正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉙、「王」から始まる人物の一覧㉘王承(漢の将)・王昌・王松・王商(子威)・王章・王象・王照・王昭儀(王夫人,曹幹の母・王植)です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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お㉙(王㉘)
王(おう)
王承(漢の将)
生没年不詳。漢の将軍。
初平年間(190年〜193年)に征東将軍に任命された馬騰は、西州(涼州)で穀物が不足していたため、自ら上表して「軍人に窮乏する者が多いので、司隷・左馮翊・池陽県に行って穀物を得たい」と願い出て、長平観の岸辺に駐屯地を移した。
ところが、将軍の王承らは馬騰の存在が自分たちにとって害になるのではないかと恐れて、馬騰の軍営を攻撃した。
その時、馬騰は付近に外出していて無防備であったため、結局敗走して西方(涼州)に逃れた。
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王昌
生没年不詳。漢の虎賁(近衛兵)。
興平2年(195年)閏5月、献帝は互いに争う李傕と郭汜を和睦させようと、謁者僕射の皇甫酈を派遣したが、郭汜は勅命を受け入れたものの、李傕は皇甫酈の言葉に腹を立て、怒鳴りつけて退出させた。
皇甫酈の報告を受けた献帝は、彼が李傕に害されるのを恐れ、直ちに皇甫酈を逃亡させるように命じた。
皇甫酈が営門を出た時、李傕は虎賁(近衛兵)の王昌に彼を呼びに行かせた。王昌は皇甫酈が忠義で正しい人間であることを知っていたので、彼を見逃して行かせた後、戻って李傕に「追いかけたが追いつけなかった」と報告した。
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王松
生没年不詳。幽州・漁陽郡の人。
建安5年(200年)頃、幽州・涿郡を根拠にしていた。曹操が官渡で袁紹を撃ち破ると、王松の下に身を寄せていた劉放から「いち早く曹操に帰順すること」を勧められ、これに賛成した。
たまたま曹操が冀州・勃海郡・南皮県にいる袁譚を征討し、文書をもって王松を招いたので、王松は勢力範囲の雍奴県、泉州県、安次県を土産にして曹操に服属した。
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王商・子威
生没年不詳。漢の臣。
建安5年(200年)春正月、袁譚を斬り冀州を平定した曹操が、その年の9月に出した布告に名前が挙がっている。
「阿諛迎合して徒党を組むことは、過去の聖人が憎んだことである。聞くに冀州の風俗は、父と子が党派を異にし、互いに批判し合い称誉し合うとか。
昔、
- 直不疑(漢の臣)は兄もいないのに、世間の人に嫂と密通したと言われ、
- 第五伯魚(第五倫・後漢の臣)は3度親のない娘を娶ったが、嫁の父親を鞭打ったと言われ、
- 王鳳(漢の大将軍にして外戚)が権力を我が物にしているのに、谷永は彼を申伯(周の宣王の臣にして外戚)になぞらえ、
- 王商(漢の臣)が忠誠な議論を述べているのに、張匡はそれを邪道だと言った。
これらはすべて白を黒とし、天を欺き君を蔑ろにする者である。
儂は風俗をきっちりと整えたいが、上の4つのことが除去されないことを恥と考える」
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王章・仲卿
生没年不詳。兗州・泰山郡・鉅平県の人。前漢・成帝期の京兆尹。
趙広・張敞、3人の王氏(王尊・王章・王駿)の5人は優れた京兆尹として称えられた。
『魏書』劉馥伝に「劉靖の行政を称える例」として名前が登場する。
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王象・羲伯
生没年不詳[没年は黄初3年(222年)?]。司隷・河内郡の人。
若い時に孤児となり、人の奴隷となっていた。17〜18歳で羊を飼う牧人として使役されていたが、こっそり書物を読み、そのために鞭や杖で殴られていた。その後、彼の才能を愛でた楊俊に買い戻されると、楊俊によって家に落ち着かせられ、嫁を取り家を立ててもらった。
建安年間には、同郡の荀緯らと共に魏の太子・曹丕に礼遇された。王粲・陳琳・阮瑀・路粋らが死去した後では、新進の人物中、王象の才能が最も高かった。
魏が天下を支配すると散騎侍郎に任命され、昇進して散騎常侍となり列侯に取り立てられた。この当時王象は、南陽太守であった楊俊を「本朝に呼び戻す」よう文帝(曹丕)に推薦している。
王象は延康元年[220年(文帝の即位前)]から著述に着手し、数年で完成した。宮中の記録保存所に所蔵され、合計40余部あり、部ごとに数十篇に分かれ、通算して800余万字にのぼった。
王象は性質が温厚である上に、文章も穏やかで典雅であった。そのため都の人々はその美点に心を寄せ、儒学の宗家と称した。
黄初3年(222年)、御車[文帝(曹丕)]が南に巡行した時、荊州・南陽郡・宛県に到着する前に「郡県に迷惑をかけてはならぬ」と、お供の全官吏に詔勅があった。
御車[文帝(曹丕)]が到着すると、宛県の県令は詔勅の趣旨を理解せず、市場の門を閉鎖した。文帝(曹丕)はそれを聞くと激怒して「儂は盗賊なのかっ!」と言い、宛県令と南陽太守の楊俊を逮捕した。
王象は文帝(曹丕)の前に出て叩頭し、流れる血で顔一杯に染めながら「楊俊のために死刑を一等級軽減していただきたい」と請願したが、文帝(曹丕)はこれに返答せずそのまま禁中に入ろうとした。
王象がその衣を引っ張ると、文帝(曹丕)は、
「儂は楊俊が卿(王象)とつながりのあることを知っている。今、卿(王象)の言う通りにすれば、それは儂が蔑ろにされることになる。卿(王象)は俊(楊俊)を無視するのか、儂を無視するのか?」
と言った。王象はその言葉の厳しさに思わず手を引っ込めた。
結局、文帝(曹丕)は楊俊を許さず、楊俊は「私は罪をわきまえております」と言って自殺した。王象は楊俊を救えなかったことが口惜しく、発病して亡くなってしまった。
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王照
生没年不詳。司隷・左馮翊の人。
延康元年(220年)5月、左馮翊の山賊・鄭甘と王照は手下を引き連れて朝廷に降伏し、いずれも列侯に取り立てられた。
最初、鄭甘と王照が盧水の蛮族と共にその手下を引き連れて投降した時、王(曹丕)はその降伏の文書を受け取り、朝廷の人々に示して、
「以前儂に鮮卑族を討伐させようと望む者があり、儂は従わなかったが、後に降伏して来た。また儂に今年の秋に盧水の蛮族を討伐させようと望む者があり、儂は聞き入れなかったが、今また降伏して来た。
昔(春秋時代)魏の武侯は自分の立てた策略が1つ当たっただけで得意気な顔をし、李悝に非難された。儂が今このことを話すのは、自分の正しさを示すためではない。ただ、居ながらにして降伏させるその功績は、軍隊を動かして得たものより大きいと考えるからである」
と言った。
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王昭儀(王夫人,曹幹の母)
生没年不詳。昭儀は皇帝の側室の称号。
『魏書』武文世王公伝に「王昭儀は趙王・曹幹を生んだ」とあるが、『魏書』趙王幹伝が注に引く『魏略』には、
「曹幹は一名を良という。良は本来陳妾の子であったが、良が生まれると陳氏は死に、曹操は王夫人に彼を養育させた」
とある。
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王植
生年不詳〜建安5年(200年)没。『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。第27回に登場する。滎陽太守。
建安5年(200年)、曹操に降伏していた関羽は、曹操の下で顔良・文醜を斬ってその恩を返し、劉備が敵である袁紹の下にいることを知ると、劉備がいる冀州・魏郡・鄴県を目指して出発した。
あまりに急いでいたために通行手形を持っていなかった関羽は、行く先々の関所で行く手を阻まれることになり、その度に守将を斬って強行突破することになる。
関羽が滎陽県に差しかかると、滎陽太守・王植は「関羽を丁重にもてなして油断させ、宿舎もろとも焼き殺す」計画を立てたが、実行役の従事・胡班の密告により失敗に終わった。
王植は逃げる関羽を追い、打ってかかったが、関羽が横薙ぎ放った一刀により真っ二つにされた。
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