正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑪、沛国夏侯氏②(夏侯淵・夏侯衡・夏侯覇・夏侯称・夏侯威・夏侯栄・夏侯恵・夏侯和・夏侯績・夏侯駿・夏侯荘・夏侯褒・夏侯湛)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
沛国夏侯氏②系図
沛国夏侯氏②系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
★は夏侯淵との兄弟の順は不明。
赤字がこの記事でまとめている人物。
この記事では沛国夏侯氏②の人物、
についてまとめています。
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お⑪(沛国夏侯氏②)
第0世代(夏侯嬰)
第1世代(夏侯淵)
夏侯淵・妙才
生年不詳〜建安24年(219年)没。豫州(予州)・沛国・譙県の人。子に夏侯衡、夏侯覇、夏侯称、夏侯威、夏侯栄、夏侯恵、夏侯和。妻は曹操の妻の妹。前漢の高祖(劉邦)の将軍・夏侯嬰の後裔。夏侯惇の族弟。
挙兵
曹操が故郷にいた頃、県の長官に関する事件で罪を受けた曹操の身代わりとなって重い罪を引き受けたが、曹操がうまく救出してくれたので助かることができた。
曹操は兵を挙げると、夏侯淵を別部司馬・騎都尉に任命して随行させ、兗州・陳留郡、豫州(予州)・潁川郡の太守に昇進させた。
建安5年(200年)に曹操と袁紹が官渡で交戦した時には督軍校尉を代行し、袁紹が敗北した後は、兗州・豫州(予州)・徐州の兵糧を取り仕切った。当時、軍には食糧が乏しかったが、夏侯淵が途絶えることなく輸送したため勢いを盛り返すことができた。
反乱の平定
徐州
建安11年(206年)、徐州・東海郡の昌豨がまたも反逆すると、曹操は于禁にこれを征討させたが、攻め落とせずにいた。そこで曹操は、夏侯淵を派遣して于禁に協力させ、昌豨の10余りの屯営を攻め下し、昌豨は于禁の元に降伏して来た。夏侯淵は帰還すると、典軍校尉に任命された。
夏侯淵は「急襲」を得意とし、いつも敵の不意を突いたため、軍中では「典軍校尉の夏侯淵、3日で5百里(約215km)、6日で一千里(約430km)」と語り合った。
青州
青州の済南郡と楽安郡の黄巾賊・徐和、司馬倶らが城を攻撃し、県の高官を殺害した。夏侯淵は兗州の泰山郡、青州の斉郡と平原郡の各郡の軍兵を率いて呂虔と共にこれを攻撃し、散々に撃ち破って徐和を斬り殺し、諸県を平定すると、その食糧を没収して兵士に給付した。
揚州
建安14年(209年)、夏侯淵は行領軍に任命された。曹操は孫権討伐から帰還すると、夏侯淵に諸将を指揮させ、揚州・廬江郡の反乱者・雷緒を攻撃させた。
幷州(并州)
雷緒を撃ち破ると、曹操はまた夏侯淵を行征西護軍に任命し、徐晃を指揮させて幷州(并州)・太原郡の賊徒を攻撃させた。夏侯淵は20余りの屯営を攻め落とし、賊の頭目・商曜を斬り、その根城を破壊した。
涼州の平定
韓遂・馬超
その後、韓遂らの征伐に随行し、渭南において交戦した。また、朱霊を指揮して司隷・右扶風の隃糜県と汧県の氐族を平定し、涼州・安定郡で曹操と合流して楊秋を降伏させた。
建安17年(212年)、曹操は冀州・魏郡・鄴県に帰還すると、夏侯淵を行護軍将軍に任命し、朱霊・路招らを指揮させて長安に駐屯させた。夏侯淵は南山の賊徒・劉雄(劉鳴)を撃破してその軍勢を降伏させ、司隷・右扶風・鄠県にいた韓遂・馬超の残党・梁興を包囲・陥落させて梁興を斬り殺し、博昌亭侯に封ぜられた。
馬超が涼州・漢陽郡・冀県にいる涼州刺史の韋康を包囲すると、夏侯淵は韋康の救援に向かったが、まだ到着しないうちに韋康は敗北した。
この時、馬超が冀県から2百里(約86km)余りの地点まで出向いて迎え撃ったので、夏侯淵の軍は負け戦となり、さらに馬超に呼応して汧県の氐族が反乱を起こしたため、夏侯淵は軍隊を引き揚げて帰還した。
建安19年(214年)、趙衢・尹奉らは馬超を討ち取ろうと計って、姜叙が鹵城で兵を挙げ、これに呼応した。趙衢らは馬超を騙して説き伏せ、姜叙攻撃に出陣させた後、馬超の妻子を皆殺しにした。馬超は益州・漢中郡に逃亡し、また戻って来て祁山を包囲した。姜叙らは急ぎ救援を要請した。
諸将や意見を述べる者たちは「公(曹操)の指図を待とう」と言ったが、夏侯淵は「公(曹操)は鄴におられ、往復4千里(約1,720km)もある。ご返事をいただく頃には、姜叙らは敗北しているに違いない。それでは危急を救うことにはならぬぞ」と言い、そのまま出陣した。
張郃に歩兵・騎兵合わせて5千を統率させて先鋒とし、司隷・右扶風・陳倉県の細い道を通って進軍させ、夏侯淵自身は兵糧を監督して後詰めとなった。張郃が渭水の畔に到達すると、馬超は氐族・羌族の兵士数千を率いて彼を迎え撃った。まだ交戦しないうちに馬超が逃走したので、張郃は進軍して馬超軍の大型武器を没収した。
夏侯淵が到着した時、諸県はすでに降伏した後だった。その時、韓遂は涼州・漢陽郡・顕親県に駐屯していたので、夏侯淵がこれを襲撃・攻略しようとしたところ、韓遂は逃走した。
夏侯淵は韓遂の兵糧を手に入れ、追撃して略陽城(涼州・漢陽郡・略陽県)まで到達した。韓遂との距離はわずか20里(約8.6km)余りだった。諸将は彼を攻撃しようと望み、興国の氐族を攻撃すべきだと主張する者もあった。夏侯淵は「韓遂の兵士は精鋭なうえ、興国の城は堅固であることから、攻撃したところで結局は陥落させられないだろう」と考え、長離にいる羌の諸部族を討伐する方が良いと判断した。
「長離にいる羌の諸部族のうちの多くが韓遂の軍隊に参加しており、引き返して家族を救うに違いない。もしも韓遂が羌族を見捨てて救援せず、略陽城を独りで守るならば孤立することになるし、長離の救援に赴けば、官軍は彼と平野で戦闘することができ、きっと彼を生け捕れる」と考えたからである。
そこで夏侯淵は、輜重守備の指揮官を後に残し、軽装の歩兵・騎兵を率いて長離に行き、羌族の屯営を攻撃して焼き払い、多くの羌族を斬り殺したり捕虜にしたりした。韓遂の軍隊に参加していた羌の諸部族は、それぞれ自分の部落に立ち戻った。
韓遂は予想通り長離救援に赴き、夏侯淵の軍隊と対峙した。夏侯淵の諸将は韓遂の軍勢を見ると嫌悪を覚え、陣営を築き塹壕を掘って彼らと対戦したいと望んだ。夏侯淵は「我々は千里(約430km)の彼方から転戦して来ている。ここでまたもや陣営や塹壕を作ったりすれば、兵士たちは疲労困憊し、とても長くは持ちこたえられないだろう。敵は多数ではあるが、与し易いのだぞ」と言い、士気を鼓舞して大いに韓遂軍を撃ち破り、その旗印を奪い取ってから、略陽城に立ち戻り軍を進めて興国を包囲した。氐王の千万軍は馬超の元へ逃亡し、後に残った軍勢は降伏した。
夏侯淵は鋒先を転じて涼州・安定郡・高平県、屠各(匈奴の部族)を攻撃し、すべて散り散りに蹴散らしてその食糧や牛馬を手中に収め、夏侯淵は仮節の権限を与えられた。
宋建
これより以前、涼州・隴西郡・枹罕県の宋建は、涼州の混乱につけ込んで河首平漢王と自称していた。曹操は夏侯淵に諸将を統率させ、宋建討伐に向かわせた。
夏侯淵は到着すると枹罕県を包囲し、1ヶ月余りでこれを陥落させ、宋建と彼が任命した丞相以下の官吏を斬り殺した。夏侯淵は別に張郃を派遣してを河関県を平定させ、黄河を渡って小湟中に侵入させた。河西にいる羌の諸部族はことごとく降伏し、隴右は平定された。
この夏侯淵の働きに曹操は「宋建が謀叛を起こしてから30年以上になるが、夏侯淵は1度の戦闘によってこれを滅ぼし、関右の地を闊歩し、向かうところ敵なしであった。仲尼(孔子)も『儂とお前(弟子の子貢)は(顔回に)及ばない』(『論語』公冶長)と言っている」と布令を下した。
建安21年(216年)、夏侯淵の封邑を3百戸加増し、合計8百戸とした。
夏侯淵は長安に帰還してから涼州・武都郡・下辨県(下弁県)にいる武都郡の氐族・羌族を攻撃し、氐族の穀物10万石以上を没収した。
益州・漢中郡の守備
曹操が張魯討伐に西征した時、夏侯淵らは涼州の諸将・侯・王以下の官吏を引き連れ、曹操と休亭で合流した。曹操は羌族を引見する時、いつも夏侯淵を脅しの材料に使った。
折しも張魯が降伏し、益州・漢中郡が平定されたので、夏侯淵を行都護将軍に任命し、張郃・徐晃らを指揮させ、益州・巴郡を平定させた。
曹操は冀州・魏郡・鄴県に戻る時、夏侯淵を漢中郡の守備に残すと同時に、彼を征西将軍に任命した。
建安23年(218年)、劉備が陽平関に陣を敷いたため、夏侯淵は諸将を統率してこれを防ぎ、睨み合いは数年も続いた。
建安24年(219年)正月、劉備は夜中に夏侯淵の陣営の囲いの逆茂木(敵の侵入を防ぐ障害物)に火を放った。これに夏侯淵は、張郃に東の囲いを守らせ、自分は軽装の兵士を率いて南の囲いを守ったが、劉備は張郃に挑戦し、張郃の軍勢は負け戦となった。
夏侯淵は自分の率いる兵士の半分を分けて張郃の助勢に当たらせたところを、劉備配下の黄忠の軍勢に襲撃され、夏侯淵は戦死し、愍侯と諡された。
曹操の戒め
これより以前、夏侯淵はしばしば戦勝を収めはしたものの、曹操はいつもこう戒めていた。
「指揮官たる者、臆病になることも必要だ。勇気だけを頼みにしてはならない。指揮官は、当然勇気を基本とすべきだが、行動に移す時は智略を用いよ。勇気に任せることしか知らないならば、1人の男の相手にしかなれぬぞ」
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第2世代(夏侯衡・夏侯覇・夏侯称・夏侯威・夏侯栄・夏侯恵・夏侯和)
夏侯衡
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯淵。弟に夏侯覇、夏侯称、夏侯威、夏侯栄、夏侯恵、夏侯和。子に夏侯績。字は記録にないが、おそらく伯権。
曹操の弟・海陽哀侯の娘を妻に貰い、恩寵は特にめでたかった。
夏侯衡は父・夏侯淵の爵位を継いだが、安寧亭侯に国替えされた。
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夏侯覇・仲権
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯淵。兄に夏侯衡。弟に夏侯称、夏侯威、夏侯栄、夏侯恵、夏侯和。娘は晋の羊祜の夫人。男子の諱・人数は不明。
父の夏侯淵が蜀に殺されたため、いつも切歯扼腕*1し、蜀に報復したいと思っていた。黄初年間(220年〜226年)に偏将軍に任命され、関内侯に封ぜられた。
魏の太和4年(230)の「子午の戦役*2」の際、夏侯覇は召されて先鋒となり、進撃して駱谷道の興勢山を包囲し、曲がりくねった峡谷の中に陣営を置いた。蜀の人々はこれを眺め見て、それが夏侯覇の陣営だと分かると、この陣営目指して軍隊を馳せ下らせて攻撃をかけた。
夏侯覇が自ら逆茂木(敵の侵入を防ぐ障害物)の間で奮戦しているうちに運良く救援軍が到着したため、やっと危機を脱した。
後に右将軍となり、雍州・隴西郡に駐屯したが、兵士を可愛がり異民族を手懐けて彼らの歓心を得た。
魏の正始年間(240年〜249年)に至って、夏侯儒に代わって征蜀護軍となり、征西将軍に属した。当時の征西将軍・夏侯玄は、夏侯覇の従子で曹爽の外弟にあたるが、司馬懿が曹爽を誅殺すると、朝廷は彼を召し寄せ、夏侯玄は命令に従って東へ向かった。夏侯覇は、曹爽が誅殺され夏侯玄も召し寄せられたとの情報を得ると、必ず禍が自分の身にも及ぶだろうと考え、内心恐怖を覚えた。さらに、以前から雍州刺史の郭淮と仲が悪かったが、その郭淮が夏侯玄に代わって征西将軍に任命されたために、極度に不安になり、ついに蜀に亡命した。
魏の朝廷では、父・夏侯淵の生前の勲功を考慮して夏侯覇の子の死罪を許し、幽州・楽浪郡に流罪とした。
夏侯覇は南方の益州・広漢属国・陰平道を目指して進んだが、奥深い谷に迷い込んでしまい、食糧が底を突いたので、馬を殺してそれを食糧としながら徒歩で進んだ。足は傷つき、岩の下に横たわって、人を遣って道を探させたが、どこへ行ったら良いか判断がつかなかった。蜀はその情報を得ると、人を派遣して夏侯覇を迎えた。
その昔、建安5年(200年)のこと。当時、夏侯覇の従妹の13〜14歳の少女が、本籍地の郡に居住していたが、薪を取りに出掛けて張飛に捕まった。張飛は彼女が良家の娘であると知ると、そのまま自分の妻とした。彼女は娘を産み、その娘が劉禅の皇后となった。そのため夏侯淵が戦死した当初、張飛の妻は「彼を埋葬して欲しい」と願い出たのであった。
夏侯覇が蜀に入国すると、劉禅は彼と会見し、彼に対して言い訳をして「君の父は戦陣の中で命を落としたのだ。朕の父(劉備)が手にかけたのではないぞ」と言い、自分の子供を指さして「この子は夏侯氏の甥にあたる」と言った。夏侯覇はこうして手厚く爵位・恩寵を賜った。
脚注
*1歯ぎしりをし腕を握り締めること。激しく怒ったり悔しがったりする様子。
*2魏の太和4年(230)に曹真が蜀征伐を行った戦役。
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夏侯称・叔権
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯淵。兄に夏侯衡、夏侯覇。弟に夏侯威、夏侯栄、夏侯恵、夏侯和。
幼い時から子供たちを集め、その大将になることが好きだった。遊ぶ時には必ず戦争ごっこをし、規律を破った者がいると、その度に厳しく鞭打ったが、誰も思いきって逆らおうとはしなかった。
夏侯淵は心秘かに見所があると考え、『漢書』項羽伝や兵書を読ませようとしたが、夏侯称は「できることがあれば自分勝手にやるだけさ。どうして人から学ぶ必要があるんだい?」と言った。
16歳の時、夏侯淵が狩猟に連れて行くと、逃げ走る虎を見つけた夏侯称は、馬を疾駆させてその後を追いかけ始めた。「やめろ」と言っても聞かず、1矢でこれを射倒した。
その名声が曹操の耳まで届くと、曹操は夏侯称の手を握って「儂はお前を手に入れたぞ」と喜んだ。また、曹丕とは身分や地位を越えた対等な交際をしていた。
宴会の度ごとに、夏侯称の意気は座の人々を圧倒し、弁舌の士も彼を言い負かすことはできなかったので、当時社会的名声のあった者の多くは彼とつきあったが、18歳で亡くなった。
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夏侯威・季権
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯淵。兄に夏侯衡、夏侯覇、夏侯称。弟に夏侯栄、夏侯恵、夏侯和。子に夏侯駿、夏侯荘、
侠気があり、荆州・兗州の2州の刺史という高官を歴任した。
曹丕が五官中郎将であった頃*3、30人程の者が集まったことがあり、曹丕は人相見が得意だという朱建平に、その席にいる1人1人の人相を占わせた。
この時夏侯威は「あなたは49歳で州牧の位につかれますが、その時にきっと災難がありましょう。その災いを切り抜けられれば、お歳は70歳まで、位は公輔(天子の後見役)にまで昇られることになります」と占われた。
夏侯威は兗州刺史となったが、49歳の年の12月上旬に病気にかかった。朱建平の言葉を思い出し、「助からない命」だと思い定めて、予め遺言を作り送葬のための道具を整え、すべて怠りなく準備させておいた。
ところが下旬になって病気は快方に向かい、ほとんど全快に近くなった。30日の陽が西に傾く頃、役所の録事*4など主立った役人たちを招いて酒席を設け、「俺が苦しんだ病気もようやく良くなり、夜が明ければもう50歳だ。朱建平の戒めた時期も、確かに無事に過ごせたのだ」と言ったが、酒席がお開きになり寝床についた時に病気が再発し、その日の夜半頃に亡くなった。
脚注
*3建安16年(211年)〜建安22年(217年)。
*41.記録・文書を取り仕切る官職。
2.公式の宴会の際に、酒などの世話をする役人。
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夏侯栄・幼権
建安12年(207年)〜建安24年(219年)没。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯淵。兄に夏侯衡、夏侯覇、夏侯称、夏侯威。弟に夏侯恵、夏侯和。
幼い時から聡明で、7歳で文書を書くことができた。1日に千字書物を読み、目を通せばたちまち覚えた。
曹丕がその評判を聞いて彼を招いた。曹丕の元には賓客が百人以上おり、1人1人名刺を差し出した。名刺には、その人の本籍地・氏名が書かれており、世に言う爵里刺であった。客がこれを差し出し、夏侯栄にチラっと見せた後で彼ら全員と話をさせたが、彼らの顔と名前を1人も間違えなかったので、曹丕は彼の能力を非常に高く買った。
益州・漢中郡で夏侯淵が敗北を喫した時、夏侯栄は13歳であった。側近の者たちは彼を抱えて逃げようとしたが承知せず、「主君や肉親が危ない目に遭っているのに、どうして助かることができようぞ」と言い、剣を振り回して戦い戦死した。
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幼い頃から才能と学問によって称賛され、奏議(上奏文の一種)を書くことに優れていた。
散騎、黄門侍郎を歴任し、鍾毓としばしば議論を戦わせたが、多くの場合、鍾毓の意見が採用された。
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弁舌爽やかで才気に満ちた議論をし、河南尹、太常を歴任した。
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