徐州の呂布と劉備が再び手を結んだ頃、袁術の下に身を寄せていた孫策は、その境遇に思い悩んでいました。
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孫策の苦悩
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前回は袁術さんに敗れた劉備さんが、呂布さんを頼ったところまででしたよね。
劉備から下邳県を奪ったのも呂布だけどね(笑)
立場が逆転しちゃったね…。
そうですね。今回は舞台が変わって、孫堅の息子・孫策のお話です。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における「孫策の江東進出」については、こちらをご覧ください。
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孫堅の息子・孫策
それでは今回のお話を始めましょう。
さて、袁術が揚州・九江郡・寿春県に将兵を招いて大宴会を開いているところへ、「孫策が揚州・廬江郡の太守・陸康を攻撃し、勝利を得て帰って来た」という報告が入りました。
そこで袁術は、孫策を呼び寄せて労いの言葉をかけ、宴会の座に加わらせました。
ここで少し、孫堅の息子・孫策についてお話ししておきましょう。
孫堅の息子・孫策
孫策は父の孫堅が死んだ後、江南に引きこもって賢者を敬い、謙って過ごしていました。
後に陶謙と孫策の母方の叔父・丹楊郡(丹陽郡)の太守の呉璟の関係が悪くなったので、孫策は母親と家族を揚州・呉郡・曲阿県に移住させて、自分は袁術の下に身を寄せます。
すると袁術は孫策を大そう気に入って、いつも、
「儂に孫策のような子供がいたら、死んでも心配はないのだが…」
と言って嘆いていました。
その後、孫策は懐義校尉に任命され、兵を率いて丹楊郡(丹陽郡)・涇県の太帥(賊の首領)・祖郎を撃ち破ります。
孫策の武勇を知った袁術は、さらに廬江郡の太守・陸康の攻撃を命じ、ちょうど今、勝利を得て帰って来たのでした。
揚州関連地図
おっ、孫策っ!久し振り(笑)
孫策さんは袁術さんの配下になったってこと?
そうですね。
そうしないと、陸康みたいに攻められてしまうからねっ!
なるほど…。
ちなみに正史『三国志』では、孫策の叔父の名前は呉景です。
独立の密談
さて、宴会が散会になって、孫策が陣屋に帰ってきます。
孫策は宴会の席上で袁術の対応があまりに傲慢だったことを思い出し、月の光を浴びて気分を晴らそうと庭に出ましたが、
(父の孫堅はあれほど英雄であったのに、自分はこんなにも落ちぶれてしまったか…)
という思いが溢れて、声を出して泣き始めます。
すると突然、大笑いしながら外から入ってくる者がいて、
「伯符(孫策の字)どの、どうなされた?
御尊父(孫堅)がご存命の時にはいつも私に相談されていたのに、何を1人で泣いておられるのですか?」
と言いました。この男は、丹楊郡(丹陽郡)・故鄣県の人、姓は朱、名は治、字は君理といい、元孫堅の従事(属官)をしていた者でした。
孫策は涙を拭って朱治を招き入れると、泣いていた理由を話します。
すると朱治は言いました。
「それならば、袁術どのから軍勢を借り受け、『呉璟どのを救うため』という名目で江東に渡り、一旗揚げられてはどうでしょう。いつまでも他人の下に使われているおつもりですかな?」
そんな話をしているところへ、もう1人外から外から入って来ます。
「あなた方のお気持ちは良く分かっています。私の配下に百人の強者がおるが、及ばずながら伯符(孫策の字)どのにお力添えいたしましょう」
見るとその男は、豫州(予州)・汝南郡・西陽県(細陽県)の人、姓は呂、名は範、字は子衡といい、袁術の参謀でをしている者でした。
孫策が呂範に座を勧めると、呂範はまた言いました。
「1つ問題なのは、袁術どのは兵を貸さないと思うのです」
すると孫策は、
「私には亡父(孫堅)が遺した伝国の玉璽がある。あれをカタに入れよう」
と言い、呂範も、
「それは袁術どのが以前から欲しくてたまらなかった物なので、きっと兵隊を貸してくれるでしょう」
と言ったので、「伝国の玉璽をカタに袁術から兵を借りること」で、3人の話はまとまりました。
やっぱり孫策さんも、今の状況に満足してたわけではなかったんですね。
そりゃそうさっ!
でも呂範さん、出てきたの初めてですよね。袁術さんの参謀って大丈夫かな?
確かに…。この秘密を密告されたらやばいな。
『三国志演義』には描かれていませんが、呂範も孫堅の配下でした。
なら安心ですねっ!
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孫策の出陣
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伝国の玉璽を預ける
次の日、さっそく孫策は計画を実行に移します。
袁術に謁見した孫策は、泣きながら平伏して言いました。
「私、父の仇も討てていないのに、今また叔父の呉璟が揚州刺史の劉繇に圧迫されております。私の老母や家族はみな曲阿県におりますゆえ、危害を受けるに違いありません。
どうか数千の兵をお借りして、長江を渡って助けに参りたく思っております。
我が君、もし信用できぬとおっしゃるのならば、亡父(孫堅)が遺した伝国の玉璽がございますので、これを担保としてお預けいたしましょう」
すると袁術は、すぐに「伝国の玉璽」を取り寄せさせると、うっとりと眺めまわし、
「儂はお前の玉璽が欲しいのではないが、まずしばらく手元に預かっておこう。3千の兵と馬5百頭を貸してやるから、敵を平定したら速やかに戻れ」
と言い、官位が低くてはそれだけの兵を指揮することが出来ないからと、孫策を折衝校尉・殄寇将軍に任命するように上奏し、日を選んで出陣するように言いました。
伝国の玉璽、孫堅さんが洛陽の井戸で見つけたものですよねっ!
そうだね。それにしても袁術は下心丸見えだよ(笑)
伝国の玉璽って、そんなに凄い物なの?
代々の皇帝に受け継がれて来た物ですからね。
持ってるだけで皇帝になれるなら、孫堅や孫策が皇帝になってるさ(笑)
確かにそうですねっ!(笑)
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周瑜との再開
袁術から兵を借り受けた孫策は、すぐに出陣の準備に取りかかります。
孫策は朱治・呂範に加え、父・孫堅の代からの大将、程普・黄蓋・韓当らを従え、吉日を選んで出陣しました。
そして、孫策の軍勢が揚州・九江郡・歴陽国まで来ると、前方から一手の軍勢がやってくるのが見えます。
真っ先に進むのは、姿優美にして顔形清らかな大将で、孫策を見るやすぐさま馬から下りて平伏したその男は、孫策の義兄弟・周瑜でした。
ここで少し、孫策と周瑜の関係についてお話しておきましょう。
周瑜の特長と略歴
姓は周、名は瑜、字は公瑾。揚州・廬江郡・舒県の人。
孫堅が董卓討伐に加わった時、孫堅は家族を舒県に移していました。
周瑜は孫策と同い年だったこともあり、彼と大変親しく交わって兄弟の契りを結び、孫策の方が二月早く生まれていたので、周瑜はいつも孫策を兄と呼んでいました。
この時は、周瑜の従父の丹楊太守・周尚を訪ねて行く途中、偶然孫策に出会ったのでした。
わぁ〜、周瑜さんっ!
そっか、映画『レッドクリフ』で興味を持ち始めたんだったら、周瑜は知ってるか。
うん。周瑜さんは知ってるっ!
これから独立しようとする孫策にとっては、心強い再会ですねっ!
江東の二張
周瑜と再会した孫策は、周瑜に本心を打ち明けます。
「私も及ばずながら、力を尽くして旗揚げのお助けをいたしましょう」
周瑜が喜んで協力を引き受けると孫策は、
「公瑾(周瑜の字)が加わってくれれば、もう成功したも同然だ」
と言って、周瑜に朱治と呂範を紹介します。
周瑜は2人にあいさつをすると、孫策に言いました。
「兄上(孫策)、旗揚げしようとの企てならば、『江東の二張』をご存知ですか?」
「二張」のことを知らなかった孫策は、「二張とは何のことだ?」と尋ねます。
すると周瑜は、
「1人は徐州・彭城国の張昭、字は子布。もう1人は徐州・広陵郡の張紘、字は子綱。
この2人とも、天地をめぐらす才能ある者ながら、乱を避けてこの近くに隠れ住んでおります。
兄上(孫策)、2人を招かないわけにはまいりません」
これを聞いた孫策は喜んで、早速使いに贈り物を持たせて招き寄せようとしましたが、2人とも固く断ってきました。
そこで孫策は、自ら2人を訪ねて大そう気に入ると、筋道を立てて詳しく志を説明して協力を願ったので、2人もやっと孫策に協力することを承諾します。
孫策は、張昭を長史として撫軍中郎将を兼ねさせ、張紘を参謀・正議校尉として劉繇攻撃の相談をしました。
ここで「江東の二張」が加わったのか。
孫策さんの元に、続々と人が集まって来ますね。
袁術配下の一将軍に過ぎない孫策に仕えるんだから、凄い先見の明だよ。
まあ、孫堅の息子だからってこともあるでしょうけどね。
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孫策が張英を破る
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揚州刺史・劉繇
ここで少し、孫策が戦おうとしている劉繇についてお話ししておきましょう。
劉繇の特長と略歴
姓は劉、名は繇、字は正礼。青州・東萊郡・牟平県の人。
漢の皇室の一門にあたり、太尉・劉寵の甥、兗州刺史・劉岱の弟です。
この時、揚州刺史に任命されて寿春県に軍隊を置いていましたが、袁術のために追われて江東に渡り、曲阿県に来ていました。
孫策の兵が押し寄せて来ると聞き、劉繇は急いで大将たちを集めて軍議を開きます。
すると開口一番、劉繇の部将・張英が、
「私が1隊を率いて牛渚を守りますれば、たとえ百万の兵とても近づかせませんっ!」
と進み出ますが、その言葉も終わらぬうちに幕下の1人が進み出て、
「私にその先陣をお任せくだされっ!」
と、声高に叫びました。
見れば、青州・東萊郡・黄県の人、太史慈でした。
太史慈は青州・北海郡で孔融を助けた後、劉繇の下に身を寄せていましたが、孫策軍の襲来を知って先陣を志願したのでした。
ですが劉繇は、
「お前はまだ若い。大将にはできぬ。儂の側で命令を待つが良い」
と言って却下し、太史慈は不満の面持ちで退出しました。
太史慈さんって、孔融さんのために劉備さんに救援を求めに行った人ですよねっ!
そうだね。そういえば、その時も劉繇のところに行くって言ってたね。
太史慈さんなら孫策さんにも勝てるかも…。
かもしれませんね。ですが劉繇は、彼を用いることはありませんでした。
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蔣欽と周泰
さて、劉繇に先陣を任された張英が牛渚の砦に入りました。
張英は兵を率いて牛渚の砦に到着すると、10万の食糧を倉庫に蓄えます。
いよいよ孫策が攻め寄せて来ると、張英は打って出て散々に孫策の悪口を言い立てました。
これに孫策軍からは黄蓋が進み出て張英に打ちかかりますが、戦いを交えること数合にもならないうちに、突然張英の陣から火の手が上がって大混乱となります。
そして、驚いた張英が急いで陣に帰ろうとしたところに孫策軍が襲いかかったので、張英はたまらず牛渚の砦を棄てて山奥に逃げ込みました。
さてこの時、陣の後ろから火をかけたのは、
- 揚州・九江郡・寿春県の人、蔣欽、字を公奕
- 揚州・九江郡・下蔡県の人、周泰、字を幼平
という2人の大将でした。
2人とも乱世を幸いに、仲間を集めて長江の沿岸で盗賊として暮らしていましたが、孫策が江東の豪傑であり、また賢者を招き入れる度量があると聞いて、3百人余りの部下を引き連れてやって来たのでした。
孫策はいたく喜んで、2人を車前校尉に取り立て、牛渚の倉庫にあった食糧・武器、降伏兵4千人余りを手に入れました。
やっぱりな。太史慈に任せとけば良かったんだよ(笑)
袁術さんに借りた兵は3千人でしょ?これで孫策さんの兵は倍以上になったねっ!
それに蔣欽、周泰もなかなかの豪傑だよ。
張英を敗走させた孫策は、さらに神亭まで兵を進めます。
孫堅の死後袁術の下に身を寄せていた孫策は、その身の上を嘆いていました。
そして、孫策の旧臣・朱治と呂範の助言を受けた孫策は、父・孫堅が遺した「伝国の玉璽」を差し出して袁術から兵を借り、「叔父の呉璟を助ける」という名目で揚州刺史・劉繇討伐に乗り出します。
これに対し劉繇は牛渚の砦に張英を派遣しますが、予想外の蔣欽・周泰の出現により、孫策軍に撃ち破られてしまいました。
次回は、ついに太史慈が孫策に挑みます。