兗州(えんしゅう)をほぼ手中に収(おさ)めた曹操(そうそう)が最後に残った雍丘県(ようきゅうけん)を包囲すると、これを救援しようとする臧洪(ぞうこう)と、それを許さない袁紹(えんしょう)の間に亀裂が生じました。 雍丘県(・・・
「袁術」タグの記事一覧(12 / 22ページ目)
孫策の江東進出。袁術の下を離れた孫策が劉繇を破って呉郡に入る
孫策(そんさく)の江東(こうとう)平定の前半戦。袁術(えんじゅつ)の下を離れた孫策(そんさく)が劉繇(りゅうよう)を破り、呉郡太守(ごぐんたいしゅ)・許貢(きょこう)を逃亡させるまでについてまとめています。
袁紹はなぜ献帝を鄴に迎えなかったのか
興平(こうへい)2年(195年)7月、献帝(けんてい)が長安(ちょうあん)を出て東に向かい、司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)を都に定めたことを受け、袁紹(えんしょう)は使者として郭図(かくと)・・・
曹操の兗州平定。曹操に敗れた呂布が徐州の劉備を頼る
興平(こうへい)2年(195年)春、先年の蝗害(こうがい)により停戦していた曹操(そうそう)が再度兗州(えんしゅう)奪還に動きだし、兗州(えんしゅう)を平定するまでについてまとめています。
【三国志年表詳細】194年の主な出来事と三国志群雄勢力図
194年【漢:興平(こうへい)元年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
袁術の誤算。孫策に命じた陸康攻撃と揚州刺史・劉繇との衝突
孫堅(そんけん)死後の孫策(そんさく)の動向と、徐州(じょしゅう)の攻略を目指す袁術(えんじゅつ)と揚州刺史(ようしゅうしし)・劉繇(りゅうよう)が戦うことになった経緯についてまとめています。
「陶謙伝」悪人か善人か?劉備に徐州を譲った老将の評価
『三国志演義(さんごくしえんぎ)』では、民の安寧(あんねい)を願うだけの好好爺(こうこうや)のように描かれ、正史(せいし)『三国志(さんごくし)』を編纂(へんさん)した陳寿(ちんじゅ)の評では「論評に値しない」と酷評(こ・・・