袁術に兵を借り江東の平定に乗り出して牛渚の張英を破った孫策は、神亭まで兵を進めますが…。
スポンサーリンク
孫策と劉繇が対峙する
画像出典:ChinaStyle.jp
前回は、孫策が袁術に「伝国の玉璽」を渡して兵を借り、劉繇を攻めたところまででしたよね。
それで、劉繇さんの配下の張英さんを敗走させたんだよね。
うん。それに蔣欽、周泰も配下に加わったね。
そうですね。今回は、張英を破った孫策がさらに兵を進めます。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における「孫策の江東進出」については、こちらをご覧ください。
関連記事
劉繇の出陣
それでは今回のお話を始めましょう。
孫策に敗北した張英が劉繇の元に戻ると、怒った劉繇はその首を打たせようとしましたが、参謀の笮融と薛礼がなだめたので許され、零陵の城を守って敵を防ぐことになりました。
そして今度は、劉繇が自ら兵を率いて神亭の峠の南に陣を構え、孫策は峠の北に陣を構えます。
そして、着陣した孫策は土地の者に、
「この近くの山に光武帝のお社がありはしないか?」
と聞きました。土地の者が「この峠の上にございます」と答えると孫策は、
「光武帝が私を呼び出された夢を見たゆえ、お参りせねばならぬ」
と言うので、これを聞いた長史の張昭は、
「それはいけませぬ。峠の向こうは劉繇の陣があります。万一伏兵がおりましたら、どうなされるおつもりですかっ!?」
とこれを止めましたが、
「神が私を助けてくれるだろう。何も恐れることはない」
と、孫策は槍を小脇に抱えて馬にまたがり、
- 程普
- 黄蓋
- 韓当
- 蔣欽
- 周泰
ら12騎を従えて陣を出ると、社の前に進んで跪き、
「この孫策がもし、江東において根拠を得、亡父(孫堅)の事業の再興が叶いますれば、必ず社殿を修理し、四時のお祭り(四季に渡って定期に行われる祭儀)も欠かさずにいたします」
と、祈願を込めました。
なんだか危なっかしいのはお父さん譲りね、孫策さん。
孫堅はそうやって死んだからな。
それにしても錚々たる面々を連れて来ちゃって、陣は大丈夫かしら?
ハハ…。今劉繇が攻めてきたら、危ないかもしれませんね(笑)
ですよねっ!
ちなみに光武帝とは、後漢の初代皇帝です。
常識だねっ!
またそんなこと言って…。
太史慈の出陣
さて、お話に戻りましょう。
祈祷が終わって馬に乗った孫策は、大将たちを見渡して、
「峠を越えて劉繇の陣地を探って見たいのだが」
と言いました。
大将たちは口を揃えて「いけませんっ!」と止めましたが孫策は聞き入れず、とうとう連れ立って峠を越えてしまいます。
孫策がそこから南の劉繇の陣を眺めていると、その南の林の影など所々に置かれた伏兵がこれを見つけ、急いで劉繇に知らせに走りました。
ですが劉繇は、
「これは孫策が、我らをおびき寄せようとする計略であろう。追ってはならぬぞ」
と言って取り合いませんでした。
するとそこへ、
「今こそ孫策を捕らえなければっ!」
と太史慈が躍り出て、劉繇の命令も待たずに槍を小脇に馬にまたがると、
「勇気のある者は俺について来いっ!」
と叫んで陣を飛び出して行きました。これに小頭がただ1人、
「太史慈こそ真の勇将だ。よし、助けに行こうっ!」
と、馬を蹴立てて従います。
この様子を見た他の大将たちはみな、彼らをあざ笑っていました。
あっさり見つかっとるな、孫策(笑)
でもなんで太史慈さんってこんな扱いなの?
若いから…ですかね?劉繇が前に言っていたのは。
まあ、劉繇に見る目がなかったってことでしょっ!(笑)
スポンサーリンク
劉繇を撃ち破る
画像出典:ChinaStyle.jp
孫策と太史慈の一騎打ち
さて孫策は、半時(約1時間)ばかり劉繇の陣を見渡していました。
偵察を終えた孫策が陣に戻り始めた時、峠の上から「孫策、逃げるなっ!」と呼び止める声が上がります。
孫策が振り返ってみると、2騎の騎馬武者が飛ぶように坂道を下って来るのが見えました。
これに孫策は13騎を一文字に散開させ、自ら槍を横たえて待ち構えると、「どいつが孫策だっ!」と呼ばわる男に、「お前は何者だっ!?」と聞き返します。
男が、
「我こそは東萊(青州・東萊郡)の太史慈、孫策めを生け捕りに来たのだっ!」
と名乗ると孫策は、
「俺が孫策だっ!2人一度にかかって来いっ!お主らを恐れるようなら、孫伯符ではないわっ!」
と言って槍を構えました。
「貴様ら全員かかって来ても、俺は恐れぬっ!」
太史慈の言葉も終わらぬうちに2人の馬が馳せ違い、打ち合うこと50合を超えても一向に勝負がつきません。程普らはその様子を固唾を呑んで見守ることしかできませんでした。
そこで、孫策の繰り出す槍に少しの隙もないことを見て取った太史慈が、わざと負けた振りをして逃げ出してみせると、孫策は「逃げる奴は男ではないぞっ!」とこれを追って来ます。
とうとう平地まで駆けて来た2人は、またそこで打ち合い、孫策の一突きをかわした太史慈は孫策の槍を握り止め、渾身の一突きを繰り出しました。
ですが、孫策も同じく身をかわして太史慈の槍をつかんだので、お互いに引き合ううち、2人ともドサリと馬から落ちてしまいます。
2人とも槍を捨ててつかみ合ううち、孫策が太史慈の背中に差された短戟を引き抜くと、太史慈は孫策の兜を引きちぎり、その兜で短戟の一撃を受け止めました。
ちょうどその時、後方から鬨の声が上がったかと思うと、劉繇の兵千人余りが駆けつけます。
さすがの孫策も内心慌てていたところへ、やっと程普ら12騎が追いついて千人の兵を相手に奮戦しますが、次第に峠の下まで押されて行きました。
そんなところへ、孫策らの背後から鬨の声が上がると、今度は周瑜が軍勢を率いて押し寄せて、劉繇の軍勢と乱戦になりますが、にわかに雨風が起こったので両軍ともに引き揚げました。
周瑜さん、ナイスですっ!
周瑜が来なかったらやられてたじゃないか、まったく〜っ!
孫策さんも強い!って言いたいけど、危なっかしくて見てられないよ…。
本当に危機一髪でしたね。
劉繇の敗北
次の日、孫策は軍勢を率いて劉繇の陣の前に押し寄せます。
劉繇が応戦に出ると、孫策は槍の先に太史慈の短戟を引っかけて、
「太史慈の逃げ足が遅かったら、とっくに団子刺しにしたところだぞっ!」
と兵士らに叫ばせます。
すると太史慈の方でも孫策の兜を陣の前に差し上げさせ、やはり兵士に大声で、
「孫策の首はここだぞっ!」
と呼ばわらせました。
両軍、どっと鬨の声をあげてお互いに勝利を誇っていましたが、やがて太史慈が馬を乗り出して、「勝負をつけよう」と孫策に再戦を求めます。
これに孫策が真っ先に駆け出そうとするのを、
「我が君がお出になるには及びません。私が生け捕ってみせましょう」
と、程普が陣の前に駆け出しました。
これに太史慈が、「貴様など相手にならぬ。早く孫策を出せっ!」と言うと、程普は大いに怒ってまっしぐらに打ってかかります。
そして2頭の馬が馳せ違って30合になった時、急に劉繇が退却の鐘を打ち鳴らして太史慈を呼び戻しました。
陣に戻った太史慈が、
「もう少しで敵の大将を虜にできましたのに、何ゆえ退却の鐘を鳴らされたのですか!?」
と不満を言うと劉繇は、
「周瑜が秘かに手を回して曲阿の城に攻めかかり、陳武という者が城に引き入れたとの報せがあったのだ。我らの本城を取られては、ここに長居は無用だ。速やかに秣陵の薛礼・笮融の軍と合流して対抗する他はないぞ」
と言い、退却を始めました。
孫策はこれを追わずに兵を退きましたが、長史の張昭が、
「敵は周瑜に曲阿を攻め取られ、もはや戦いを続ける気力が失せたとみえます。今夜こそ夜討ちをかける時でございますぞ」
と言うので、孫策もこれに同意し、その夜、兵を5手に分けてどっと一度に攻めかかりました。
劉繇の軍勢は大敗北し、太史慈も1人の力では防ぎようもなく、十数騎を従えて夜道を涇県へと落ちて行き、劉繇は参謀の許子将を引き連れて秣陵に逃れて行きました。
周瑜さんが本城を攻める手筈だったんですねっ!
陽動なのに太史慈の挑戦を受けようとしてたのかよ、孫策は…。
そうなりますねっ!(笑)ではここで、地図を確認しておきましょう。
孫策 vs 劉繇関連地図
劉繇さんと太史慈さんって全然違うところに逃げたんですね。
そうですねっ!
スポンサーリンク
小覇王・孫策
画像出典:ChinaStyle.jp
孫策が2将を討つ
さて孫策は、秣陵の薛礼の攻撃に移ります。
周瑜を曲阿の城に引き入れた陳武は、身の丈7尺(約161cm)、顔は黄色く瞳は赤く、人並み外れた怪しい顔つきをしていました。
彼を大変敬愛した孫策は、陳武を校尉に取り立てて、先手として秣陵の薛礼を攻撃させます。
陳武は十数騎を率いて陣中に突入し、50余りの首を取って帰って来ましたが、それ以降薛礼は城門を堅く閉じて戦いに応じようとしません。
そんなところへ「劉繇の軍勢が笮融と力を合わせて牛渚を取り返した」との報告が入ると、孫策は殊の外立腹し、自ら大軍を率いて牛渚に向かいます。
そして、劉繇と笮融の2人と対峙した孫策が、
「さあ、俺が来たからには早く降参しないかっ!」
と呼ばわると、劉繇の後ろから1人の大将が槍を構えて進み出ました。
太史慈かっ!?
待ってっ!太史慈さんは今、劉繇さんと一緒にはいないはずよ。
そっか、そうだった…。
そうですね。進み出た大将の名前は干麋という男です。
ですがその干麋は3合と交えぬうちに孫策に生け捕られ、孫策は干麋を脇に抱えたまま馬を返して陣に帰って行きます。
これを見た劉繇の大将・樊能は、孫策を背後から突き刺そうと すぐさま追いかけました。
「後ろに闇討ちの者がおりますぞっ!」
味方の陣から叫ぶ声で振り向いた孫策は、樊能が駆けてくるのを見て、雷のような声で一喝します。これに驚いた樊能は、真っ逆さまに馬から落ちて即死してしまいました。
孫策は門旗の下まで帰って来ると、干麋を地べたに投げつけましたが、すでに干麋は彼の脇の下で締め殺されていました。
瞬く間に1人の大将を締め殺し、またもう1人を怒鳴り殺したことから、これより先人々は、孫策のことを「小覇王」と呼ぶようになりました。
劉繇は大敗北し、人馬の大半は孫策に降伏して、討たれた首は1万を超え、劉繇と笮融は劉表を頼って豫章郡(予章郡)に落ち延びていきました。
やっぱり強いなぁ、孫策さんっ!
少しは部下に手柄を譲れよ(笑)
確かに…(笑)
ちなみに干麋は、正史『三国志』では于麋という名前です。
へぇ〜、書き間違えたのかな?(笑)
「小覇王」って呼び名はこの戦いから始まったんだ。一気に領土を広げたからかと思ってた。
個人の強さというより、その方が言葉のイメージに合ってますね。
秣陵に入る
さて劉繇と笮融を敗走させた孫策は、再び秣陵の攻略にかかりました。
牛渚から兵を返して秣陵に迫った孫策は、自ら城の堀のところまで出て、薛礼に降伏を勧めます。
するとこの時、敵の大将の張英が城の上から秘かに放った矢が、見事に孫策の左の太股に命中し、孫策は真っ逆さまに落馬しました。
ほら〜、だから危ないって言ってるのにっ!
頭に当たってたら死んでたぞ(笑)
大将たちが急いで助けあげたので、なんとか助かりました(笑)
あれ?そう言えば張英は、零陵の守りについたんじゃなかったっけ?
細かいことは気にしないでおきましょう(笑)
陣に戻って治療を受けた孫策は、「俺の矢傷が重く、死んだと言いふらせ」と言い、軍中にお触れを出して、みなで大声で号泣しながら陣払いをして引き揚げます。
薛礼は「孫策が死んだ」と聞くや、大将の張英、陳横に命じてその夜のうちに追い討ちをかけさせました。
するとにわかに四方から伏兵が湧き起こり、孫策が真っ先に馬を乗り出して「孫策ここにありっ!」と呼ばわったので、敵兵はみな驚いて武器を捨て、地面に平伏します。
孫策は「1人も殺すな」と命令しましたが、張英は陳武の一槍に突き殺され、陳横も蔣欽の一矢に射殺され、薛礼は乱戦の中で討ち死にしてしまいました。
太股の傷は大丈夫なのかよ(笑)
なんだか覚える前に、新しい人みんな死んじゃった…。
まあ、みんなザコだし覚えなくて良いよ。
確かに。最初は肩の力を抜いて、大きな物語の流れを楽しみましょうっ!
はいっ!
さて、その後孫策は、秣陵に入城して住民たちを安堵させました。
牛渚の張英を破った孫策がさらに軍を進めると、劉繇は自ら出陣し、両軍は神亭の峠を挟んで対峙します。
そして、峠の上に登った孫策が劉繇の陣を偵察していると、知らせを受けた太史慈と遭遇。一騎打ちが繰り広げられましたが、劉繇と周瑜の軍が駆けつけたため引き分けに終わりました。
その後、張昭の進言で劉繇軍を撃ち破った孫策は、劉繇が逃亡した秣陵に進軍。さらに、奪い返された牛渚の奪還に向かうと瞬く間に2将を討ち取って「小覇王」と呼ばれるようになりました。
次回は、孫策が太史慈が逃亡した涇県に向かいます。