駕従事に、毎月1日にそれぞれ政治の欠陥を進言するように命じる」布令を出しました。
曹操の布令・全文
州郡の再編
昌慮郡の廃止
曹操が徐州・東海郡から、
- 襄賁県
- 郯県
- 戚県
の諸県を分割して琅邪郡に編入し、昌慮郡を廃止しました。
王国・侯国の再編
この年[建安11年(206年)]、元琅邪王・劉容の子・劉熙を立てて琅邪王としました。
初平元年(190年)、琅邪王・劉容は弟の劉邈を長安に派遣して貢物を献上し、劉邈は九江太守に任命され、陽都侯に封ぜられました。またこの時、劉邈は盛んに「東郡太守・曹操は帝に忠誠である」と称賛していたため、曹操は彼に感謝していました。
初平4年(193年)に琅邪王・劉容が亡くなったことから、琅邪国は断絶していましたが、曹操は過去の劉邈の恩に報いるため、劉容の子・劉熙を琅邪王に立てて琅邪国を復興させました。
またこの時曹操は、
- 青州・斉国
- 青州・北海国
- 揚州・九江郡・阜陵国
- 徐州・下邳国
- 冀州・常山国
- 冀州・清河国・甘陵国
- 兗州・済北国
- 青州・平原国
の8国を除き、漢の宗室の力を弱めました。
建安11年(206年)春正月、曹操は自ら幷州(并州)に逃走した高幹征伐に出陣。高幹が籠もる壺関城を包囲・陥落させ、高幹を斬りました。
その後、曹操に幷州刺史に任命された梁習は、国境地帯の南匈奴を手懐け、州内の名士を招いて前刺史・高幹によって荒廃・混乱した幷州(并州)を立て直します。
またこの年の8月、曹操は東征して青州の管承と徐州の昌豨を討伐しました。