正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉘、「おう」から始まる人物の一覧㉗王脩おうしゅう王修おうしゅう)・王充おうじゅう王雋おうしゅん王儁おうしゅん王遵おうじゅんです。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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お㉘(王㉗)

王(おう)

王脩おうしゅう叔治しゅくち王修おうしゅう

【三国志人物伝】お⑭北海王氏[王脩(王修)・王儀・王忠・王襃]


王脩おうしゅう王修おうしゅう)(揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん句章県こうしょうけんの人)

生没年不詳。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん句章県こうしょうけんの人。揚州従事ようしゅうじゅうじ

身命を投げ出して名を後世にとどめた。


王朗おうろう会稽太守かいけいたいしゅ赴任ふにんした際、王朗おうろうは「俊才しゅんさいを取り立てたい」と考えて、功曹こうそう虞翻ぐはん虞翻ぐほん)に「立派な人物や婦人たちの名を詳しく聞かせてくれまいか」とたずねた。

この時虞翻ぐはん虞翻ぐほん)が「遠い昔ではなく近頃の者」としてげた人物たちの中に名前がある。


王充おうじゅう仲任ちゅうじん

建武けんぶ3年(27年)〜永元えいげん年間(89年〜105年)没。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん上虞県じょうぐけんの人。祖先が冀州きしゅう魏郡ぎぐん元城県げんじょうけんから移住した。

若い頃に親を亡くし、郷里では孝行であると有名であった。

後に京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)])におもむ太学たいがくで学問を学び、班彪はんひょう*1に師事した。家が貧しく書物がなかったので、常に洛陽らくよう雒陽らくよう)の市場をめぐってそこで売られている書物を立ち読みし、1度見ればすぐに暗記することができたので、ついにひろくあらゆる様々な学派の学説に通じた。

後に郷里に帰って世間とのまじわりをち、学問を教えた。郡に仕えて功曹こうそうとなり、たびたびかんそうしたが、意見が一致しなかったので去った。


王充おうじゅうは論説を好み、その論説は「最初は奇矯ききょうであるように思われるが、最後は筋が通って正しいものであることが分かる」というものであった。

また、王充おうじゅうは博覧を好んで章句を守らず「俗儒ぞくじゅ*2字面じづらだけを守ってその本質を失っている者が多い」と考え、門を閉ざしてひたすら思索しさくし、慶弔けいちょうの礼をって、戸や窓、垣根や壁にとうひつ*3を置いて、論衡ろんこう』85へん、20余万言をあらわし、あらゆる物の異同を明らかにし、当時の人々の疑問をいた。

揚州刺史ようしゅうしし董勤とうきん王充おうじゅう辟召へきしょう*4して従事じゅうじとし、治中従事ちちゅうじゅうじに転じたが、みずから官をして家に帰った。

友人である同郷の謝夷吾しゃいごは上書して王充おうじゅうの才学を推薦し、章帝しょうていは特別にみことのりを下して公車こうしゃによって徴召ちょうしょう*5したが、病気であったので行かなかった。

年齢は70歳になろうとしており、心身がおとろえたので、養性書ようせいしょ』16へんあらわし、欲望を抑制し、精神を養って身を保った。永元えいげん年間(89年〜105年)に病気になり家で亡くなった。


呉書ごしょ虞翻伝ぐはんでんが注に引く会稽典録かいけいてんろくに、

「正しい道を守り行った者としては、山陰さんいん出身の趙曄ちょうよう徴士ちょうし*6であった上虞じょうぐ出身の王充おうじゅうがいて、それぞれに深く大きな才能を備え、その学問は道の根源をきわめ、書物をあらわし美しい表現をしるしては百へんという数にのぼり、経書けいしょの解釈についてはかねてからの疑問点をき明かし、現在の世のわだかまりに決着をつけて、かみいんようの奥深い秘密をきわめ尽くし、しもは人の情の根源を確実に把握したのであります」

と紹介されている。

脚注

*1漢書かんじょの編者・班固はんこの父。

*2見識がせまくつまらない儒学者じゅがくしゃ。または平凡な学者のこと。

*3竹簡ちくかんに文字をしるすための筆(鉛筆)と、そのあやまりをけずるためのかたな(消しゴム)。

*4大将軍だいしょうぐん三公九卿さんこうきゅうけい太守たいしゅ県令けんれいなどの地方長官が行うことができる人材登用制度のこと。

*5臣下が推薦した人材を、天子てんしが直接招聘しょうへいして任用する制度のこと。

*6朝廷または政府にし出された学徳のある立派な人。またはされても朝廷に仕えない者。


王雋おうしゅん

生没年不詳。冀州きしゅう趙郡ちょうぐん趙国ちょうこく)内の県長けんちょう

黒山賊こくざんぞくが郡を包囲した時、役人・兵士72人を引き連れて救援にけつけた。

役人・兵士は散り散りになって敗走し、王雋おうしゅんはほとんど殺されるところまで追いめられたが、主簿しゅぼ張登ちょうとうが1人のぞくと格闘して命を救われた。


魏書ぎしょ王朗伝おうろうでんが注に引く王朗集おうろうしゅうの、大理だいりであった王朗おうろうが「趙郡ちょうぐん趙国ちょうこく)の張登ちょうとうについてべた上奏文」の中に名前がある。張登ちょうとうの本籍の県の県長けんちょうとあるが、張登ちょうとうの本籍も不明である。


王儁おうしゅん子文しぶん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐんの人。

若い頃から范滂はんぼう許章きょしょうに認められ、南陽郡なんようぐん出身の岑晊しんしつと親しくなった。

曹操そうそうがまだ平民であった頃、特に王儁おうしゅんに愛情を持ち、王儁おうしゅんも「曹操そうそうには治世の才能がある」とたたえていた。

袁紹えんしょうと弟の袁術えんじゅつが母を失い葬儀のために南陽郡なんようぐんに帰っている時、王儁おうしゅん曹操そうそうと供に葬儀に参列した。参列者は3万人にのぼり、曹操そうそうは外に出るとこっそり王儁おうしゅんに語りかけた。

「天下は乱れようとしている。動乱の中心人物となるのはこの2人だ。天下を救い、民衆の命を救おうと願うならば、この2人を先に始末しないと、今に動乱が起きるだろう」

すると王儁おうしゅんは「きみの言葉通りであれば、天下を救う者はきみ以外に誰がいるのだろうね?」と言って笑い合った。


王儁おうしゅんは表面は静かだが心中事理(道理)に明るい人柄で、州郡や三府さんふ三公さんこうの政庁)からの任命にも応じなかった。公車こうしゃ(朝廷の車)によって召し出されたがおもむかず、難を避けて荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐんに移住したが、王儁おうしゅんに身を寄せた者は百余家あった。

献帝けんてい許都きょと許県きょけん)に都を置くと、再び王儁おうしゅん尚書しょうしょとして召し出したが、やはり就任しなかった。


袁紹えんしょうの強盛振りをみた劉表りゅうひょうが秘かに袁紹えんしょうよしみを通じると、王儁おうしゅんは、

曹公そうこう曹操そうそう)は天下の傑物けつぶつです。必ず覇道を起こし、せい桓公かんこうしん文公ぶんこうの功績を継承できる男です。今、近くの者を放置して遠方の者に味方されるとか。もし突然の危機があっても、はるか北方の砂漠からの救援を期待するのは困難ではないでしょうか」

と進言したが、劉表りゅうひょうは従わなかった。

王儁おうしゅんは64歳の時に武陵郡ぶりょうぐんで亡くなったが、曹操そうそうかなしみいたみ、荊州けいしゅうを平定すると自身で長江ちょうこうのぞんで遺体を迎え、改めて江陵郡こうりょうぐんほうむり、先哲せんてつ(昔のすぐれた思想家や賢者)として表彰した。


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王遵おうじゅん子春ししゅん

生没年不詳。司隷しれい京兆尹けいちょういん覇陵県はりょうけんの人。

隗囂かいごうと供に挙兵し、後に光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)に帰服して太中大夫たいちゅうたいふとなった。


魏書ぎしょ明帝紀めいていぎが注に引く魏略ぎりゃくにある「文帝ぶんてい曹丕そうひ)が帰服した孟達もうたつてた手紙」の中に、「王遵おうじゅんは順逆の道理をさとって去就きょしゅうを定めました」と、孟達もうたつ擁護ようごする文脈で名前が登場する。



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