正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑫、沛国夏侯氏③[夏侯尚・夏侯儒・夏侯玄・夏侯徽(景懐夏侯皇后)・夏侯奉・夏侯本]です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
沛国夏侯氏③系図
沛国夏侯氏③系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
★は夏侯淵との兄弟の順は不明。
赤字がこの記事でまとめている人物。
この記事では沛国夏侯氏③の人物、
についてまとめています。
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お⑫(沛国夏侯氏③)
第0世代(夏侯嬰)
第2世代(夏侯尚・夏侯儒)
夏侯尚・伯仁
生年不詳〜黄初7年(226年)没。豫州(予州)・沛国・譙県の人。子に夏侯玄、夏侯徽。弟がいる。夏侯淵の従子にあたる。妻は曹爽の姑(曹真の姉妹)・徳陽郷主。
夏侯尚は計略・智謀に優れていたため、曹丕は彼を高く評価し、親友として社会的身分を越えた付き合いをした。
曹操が冀州を平定した時、夏侯尚は軍司馬として騎兵を率いて征伐に従い、後年、五官将(曹丕)の文学となり、魏国が建国されると魏の黄門侍郎に栄転した。
幽州・代郡の蛮族が反乱を起こした時、曹操は鄢陵侯・曹彰を派遣してこれを討伐させ、夏侯尚を曹彰の参軍事に任命し、征討軍は代郡の地を平定して帰還した。
曹操が洛陽で亡くなった時には、夏侯尚は節(責任者の証)を手に曹操の柩を奉じて冀州・魏郡・鄴県に帰還し、前後にわたる功績を合わせて取り上げられて平陵亭侯・散騎常侍に任命され、中領軍に昇進した。
文帝(曹丕)は皇帝に即位すると、改めて夏侯尚を平陵郷侯に封じ、征南将軍に栄転させ、荊州刺史・仮節・都督南方諸軍事の職務を受け持たせた。
夏侯尚は「劉備の別働隊が上庸におりますが、山道は険しく、向こうは我が方を警戒しておりません。もし奇襲部隊を秘かに出発させ、敵の不意を突いたならば、一方的に勝利を得られる状勢にあります」と上奏し、諸軍を指揮して上庸を撃破し、3郡(上庸・西城・房陵)9県を平定して、征南大将軍に昇進した。
この頃孫権は、魏王朝の諸侯と称していたが、夏侯尚は前以上に討伐の準備を怠らなかった。孫権は後にはたして二股をかけるようになった。
黄初3年(222年)、文帝(曹丕)は宛に行幸し、夏侯尚に諸軍を統率させ、曹真と力を合わせて江陵を包囲させた。
この時、孫権の大将の諸葛瑾は、夏侯尚の軍勢と長江を挟んで対峙した。諸葛瑾は、長江の中流の中洲に渡り、水軍を別に江上に待機させた。夏侯尚は、夜中に多数の油船(牛皮で作り、外側に油を塗って水を弾くようにした船)を持ち運びつつ、歩兵・騎兵1万余を率いてこっそりと下流から長江を渡って諸葛瑾の諸軍を攻撃し、また江上の敵船に火をかけ、水陸両軍一斉に攻め立ててこれを撃ち破った。
江陵城を陥落させる前に、たまたま疫病が大流行したため、夏侯尚に詔勅を下し、諸軍を引き揚げ帰還させた。この手柄によって領邑6百戸を加増され、合計1,900戸とし、鉞(指揮権を示す鉞。特別の待遇を示す)を与え、荊州牧に昇進させた。
荊州は荒廃しきっており、外側は蛮夷と接している上、呉とは漢水を国境線にして隣接していたため、元の住民の多くは江南に移住してしまっていたが、夏侯尚が上庸から道路を通し、西方へ向かって7百里(約301km)以上も軍を進めた結果、山岳の住民や蛮民から服従するものが多く現れ、5、6年の間に数千家も帰順した。
黄初5年(224年)、昌陵郷侯に改封された。
夏侯尚にはお気に入りの愛妾がいて、正妻への愛を奪っていた。そして、その正妻が曹氏一族の娘であったため、文帝(曹丕)は人を遣ってその愛妾を絞殺させた。すると夏侯尚は悲嘆に暮れ、病気になって頭が呆けてしまい、愛妾を埋葬した後、思慕の念を抑えきれず「もう一度墓から掘り出して顔を見る」といった有り様だった。
文帝(曹丕)はそれを聞いて腹を立て「杜襲が夏侯尚を軽蔑するのも、まことにもっともだ」と言ったが、父・曹操から仕える旧臣であったため、恩寵が薄れることはなかった。
黄初6年(225年)、夏侯尚は重体になって都に帰還した。文帝(曹丕)は度々彼の邸へ行幸し、手を握り涙を流した。
夏侯尚が亡くなると、悼侯と謚され、
「夏侯尚は若い頃から天子[文帝(曹丕)]の側近くに仕え、真心を尽くし忠節を捧げた。一族でないとは言え肉親同然である。これがために、宮中に入っては腹心として働き、出征しては爪牙として働いた。智略は深遠俊敏、策謀は人並み外れていたのに、不幸にも早死にした。運命はどうしようもないものだ。ここに征南大将軍・昌陵侯の印綬を贈る」
という詔勅が下された。
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夏侯儒・俊林
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・譙県の人。夏侯淵の従子、夏侯尚の従弟*1にあたる。
最初、鄢陵侯・曹彰の驍騎司馬となり、正始年間(240年〜249年)に征南将軍・都督荊豫州諸軍事となった。
黄初2年(221年)、涼州・盧水の異民族(盧水胡)・伊健妓妾、治元多らが反乱を起こし、河西は大混乱に陥った。
文帝(曹丕)は、鎮西将軍・曹真に大勢の将軍と州郡の兵を率いてこれを討伐するように命じ、同時に涼州刺史を張既に代え、(征蜀)護軍の夏侯儒、将軍の費曜らを派遣して彼の後続部隊としたが、張既は後続部隊を待たずに寡兵で進軍して武威に到達し、蛮族を撤退させた。
張既が武威を抑えてから、やっと費曜が到着し、夏侯儒らはまだ到達しなかった。
酒泉の蘇衡が反逆し、羌族の有力者・隣載と丁令胡1万余騎と共に国境地帯の県を攻撃した。
張既は夏侯儒と共に彼らを撃破し、蘇衡と隣載らはすべて降伏した。そこで張既は上奏して夏侯儒と共に左城を修理し、砦を築いて狼煙を上げる物見櫓と食料庫を置いて蛮族に備えたいと請願した。すると西羌族は恐れをなし、2万余の集落民を引き連れて降伏した。
魏の正始2年(241年)4月、呉の朱然が樊城を包囲した。城中の守将・乙脩(乙修)から急ぎの救援要請を受けた夏侯儒は、軍を進めて鄧塞に駐屯したが、兵力が少ないために思い切って進めず、ただ太鼓や笛を鳴らし、先導と従者を置くだけで、朱然の陣から6、7里(約2.6km〜3km)のところまで来ると引き返すことを繰り返していた。一月余りして、太傅(司馬懿)が到着すると、夏侯儒は一緒に進撃し、その結果朱然らは逃走した。
以降、夏侯儒は「臆病者」だと言われたが、一方で「無勢で多勢を迷わせることを心得ており、掛け声によって力づける方法に適っている」と考える者もいた。
夏侯儒は、それでもこのことのために召し返され、太僕となった。
脚注
*1ちくま学芸文庫『正史三国志』では「弟」と訳されているが、原文では「儒字俊林,夏侯尚從弟」とある。
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第3世代(夏侯玄・夏侯徽・夏侯奉)
夏侯玄・太初
建安14年(209年)〜嘉平6年(254年)没。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯尚。母は曹爽の姑(曹真の姉妹)・徳陽郷主。
父・夏侯尚の後を継いだ。若い頃から名を知られ、20歳で散騎・黄門侍郎となった。
明帝(曹叡)に目通りした際、皇后の弟・毛曾と同席したことを恥辱に感じ、不快感を顔に出したため、明帝(曹叡)は夏侯玄を羽林監に左遷した。正始年間(240年〜249年)の初期、曹爽が政治を補佐するようになると、縁戚である夏侯玄も次第に昇進して散騎常侍・中護軍・となった。
夏侯玄は世間から人を見る目があると評価されており、中護軍になると、武官を抜擢して登用したが、軍門に集う武士は、俊英・豪傑ばかりとなった。彼は多くの州や郡を治め、法律を制定し、教化を施した。これは現在に至るまですべて後世の手本になっている。
ある時、司馬懿に現代の問題について意見を求められた夏侯玄は、
- 官吏を審査し、適任者を選出すること
- 重複した官職を省くこと
- 服装の制度を改めること
が必要だと主張した。これに司馬懿は、返書を送って「おそらく指摘の3つの事は、賢明で能力のある人物の出現を待って初めて成し遂げられるであろう」と言ったが、夏侯玄は納得しなかった。
しばらくして夏侯玄は征西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事となり、魏の正始5年(244年)、曹爽と共に「駱谷の戦役(魏が蜀に侵攻した戦い)」を起こし敗北したため、人々に批判された。
魏の正始10年(249年)、司馬懿のクーデターにより曹爽が処刑されると、朝廷は夏侯玄を召し寄せて大鴻臚とし、数年後に太常に転任させた。
夏侯玄は、曹爽との関係を理由に抑圧されていたため、内心不満を抱いていた。
この時、夏侯玄と同じ境遇の夏侯覇は、曹爽が誅殺され夏侯玄も召し寄せられたとの情報を得ると、必ず禍が自分の身にも及ぶだろうと考え、蜀に亡命する決意をする。夏侯覇は夏侯玄に呼びかけ、彼と行動を共にするつもりでしたが、夏侯玄は「どうして生きながらえて、敵国の居候になれようか」と言い、都に帰還した。
中書令の李豊は、かねてから大将軍の司馬師に親任されていたが、その実こっそりと夏侯玄に心を寄せていたので、皇后の父・張緝と結託し、夏侯玄に政治の実権を握らせようと企んだ。
魏の嘉平6年(254年)2月、貴人任命の際、帝が宮殿の軒先までお出ましになり、諸門に近衛兵がいる機会を利用して、李豊らは大将軍(司馬師)を誅殺し、夏侯玄と交替させ、張緝を驃騎将軍にしようと考えた。
ところが、その陰謀を耳にした大将軍(司馬師)は、李豊に「会いたい」と申し入れ、李豊が何も知らずにやってくると即座に彼を誅殺し、夏侯玄・張緝らを捕らえて廷尉に送った。その結果、李豊・夏侯玄・張緝らはみな三族皆殺しの処分を受け、残りの親族は幽州・楽浪郡に流罪とした。
享年46歳。夏侯玄は度量大きく世を救う志を持った人物であったが、東の市場での斬刑に臨んでも顔色一つ変えず、立ち居振る舞いは泰然自若としてたという。
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夏侯徽・媛容(景懐夏侯皇后)
建安16年(211年)〜魏の青龍2年(234年)没。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は夏侯尚。兄に夏侯玄。母は曹爽の姑(曹真の姉妹)・徳陽郷主。司馬師(景帝)の妻。
夏侯徽は優雅で見識と度量があり、司馬師は何かをしようとする時、必ずその計画を彼女に相談した。
明帝(曹叡)の時代、司馬師の父・司馬懿は上将の重職にあり、その子らもみな優れた才能と大略を有していたが、夏侯徽は司馬師が魏に忠誠を尽くす人物ではないと気づいていた。
司馬師の方でもまた、夏侯徽が魏の宗室に連なる出自であることから、彼女を深く忌み嫌うようになり、青龍2年(234年)、ついに夏侯徽は司馬師に鴆毒を盛られて殺害された。享年24歳。峻平陵に葬られた。夏侯徽には男子はなく、女子5人を生んだ。
晋の武帝(司馬炎)が帝位についた当初、夏侯徽は追崇(死後に敬意を表して称号を贈ること)されなかったが、司馬師の後妻・羊徽瑜(弘訓太后)が事あるごとに言及するので、泰始2年(266年)になって皇后位が追贈され、懐皇后と諡された。
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第4世代(夏侯本)
夏侯本
生没年不詳。豫州(予州)・沛国・譙県の人。父は不明(夏侯奉?)。夏侯尚の従孫(兄弟の孫)にあたる*2。
正元年間(254年〜256年)、功臣の家を継がせるに当たって昌陵亭侯に封ぜられ、領邑3百戸を与えられて夏侯尚の後継ぎとされた。
脚注
*2夏侯本の続柄については「夏侯尚の従孫」とあるのみ。夏侯尚には夏侯奉の他にも「史書に名前が記されていない従子」がいる可能性があるため「父は不明」とした。
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