正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉘、「王」から始まる人物の一覧㉗王脩(王修)・王充・王雋・王儁・王遵です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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お㉘(王㉗)
王(おう)
王脩(王修)(揚州・会稽郡・句章県の人)
生没年不詳。揚州・会稽郡・句章県の人。揚州従事。
身命を投げ出して名を後世に留めた。
王朗が会稽太守に赴任した際、王朗は「俊才を取り立てたい」と考えて、功曹の虞翻(虞翻)に「立派な人物や婦人たちの名を詳しく聞かせてくれまいか」と尋ねた。
この時虞翻(虞翻)が「遠い昔ではなく近頃の者」として挙げた人物たちの中に名前がある。
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王充・仲任
建武3年(27年)〜永元年間(89年〜105年)没。揚州・会稽郡・上虞県の人。祖先が冀州・魏郡・元城県から移住した。
若い頃に親を亡くし、郷里では孝行であると有名であった。
後に京師[洛陽(雒陽)])に赴き太学で学問を学び、班彪*1に師事した。家が貧しく書物がなかったので、常に洛陽(雒陽)の市場を巡ってそこで売られている書物を立ち読みし、1度見ればすぐに暗記することができたので、ついに博くあらゆる様々な学派の学説に通じた。
後に郷里に帰って世間との交わりを絶ち、学問を教えた。郡に仕えて功曹となり、たびたび諫争したが、意見が一致しなかったので去った。
王充は論説を好み、その論説は「最初は奇矯であるように思われるが、最後は筋が通って正しいものであることが分かる」というものであった。
また、王充は博覧を好んで章句を守らず「俗儒*2は字面だけを守ってその本質を失っている者が多い」と考え、門を閉ざしてひたすら思索し、慶弔の礼を絶って、戸や窓、垣根や壁に刀筆*3を置いて、『論衡』85篇、20余万言を著し、あらゆる物の異同を明らかにし、当時の人々の疑問を解いた。
揚州刺史の董勤は王充を辟召*4して従事とし、治中従事に転じたが、自ら官を辞して家に帰った。
友人である同郷の謝夷吾は上書して王充の才学を推薦し、章帝は特別に詔を下して公車によって徴召*5したが、病気であったので行かなかった。
年齢は70歳になろうとしており、心身が衰えたので、『養性書』16篇を著し、欲望を抑制し、精神を養って身を保った。永元年間(89年〜105年)に病気になり家で亡くなった。
『呉書』虞翻伝が注に引く『会稽典録』に、
「正しい道を守り行った者としては、山陰出身の趙曄や徴士*6であった上虞出身の王充がいて、それぞれに深く大きな才能を備え、その学問は道の根源を究め、書物を著し美しい表現を記しては百篇という数にのぼり、経書の解釈についてはかねてからの疑問点を解き明かし、現在の世のわだかまりに決着をつけて、上は陰陽の奥深い秘密を窮め尽くし、下は人の情の根源を確実に把握したのであります」
と紹介されている。
脚注
*1『漢書』の編者・班固の父。
*2見識が狭くつまらない儒学者。または平凡な学者のこと。
*3竹簡に文字を記すための筆(鉛筆)と、その誤りを削るための刀(消しゴム)。
*4大将軍や三公九卿、太守や県令などの地方長官が行うことができる人材登用制度のこと。
*5臣下が推薦した人材を、天子が直接招聘して任用する制度のこと。
*6朝廷または政府に召し出された学徳のある立派な人。または召されても朝廷に仕えない者。
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王雋
生没年不詳。冀州・趙郡(趙国)内の県長。
黒山賊が郡を包囲した時、役人・兵士72人を引き連れて救援に駆けつけた。
役人・兵士は散り散りになって敗走し、王雋はほとんど殺されるところまで追い詰められたが、主簿の張登が1人の賊と格闘して命を救われた。
『魏書』王朗伝が注に引く『王朗集』の、大理であった王朗が「趙郡(趙国)の張登について述べた上奏文」の中に名前がある。「張登の本籍の県の県長」とあるが、張登の本籍も不明である。
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王儁・子文
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡の人。
若い頃から范滂・許章に認められ、南陽郡出身の岑晊と親しくなった。
曹操がまだ平民であった頃、特に王儁に愛情を持ち、王儁も「曹操には治世の才能がある」と褒め称えていた。
袁紹と弟の袁術が母を失い葬儀のために南陽郡に帰っている時、王儁は曹操と供に葬儀に参列した。参列者は3万人にのぼり、曹操は外に出るとこっそり王儁に語りかけた。
「天下は乱れようとしている。動乱の中心人物となるのはこの2人だ。天下を救い、民衆の命を救おうと願うならば、この2人を先に始末しないと、今に動乱が起きるだろう」
すると王儁は「卿の言葉通りであれば、天下を救う者は卿以外に誰がいるのだろうね?」と言って笑い合った。
王儁は表面は静かだが心中事理(道理)に明るい人柄で、州郡や三府(三公の政庁)からの任命にも応じなかった。公車(朝廷の車)によって召し出されたが赴かず、難を避けて荊州・武陵郡に移住したが、王儁に身を寄せた者は百余家あった。
献帝は許都(許県)に都を置くと、再び王儁を尚書として召し出したが、やはり就任しなかった。
袁紹の強盛振りをみた劉表が秘かに袁紹と誼を通じると、王儁は、
「曹公(曹操)は天下の傑物です。必ず覇道を起こし、斉の桓公・晋の文公の功績を継承できる男です。今、近くの者を放置して遠方の者に味方されるとか。もし突然の危機があっても、遙か北方の砂漠からの救援を期待するのは困難ではないでしょうか」
と進言したが、劉表は従わなかった。
王儁は64歳の時に武陵郡で亡くなったが、曹操は哀しみ悼み、荊州を平定すると自身で長江に臨んで遺体を迎え、改めて江陵郡に葬り、先哲(昔のすぐれた思想家や賢者)として表彰した。
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王遵・子春
生没年不詳。司隷・京兆尹・覇陵県の人。
隗囂と供に挙兵し、後に光武帝(劉秀)に帰服して太中大夫となった。
『魏書』明帝紀が注に引く『魏略』にある「文帝(曹丕)が帰服した孟達に宛てた手紙」の中に、「王遵は順逆の道理を悟って去就を定めました」と、孟達を擁護する文脈で名前が登場する。
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