正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉕、「王」から始まる人物の一覧㉔(王匡・王業・王金・王欽・王経・王恵陽)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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お㉕(王㉔)
王(おう)
王匡・公節
生没年不詳。兗州・泰山郡の人。娘婿に胡母班。
財貨を軽んじ施し好きで、任侠をもって知られ、蔡邕と仲が良かった。
大将軍・何進の役所に招かれたが、中平6年(189年)に霊帝が崩御。宦官と対立した何進は、王匡を徐州に派遣して強弩5百を徴発させた。
しかし、洛陽(雒陽)に着く前に何進が殺害されたため、王匡は郷里に帰ったが、その後すぐに平民から起用されて河内太守となる。
初平元年(190年)春正月、反董卓連合に参加して河陽津に董卓を攻撃するも敗北。その後、董卓の使者として「反董卓連合の解散」を求める娘婿・胡母班を獄死させたため、曹操と協力した胡母班の親族に殺害された。
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王業
生没年不詳。荊州・武陵郡・武陵県の人。後年、西晋の中護軍となった。
魏の第4代皇帝・曹髦(高貴郷公)は、日に日に権力が王室から離れて行くのを見て怒りに堪えず、甘露5年(260年)、
- 侍中の王沈
- 尚書の王経
- 散騎常侍の王業
を側に呼んで、「このまま座して太尉の恥辱を受けることはできない。司馬昭を討ち取るべきだ」と告げ、王経が諫めても聞かなかった。
王沈と王業が大急ぎでこれを司馬昭に報告したため、兵を挙げた曹髦は太子舎人の成済に刺殺された。
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王金
生没年不詳。桂陽、湞陽一帯の賊。
延康元年(220年)、呂岱は歩騭の後を継いで交州刺史となったが、この当時、桂陽や湞陽一帯に根を張った叛徒の王金が交州・南海郡の辺境地帯で人数を集め、反乱を指揮して付近に損害を与えていた。
孫権は(再び)呂岱に詔を下してこれを討伐させ、呂岱は王金を生け捕りにして都まで護送させ、この討伐で斬首、あるいは生け捕りにした者は1万余人にのぼった。
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王欽
生没年不詳。青州・東萊郡・昌陽県の官吏。
東萊郡・東牟国の人・王営は、3千余軒を仲間とし、昌陽県を脅迫して反乱を起こした。
長広太守・何夔は官吏の王欽らを派遣し、計略を授けて彼らを離散させ、10ヶ月の間にすべて平定された。
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王経・彦緯
生年不詳〜魏の甘露5年(260年)没。冀州・清河国の人。
農家の出身であったが、同郷の崔林に抜擢され、許允と共に冀州の名士と謳われる。太守、2州の刺史、司隷校尉を歴任し、尚書となったが、曹髦の事件に連座して処刑された。
王経が初めて郡守(太守)になった時、王経の母は「お前は農家の出身なのに、今出仕して二千石(郡守・太守)取りの身分にまでなりました。物事あまりうまく行きすぎるのは不吉ですこの辺でやめておきなさい」と言ったが、王経は母の言いつけに従わなかった。
江夏太守であった時、大将軍・曹爽が絹20匹を渡して呉と交易させようとしたが、王経は文書を開きもせずに官職を棄てて帰郷した。この時王経の母は、王経が「兵馬を預かりながら勝手に職を離れた」として彼を吏の元に送り届け、杖で50回叩かせたので、曹爽はそれ以上罰しようとはしなかった。
正元2年(255年)8月、蜀の大将軍・姜維が涼州・隴西郡・狄道県に侵攻すると、雍州刺史の王経が洮西で合戦したところ、王経は大敗北を喫し、引き返して狄道城を守った。
魏の第4代皇帝・曹髦(高貴郷公)は、日に日に権力が王室から離れて行くのを見て怒りに堪えず、甘露5年(260年)、
- 侍中の王沈
- 尚書の王経
- 散騎常侍の王業
を側に呼んで、「このまま座して太尉の恥辱を受けることはできない。司馬昭を討ち取るべきだ」と告げ、王経が諫めても聞かなかった。
王沈と王業はこの事を真っ先に司馬昭に報告に走った。王経は真っ当な人間だったので退出せず、2人に自分の気持ちを司馬昭に伝えるよう頼んだが、彼らが王経の気持ちを伝えなかったたために、母と共に処刑された。
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王恵陽
生没年不詳。兗州・東平国の人。東平国の名族。
黄朗が固い交わりを結び、王恵陽は黄朗の母に寝台の下で親しく拝礼した。
黄朗が仕官して二千石(郡守・太守)になった後、王恵陽もまた長安の県令、(涼州の)酒泉太守を歴任した。
それゆえ当時の人は王恵陽のことを「外見は粗雑だが、中身は堅実である」と判断し、黄朗の出身の賤しさを気にかけず、自分の母に仕えるのと同じように黄朗の母に仕えたことを「闊達な度量だ」と評価した。
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