正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉗、「王」から始まる人物の一覧㉖王才・王賛・王氏[斉王芳(曹芳)の皇后]・王氏[卞隆の妻]・王氏[孫皓の左夫人]・王始・王思・王嗣・王子城父・王子捜・王子服・王子法・王爾です。
スポンサーリンク
凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
スポンサーリンク
お⑨(王⑧)
王(おう)
王才
生没年不詳。騎都尉。問題を見つけて発言するのが大好きな廉昭を強く諫める杜恕の上奏文の中に登場する。
その中で杜恕は「騎都尉の王才と、寵愛を受けていた楽人の孟思が行った不法行為は首都をゆり動かしたが、彼らの罪状は小役人によって告発され、公卿・大臣は最初、一言も発言しなかった」ことを挙げている。
「王才」の関連記事
王賛
生没年不詳。玄菟太守。
呉の嘉禾2年(233年)春正月、孫権は遼東の公孫淵を燕王に封じ、3月には太常の張弥、執金吾の許晏、将軍の賀達らを使者として兵1万を率いさせ、財宝珍財と九錫の賜り物を携え、海路を取って遼東に向かって公孫淵に授けようとした。
張弥や許晏たちが襄平県に到着すると、呉と同時に魏とも通じていた公孫淵は、張弥や許晏を始末してしまおうと図り、まずその部下たちを分けて遼東の諸県にバラバラに配置し、中使(孫権の個人的な挨拶を伝える使者)の秦旦・張羣・杜徳・黄疆らとその官吏兵士たち60人は玄菟郡に置かれた。
秦旦たちはそれぞれ民家に仮住まいをし、その家から飲食物を支給されたが、そんな風にして40日余りが過ぎた頃、秦旦は「国家の使命を遂行できぬまま無為に時を過ごしていること」を恥じ、黄疆らと反乱を企てた。
ところが決行の日の昼、彼らの部下の1人・張松の密告を受けた玄菟太守・王賛が直ちに兵士を集めて城門を閉じたため計画は失敗し、秦旦らはみな城門を乗り越えて脱出した。
「王賛」の関連記事
王氏[斉王芳(曹芳)の皇后]
生没年不詳。魏の斉王芳(曹芳)の皇后。
嘉平6年(254年)春2月22日、中書令の李豊が皇后の父・光禄勲の張緝らと結託して大臣を更迭し、太常の夏侯玄を大将軍としようと計画したが、事件は発覚し、関係者一同はことごとく誅殺された。
これを受け、3月に皇后の張氏が廃され、4月に王氏が皇后に立てられて、大赦が行われた。
5月、皇后の父・奉車都尉の王夔が広明郷侯に取り立てられ、光禄大夫・特進の位に任じ、王夔の妻の田氏を宣陽郷君とした。
「王氏」の関連記事
王氏(卞隆の妻)
生没年不詳。卞皇后[魏の高貴郷公(曹髦)の皇后]の父・卞隆の妻。
正元2年(256年)、卞蘭の子・卞隆の娘が高貴郷公(曹髦)の皇后となると、卞隆は皇后の父であることから光禄大夫に任命され、特進の位を賜り、睢陽郷公に取り立てられ、妻の王氏は顕陽郷君の位を授かった。
「王氏」の関連記事
王氏(孫皓の左夫人)
生年不詳〜呉の建衡2年(270年)没。
呉の建衡2年(270年)、孫皓の左夫人であった王氏が死去すると、孫皓は悲しみと思慕とに堪えられず、朝夕に柩の側で声を上げて泣き、数ヶ月の間、その姿を人々に見せなかった。
「王氏」の関連記事
王始
生没年不詳。(雍州・隴西郡・)襄武県の平民。
咸熙2年(265年)8月、相国・晋王(司馬昭)の死後、晋の太子・司馬炎がその領地を受け継いだ後のこと。襄武県より、
「巨人が出現し、その身の丈は3丈(約7.26m)余り、足跡の長さは3尺2寸(約77.44cm)、白髪で黄色の単衣に黄色の頭巾をかぶって杖に寄りかかり、平民の王始に声をかけて『今に(呉が平定され)泰平となるぞ』と言った」
との報告があった。
「王始」の関連記事
王思
生没年不詳。兗州・済陰郡の人。
王思が梁習と共に西曹令史を務めていた時、当直の日を利用して「政治に関する意見書」を具申し、曹操の機嫌を損ねた。
曹操は責任者を呼んで重罪に処そうとしたが、ちょうど王思は外出しており、梁習が代わりに出向いて答え、その結果逮捕されてしまった。そのことを知った王思は馬を飛ばして帰り、自分から我が罪を述べ「死刑に相当する罪です」と申し上げた。
すると曹操は、梁習の人のことを言わない態度と、王思の責任をわきまえた態度に感心して、「我が軍中に2人の義士がいようとは、思いもよらなかったぞ」と言い、後に2人は同時に抜擢され、王思は豫州刺史に任命された。
有能な役人で官位は九卿まで昇り列侯に取り立てられたが、細かいことに厳しく全体的な判断に欠けていた。
「王思」の関連記事
王嗣・承宗
生没年不詳。益州・犍為郡・資中県の人。
蜀の延熙年間(238年〜257年)に功業・徳行顕著ということで孝廉に推挙され、次第に昇進して西安囲督・汶山太守となり、安遠将軍の官位を付加された。
羌族を安定・親睦・帰服させると、平素から乱暴を働いていた諸部族もみな来降し、王嗣は恩愛と信義をもって処遇したので、当時北方の国境地帯は安寧になった。
大将軍の姜維が北征するたびに、羌族は馬・牛・羊・毛織物を出し、さらに穀物を供出して兵糧の助けとし、国家(蜀漢)はその資財を頼みとした。
鎮軍に昇進し、元通り郡守を兼任したが、後に姜維の北征に随行した際、流れ矢に当たって負傷し、数が月後に亡くなった。
王嗣の葬儀に参列し、野辺の送りをする蛮人は数千人にのぼり、涙を流し声を上げて泣いた。このように王嗣は、人情の厚い実意ある人柄で、人々に愛され信頼されたのである。王嗣の子及び孫たちに対して羌族は肉親のように接し、あるいは義兄弟の契りを結んだりした。
「王嗣」の関連記事
王子喬(王子喬)
生没年不詳。周の第23代・霊王の太子・晋と同一人物とされる仙人。
巧みに笙を吹いて鳳凰の鳴くような音を奏で、伊洛(伊水・洛水)の地を遊歴した際、道士の浮丘公と出会って嵩高山に登り、仙道を修得した。
30余年の後、彼を捜す桓良という者に「7月7日に、緱氏山の山頂で待つように家人に伝えて欲しい」と言った。
果たしてその日が来ると、王子喬は白い鶴に乗って山頂に現れたが、見ることはできても誰もそこまで行くことができない。王子喬は手を挙げて人々に別れを告げ、数日して飛び去ったという。
『魏書』陳思王植伝(曹植伝)が注に引く『魏略』の曹植の上奏文の中で、赤松子と共に「長生きで有名な仙人」の例として登場する。
「王子喬」の関連記事
王子城父(王子城父)
生没年不詳。王子成父、王子成甫、公子成父とも。春秋時代、斉国の将軍。
『蜀書』諸葛亮伝の陳寿の評に、
「漢の蕭何は韓信を推薦し、斉の管仲は王子城父を推挙したが、当時の名将の中に王子城父や韓信のような人物がいなかった」
と、韓信と並ぶ「軍事に秀でた人物」の例として登場し、諸葛亮が大義を遂行できなかった理由の1つに挙げられた。
「王子城父」の関連記事
王子捜(王子捜)
生没年不詳。錯枝とも。戦国時代、越国の王子。
越国人は3代に渡ってその君主を弑逆した。王子捜は「自分もいずれ殺されるのではないか」と憂慮して、丹穴という洞窟に逃げ込んだ。
君主が不在となった越国人は王子捜を捜して丹穴までやって来たが、王子捜が洞窟を出ようとしないので艾の煙で燻り出した。
玉輿に乗せられた王子捜は天を仰いで「君主、君主かっ!私を独りで放っておいてはくれないのかっ!」と叫んだという。
翌年の紀元前374年、大夫の寺区が越の乱を平定して、無余之が越王に擁立された。
『魏書』文帝紀(曹丕の本紀)に、献帝の禅譲を辞退する旨を発布した曹丕の布令の中で、過去に禅譲を辞退した人物の1人として登場する。
「王子捜」の関連記事
王子服
生年不詳〜建安5年(200年)没。
建安4年(199年)、曹操の専横を忌み嫌った献帝は、車騎将軍・董承に「曹操誅殺」の密詔を下し、董承は当時曹操を頼って許県にいた劉備と共に計画を練ったが、まだ行動を起こさないうちに劉備が「袁術討伐」に出陣してしまったため、董承は王子服に向かって言った。
「郭多(郭汜)は数百人の兵をもって李傕の数万人を壊滅させた。しかしあなたと私ではそうはいかない。昔、呂不韋の門は子楚(秦の荘襄王、始皇帝の父)によって初めて立派になったとか。今、私はあなたと共にこのやり方を取ろう」
これに王子服は「恐れ多くて私には引き受けられません。その上兵士も少ししかおりません」と答えたが、董承はまた「行動を起こした後で、曹公(曹操)の正規兵を手に入れたとしても、それでも不十分かな?」と言った。
王子服が「今、都で信用のできる者がおりますか?」と尋ねると、董承は「長水校尉の种輯、議郎の呉碩は儂の腹心で仕事のできる者たちだ」と言い、彼らを仲間に引き入れた。
建安5年(200年)春正月、まだ行動を起こさないうちにこの計画が曹操に発覚し、王子服は、董承、种輯、呉碩、将軍の呉子蘭らと共に処刑された。
「王子服」の関連記事
王子法
生没年不詳。北海相・孔融の腹心。
董卓の死後、北海相の孔融は山東を味方につけ、外は遼東と連携して軍馬を手に入れる利をつかんで「国家の基礎を打ち立てん」との望みを抱き、片隅に孤立したまま大陸内部の実力者と手を握らなかった。
当時、曹操・袁紹・公孫瓚の各実力者は互いに協力し合っていたが、孔融は数百に満たない兵士と1万石に足らない穀物を所有しているだけだった。
王子法と劉孔慈は無茶な議論をする大した才能もない男たちだが、孔融に信用されて腹心となり、左丞祖と劉義遜は清潔で優れた人物であったが、顧問の座にあるだけだった。
「王子法」の関連記事
王爾
生没年不詳。詳細不明。
『魏書』杜夔伝の注に、
「馬先生(馬鈞)の器用さは、古の公輸般・墨子(墨翟)・王爾や、近い漢代の張平子(張衡)だとて、それを越えるものではなかった」
とある。
「王爾」の関連記事
スポンサーリンク