正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧④。太原郡・晋陽県王氏(王浚・王尚・王済・王澄・王汶・王承・王卓・王聿・王述)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
太原(晋陽)王氏系図
太原郡・晋陽県王氏系図
※王俊について:史料には「王淪の兄」とあるだけで、王渾、王深との兄弟の順は不明である。
この記事では太原郡・晋陽県王氏の人物、
についてまとめています。
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お④(太原郡晋陽県王氏)
第4世代
王浚・彭祖
魏の嘉平4年(252年)〜晋の建興2年(314年)没。幷州(并州)・太原郡・晋陽県の人。父は王沈。母は趙氏。
父・王沈の爵位(博陵郡公)を継ぎ、員外散騎侍郎、右軍将軍、東中郎将、許昌鎮将を歴任し、太子・司馬遹の毒殺に加担した。
その後、寧北将軍・青州刺史に任じられたが、しばらくして寧朔将軍・持節・都督幽州諸軍事に転任し、長期に渡って北方異民族からの防備にあたる。
永興元年(304年)7月、長沙王・司馬乂を殺害した河間王・司馬顒と成都王・司馬穎は、右司馬の和演を幽州刺史に任命して王浚の暗殺を企てたが、烏桓単于・審登の密告によりこの謀略は発覚。王浚は審登と幷州刺史・東嬴公の司馬騰と共に和演を斬り、その軍事力は次第に強大になっていった。
11月、司馬顒が恵帝(司馬衷)を長安に連れ去ると、翌年7月、王浚は范陽王・司馬虓と共に、東海王・司馬越を盟主として挙兵し、恵帝(司馬衷)を奪還する。
そして永興3年(306年)、王浚は東莱郡・惤県で挙兵した妖賊の劉柏根を討ち、驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事・幽州刺史に任命され、懐帝(司馬熾)が即位すると司空・烏丸校尉に昇進した。
永嘉5年(311年)、漢(前趙)の攻撃により洛陽が陥落。王浚は天下に布告して承制(皇帝の認可を経ずに人事を行うこと)を行い、襄国に進出した漢(前趙)の石勒討伐の軍を起こすが、これに敗れた王浚は鮮卑・烏桓の支持を失って次第に衰えることになる。
永嘉7年(313年)1月、捕らわれの身となっていた懐帝(司馬熾)が処刑されると、甥の司馬鄴(愍帝)が即位したが、王浚はこれを助けず自ら帝位につくことを考え、諫める者たちを粛清・誅殺した。
この時石勒は、使者を派遣して王浚の即位を認め臣従する姿勢を見せ、建興2年(314年)2月、「王浚を奉戴する」という名目で薊城に軍を進めた。
王浚は宴席を設けて石勒を待っていたが、石勒に捕らえられ、襄国に護送されて処刑された。享年62歳。王浚には男子がおらず、その家系は途絶えた。
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王済・武子
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・晋陽県の人。父は王渾。子に王卓、王尚。兄は王尚。弟に王澄、王汶、王承。祖父は王昶。妻は武帝(司馬炎)の姉・常山公主。
王渾の次子。兄の王尚が早くに亡くなったため、王済が後を継いだ。
優れた才能を持ち、評判が高く、河南尹、太僕となったが、早くに亡くなり驃騎将軍の位を追贈された。
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王澄・道深
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・晋陽県の人。父は王渾。兄に王尚、王済。弟に王汶。祖父は王昶。
咸寧5年(279年)11月、晋の武帝(司馬炎)は賈充、杜預、王濬、王渾らを大将に、20万余の大軍で呉征伐を行った。
この時、王澄の父・王渾が多大な功績を挙げたため、王澄は亭侯に封ぜられた。
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王承・安期
生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・晋陽県の人。父は王湛。子に王述。祖父は王昶。
欲が少なく言葉を飾らない性格で若くして名を知られ、太尉・王衍は南陽郡の楽広と並んで王承を高く評価した。
永寧元年(301年)に常山王・司馬乂の下で驃騎参軍となったが、天下が乱れると、南に避難して東海王・司馬越の下で司空従事中郎となり、司馬越が許昌に出向すると記室参軍となる。
その後東海太守となり善政を行ったが、しばらくして官を去ると長江を渡って建業に入り、元帝(司馬睿)の下で鎮東府従事中郎となり礼遇を受けた。
渡江の名臣・王導、周顗、庾亮らを押さえて中興第一とされ、46歳で亡くなった際には官民を問わず惜しまれた。
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第5世代
王述・懐祖
太安2年(303年)〜太和3年(368年)生没年不詳。幷州(并州)・太原郡・晋陽県の人。父は王承。子に王坦之。祖父は王湛。
幼い頃に父を亡くし、藍田侯の爵位を継いだが、母に孝行を尽くして栄達を求めなかったので、30歳になっても名を知られることがなかった。
その後、東晋の司徒・王導の中兵属、驃騎将軍・司馬岳(後の康帝)の功曹、地方に出て宛陵令を歴任し、征虜将軍・庾冰の長史、臨海太守、建威将軍・会稽内史をつとめたが、彼の行政は清正厳明で大きな問題が発生することはなかった。
その後、母の死により職を去ったが、永和10年(354年)、北伐に失敗した殷浩の後任として揚州刺史に任命され、征虜将軍を加えられた。
隆和元年(362年)には、桓温の洛陽遷都に反対している。
その後、散騎常侍、尚書令に転任し、太和2年(367年)に老齢を理由に引退を願い出たが許されず、翌年に亡くなった。享年66歳。侍中・驃騎将軍・開府を追贈され、穆と諡されたが、東晋の第5代皇帝・穆帝(司馬聃)の諡号を避けて簡と改諡された。
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