正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑤。太原郡・晋陽県王氏(王坦之・王愷・王愉・王国宝・王忱・王綏)です。
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後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
太原(晋陽)王氏系図
太原郡・晋陽県王氏系図
※王俊について:史料には「王淪の兄」とあるだけで、王渾、王深との兄弟の順は不明である。
この記事では太原郡・晋陽県王氏の人物、
についてまとめています。
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お⑤(太原郡晋陽県王氏)
第6世代
王坦之・文度
咸和5年(330年)〜寧康3年(375年)。幷州(并州)・太原郡・晋陽県の人。父は王述。子に王愷、王愉、王国宝、王忱。祖父は王承。
弱冠(20歳)にして郗超と共に名を知られた。
会稽王・司馬昱(後の簡文帝)が撫軍将軍となるとその掾となり、参軍、従事中郎を経て司馬となり散騎常侍を加えられる。その後大司馬・桓温の長史となるが、父が亡くなると職を辞して喪に服し、喪が明けると侍中に任命されて、父の藍田侯の爵位を継ぐ。
太和6年(371年)、桓温によって廃帝(司馬奕)が廃位されると、左衛将軍を経て本州大中正となった。
咸安2年(372年)、病に倒れた簡文帝(司馬昱)が「周公居摂践阼の故事*1」にならって、大司馬・桓温に政権を委ねる遺詔を作らせたが、王坦之は帝の目の前でこれを破り捨てて諫めたので、簡文帝は遺詔の内容を改めた。
寧康元年(373年)、桓温が亡くなると、王坦之は謝安と共に幼主・孝武帝を輔け、中書令、丹陽尹、都督徐兗青三州諸軍事、北中郎将を歴任し、徐兗二州刺史として広陵郡に赴任した。
寧康3年(375年)に亡くなった際には官民に惜しまれた。享年46歳。安北将軍を追贈され、献と諡された。
脚注
*1「周の武王の崩御後に、武王の弟・周公(周公旦)が幼い成王に代わって政務を執った」という故事。
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第7世代
王愷・茂仁
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・晋陽県の人。父は王坦之。同母弟に王愉、異母弟に王国宝、王忱。祖父は王述。
弟の王愉と共に若くして清官を歴任し、父の爵位を継ぐ。太元の末年(396年)に侍中・右衛将軍となり、兄弟はみな隆盛を誇った。
王恭らが弟の王国宝を討った時のこと。王愷は弟の王愉と共に解職を申し出た。また、王国宝とは異母兄弟で普段から仲が悪かったことから、弟の罪に連座することを免れた。
王国宝が刑死すると、王愷は地方に出て呉郡内史となり、後に中央に召還されて丹陽尹となる。
桓玄らが江寧に至ると、王愷は兵に命じて石頭を守らせて桓玄を敗走させた。その後は再び呉郡(内史)に復帰したが、病死して太常の位を追贈された。
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王愉・茂和
生年不詳〜元興3年(404年)。幷州(并州)・太原郡・晋陽県の人。父は王坦之。同母兄に王愷。異母弟に王国宝、王忱。祖父は王述。
兄の王愷と共に若くして清官を歴任し、驃騎司馬となり輔国将軍を加えられ、兄弟はみな隆盛を誇った。
王恭らが弟の王国宝を討った時のこと。王愉は兄の王愷と共に解職を申し出た。また、王国宝とは異母兄弟で普段から仲が悪かったことから、弟の罪に連座することを免れた。
王国宝が刑死すると、王愉は地方に出て江州刺史・都督豫州四郡諸軍事・輔国将軍・仮節となった。
殷仲堪・桓玄・楊佺期らが王恭に呼応して挙兵した時、備えのなかった王愉は臨川に逃亡するも桓玄に捕らえられてしまう。
その間王愉は、尋陽で桓玄のために盟約を行う祭壇を設置したが、王愉はこのことを甚だ恥とした。解放されると会稽内史に任命され、桓玄が帝位を簒奪すると尚書僕射となる。
元興3年(404年)、劉裕らが義兵を挙げると劉裕に前将軍を加えられた。
すでに王愉は桓氏の婿として父子共に寵愛されており、また劉裕から軽い侮辱を受けていたことから、不安を覚えた王愉は秘かに司州刺史の温詳と謀って反乱を企てるが、事が漏れて子孫十余人と共に誅殺された。
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王国宝
生年不詳〜隆安元年(397年)。幷州(并州)・太原郡・晋陽県の人。父は王坦之。異母兄に王愷、王愉。同母弟に王忱。祖父は王述。謝安の娘婿。
王国宝は品行が悪く、岳父(妻の父)の謝安も彼を重用しなかった。
姻戚関係のある会稽王・司馬道子*2に重用され、彼が実権を握ると秘書丞、琅邪内史、堂邑太守を歴任して輔国将軍を加えられ、太元9年(384年)には侍中に、太元15年(390年)には中書令・中領軍となって司馬道子と共に大権を掌握した。
一時は保身の為に孝武帝側に近づくが、安帝が即位すると再び司馬道子に仕え、隆安元年(397年)には尚書左僕射・領選・加後将軍・丹陽尹となり、司馬道子から東宮兵を与えられている。
その後、王国宝は北府軍の王恭から軍権を奪うことを画策。これに激怒した王恭は西府軍の殷仲堪と結託して挙兵する。
この挙兵に驚いた司馬道子が王恭らの要求を聞き入れたため、王国宝は廷尉に下されて死を賜った。
脚注
*2王国宝の従妹が司馬道子の妃であった。
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王忱・元達
生年不詳〜太元17年(392年)没。幷州(并州)・太原郡・晋陽県の人。父は王坦之。異母兄に王愷、王愉。異母兄に王国宝。祖父は王述。
弱冠(20歳)にして名を知られ、王恭や王珣と共に名声があり、官職を歴任して驃騎長史となり、その後地方に出て荊州刺史・都督荊益寧三州諸軍事・建武将軍・仮節となった。
みな若くして方伯(刺史)の任についた王忱のことを憂慮していたが、威風粛然とした統治を行い、江陵にいた桓玄も彼を憚って服従している。
太元17年(392年)、在官のまま亡くなり、右将軍の位を追贈されて穆と諡された。
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第8世代
王綏・彦猷
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・晋陽県の人。父は王愉。祖父は王坦之。
太尉・桓玄の下で右長史をつとめ、桓玄が帝位を簒奪すると中書令に進んだ。
元興3年(404年)、劉裕らが義兵を挙げると劉裕に冠軍将軍・荊州刺史に任命されるが、王綏は桓氏の婿として父・王愉と共に寵愛されていたので、秘かに司州刺史の温詳と謀って反乱を企て、事が漏れて誅殺された。
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