建安9年(204年)に揚州・丹楊郡で起こった嬀覧・戴員らの反乱と、その後の孫権の人事についてまとめています。
スポンサーリンク
孫権の弟・孫翊暗殺事件
嬀覧・戴員らの反乱
嬀覧・戴員らの陰謀
孫権が元呉郡太守の盛憲を殺害した時のこと。かつて盛憲が孝廉に推挙した嬀覧と戴員は、逃亡して山中に隠れ潜んでいました。
丹楊太守となった孫権の弟・孫翊は、この2人を礼をもって招き寄せ、嬀覧には大都督として兵の指揮を任せ、戴員は郡丞に任命しました。
嬀覧と戴員は辺鴻(辺洪)らと親しく交わっており、そのことでしばしば孫翊から強く責められていたため、常々「叛逆をなそう」との心を抱き、孫権が出征した機会を捉えて、かねてからの姦計を実行に移します。
盛憲について
孫策が呉郡・会稽郡一帯を平定した時、孫策はその地の実力者たちを次々と誅殺しました。
盛憲は当時、病気のため呉郡太守の官を辞していましたが、以前から高い名声を持っていたため、特に目の敵とされていました。
この時、盛憲と親しい交わりがあった少府の孔融は、彼が孫策の毒牙にかかることを心配して、曹操に「盛憲を救うことを願う手紙」を送りました。
孔融の手紙を読んだ曹操は、盛憲を徴召しよせて騎都尉に任命しようとしましたが、その任命書が届かないうちに、盛憲は孫権によって殺害されてしまいました。
盛憲の息子の盛匡は魏に亡命し、征東司馬にまで昇進しました。
関連記事
孫翊の死
ある時、揚州・丹楊郡の県令・県長たちが揃って孫翊にお目見えに来ていました。
揚州・丹楊郡(丹陽郡)
孫翊は、妻の徐氏が卜に通じていることから、奥に入ると徐氏に「明日の県の幹部たちを招いた宴の吉凶」について占わせます。
すると徐氏は、
「色々やってみましたが、占いの結果は芳しくございません。日を改められるのがよろしいでしょう」
と答えましたが、県の幹部たちがやって来てから日にちが経っており、なるべく早く帰してやらなければと考えて、予定通りに次の日、大勢の客たちを招いて宴を開きました。
孫翊は人前に出る時はいつも刀を携えていたのですが、その時は酒が入っていたため何も持たずに客たちを見送っていました。
そこへ、側近の辺鴻(辺洪)が後ろから斬りつけたので、郡の役所の中は大混乱に陥って誰も孫翊を救う者がなく、易々と辺鴻(辺洪)のために殺されてしまいました。
孫翊を殺害した辺鴻(辺洪)は逃亡して山中に隠れましたが、徐氏が賞金をかけて捕らえる者を募ったため一晩をおいて捕らえられ、嬀覧と戴員は罪をみな実行犯の辺鴻(辺洪)に被せて、彼を殺害してしまいます。
孫翊の部将たちはみな、この事件の首謀者が嬀覧と戴員であることを知っていましたが、誰もその罪を責めるだけの力はありませんでした。
孫河の死
この時、京城*1に駐屯していた将軍の孫河は、孫翊が殺害されたことを知ると宛陵県(丹楊郡の郡治)に駆けつけて、
「嬀覧と戴員が職務を十分に果たさなかったため、変事が引き起こされてしまったのだっ!」
と、強い調子で2人を攻め立てました。すると嬀覧と戴員は相談して、
「伯海(孫河の字)どのは、将軍(孫翊)とはそれほど親密でもなかったのに、我々をこんなにまで厳しく責められるとは。討虜将軍(孫権)がもし来られたならば、我々一族は根絶やしにされてしまうだろう」
という結論に至り、そこで孫河を殺害すると、北方に使者を送って、
「(曹操が任命した)揚州刺史の劉馥を迎え、揚州・九江郡・歴陽国に留まって牽制してもらい、自分たちは丹楊郡で反乱を起こしてそれに内応したい」
と申し入れました。
「孫翊暗殺事件」関連地図
脚注
*1揚州・呉郡・丹徒県。孫権が呉県から移り住んだ際に「京城」と名を改めた。京口とも言う。
徐氏の計(はかりごと)
嬀覧は軍の役所に入ってそこに居座ると、孫翊の嬪妾たちから左右に侍る侍女まですべて自分のものとし、さらに徐氏までも手に入れようとします。
徐氏は「これを拒めば殺される」と考え、本心を押し隠して言いました。
「どうか月末に法事を営み喪が明けるまでお待ちください」
ちょうど月末も近い頃であったので、嬀覧は法事が済むのを待つことを許しました。
そこで徐氏は、秘かに信頼できる者を使いにやり、孫翊が親密にしていた古くからの部将の孫高や傅嬰らに、
「嬀覧めはすでに妾婢を奪い取った上に、今度はまた私に迫ろうとしております。上辺で言うことを聞きましたのは、彼の気持ちを荒立てないよう、禍を避けるために過ぎません。
この危難を脱するため、いささか計を巡らせたいと考えておりますが、どうかお二方には私を哀れまれ、ご助力くださいますように」
と、言葉を伝えさせます。すると孫高と傅嬰は、涙を流しながら答えて、
「刺史どののご恩顧を受けながら、この危難にすぐさま命を投げ出さなかったのは、そのようにして死んでも無益であり、事態を打開すべき計を思い巡らせたいと考えてのことであって、その計がまだしっかりと立たないところから、夫人さまにはまだ申し上げてはいませんでした。
今日、お漏らしいただきましたことは、まことに我らが日夜心中に願っておりましたところでございます」
と答えました。
そして秘かに孫翊が生前に目をかけていた者たち20人余りに連絡を取り、徐氏の考えを伝えると、共に誓いを立てて計を巡らせました。
嬀覧・戴員らの誅殺
月末になると法事を設け、徐氏は哭礼を行って涙を流し、哀を尽くします。
それが終わると喪服を脱ぎ、香を焚いて沐浴し、別の部屋に移って几帳を巡らせ、楽しげに話したり笑ったりして、少しも悲しげな様子を見せませんでした。
側にいる者たちは身分の上下を問わず悲しみに心を痛め、彼女がこんな風に振る舞うのを訝しんでいましたが、彼女の様子を物陰から窺い見ていた嬀覧には、まったく疑う気配はありません。
そこで徐氏は、秘かに孫高と傅嬰を呼び寄せて、侍女たちに混じって室内に配置すると、嬀覧に人を遣って、
「すでに喪も明けましたので、刺史さまのお指図をお待ちいたしております」
と伝えさせました。
すると嬀覧は得意満面でやって来たので、徐氏は部屋の前に出て拝礼をします。そして、嬀覧が一礼を返すやいなや、
「お二方、やってくださいっ!」
徐氏が大きな声で叫ぶと、孫高と傅嬰が揃って飛び出して見事に嬀覧を殺し、他の者たちは時を移さず別の場所で戴員を殺しました。
孫権の到着
夫・孫翊の仇討ちを果たした徐夫人(徐氏)は、再び喪服をつけると、嬀覧と戴員の首級を捧げ持って孫翊の墓前に供えました。
丹楊郡では、一軍を挙げてこの事件に心を驚かせ、人間業を超えた出来事だと評判になりました。
その後まもなくして孫権が揚州・豫章郡(予章郡)の椒丘城から丹楊郡にやって来ると、嬀覧や戴員の残党をすべて根絶やしにし、孫高と傅嬰を牙門将に抜擢しました。
また、その他の者たちにもそれぞれ金や帛を加賜され、その一族は功臣として別格の待遇を受けることとなりました。
豆知識
『呉書』孫韶伝の本文には、嬀覧・戴員を誅殺した者として、孫高と傅嬰の他に、徐元の名前も挙げられています。
詳細は分かりませんが、徐夫人(徐氏)の一族かもしれません。
スポンサーリンク
孫権の人事
孫河の甥・孫韶
孫河の死後、孫河の甥の孫韶(17歳)は、彼の残した兵士たちを取りまとめると、京城(京口)の補修工事を行い、楼櫓を建て兵器や設備を整えて、敵の侵攻に備えていました。
丹楊郡の混乱を鎮めた孫権は、そのまま軍を率いて呉県に帰還する途上、夜間に京城(京口)に着くと、そこに軍営を置いて、試しに京城(京口)に攻撃をしかけて驚かせてみました。
すると、城内の兵たちはみな城壁の上に出て檄を伝え、警戒態勢を整えて、兵たちが上げる呼び声は大地を振るわせ、外に向かって矢も射かけられて来ます。そして、その後孫権が自分であることを分からせて、やっと矢は止みました。
次の日、孫権は孫韶を引見すると、よく任務を果たしていることを称め、その場で承烈校尉に任命して、孫河の下にいた部曲(私兵)たちの統率を任せ、揚州・呉郡の曲阿県と丹徒県の2県を封邑として与えて、自分の判断で県の幹部を任用できるなど、すべてかつての孫河の場合と同様の権限を認めました。
また、嬀覧・戴員らに殺害された孫翊の後任として、従兄の孫瑜を丹楊太守に任命しました。
沈友の非難
この頃、孫権が官吏たちを大勢集めて開いた会の席上で、沈友が孫権のやり方を非難する意見を述べました。
すると孫権は沈友を引きずり出させ、
「お前が謀叛を企んでおると申す者がいるぞ」
と言いました。沈友は逃れられないと知って、
「天子さまが許県におられるのに、それを蔑ろにするような気持ちを持っている者は、謀叛していないと申せるのでしょうか」
と非難すると、孫権は沈友を殺してしまいました。
沈友・子正
沈友は字を子正と言い、揚州・呉郡の人です。
11歳の時のこと。華歆が朝廷から使者として遣わされ各地の政治強化の成績を尋ねて巡察していましたが、沈友を見つけて非凡な人物だと見抜き、
「沈郎(沈友)よ、一緒に車に乗って話さないか?」
と呼びかけます。すると沈友は、後ろへ引き下がって言いました。
「君子が好を結ぶ時、宴を開き礼の定めに従って好を結ぶものです。今、仁義は衰微し、聖道は崩壊の危機に瀕しております。
先生が天子の命を承け巡察の仕事に従っておられますのは、先王の教えを敷き広げることに力添えし、風俗を治め正そうとしてのことでございますのに、軽々しくも礼の手続きを無視されるのでは、ちょうど薪を背負って火事を消しに行くようなもので、火の手を益々盛んにするだけのことではございませんか」
これを聞いた華歆は恥じ入って、
「桓帝・霊帝の御世以来、多くの英俊はいたが、まだ幼い者でかくも優れた者は他にいなかった」
と言いました。
沈友は、成人する頃には広く学問を修めて多くのことに精通し、文章にも巧みであり、加えて武事も好んで『孫子兵法』に注釈をつけました。
彼はまた弁舌に優れ、彼が参加した場では、人々はみな口をつぐみ、彼と議論応酬できる者はいませんでした。
そのため、みなが彼の「筆の妙、口舌の妙、刀剣の妙」の3つの能力は、人よりずば抜けていると噂していました。
そこで孫権は礼を厚くして彼を招き、孫権の元にやってくると、沈友は王者や覇者として取るべき方略や、目前の急務について論じ、孫権も顔つきを改めて慎み深くそれに耳を傾けました。
沈友は荊州を併合すべきだとの計を陳べ、孫権はその意見を容れました。
ですが、彼は常に厳しい態度で朝会に臨み、妥協を許さない正義の論陣を張ったため、無能な臣下たちに讒言され、謀叛を企てていると誣告(わざと事実を偽って告げること)されてしまいます。
そして孫権も、沈友が「やがては自分の命令通りには働かないようになるだろう」と考えて、彼を殺害してしまいました。享年29歳でした。
建安9年(204年)、揚州・丹楊郡では、孫権が黄祖討伐に出陣した隙を突いて、孫権に殺害された盛憲の配下であった嬀覧・戴員らが丹楊太守・孫翊を暗殺し、さらに丹楊郡に駆けつけた孫河を殺害しました。
その後、暗殺された孫翊の夫人・徐氏の美人計によって嬀覧・戴員らは誅殺され、孫権は孫翊の後任として孫河の甥の孫韶を丹楊太守に任命しました。