正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉖、「王」から始まる人物の一覧㉕[王弘・王伉・王肱・王垕・王公仲・王弘直・王国(涼州の賊徒)・王国(兗州・東平国の人)]です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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お㉖(王㉕)
王(おう)
王弘
生没年不詳。司隷(司隷校尉の可能性も)の人。
司徒の李胤、司隷(司隷校尉)の王弘らは常に、華歆の子・華表を称賛して、
「このような人物は、貴い身分にしようとしてもできないし、賤しい身分にしようとしてもできない。(近しい間柄になろうとしてもできないし、)疎遠にしようとしてもできない」
と言っていた。
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王伉
生没年不詳。益州・蜀郡の人。
章武3年(223年)、劉備の崩御に乗じて建寧郡の雍闓が呉に降伏し、孫権によって永昌太守に任命された。
この時建寧郡から永昌郡に通じる道路はふさがり、永昌郡の太守も交代したばかりだったが、永昌郡の五官掾功曹・呂凱と府丞の王伉は、官民を統率・激励して国境を閉鎖し、雍闓の侵入を防いだ。
建興3年(225年)春、丞相の諸葛亮が雍闓討伐に南方に出陣すると、まだ軍が到着する前に、雍闓は高定の部下によって殺害された。
諸葛亮は上表して呂凱と王伉を称賛し、王伉は亭侯に封ぜられ、永昌太守に任命された。
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王肱
生没年不詳。
初平元年(190年)春正月に反董卓の兵を挙げた諸将のうち、兗州刺史・劉岱と東郡太守・橋瑁は仲が悪く、劉岱は橋瑁を殺害。王肱は橋瑁の後任として東郡太守に任命された。
初平2年(191年)秋7月、黒山賊の于毒、白繞、眭固らが10余万人を率いて冀州・魏郡を攻略し、さらに兗州・東郡に侵攻したが、王肱はこれを防ぐことができなかった。
これを見た曹操は、駐屯していた司隷・河内郡から兵を率いて東郡に入り、濮陽県で白繞を撃ち破った。そこで袁紹は、曹操の東郡太守任命を上奏し、王肱は罷免された。
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王垕
生年不詳〜建安2年(197年)没。曹操軍の兵糧監督事務官。『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。第17回に登場する。
建安2年(197年)秋9月、曹操は17万の兵を率い、呂布、劉備、孫策と共に袁術討伐の軍を起こしたが、城を包囲して1ヶ月余りで糧食が残り少なくなった。
兵糧監督の任峻とその部下の事務官・王垕が曹操に対応を確認すると、曹操は「配給の際に小さな升で計って、急場をしのぐほかないな」と言い、王垕がまた「兵が不平を申したら、いかがいたしますか」と聞くと「その時はまた考えがある」と言った。
そこで王垕は、命令に従い小さな升を用いて配給したが、案の定、兵たちが騒ぎ出した。
すると曹操は、秘かに王垕を呼び出して「お前から借りたいものがある。それで皆の心を静めたいのだ。気前よく出してはくれぬか?」と言った。
王垕が「丞相(曹操)、何がご入り用でございますか?」と尋ねると曹操は「お前の首を借りたい。晒しものにして皆に見せるのだ」と言った。
驚いた王垕は「私の罪ではございませぬ」と弁解したが、曹操は「お前の罪ではないことぐらい、儂も存じておる。だが、お前を殺さぬことには収まらぬのだ。お前の妻子の面倒はみてやる故、気遣いいたすな」と言って王垕の首を刎ね、晒し首にして兵たちの不満を静めた。
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王公仲
生没年不詳。僕射。
李通の孫・李秉が先帝(?)に「最近で慎み深かった者の名を挙げれば、誰であろうか」と問われた際、
- 故太尉・荀景倩(荀顗)
- 尚書・董仲連
と共に、僕射・王公仲の名を挙げた。
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王弘直
生没年不詳。魏の官吏。
管輅が冀州・鉅鹿郡・列人県の典農官であった王弘直の元を訪れた時のこと。
申(西南西)の方角から高さ3尺(72.6cm)あまりの飄風が吹いてきて、庭中をゆらゆらと回転しつつ、一旦止んではまた起こり、しばらくしてやっと消えるということがあった。
王弘直がこの飄風の意味を尋ねると、管輅は「東方から馬吏がやって来ます。父親が子供のために泣くことになるでしょうが、どうしようもございません」と答えた。
次の日、膠東郡(青州・北海国)から役人が到着し、はたして王弘直の息子が死んだ。
また、雄の雉が飛んできて、王弘直の家の中の呼び鈴をかけた柱の上に止まった。王弘直はひどく不安に思って、管輅に卦を立てさせた。
管輅は「5月になれば、きっと昇進されましょう」と言い、この時はまだ3月であったが、5月になると王弘直は はたして勃海太守となった。
王弘直は学問を積み、方術にも たしなみ があったが、管輅の言うところの微妙な部分はまったく理解できなかった。
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王国(涼州の賊徒)
生没年不詳。涼州の賊徒。
中平元年(184年)冬、涼州刺史の耿鄙が不正な官吏を信任したため、平民の王国たちや異民族の氐・羌が反乱を起こした。
この時、王国らは共謀して無理矢理に閻忠を指導者に祭り上げ、36の部将を統率させて車騎将軍の称号を奉ったが、閻忠は感情を昂ぶらせ、発病して亡くなってしまった。
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王国(兗州・東平国の人)
生没年不詳。兗州・東平国の人。
曹操が冀州を平定した時、薛悌と王国は左右の長史に取り立てられたが、後に中領軍にまでなった。
どちらも忠誠で事務に練達しており、世の官吏の手本であった。
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