正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑪、沛国(はいこく)夏侯氏(かこうし)②(夏侯淵(かこうえん)・夏侯衡(かこうこう)・夏侯覇(かこうは)・夏侯称(かこうしょう)・夏侯威(かこうい)・夏侯栄(かこうえい)・夏侯恵(かこうけい)・夏侯和(かこうか)・夏侯績(かこうせき)・夏侯駿(かこうしゅん)・夏侯荘(かこうそう)・夏侯褒(かこうほう)・夏侯湛(かこうたん))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

沛国夏侯氏②系図

沛国夏侯氏②系図

沛国(はいこく)夏侯氏(かこうし)②系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
★は夏侯淵(かこうえん)との兄弟の順は不明。
赤字がこの記事でまとめている人物。


この記事では沛国(はいこく)夏侯氏(かこうし)②の人物、

についてまとめています。

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お⑪(沛国夏侯氏②)

第0世代(夏侯嬰)

第1世代(夏侯淵)

夏侯淵(かこうえん)・妙才(みょうさい)

生年不詳〜建安(けんあん)24年(219年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。子に夏侯衡(かこうこう)、夏侯覇(かこうは)、夏侯称(かこうしょう)、夏侯威(かこうい)、夏侯栄(かこうえい)、夏侯恵(かこうけい)、夏侯和(かこうか)。妻は曹操(そうそう)の妻の妹。前漢(ぜんかん)の高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))の将軍(しょうぐん)・夏侯嬰(かこうえい)の後裔(こうえい)。夏侯惇(かこうとん)の族弟(ぞくてい)。

挙兵

曹操(そうそう)が故郷にいた頃、県の長官に関する事件で罪を受けた曹操(そうそう)の身代わりとなって重い罪を引き受けたが、曹操(そうそう)がうまく救出してくれたので助かることができた。

曹操(そうそう)は兵を挙(あ)げると、夏侯淵(かこうえん)を別部司馬(べつぶしば)・騎都尉(きとい)に任命して随行(ずいこう)させ、兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・潁川郡(えいせんぐん)の太守(たいしゅ)に昇進させた。


建安(けんあん)5年(200年)に曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)が官渡(かんと)で交戦した時には督軍校尉(とくぐんこうい)を代行し、袁紹(えんしょう)が敗北した後は、兗州(えんしゅう)・豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・徐州(じょしゅう)の兵糧を取り仕切った。当時、軍には食糧が乏(とぼ)しかったが、夏侯淵(かこうえん)が途絶えることなく輸送したため勢いを盛り返すことができた。

反乱の平定
徐州(じょしゅう)

建安(けんあん)11年(206年)、徐州(じょしゅう)・東海郡(とうかいぐん)の昌豨(しょうき)がまたも反逆すると、曹操(そうそう)は于禁(うきん)にこれを征討させたが、攻め落とせずにいた。そこで曹操(そうそう)は、夏侯淵(かこうえん)を派遣して于禁(うきん)に協力させ、昌豨(しょうき)の10余りの屯営を攻め下し、昌豨(しょうき)は于禁(うきん)の元に降伏して来た。夏侯淵(かこうえん)は帰還すると、典軍校尉(てんぐんこうい)に任命された。

夏侯淵(かこうえん)は「急襲」を得意とし、いつも敵の不意を突いたため、軍中では「典軍校尉(てんぐんこうい)の夏侯淵(かこうえん)、3日で5百里(約215km)、6日で一千里(約430km)」と語り合った。

青州(せいしゅう)

青州(せいしゅう)の済南郡(せいなんぐん)と楽安郡(らくあんぐん)の黄巾賊・徐和(じょか)、司馬倶(しばぐ)らが城を攻撃し、県の高官を殺害した。夏侯淵(かこうえん)は兗州(えんしゅう)の泰山郡(たいざんぐん)、青州(せいしゅう)の斉郡(せいぐん)と平原郡(へいげんぐん)の各郡の軍兵を率(ひき)いて呂虔(りょけん)と共にこれを攻撃し、散々に撃ち破って徐和(じょか)を斬り殺し、諸県を平定すると、その食糧を没収して兵士に給付した。

揚州(ようしゅう)

建安(けんあん)14年(209年)、夏侯淵(かこうえん)は行領軍(こうりょうぐん)に任命された。曹操(そうそう)は孫権(そんけん)討伐から帰還すると、夏侯淵(かこうえん)に諸将を指揮させ、揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)の反乱者・雷緒(らいしょ)を攻撃させた。

幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))

雷緒(らいしょ)を撃ち破ると、曹操(そうそう)はまた夏侯淵(かこうえん)を行征西護軍(こうせいせいごぐん)に任命し、徐晃(じょこう)を指揮させて幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)の賊徒(ぞくと)を攻撃させた。夏侯淵(かこうえん)は20余りの屯営を攻め落とし、賊(ぞく)の頭目(とうもく)・商曜(しょうよう)を斬り、その根城を破壊した。

涼州の平定
韓遂(かんすい)・馬超(ばちょう)

その後、韓遂(かんすい)らの征伐に随行し、渭南(いなん)において交戦した。また、朱霊(しゅれい)を指揮して司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)の隃糜県(ゆびけん)と汧県(けんけん)の氐族(ていぞく)を平定し、涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)で曹操(そうそう)と合流して楊秋(ようしゅう)を降伏させた。


建安(けんあん)17年(212年)、曹操(そうそう)は冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)・鄴県(ぎょうけん)に帰還すると、夏侯淵(かこうえん)を行護軍将軍(こうごぐんしょうぐん)に任命し、朱霊(しゅれい)・路招(ろしょう)らを指揮させて長安(ちょうあん)に駐屯させた。夏侯淵(かこうえん)は南山(なんざん)の賊徒(ぞくと)・劉雄(りゅうゆう)(劉鳴(りゅうめい))を撃破してその軍勢を降伏させ、司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・鄠県(こけん)にいた韓遂(かんすい)・馬超(ばちょう)の残党・梁興(りょうこう)を包囲・陥落させて梁興(りょうこう)を斬り殺し、博昌亭侯(はくしょうていこう)に封ぜられた。

馬超(ばちょう)が涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)・冀県(きけん)にいる涼州刺史(りょうしゅうしし)の韋康(いこう)を包囲すると、夏侯淵(かこうえん)は韋康(いこう)の救援に向かったが、まだ到着しないうちに韋康(いこう)は敗北した。

この時、馬超(ばちょう)が冀県(きけん)から2百里(約86km)余りの地点まで出向いて迎え撃ったので、夏侯淵(かこうえん)の軍は負け戦(いくさ)となり、さらに馬超(ばちょう)に呼応して汧県(けんけん)の氐族(ていぞく)が反乱を起こしたため、夏侯淵(かこうえん)は軍隊を引き揚(あ)げて帰還した。


建安(けんあん)19年(214年)、趙衢(ちょうく)・尹奉(いんほう)らは馬超(ばちょう)を討ち取ろうと計(はか)って、姜叙(きょうじょ)が鹵城(ろじょう)で兵を挙(あ)げ、これに呼応した。趙衢(ちょうく)らは馬超(ばちょう)を騙(だま)して説(と)き伏せ、姜叙(きょうじょ)攻撃に出陣させた後、馬超(ばちょう)の妻子を皆殺しにした。馬超(ばちょう)は益州(えきしゅう)・漢中郡(かんちゅうぐん)に逃亡し、また戻って来て祁山(きざん)を包囲した。姜叙(きょうじょ)らは急ぎ救援を要請した。

諸将や意見を述(の)べる者たちは「公(こう)(曹操(そうそう))の指図を待とう」と言ったが、夏侯淵(かこうえん)は「公(こう)(曹操(そうそう))は鄴(ぎょう)におられ、往復4千里(約1,720km)もある。ご返事をいただく頃には、姜叙(きょうじょ)らは敗北しているに違いない。それでは危急を救うことにはならぬぞ」と言い、そのまま出陣した。

張郃(ちょうこう)に歩兵・騎兵合わせて5千を統率させて先鋒とし、司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・陳倉県(ちんそうけん)の細い道を通って進軍させ、夏侯淵(かこうえん)自身は兵糧を監督して後詰(ごづ)めとなった。張郃(ちょうこう)が渭水(いすい)の畔(ほとり)に到達すると、馬超(ばちょう)は氐族(ていぞく)・羌族(きょうぞく)の兵士数千を率(ひき)いて彼を迎え撃った。まだ交戦しないうちに馬超(ばちょう)が逃走したので、張郃(ちょうこう)は進軍して馬超(ばちょう)軍の大型武器を没収した。

夏侯淵(かこうえん)が到着した時、諸県はすでに降伏した後だった。その時、韓遂(かんすい)は涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)・顕親県(けんしんけん)に駐屯していたので、夏侯淵(かこうえん)がこれを襲撃・攻略しようとしたところ、韓遂(かんすい)は逃走した。

夏侯淵(かこうえん)は韓遂(かんすい)の兵糧を手に入れ、追撃して略陽城(りゃくようじょう)(涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)・略陽県(りゃくようけん))まで到達した。韓遂(かんすい)との距離はわずか20里(約8.6km)余りだった。諸将は彼を攻撃しようと望み、興国(こうこく)の氐族(ていぞく)を攻撃すべきだと主張する者もあった。夏侯淵(かこうえん)は「韓遂(かんすい)の兵士は精鋭なうえ、興国(こうこく)の城は堅固であることから、攻撃したところで結局は陥落させられないだろう」と考え、長離(ちょうり)にいる羌(きょう)の諸部族を討伐する方が良いと判断した。

「長離(ちょうり)にいる羌(きょう)の諸部族のうちの多くが韓遂(かんすい)の軍隊に参加しており、引き返して家族を救うに違いない。もしも韓遂(かんすい)が羌族(きょうぞく)を見捨てて救援せず、略陽城(りゃくようじょう)を独(ひと)りで守るならば孤立することになるし、長離(ちょうり)の救援に赴(おもむ)けば、官軍は彼と平野で戦闘することができ、きっと彼を生け捕れる」と考えたからである。

そこで夏侯淵(かこうえん)は、輜重(しちょう)守備の指揮官を後に残し、軽装の歩兵・騎兵を率(ひき)いて長離(ちょうり)に行き、羌族(きょうぞく)の屯営を攻撃して焼き払い、多くの羌族(きょうぞく)を斬り殺したり捕虜にしたりした。韓遂(かんすい)の軍隊に参加していた羌(きょう)の諸部族は、それぞれ自分の部落に立ち戻った。

韓遂(かんすい)は予想通り長離(ちょうり)救援に赴(おもむ)き、夏侯淵(かこうえん)の軍隊と対峙した。夏侯淵(かこうえん)の諸将は韓遂(かんすい)の軍勢を見ると嫌悪を覚え、陣営を築き塹壕(ざんごう)を掘って彼らと対戦したいと望んだ。夏侯淵(かこうえん)は「我々は千里(約430km)の彼方(かなた)から転戦して来ている。ここでまたもや陣営や塹壕(ざんごう)を作ったりすれば、兵士たちは疲労(ひろう)困憊(こんぱい)し、とても長くは持ちこたえられないだろう。敵は多数ではあるが、与(くみ)し易(やす)いのだぞ」と言い、士気を鼓舞して大いに韓遂(かんすい)軍を撃ち破り、その旗印(はたじるし)を奪い取ってから、略陽城(りゃくようじょう)に立ち戻り軍を進めて興国(こうこく)を包囲した。氐王(ていおう)の千万(せんばん)軍は馬超(ばちょう)の元へ逃亡し、後に残った軍勢は降伏した。

夏侯淵(かこうえん)は鋒先(ほこさき)を転じて涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)・高平県(こうへいけん)、屠各(とかく)(匈奴(きょうど)の部族)を攻撃し、すべて散り散りに蹴散らしてその食糧や牛馬を手中に収(おさ)め、夏侯淵(かこうえん)は仮節(かせつ)の権限を与えられた。

宋建(そうけん)

これより以前、涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)・枹罕県(ほうかんけん)の宋建(そうけん)は、涼州(りょうしゅう)の混乱につけ込んで河首平漢王(かしゅへいかんおう)と自称していた。曹操(そうそう)は夏侯淵(かこうえん)に諸将を統率させ、宋建(そうけん)討伐に向かわせた。

夏侯淵(かこうえん)は到着すると枹罕県(ほうかんけん)を包囲し、1ヶ月余りでこれを陥落させ、宋建(そうけん)と彼が任命した丞相(じょうしょう)以下の官吏を斬り殺した。夏侯淵(かこうえん)は別に張郃(ちょうこう)を派遣してを河関県(かかんけん)を平定させ、黄河(こうが)を渡って小湟中(しょうこうちゅう)に侵入させた。河西(かせい)にいる羌(きょう)の諸部族はことごとく降伏し、隴右(ろうゆう)は平定された。

この夏侯淵(かこうえん)の働きに曹操(そうそう)は「宋建(そうけん)が謀叛(むほん)を起こしてから30年以上になるが、夏侯淵(かこうえん)は1度の戦闘によってこれを滅ぼし、関右(かんゆう)の地を闊歩(かっぽ)し、向かうところ敵なしであった。仲尼(ちゅうじ)(孔子(こうし))も『儂(わし)とお前(弟子の子貢(しこう))は(顔回(がんかい)に)及ばない』(『論語(ろんご)』公冶長(こうやちょう))と言っている」と布令を下した。


建安(けんあん)21年(216年)、夏侯淵(かこうえん)の封邑(ほうゆう)を3百戸加増し、合計8百戸とした。

夏侯淵(かこうえん)は長安(ちょうあん)に帰還してから涼州(りょうしゅう)・武都郡(ぶとぐん)・下辨県かべんけん(下弁県かべんけん)にいる武都郡(ぶとぐん)の氐族(ていぞく)・羌族(きょうぞく)を攻撃し、氐族(ていぞく)の穀物10万石以上を没収した。

益州・漢中郡の守備

曹操(そうそう)が張魯(ちょうろ)討伐に西征した時、夏侯淵(かこうえん)らは涼州(りょうしゅう)の諸将・侯(こう)・王(おう)以下の官吏を引き連れ、曹操(そうそう)と休亭(きゅうてい)で合流した。曹操(そうそう)は羌族(きょうぞく)を引見する時、いつも夏侯淵(かこうえん)を脅(おど)しの材料に使った。

折(おり)しも張魯(ちょうろ)が降伏し、益州(えきしゅう)・漢中郡(かんちゅうぐん)が平定されたので、夏侯淵(かこうえん)を行都護将軍(こうとごしょうぐん)に任命し、張郃(ちょうこう)・徐晃(じょこう)らを指揮させ、益州(えきしゅう)・巴郡(はぐん)を平定させた。

曹操(そうそう)は冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)・鄴県(ぎょうけん)に戻る時、夏侯淵(かこうえん)を漢中郡(かんちゅうぐん)の守備に残すと同時に、彼を征西将軍(せいせいしょうぐん)に任命した。


建安(けんあん)23年(218年)、劉備(りゅうび)が陽平関(ようへいかん)に陣を敷(し)いたため、夏侯淵(かこうえん)は諸将を統率してこれを防ぎ、睨(にら)み合いは数年も続いた。

建安(けんあん)24年(219年)正月、劉備(りゅうび)は夜中に夏侯淵(かこうえん)の陣営の囲(かこ)いの逆茂木(さかもぎ)(敵の侵入を防ぐ障害物)に火を放った。これに夏侯淵(かこうえん)は、張郃(ちょうこう)に東の囲(かこ)いを守らせ、自分は軽装の兵士を率(ひき)いて南の囲(かこ)いを守ったが、劉備(りゅうび)は張郃(ちょうこう)に挑戦し、張郃(ちょうこう)の軍勢は負け戦(いくさ)となった。

夏侯淵(かこうえん)は自分の率(ひき)いる兵士の半分を分けて張郃(ちょうこう)の助勢に当たらせたところを、劉備(りゅうび)配下の黄忠(こうちゅう)の軍勢に襲撃され、夏侯淵(かこうえん)は戦死し、愍侯(びんこう)と諡(おくりな)された。

曹操の戒め

これより以前、夏侯淵(かこうえん)はしばしば戦勝を収(おさ)めはしたものの、曹操(そうそう)はいつもこう戒(いまし)めていた。

「指揮官たる者、臆病(おくびょう)になることも必要だ。勇気だけを頼みにしてはならない。指揮官は、当然勇気を基本とすべきだが、行動に移す時は智略を用(もち)いよ。勇気に任せることしか知らないならば、1人の男の相手にしかなれぬぞ」


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第2世代(夏侯衡・夏侯覇・夏侯称・夏侯威・夏侯栄・夏侯恵・夏侯和)

夏侯衡(かこうこう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯淵(かこうえん)。弟に夏侯覇(かこうは)、夏侯称(かこうしょう)、夏侯威(かこうい)、夏侯栄(かこうえい)、夏侯恵(かこうけい)、夏侯和(かこうか)。子に夏侯績(かこうせき)。字(あざな)は記録にないが、おそらく伯権(はくけん)。

曹操(そうそう)の弟・海陽哀侯(かいようあいこう)の娘を妻に貰(もら)い、恩寵は特にめでたかった。

夏侯衡(かこうこう)は父・夏侯淵(かこうえん)の爵位を継いだが、安寧亭侯(あんねいていこう)に国替えされた。


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夏侯覇(かこうは)・仲権(ちゅうけん)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯淵(かこうえん)。兄に夏侯衡(かこうこう)。弟に夏侯称(かこうしょう)、夏侯威(かこうい)、夏侯栄(かこうえい)、夏侯恵(かこうけい)、夏侯和(かこうか)。娘は晋(しん)の羊祜(ようこ)の夫人。男子の諱(いみな)・人数は不明。

父の夏侯淵(かこうえん)が蜀(しょく)に殺されたため、いつも切歯扼腕(せっしやくわん)*1し、蜀(しょく)に報復したいと思っていた。黄初(こうしょ)年間(220年〜226年)に偏将軍(へんしょうぐん)に任命され、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。


魏(ぎ)の太和(たいわ)4年(230)の「子午(しご)の戦役*2」の際、夏侯覇(かこうは)は召(め)されて先鋒となり、進撃して駱谷道(らくこくどう)の興勢山(こうせいざん)を包囲し、曲がりくねった峡谷(きょうこく)の中に陣営を置いた。蜀(しょく)の人々はこれを眺(なが)め見て、それが夏侯覇(かこうは)の陣営だと分かると、この陣営目指して軍隊を馳(は)せ下(くだ)らせて攻撃をかけた。

夏侯覇(かこうは)が自(みずか)ら逆茂木(さかもぎ)(敵の侵入を防ぐ障害物)の間で奮戦しているうちに運良く救援軍が到着したため、やっと危機を脱した。


後に右将軍(ゆうしょうぐん)となり、雍州(ようしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)に駐屯したが、兵士を可愛(かわい)がり異民族を手懐(てなず)けて彼らの歓心を得た。

魏(ぎ)の正始(せいし)年間(240年〜249年)に至って、夏侯儒(かこうじゅ)に代わって征蜀護軍(せいしょくごぐん)となり、征西将軍(せいせいしょうぐん)に属した。当時の征西将軍(せいせいしょうぐん)・夏侯玄(かこうげん)は、夏侯覇(かこうは)の従子(おい)で曹爽(そうそう)の外弟にあたるが、司馬懿(しばい)が曹爽(そうそう)を誅殺すると、朝廷は彼を召(め)し寄せ、夏侯玄(かこうげん)は命令に従って東へ向かった。夏侯覇(かこうは)は、曹爽(そうそう)が誅殺され夏侯玄(かこうげん)も召(め)し寄せられたとの情報を得ると、必ず禍(わざわい)が自分の身にも及ぶだろうと考え、内心恐怖を覚えた。さらに、以前から雍州刺史(ようしゅうしし)の郭淮(かくわい)と仲が悪かったが、その郭淮(かくわい)が夏侯玄(かこうげん)に代わって征西将軍(せいせいしょうぐん)に任命されたために、極度に不安になり、ついに蜀(しょく)に亡命した。

魏(ぎ)の朝廷では、父・夏侯淵(かこうえん)の生前の勲功を考慮して夏侯覇(かこうは)の子の死罪を許し、幽州(ゆうしゅう)・楽浪郡(らくろうぐん)に流罪とした。


夏侯覇(かこうは)は南方の益州(えきしゅう)・広漢属国(こうかんぞっこく)・陰平道(いんぺいどう)を目指して進んだが、奥深い谷に迷い込んでしまい、食糧が底を突いたので、馬を殺してそれを食糧としながら徒歩で進んだ。足は傷つき、岩の下に横たわって、人を遣(や)って道を探させたが、どこへ行ったら良いか判断がつかなかった。蜀(しょく)はその情報を得ると、人を派遣して夏侯覇(かこうは)を迎えた。


その昔、建安(けんあん)5年(200年)のこと。当時、夏侯覇(かこうは)の従妹(いとこ)の13〜14歳の少女が、本籍地の郡に居住していたが、薪(たきぎ)を取りに出掛けて張飛(ちょうひ)に捕まった。張飛(ちょうひ)は彼女が良家の娘であると知ると、そのまま自分の妻とした。彼女は娘を産(う)み、その娘が劉禅(りゅうぜん)の皇后(こうごう)となった。そのため夏侯淵(かこうえん)が戦死した当初、張飛(ちょうひ)の妻は「彼を埋葬して欲しい」と願い出たのであった。


夏侯覇(かこうは)が蜀(しょく)に入国すると、劉禅(りゅうぜん)は彼と会見し、彼に対して言い訳をして「君の父は戦陣の中で命を落としたのだ。朕(ちん)の父(劉備(りゅうび))が手にかけたのではないぞ」と言い、自分の子供を指さして「この子は夏侯氏(かこうし)の甥(おい)にあたる」と言った。夏侯覇(かこうは)はこうして手厚く爵位・恩寵(おんちょう)を賜(たまわ)った。

脚注

*1歯ぎしりをし腕を握(にぎ)り締(し)めること。激しく怒ったり悔(くや)しがったりする様子。

*2魏(ぎ)の太和(たいわ)4年(230)に曹真(そうしん)が蜀(しょく)征伐を行った戦役。


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夏侯称(かこうしょう)・叔権(しゅくけん)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯淵(かこうえん)。兄に夏侯衡(かこうこう)、夏侯覇(かこうは)。弟に夏侯威(かこうい)、夏侯栄(かこうえい)、夏侯恵(かこうけい)、夏侯和(かこうか)。

幼い時から子供たちを集め、その大将になることが好きだった。遊ぶ時には必ず戦争ごっこをし、規律を破った者がいると、その度(たび)に厳しく鞭(むち)打ったが、誰も思いきって逆らおうとはしなかった。

夏侯淵(かこうえん)は心秘(ひそ)かに見所があると考え、『漢書(かんじょ)』項羽伝(こううでん)や兵書を読ませようとしたが、夏侯称(かこうしょう)は「できることがあれば自分勝手にやるだけさ。どうして人から学ぶ必要があるんだい?」と言った。

16歳の時、夏侯淵(かこうえん)が狩猟に連れて行くと、逃げ走る虎を見つけた夏侯称(かこうしょう)は、馬を疾駆させてその後を追いかけ始めた。「やめろ」と言っても聞かず、1矢でこれを射倒した。

その名声が曹操(そうそう)の耳まで届くと、曹操(そうそう)は夏侯称(かこうしょう)の手を握って「儂(わし)はお前を手に入れたぞ」と喜んだ。また、曹丕(そうひ)とは身分や地位を越えた対等な交際をしていた。

宴会の度(たび)ごとに、夏侯称(かこうしょう)の意気は座の人々を圧倒し、弁舌の士も彼を言い負かすことはできなかったので、当時社会的名声のあった者の多くは彼とつきあったが、18歳で亡くなった。


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夏侯威(かこうい)・季権(きけん)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯淵(かこうえん)。兄に夏侯衡(かこうこう)、夏侯覇(かこうは)、夏侯称(かこうしょう)。弟に夏侯栄(かこうえい)、夏侯恵(かこうけい)、夏侯和(かこうか)。子に夏侯駿(かこうしゅん)、夏侯荘(かこうそう)、

侠気(おとこぎ)があり、荆州(けいしゅう)・兗州(えんしゅう)の2州の刺史(しし)という高官を歴任した。


曹丕(そうひ)が五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)であった頃*3、30人程(ほど)の者が集まったことがあり、曹丕(そうひ)は人相見(にんそうみ)が得意だという朱建平(しゅけんぺい)に、その席にいる1人1人の人相を占(うらな)わせた。

この時夏侯威(かこうい)は「あなたは49歳で州牧(しゅうぼく)の位につかれますが、その時にきっと災難がありましょう。その災いを切り抜けられれば、お歳は70歳まで、位は公輔(こうほ)(天子(てんし)の後見役)にまで昇られることになります」と占(うらな)われた。

夏侯威(かこうい)は兗州刺史(えんしゅうしし)となったが、49歳の年の12月上旬に病気にかかった。朱建平(しゅけんぺい)の言葉を思い出し、「助からない命」だと思い定めて、予(あらかじ)め遺言を作り送葬のための道具を整え、すべて怠(おこた)りなく準備させておいた。

ところが下旬になって病気は快方に向かい、ほとんど全快に近くなった。30日の陽(ひ)が西に傾く頃、役所の録事(ろくじ)*4など主立(おもだ)った役人たちを招(まね)いて酒席を設(もう)け、「俺が苦しんだ病気もようやく良くなり、夜が明ければもう50歳だ。朱建平(しゅけんぺい)の戒(いまし)めた時期も、確かに無事に過ごせたのだ」と言ったが、酒席がお開きになり寝床についた時に病気が再発し、その日の夜半頃に亡くなった。

脚注

*3建安(けんあん)16年(211年)〜建安(けんあん)22年(217年)。

*41.記録・文書を取り仕切る官職。
2.公式の宴会の際に、酒などの世話をする役人。


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夏侯栄(かこうえい)・幼権(ようけん)

建安(けんあん)12年(207年)〜建安(けんあん)24年(219年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯淵(かこうえん)。兄に夏侯衡(かこうこう)、夏侯覇(かこうは)、夏侯称(かこうしょう)、夏侯威(かこうい)。弟に夏侯恵(かこうけい)、夏侯和(かこうか)。

幼い時から聡明で、7歳で文書を書くことができた。1日に千字書物を読み、目を通せばたちまち覚えた。

曹丕(そうひ)がその評判を聞いて彼を招(まね)いた。曹丕(そうひ)の元には賓客(ひんかく)が百人以上おり、1人1人名刺を差し出した。名刺には、その人の本籍地・氏名が書かれており、世に言う爵里刺(しゃくりし)であった。客がこれを差し出し、夏侯栄(かこうえい)にチラっと見せた後で彼ら全員と話をさせたが、彼らの顔と名前を1人も間違えなかったので、曹丕(そうひ)は彼の能力を非常に高く買った。

益州(えきしゅう)・漢中郡(かんちゅうぐん)で夏侯淵(かこうえん)が敗北を喫(きっ)した時、夏侯栄(かこうえい)は13歳であった。側近の者たちは彼を抱(かか)えて逃げようとしたが承知せず、「主君や肉親が危ない目に遭(あ)っているのに、どうして助かることができようぞ」と言い、剣を振り回して戦い戦死した。


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夏侯恵(かこうけい)・稚権(ちけん)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯淵(かこうえん)。兄に夏侯衡(かこうこう)、夏侯覇(かこうは)、夏侯称(かこうしょう)、夏侯威(かこうい)、夏侯栄(かこうえい)。弟に夏侯和(かこうか)。

幼い頃から才能と学問によって称賛され、奏議(そうぎ)(上奏文の一種)を書くことに優(すぐ)れていた。

散騎(さんき)、黄門侍郎(こうもんじろう)を歴任し、鍾毓(しょういく)としばしば議論を戦わせたが、多くの場合、鍾毓(しょういく)の意見が採用された。

幽州(ゆうしゅう)・燕国(えんこく)の相(しょう)(太守(たいしゅ))、青州(せいしゅう)・楽安国(らくあんこく)の太守(たいしゅ)に転任し、37歳で亡くなった。


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夏侯和(かこうか)・義権(ぎけん)(夏侯和(かこうわ))

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯淵(かこうえん)。兄に夏侯衡(かこうこう)、夏侯覇(かこうは)、夏侯称(かこうしょう)、夏侯威(かこうい)、夏侯栄(かこうえい)、夏侯恵(かこうけい)。

弁舌爽(さわ)やかで才気に満ちた議論をし、河南尹(かなんいん)、太常(たいじょう)を歴任した。


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第3世代(夏侯績・夏侯駿・夏侯荘)

夏侯績(かこうせき)・長容(ちょうよう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯衡(かこうこう)。子に夏侯褒(かこうほう)。祖父に夏侯淵(かこうえん)。

父・夏侯衡(かこうこう)の後を継ぎ、虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)となった。


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夏侯駿(かこうしゅん)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯威(かこうい)。弟に夏侯荘(かこうそう)。

幷州刺史(へいしゅうしし)となった。


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夏侯荘(かこうそう)・仲容(ちゅうよう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯威(かこうい)。兄に夏侯駿(かこうしゅん)。子に夏侯湛(かこうたん)。

淮南太守(わいなんたいしゅ)となった。

晋(しん)の景陽皇后(けいようこうごう)の姉の夫にあたり、そのお陰で彼の一門は当時、羽振(はぶ)りを利(き)かせていた。


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第4世代(夏侯褒・夏侯湛)

夏侯褒(かこうほう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯績(かこうせき)。曾祖父(そうそふ)に夏侯淵(かこうえん)。

父・夏侯績(かこうせき)の後を継いだ。


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夏侯湛(かこうたん)・孝若(こうじゃく)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)の人。父は夏侯荘(かこうそう)。曾祖父(そうそふ)に夏侯淵(かこうえん)。

多才で文章に秀(すぐ)れていた。位は荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)の相(しょう)(太守(たいしゅ))、散騎常侍(さんきじょうじ)にまで昇った。ることで父・夏侯績(かこうせき)の後を継いだ。


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