正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑪、沛国はいこく夏侯氏かこうし②(夏侯淵かこうえん夏侯衡かこうこう夏侯覇かこうは夏侯称かこうしょう夏侯威かこうい夏侯栄かこうえい夏侯恵かこうけい夏侯和かこうか夏侯績かこうせき夏侯駿かこうしゅん夏侯荘かこうそう夏侯褒かこうほう夏侯湛かこうたん)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

沛国夏侯氏②系図

沛国夏侯氏②系図

沛国はいこく夏侯氏かこうし②系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
★は夏侯淵かこうえんとの兄弟の順は不明。
赤字がこの記事でまとめている人物。


この記事では沛国はいこく夏侯氏かこうし②の人物、

についてまとめています。

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お⑪(沛国夏侯氏②)

第0世代(夏侯嬰)

第1世代(夏侯淵)

夏侯淵かこうえん妙才みょうさい

生年不詳〜建安けんあん24年(219年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。子に夏侯衡かこうこう夏侯覇かこうは夏侯称かこうしょう夏侯威かこうい夏侯栄かこうえい夏侯恵かこうけい夏侯和かこうか。妻は曹操そうそうの妻の妹。前漢ぜんかん高祖こうそ劉邦りゅうほう)の将軍しょうぐん夏侯嬰かこうえい後裔こうえい夏侯惇かこうとん族弟ぞくてい

挙兵

曹操そうそうが故郷にいた頃、県の長官に関する事件で罪を受けた曹操そうそうの身代わりとなって重い罪を引き受けたが、曹操そうそうがうまく救出してくれたので助かることができた。

曹操そうそうは兵をげると、夏侯淵かこうえん別部司馬べつぶしば騎都尉きといに任命して随行ずいこうさせ、兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん太守たいしゅに昇進させた。


建安けんあん5年(200年)に曹操そうそう袁紹えんしょう官渡かんとで交戦した時には督軍校尉とくぐんこういを代行し、袁紹えんしょうが敗北した後は、兗州えんしゅう豫州よしゅう予州よしゅう)・徐州じょしゅうの兵糧を取り仕切った。当時、軍には食糧がとぼしかったが、夏侯淵かこうえんが途絶えることなく輸送したため勢いを盛り返すことができた。

反乱の平定
徐州じょしゅう

建安けんあん11年(206年)、徐州じょしゅう東海郡とうかいぐん昌豨しょうきがまたも反逆すると、曹操そうそう于禁うきんにこれを征討させたが、攻め落とせずにいた。そこで曹操そうそうは、夏侯淵かこうえんを派遣して于禁うきんに協力させ、昌豨しょうきの10余りの屯営を攻め下し、昌豨しょうき于禁うきんの元に降伏して来た。夏侯淵かこうえんは帰還すると、典軍校尉てんぐんこういに任命された。

夏侯淵かこうえんは「急襲」を得意とし、いつも敵の不意を突いたため、軍中では「典軍校尉てんぐんこうい夏侯淵かこうえん、3日で5百里(約215km)、6日で一千里(約430km)」と語り合った。

青州せいしゅう

青州せいしゅう済南郡せいなんぐん楽安郡らくあんぐんの黄巾賊・徐和じょか司馬倶しばぐらが城を攻撃し、県の高官を殺害した。夏侯淵かこうえん兗州えんしゅう泰山郡たいざんぐん青州せいしゅう斉郡せいぐん平原郡へいげんぐんの各郡の軍兵をひきいて呂虔りょけんと共にこれを攻撃し、散々に撃ち破って徐和じょかを斬り殺し、諸県を平定すると、その食糧を没収して兵士に給付した。

揚州ようしゅう

建安けんあん14年(209年)、夏侯淵かこうえん行領軍こうりょうぐんに任命された。曹操そうそう孫権そんけん討伐から帰還すると、夏侯淵かこうえんに諸将を指揮させ、揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐんの反乱者・雷緒らいしょを攻撃させた。

幷州へいしゅう并州へいしゅう

雷緒らいしょを撃ち破ると、曹操そうそうはまた夏侯淵かこうえん行征西護軍こうせいせいごぐんに任命し、徐晃じょこうを指揮させて幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん賊徒ぞくとを攻撃させた。夏侯淵かこうえんは20余りの屯営を攻め落とし、ぞく頭目とうもく商曜しょうようを斬り、その根城を破壊した。

涼州の平定
韓遂かんすい馬超ばちょう

その後、韓遂かんすいらの征伐に随行し、渭南いなんにおいて交戦した。また、朱霊しゅれいを指揮して司隷しれい右扶風ゆうふふう隃糜県ゆびけん汧県けんけん氐族ていぞくを平定し、涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん曹操そうそうと合流して楊秋ようしゅうを降伏させた。


建安けんあん17年(212年)、曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還すると、夏侯淵かこうえん行護軍将軍こうごぐんしょうぐんに任命し、朱霊しゅれい路招ろしょうらを指揮させて長安ちょうあんに駐屯させた。夏侯淵かこうえん南山なんざん賊徒ぞくと劉雄りゅうゆう劉鳴りゅうめい)を撃破してその軍勢を降伏させ、司隷しれい右扶風ゆうふふう鄠県こけんにいた韓遂かんすい馬超ばちょうの残党・梁興りょうこうを包囲・陥落させて梁興りょうこうを斬り殺し、博昌亭侯はくしょうていこうに封ぜられた。

馬超ばちょう涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん冀県きけんにいる涼州刺史りょうしゅうしし韋康いこうを包囲すると、夏侯淵かこうえん韋康いこうの救援に向かったが、まだ到着しないうちに韋康いこうは敗北した。

この時、馬超ばちょう冀県きけんから2百里(約86km)余りの地点まで出向いて迎え撃ったので、夏侯淵かこうえんの軍は負けいくさとなり、さらに馬超ばちょうに呼応して汧県けんけん氐族ていぞくが反乱を起こしたため、夏侯淵かこうえんは軍隊を引きげて帰還した。


建安けんあん19年(214年)、趙衢ちょうく尹奉いんほうらは馬超ばちょうを討ち取ろうとはかって、姜叙きょうじょ鹵城ろじょうで兵をげ、これに呼応した。趙衢ちょうくらは馬超ばちょうだましてき伏せ、姜叙きょうじょ攻撃に出陣させた後、馬超ばちょうの妻子を皆殺しにした。馬超ばちょう益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐんに逃亡し、また戻って来て祁山きざんを包囲した。姜叙きょうじょらは急ぎ救援を要請した。

諸将や意見をべる者たちは「こう曹操そうそう)の指図を待とう」と言ったが、夏侯淵かこうえんは「こう曹操そうそう)はぎょうにおられ、往復4千里(約1,720km)もある。ご返事をいただく頃には、姜叙きょうじょらは敗北しているに違いない。それでは危急を救うことにはならぬぞ」と言い、そのまま出陣した。

張郃ちょうこうに歩兵・騎兵合わせて5千を統率させて先鋒とし、司隷しれい右扶風ゆうふふう陳倉県ちんそうけんの細い道を通って進軍させ、夏侯淵かこうえん自身は兵糧を監督して後詰ごづめとなった。張郃ちょうこう渭水いすいほとりに到達すると、馬超ばちょう氐族ていぞく羌族きょうぞくの兵士数千をひきいて彼を迎え撃った。まだ交戦しないうちに馬超ばちょうが逃走したので、張郃ちょうこうは進軍して馬超ばちょう軍の大型武器を没収した。

夏侯淵かこうえんが到着した時、諸県はすでに降伏した後だった。その時、韓遂かんすい涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん顕親県けんしんけんに駐屯していたので、夏侯淵かこうえんがこれを襲撃・攻略しようとしたところ、韓遂かんすいは逃走した。

夏侯淵かこうえん韓遂かんすいの兵糧を手に入れ、追撃して略陽城りゃくようじょう涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん略陽県りゃくようけん)まで到達した。韓遂かんすいとの距離はわずか20里(約8.6km)余りだった。諸将は彼を攻撃しようと望み、興国こうこく氐族ていぞくを攻撃すべきだと主張する者もあった。夏侯淵かこうえんは「韓遂かんすいの兵士は精鋭なうえ、興国こうこくの城は堅固であることから、攻撃したところで結局は陥落させられないだろう」と考え、長離ちょうりにいるきょうの諸部族を討伐する方が良いと判断した。

長離ちょうりにいるきょうの諸部族のうちの多くが韓遂かんすいの軍隊に参加しており、引き返して家族を救うに違いない。もしも韓遂かんすい羌族きょうぞくを見捨てて救援せず、略陽城りゃくようじょうひとりで守るならば孤立することになるし、長離ちょうりの救援におもむけば、官軍は彼と平野で戦闘することができ、きっと彼を生け捕れる」と考えたからである。

そこで夏侯淵かこうえんは、輜重しちょう守備の指揮官を後に残し、軽装の歩兵・騎兵をひきいて長離ちょうりに行き、羌族きょうぞくの屯営を攻撃して焼き払い、多くの羌族きょうぞくを斬り殺したり捕虜にしたりした。韓遂かんすいの軍隊に参加していたきょうの諸部族は、それぞれ自分の部落に立ち戻った。

韓遂かんすいは予想通り長離ちょうり救援におもむき、夏侯淵かこうえんの軍隊と対峙した。夏侯淵かこうえんの諸将は韓遂かんすいの軍勢を見ると嫌悪を覚え、陣営を築き塹壕ざんごうを掘って彼らと対戦したいと望んだ。夏侯淵かこうえんは「我々は千里(約430km)の彼方かなたから転戦して来ている。ここでまたもや陣営や塹壕ざんごうを作ったりすれば、兵士たちは疲労ひろう困憊こんぱいし、とても長くは持ちこたえられないだろう。敵は多数ではあるが、くみやすいのだぞ」と言い、士気を鼓舞して大いに韓遂かんすい軍を撃ち破り、その旗印はたじるしを奪い取ってから、略陽城りゃくようじょうに立ち戻り軍を進めて興国こうこくを包囲した。氐王ていおう千万せんばん軍は馬超ばちょうの元へ逃亡し、後に残った軍勢は降伏した。

夏侯淵かこうえん鋒先ほこさきを転じて涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん高平県こうへいけん屠各とかく匈奴きょうどの部族)を攻撃し、すべて散り散りに蹴散らしてその食糧や牛馬を手中におさめ、夏侯淵かこうえん仮節かせつの権限を与えられた。

宋建そうけん

これより以前、涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん枹罕県ほうかんけん宋建そうけんは、涼州りょうしゅうの混乱につけ込んで河首平漢王かしゅへいかんおうと自称していた。曹操そうそう夏侯淵かこうえんに諸将を統率させ、宋建そうけん討伐に向かわせた。

夏侯淵かこうえんは到着すると枹罕県ほうかんけんを包囲し、1ヶ月余りでこれを陥落させ、宋建そうけんと彼が任命した丞相じょうしょう以下の官吏を斬り殺した。夏侯淵かこうえんは別に張郃ちょうこうを派遣してを河関県かかんけんを平定させ、黄河こうがを渡って小湟中しょうこうちゅうに侵入させた。河西かせいにいるきょうの諸部族はことごとく降伏し、隴右ろうゆうは平定された。

この夏侯淵かこうえんの働きに曹操そうそうは「宋建そうけん謀叛むほんを起こしてから30年以上になるが、夏侯淵かこうえんは1度の戦闘によってこれを滅ぼし、関右かんゆうの地を闊歩かっぽし、向かうところ敵なしであった。仲尼ちゅうじ孔子こうし)も『わしとお前(弟子の子貢しこう)は(顔回がんかいに)及ばない』(論語ろんご公冶長こうやちょう)と言っている」と布令を下した。


建安けんあん21年(216年)、夏侯淵かこうえん封邑ほうゆうを3百戸加増し、合計8百戸とした。

夏侯淵かこうえん長安ちょうあんに帰還してから涼州りょうしゅう武都郡ぶとぐん下辨県かべんけん下弁県かべんけん)にいる武都郡ぶとぐん氐族ていぞく羌族きょうぞくを攻撃し、氐族ていぞくの穀物10万石以上を没収した。

益州・漢中郡の守備

曹操そうそう張魯ちょうろ討伐に西征した時、夏侯淵かこうえんらは涼州りょうしゅうの諸将・こうおう以下の官吏を引き連れ、曹操そうそう休亭きゅうていで合流した。曹操そうそう羌族きょうぞくを引見する時、いつも夏侯淵かこうえんおどしの材料に使った。

おりしも張魯ちょうろが降伏し、益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐんが平定されたので、夏侯淵かこうえん行都護将軍こうとごしょうぐんに任命し、張郃ちょうこう徐晃じょこうらを指揮させ、益州えきしゅう巴郡はぐんを平定させた。

曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに戻る時、夏侯淵かこうえん漢中郡かんちゅうぐんの守備に残すと同時に、彼を征西将軍せいせいしょうぐんに任命した。


建安けんあん23年(218年)、劉備りゅうび陽平関ようへいかんに陣をいたため、夏侯淵かこうえんは諸将を統率してこれを防ぎ、にらみ合いは数年も続いた。

建安けんあん24年(219年)正月、劉備りゅうびは夜中に夏侯淵かこうえんの陣営のかこいの逆茂木さかもぎ(敵の侵入を防ぐ障害物)に火を放った。これに夏侯淵かこうえんは、張郃ちょうこうに東のかこいを守らせ、自分は軽装の兵士をひきいて南のかこいを守ったが、劉備りゅうび張郃ちょうこうに挑戦し、張郃ちょうこうの軍勢は負けいくさとなった。

夏侯淵かこうえんは自分のひきいる兵士の半分を分けて張郃ちょうこうの助勢に当たらせたところを、劉備りゅうび配下の黄忠こうちゅうの軍勢に襲撃され、夏侯淵かこうえんは戦死し、愍侯びんこうおくりなされた。

曹操の戒め

これより以前、夏侯淵かこうえんはしばしば戦勝をおさめはしたものの、曹操そうそうはいつもこういましめていた。

「指揮官たる者、臆病おくびょうになることも必要だ。勇気だけを頼みにしてはならない。指揮官は、当然勇気を基本とすべきだが、行動に移す時は智略をもちいよ。勇気に任せることしか知らないならば、1人の男の相手にしかなれぬぞ」


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第2世代(夏侯衡・夏侯覇・夏侯称・夏侯威・夏侯栄・夏侯恵・夏侯和)

夏侯衡かこうこう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯淵かこうえん。弟に夏侯覇かこうは夏侯称かこうしょう夏侯威かこうい夏侯栄かこうえい夏侯恵かこうけい夏侯和かこうか。子に夏侯績かこうせきあざなは記録にないが、おそらく伯権はくけん

曹操そうそうの弟・海陽哀侯かいようあいこうの娘を妻にもらい、恩寵は特にめでたかった。

夏侯衡かこうこうは父・夏侯淵かこうえんの爵位を継いだが、安寧亭侯あんねいていこうに国替えされた。


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夏侯覇かこうは仲権ちゅうけん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯淵かこうえん。兄に夏侯衡かこうこう。弟に夏侯称かこうしょう夏侯威かこうい夏侯栄かこうえい夏侯恵かこうけい夏侯和かこうか。娘はしん羊祜ようこの夫人。男子のいみな・人数は不明。

父の夏侯淵かこうえんしょくに殺されたため、いつも切歯扼腕せっしやくわん*1し、しょくに報復したいと思っていた。黄初こうしょ年間(220年〜226年)に偏将軍へんしょうぐんに任命され、関内侯かんだいこうに封ぜられた。


太和たいわ4年(230)の「子午しごの戦役*2」の際、夏侯覇かこうはされて先鋒となり、進撃して駱谷道らくこくどう興勢山こうせいざんを包囲し、曲がりくねった峡谷きょうこくの中に陣営を置いた。しょくの人々はこれをながめ見て、それが夏侯覇かこうはの陣営だと分かると、この陣営目指して軍隊をくだらせて攻撃をかけた。

夏侯覇かこうはみずか逆茂木さかもぎ(敵の侵入を防ぐ障害物)の間で奮戦しているうちに運良く救援軍が到着したため、やっと危機を脱した。


後に右将軍ゆうしょうぐんとなり、雍州ようしゅう隴西郡ろうせいぐんに駐屯したが、兵士を可愛かわいがり異民族を手懐てなずけて彼らの歓心を得た。

正始せいし年間(240年〜249年)に至って、夏侯儒かこうじゅに代わって征蜀護軍せいしょくごぐんとなり、征西将軍せいせいしょうぐんに属した。当時の征西将軍せいせいしょうぐん夏侯玄かこうげんは、夏侯覇かこうは従子おい曹爽そうそうの外弟にあたるが、司馬懿しばい曹爽そうそうを誅殺すると、朝廷は彼をし寄せ、夏侯玄かこうげんは命令に従って東へ向かった。夏侯覇かこうはは、曹爽そうそうが誅殺され夏侯玄かこうげんし寄せられたとの情報を得ると、必ずわざわいが自分の身にも及ぶだろうと考え、内心恐怖を覚えた。さらに、以前から雍州刺史ようしゅうしし郭淮かくわいと仲が悪かったが、その郭淮かくわい夏侯玄かこうげんに代わって征西将軍せいせいしょうぐんに任命されたために、極度に不安になり、ついにしょくに亡命した。

の朝廷では、父・夏侯淵かこうえんの生前の勲功を考慮して夏侯覇かこうはの子の死罪を許し、幽州ゆうしゅう楽浪郡らくろうぐんに流罪とした。


夏侯覇かこうはは南方の益州えきしゅう広漢属国こうかんぞっこく陰平道いんぺいどうを目指して進んだが、奥深い谷に迷い込んでしまい、食糧が底を突いたので、馬を殺してそれを食糧としながら徒歩で進んだ。足は傷つき、岩の下に横たわって、人をって道を探させたが、どこへ行ったら良いか判断がつかなかった。しょくはその情報を得ると、人を派遣して夏侯覇かこうはを迎えた。


その昔、建安けんあん5年(200年)のこと。当時、夏侯覇かこうは従妹いとこの13〜14歳の少女が、本籍地の郡に居住していたが、たきぎを取りに出掛けて張飛ちょうひに捕まった。張飛ちょうひは彼女が良家の娘であると知ると、そのまま自分の妻とした。彼女は娘をみ、その娘が劉禅りゅうぜん皇后こうごうとなった。そのため夏侯淵かこうえんが戦死した当初、張飛ちょうひの妻は「彼を埋葬して欲しい」と願い出たのであった。


夏侯覇かこうはしょくに入国すると、劉禅りゅうぜんは彼と会見し、彼に対して言い訳をして「君の父は戦陣の中で命を落としたのだ。ちんの父(劉備りゅうび)が手にかけたのではないぞ」と言い、自分の子供を指さして「この子は夏侯氏かこうしおいにあたる」と言った。夏侯覇かこうははこうして手厚く爵位・恩寵おんちょうたまわった。

脚注

*1歯ぎしりをし腕をにぎめること。激しく怒ったりくやしがったりする様子。

*2太和たいわ4年(230)に曹真そうしんしょく征伐を行った戦役。


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夏侯称かこうしょう叔権しゅくけん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯淵かこうえん。兄に夏侯衡かこうこう夏侯覇かこうは。弟に夏侯威かこうい夏侯栄かこうえい夏侯恵かこうけい夏侯和かこうか

幼い時から子供たちを集め、その大将になることが好きだった。遊ぶ時には必ず戦争ごっこをし、規律を破った者がいると、そのたびに厳しくむち打ったが、誰も思いきって逆らおうとはしなかった。

夏侯淵かこうえんは心ひそかに見所があると考え、漢書かんじょ項羽伝こううでんや兵書を読ませようとしたが、夏侯称かこうしょうは「できることがあれば自分勝手にやるだけさ。どうして人から学ぶ必要があるんだい?」と言った。

16歳の時、夏侯淵かこうえんが狩猟に連れて行くと、逃げ走る虎を見つけた夏侯称かこうしょうは、馬を疾駆させてその後を追いかけ始めた。「やめろ」と言っても聞かず、1矢でこれを射倒した。

その名声が曹操そうそうの耳まで届くと、曹操そうそう夏侯称かこうしょうの手を握って「わしはお前を手に入れたぞ」と喜んだ。また、曹丕そうひとは身分や地位を越えた対等な交際をしていた。

宴会のたびごとに、夏侯称かこうしょうの意気は座の人々を圧倒し、弁舌の士も彼を言い負かすことはできなかったので、当時社会的名声のあった者の多くは彼とつきあったが、18歳で亡くなった。


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夏侯威かこうい季権きけん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯淵かこうえん。兄に夏侯衡かこうこう夏侯覇かこうは夏侯称かこうしょう。弟に夏侯栄かこうえい夏侯恵かこうけい夏侯和かこうか。子に夏侯駿かこうしゅん夏侯荘かこうそう

侠気おとこぎがあり、荆州けいしゅう兗州えんしゅうの2州の刺史ししという高官を歴任した。


曹丕そうひ五官中郎将ごかんちゅうろうしょうであった頃*3、30人ほどの者が集まったことがあり、曹丕そうひ人相見にんそうみが得意だという朱建平しゅけんぺいに、その席にいる1人1人の人相をうらなわせた。

この時夏侯威かこういは「あなたは49歳で州牧しゅうぼくの位につかれますが、その時にきっと災難がありましょう。その災いを切り抜けられれば、お歳は70歳まで、位は公輔こうほ天子てんしの後見役)にまで昇られることになります」とうらなわれた。

夏侯威かこうい兗州刺史えんしゅうししとなったが、49歳の年の12月上旬に病気にかかった。朱建平しゅけんぺいの言葉を思い出し、「助からない命」だと思い定めて、あらかじめ遺言を作り送葬のための道具を整え、すべておこたりなく準備させておいた。

ところが下旬になって病気は快方に向かい、ほとんど全快に近くなった。30日のが西に傾く頃、役所の録事ろくじ*4など主立おもだった役人たちをまねいて酒席をもうけ、「俺が苦しんだ病気もようやく良くなり、夜が明ければもう50歳だ。朱建平しゅけんぺいいましめた時期も、確かに無事に過ごせたのだ」と言ったが、酒席がお開きになり寝床についた時に病気が再発し、その日の夜半頃に亡くなった。

脚注

*3建安けんあん16年(211年)〜建安けんあん22年(217年)。

*41.記録・文書を取り仕切る官職。
2.公式の宴会の際に、酒などの世話をする役人。


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夏侯栄かこうえい幼権ようけん

建安けんあん12年(207年)〜建安けんあん24年(219年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯淵かこうえん。兄に夏侯衡かこうこう夏侯覇かこうは夏侯称かこうしょう夏侯威かこうい。弟に夏侯恵かこうけい夏侯和かこうか

幼い時から聡明で、7歳で文書を書くことができた。1日に千字書物を読み、目を通せばたちまち覚えた。

曹丕そうひがその評判を聞いて彼をまねいた。曹丕そうひの元には賓客ひんかくが百人以上おり、1人1人名刺を差し出した。名刺には、その人の本籍地・氏名が書かれており、世に言う爵里刺しゃくりしであった。客がこれを差し出し、夏侯栄かこうえいにチラっと見せた後で彼ら全員と話をさせたが、彼らの顔と名前を1人も間違えなかったので、曹丕そうひは彼の能力を非常に高く買った。

益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐん夏侯淵かこうえんが敗北をきっした時、夏侯栄かこうえいは13歳であった。側近の者たちは彼をかかえて逃げようとしたが承知せず、「主君や肉親が危ない目にっているのに、どうして助かることができようぞ」と言い、剣を振り回して戦い戦死した。


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夏侯恵かこうけい稚権ちけん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯淵かこうえん。兄に夏侯衡かこうこう夏侯覇かこうは夏侯称かこうしょう夏侯威かこうい夏侯栄かこうえい。弟に夏侯和かこうか

幼い頃から才能と学問によって称賛され、奏議そうぎ(上奏文の一種)を書くことにすぐれていた。

散騎さんき黄門侍郎こうもんじろうを歴任し、鍾毓しょういくとしばしば議論を戦わせたが、多くの場合、鍾毓しょういくの意見が採用された。

幽州ゆうしゅう燕国えんこくしょう太守たいしゅ)、青州せいしゅう楽安国らくあんこく太守たいしゅに転任し、37歳で亡くなった。


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夏侯和かこうか義権ぎけん夏侯和かこうわ

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯淵かこうえん。兄に夏侯衡かこうこう夏侯覇かこうは夏侯称かこうしょう夏侯威かこうい夏侯栄かこうえい夏侯恵かこうけい

弁舌さわやかで才気に満ちた議論をし、河南尹かなんいん太常たいじょうを歴任した。


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第3世代(夏侯績・夏侯駿・夏侯荘)

夏侯績かこうせき長容ちょうよう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯衡かこうこう。子に夏侯褒かこうほう。祖父に夏侯淵かこうえん

父・夏侯衡かこうこうの後を継ぎ、虎賁中郎将こほんちゅうろうしょうとなった。


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夏侯駿かこうしゅん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯威かこうい。弟に夏侯荘かこうそう

幷州刺史へいしゅうししとなった。


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夏侯荘かこうそう仲容ちゅうよう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯威かこうい。兄に夏侯駿かこうしゅん。子に夏侯湛かこうたん

淮南太守わいなんたいしゅとなった。

しん景陽皇后けいようこうごうの姉の夫にあたり、そのお陰で彼の一門は当時、羽振はぶりをかせていた。


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第4世代(夏侯褒・夏侯湛)

夏侯褒かこうほう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯績かこうせき曾祖父そうそふ夏侯淵かこうえん

父・夏侯績かこうせきの後を継いだ。


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夏侯湛かこうたん孝若こうじゃく

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。父は夏侯荘かこうそう曾祖父そうそふ夏侯淵かこうえん

多才で文章にすぐれていた。位は荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんしょう太守たいしゅ)、散騎常侍さんきじょうじにまで昇った。ることで父・夏侯績かこうせきの後を継いだ。


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【三国志人物伝】総索引