やっとのことで安邑県に落ち着いた献帝は、再び洛陽を目指して出発しますが…。
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目次
献帝が洛陽に入る
画像出典:ChinaStyle.jp
前回は洛陽に向かう献帝さんが、味方だった李楽さんに襲われたところまででしたよね。
うん、結局は賊上がりだからね。李傕・郭汜と変わらなかったねっ!
そうですね。今回は、献帝がこのピンチをどう切り抜けるのか?というところから始まります。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における「曹操の上洛」については、こちらをご覧ください。
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これまでのあらすじ
では、ここまでのお話を簡単におさらいしておきましょう。
長安を出て、やっとのことで司隷・河東郡・安邑県にたどり着いた献帝は、太僕の韓融の説得により李傕・郭汜と和解し、草木の生い茂るあばら屋で政務を行いました。
ですがしばらくすると、元白波賊の首領・李楽と韓暹らは、増長して百官らを殴ったり罵ったりし、みだりに官職を濫発して、献帝に対しても粗末な食事を出すようになります。
一方その頃、董承と楊奉は、人を遣って洛陽の宮殿を修理させておき、献帝が洛陽にお帰りになることを希望しましたが、李楽は、
「貴様らは天子(献帝)をお連れするが良い。俺はここにいる」
と反対しました。この時李楽は、秘かに李傕・郭汜と手を組んで献帝を手込めにしようと計画していたのです。
ですが、董承・楊奉・韓暹らは李楽を警戒して夜のうちに献帝を守って洛陽を出発したので、李楽は李傕・郭汜の軍が到着するのを待たず、自ら手勢を率いて追撃に出ます。
そして、箕山の麓で献帝一行に追いついた李楽は、
「止まれ止まれ、李傕・郭汜、ここにありっ!」
と叫びました。
うんうん、思い出したっ!
もう誰を信じたら良いか分からなくなってくるね。
そうですね。一息ついたのも束の間、献帝はまた追われる立場になってしまいました。
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【049】李傕・郭汜と和解し、安邑県に入った献帝と李楽の裏切り
李楽の死
では、今回のお話を始めましょう。
李楽が軍勢を引き連れ「李傕・郭汜が追撃に来た」と偽ったので、献帝は殊のほか驚かれましたが、楊奉は、
「あれは李楽でございます」
と言い、徐晃に命じて戦わせます。
李楽は自ら打って出ましたが、馬が馳せ違うとたった1合で徐晃に斬って落とされたので、残りの兵たちも散々に追い散らされました。
その後、献帝の一行が箕関を通り過ぎると、太守の張楊が食糧や反物の類を用意して、軹道まで出迎えます。
献帝は張楊を大司馬に封ぜられたので、張楊はお暇乞いをして野王県の陣営に戻って行きました。
もう徐晃がいれば何も恐くないんじゃないか?(笑)
あれ?大司馬って李傕さんが任命されたんじゃ…。
そういえば、李傕が大司馬に任命されてから、事態が大きく動いたんだったね。
そうですねっ!
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【047】郭汜が公卿を捕虜にし、賈詡が献帝のために秘策を授ける
洛陽の惨状
その後は行く手を遮る者もなく、献帝一行は洛陽に到着しました。
洛陽に着いてみると、宮殿はすべて焼失し、町々も荒れ果てて一面の焼け野原となり、御殿の跡には崩れ落ちた土塀ばかりが残っている有様でした。
献帝は楊奉に命じて小さな宮殿を建てさせて、そこにお住まいになりましたが、百官があいさつに来ても、みな荊の中に並んで立っていました。
また、献帝は詔を下して興平の年号を改元して建安元年(196年)としました。
この年はまたもや不作で、洛陽の民は数百戸に過ぎませんでしたが、それでも食べ物が足りず、城外に出て木の皮を剥ぎ、草の根を掘り返して飢えをしのいでいました。
これは尚書・侍郎以下の官人たちも例外ではなく、全員で城外に薪を取りに出ましたが、崩れた土塀の隙間で死亡した者も数多くいました。
悲惨だなぁ…。
ここからの復興は大変だけど、李傕さんたちに虐げられているより希望がありますよね。
そうですねっ!
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李傕・郭汜の来襲
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曹操に使者を送る
さて、太尉の楊彪が献帝に次のように奏上しました。
「前に勅命が下された後、音沙汰はありませんでしたが、曹操は山東(東中国)を住処とし、数十万の兵を集めたと聞いています。彼に宣旨を下して入朝させ、皇室を補佐させましょう」
すると献帝は、
「朕は既に勅命を下しているのに、重ねて奏する必要はない。直ちに使者を立てるが良いではないか」
と言うので、楊彪はかしこまって、即座に使者を出して「曹操に上洛するように」との勅命を伝えさせました。
おぉ〜っ!やっとですねっ!
元々曹操を長安に呼んで、李傕・郭汜を倒す計画だったからな。
そのために2人を争わせたんだけど、大変なことになっちゃいましたねっ!
ボヤボヤしてるとまた李傕・郭汜が来るし(笑)
そうですねっ!
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曹操、洛陽に向かう
さて、その頃曹操はと言うと…。
この時曹操は山東(東中国)にいましたが、「献帝がすでに洛陽に還っている」ことを聞くとすぐに参謀たちを集めます。
すると、荀彧が進み出て言いました。
「昔、晋の文公は周の襄王を守り立てたため、諸侯が付き従い、漢の高祖は楚の義帝のために喪を発してから、天下もこれになびいたのでございます。
今、天子(献帝)が逆臣のために苦しめられています。もし将軍(曹操)が忠義の兵を挙げ、天子(献帝)を奉じて人々の願望に応えるならば、またとない大業と言えます。
ためらっていては、必ず誰かに先を越されてしまうでしょう」
これを聞いた曹操は大変喜んで、すぐに出陣の用意を命じます。
するとそこへ、突然勅使がやって来たので、曹操はこれを出迎えて勅書を受けると、日にちを定めて軍を出発させました。
ほぉ、曹操は勅使が来る前から行く気満々だったんだ。
曹操さんは今まで何してたんでしたっけ?
ちょうど呂布を徐州に敗走させて、兗州を平定したところです。
そうだったっ!今までは行きたくても行けなかったんですねっ!
呂布との停戦の間に、豫州(予州)の黄巾賊も平定してたね。
その通りです。曹操にとっては、一息ついたところにちょうど勅使がやって来た感じですね。
李傕・郭汜の来襲
さて洛陽では、献帝が使者の帰りを待ち焦がれていました。
この時まだ洛陽は城壁も所々崩れたままで、修理したくてもできずにいました。
そんなところへ、「李傕と郭汜が兵を率いて攻め寄せて来る」という報告があったので、驚いた献帝は楊奉にこう尋ねました。
「山東(曹操)に出した使者がまだ戻って来ないのに、李傕と郭汜の兵がまた攻め寄せて来ると言うが、一体どうすれば良いだろう」
すると楊奉と韓暹は、
「私どもが賊軍と命の限りに合戦いたし、陛下をお守りいたしますっ!」
と意気込んで答えましたが、これに董承が割って入り、
「城の構えは不完全、兵の数も不足しておりますのに、戦いが不利となった時にはいかがなされますか。
ここはまず、山東(曹操陣営)に向かわれてこの難を逃れるのが良いと存じます」
と行ったので、献帝は「もっともだ」と董承に同意され、その日のうちに山東(曹操陣営)を目指して出発することになりました。
馬がないので、百官たちは徒歩でお供します。
やっぱり来たかっ!
もう曹操さんも向かってるはずだから、頑張ってっ!
でもこっちには徐晃がいるから勝てたかも(笑)
いくら徐晃でも多勢に無勢、戦っても敵わなかったと思いますよ(笑)
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曹操軍の集結
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夏侯惇らと合流する
さて、献帝の一行が洛陽を出てすぐのことです。
一行の行く手に土煙が立ち上り、鐘・太鼓の音が天を振るわせて無数の人馬が進んで来るのが見えました。
遅かったかっ!
待ってっ!行く手ってことは、山東方面からですよねっ!
献帝も皇后も、恐怖で声を出すこともできずにいましたが、前方から1人の騎馬武者が飛ぶように駆けて来て、献帝の御車の前で平伏します。この者こそ、山東に遣わした使者でした。
この者が申し上げるには、
「曹将軍(曹操)には山東の兵を残らず打ち立って、勅命に応じておいでになりましたが、李傕・郭汜が洛陽の都に攻め寄せたと聞いて、夏侯惇を先手として、10人の大将、精兵5万を従えて陛下をお守りに参ったところでございます」
とのことだったので、献帝も皇后もようやく安心されました。
しばらくして夏侯惇は、許褚・典韋らを従えて御車の前に罷り越し、
「甲冑を身につけておりますゆえ、平伏することは難しゅうございます。軍礼をもって見参いたしまする」
と言い「万歳」を叫びます。
献帝は彼らの労をねぎらいました。
おぉ〜っ!曹操軍の最強トリオだっ!
やっぱり曹操軍でしたねっ!良かった(笑)
どうやら間に合ったようですねっ!
李傕・郭汜軍を破る
献帝が彼らの労をねぎらっているところへ、真東からも一手の軍勢がやって来るとの報告がありました。
献帝がまた わずかに取り乱されたので、夏侯惇が馬を飛ばして物見に出て、
「陛下、ご安心ください。あれは曹操の歩兵が到着したのでございます」
と報告しました。
程なく曹洪・李典・楽進らが献帝の御前に参ってあいさつを済ませると、曹洪は、
「臣(曹洪)の兄(曹操)は、賊軍の近づいたことを聞き、夏侯惇1人では勝利を得られないのではと恐れ、臣(曹洪)らに先を急がせて援兵に向かわせたのでございます」
と申し上げます。
これに献帝は、
「曹将軍(曹操)は真に国家の柱石じゃ」
と言い、御車を守護して進むように命じました。
するとそこへ、
「李傕・郭汜が大軍を率いてはるばる押し寄せて参りましたっ!」
と斥候(偵察隊)の報告が入ったので、献帝は夏侯惇に、2手に分かれて迎え撃つように命じます。
そこで夏侯惇は曹洪と左右両翼に分かれ、騎兵を先陣とし、歩兵がその後衛となって力の限り攻め立てたました。
これに李傕・郭汜の兵は散々に打ち負かされ、1万余りの首を討ち取りました。
そして夏侯惇は、献帝に「ひとまず洛陽の御殿にお帰りになるよう」に請い、夏侯惇は城外に陣取りました。
遅いわっ!李傕・郭汜なんて敵じゃあないよっ!
そうか、もう洛陽に戻っても大丈夫なんだ。
そうですねっ!
曹操の到着
次の日、曹操が大軍を率いて洛陽に到着します。
曹操は城外に陣営を構えると、洛陽に入城して献帝に拝謁し、御殿の階段の下に平伏しました。すると献帝は曹操に殿上にのぼるように命じて、たくさんの慰労の言葉をかけます。
曹操は、
「私はこれまで国家の大恩を受け、つねづねご恩返しをしたいと思っておりましたところに、李傕・郭汜の逆賊はもはや悪運尽き果てました上、私の部下の精兵20万、『順』をもって『逆』を打てば、勝利を得ぬはずはございません。
願わくば、玉体(皇帝の体)安穏(おだやか)に、国家の前途をご覧くださいますように」
と申し上げたので、献帝は曹操に司隷校尉を兼ねさせ、司令官のしるしの節と鉞(まさかり)を与えて、さらに録尚書事をも兼ねさせました。
おぉ〜、曹操さんも来たっ!
こんなに来て、兗州は大丈夫か?(笑)
えっと、司隷校尉は司隷の長官ですよね。録尚書事っていうのは?
録尚書事は詔や上奏文を扱う尚書を統括する役職で、主に天子(皇帝)を補佐する最高権力者に加えられました。
なるほど、すごいっ!これでやっと献帝さんも安心ですねっ!
でも、この曹操もなぁ…(笑)
追って来た李楽を討ち、ついに洛陽に入った献帝は、曹操に補佐をするように命じる使者を出しました。
献帝の使者を迎えた曹操はすぐに洛陽に向けて出発しますが、曹操の到着を待たずに、李傕と郭汜が洛陽に攻め寄せて来ます。
そして、洛陽にいては守りきれないと判断した献帝が洛陽を棄てて曹操の元に向かうと、途中、曹操軍の夏侯惇らと合流。李傕と郭汜を撃ち破ったので、献帝は洛陽に戻ることができました。
この功績により、献帝は曹操に司隷校尉と録尚書事を兼ねさせました。
次回は、曹操が献帝を許都に迎えます。