後漢末期の冀州が管轄する郡(領郡)と、それぞれの郡が管轄する県(領城)の詳細地図です。
三国時代[魏の景元3年(262年)]の冀州の地図はこちら
【三国志地図】「冀州(きしゅう)」の郡県詳細地図(三国時代)
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目次
冀州刺史部の領郡
冀州(きしゅう)の場所
冀州の場所
冀州(きしゅう)の領郡地図
冀州の領郡
戸数 / 人口
908,005戸 / 5,931,919人
領郡
魏郡、鉅鹿郡、常山国、中山国、安平国、河間国、清河国、趙国、勃海郡の9郡。
州治所
常山国・高邑県
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冀州各郡の領県
魏郡(ぎぐん)
魏郡の場所
魏郡は高帝(劉邦)が置いたのが始まりで、洛陽(雒陽)の東北700里に位置します。
魏郡の領城地図
魏郡の領城
戸数 / 人口
129,310戸 / 695,606人
領城
鄴県、繁陽県、内黄県、魏県、
元城県、黎陽県、陰安邑、館陶県、
清淵県、平恩県、渉侯国(沙侯国)、斥丘県、
武安県、曲梁侯国、梁期県の15城。
郡治所
鄴県
特記事項
- 鄴県には汙城、平陽城、武城、九侯城があり、滏水、汙水、もとの大河があります。
- 内黄県には羛陽聚があり、黄澤、清河水が流れ出ています。
- 元城県は五鹿の墟で、もとの沙鹿であり、沙亭があります。
- 斥丘県は葛を産出します。
- 武安県は鉄を産出します。
- 曲梁侯国には雞澤があります。もとは広平郡に属しました。
鉅鹿郡(きょろくぐん)
鉅鹿郡の場所
鉅鹿郡は秦が置いたのが始まりで、建武13年(37年)に広平国が廃され鉅鹿郡に属しました。洛陽(雒陽)の北1,100里に位置します。
鉅鹿郡の領城地図
鉅鹿郡の領城
戸数 / 人口
109,517戸 / 602,096人
領城
癭陶県(廮陶県)、鉅鹿県、楊氏県、
鄡県、下曲陽県、任県、南和県、
広平県、斥章県、広宗県、曲周県、
列人県、広年県、平郷県、南䜌県の15城。
郡治所
廮陶県
特記事項
- 廮陶県には薄落亭があります。
- 鉅鹿県はもとの大鹿で、大陸澤があります。
- 下曲陽県には鼓聚(もと翟の鼓子国)と昔陽亭があります。
- 広宗県の東に界橋があります。
常山国(じょうざんこく)
常山国の場所
常山国は高帝(劉邦)が置いたのが始まりで、建武13年(37年)に真定国が廃され常山国に属しました。
常山国の領城地図
常山国の領城
戸数 / 人口
97,500戸 / 631,184人
領城
元氏県、高邑県、都郷侯国、南行唐県、
房子県、平棘県、欒城県、九門県、
霊寿県、蒲吾県、井陘県、真定県、
上艾県の13城。
郡治所
元氏県
特記事項
- 高邑県には千秋亭と五成陌があり、もとの鄗で光武帝が改名しました。また、光武帝はここで即位しました。
- 都郷侯国は鉄を産出します。
- 南行唐県には石臼谷があり
- 房子県には贊皇山があり、濟水が流れ出ています。
- 平棘県には塞があります。
- 霊寿県は衛水が流れ出ています。
- 上艾県は、もとは太原郡に属しました。
※ 都郷侯国の位置は調査中です。
中山国(ちゅうざんこく)
中山国の場所
中山国は高帝(劉邦)が置いたのが始まりで、洛陽(雒陽)の北1,400里に位置します。
中山国の領城地図
中山国の領城
戸数 / 人口
97,412戸 / 658,195人
領城
盧奴県、北平県、毋極県、新市県、
望都県、唐県、安国県、安熹県、
漢昌県、蠡吾侯国、上曲陽県、蒲陰県、
広昌県の13城。
郡治所
盧奴県
特記事項
- 北平県は鉄を産出します。
- 新市県はもとは国(子姓)で、鮮虞亭があります。
- 唐県には中人亭と左人郷があります。
- 安熹県はもとの安険で章帝が改名しました。
- 蠡吾侯国はもとは涿郡に属しました。
- 上曲陽県の北西に恒山があります。もとは常山国に属しました。
- 蒲陰県には陽城があります。もとの曲逆で章帝が改名しました。
- 広昌県はもとは代郡に属しました。
安平国(あんぺいこく)
安平国の場所
安平国は高帝(劉邦)が置いたのが始まりで、もとの信都郡です。その後、明帝が楽成と名付けましたが、延光元年(122年)に改名されました。洛陽(雒陽)の北2,000里に位置します。
安平国の領城地図
安平国の領城
戸数 / 人口
91,440戸 / 655,118人
領城
信都県、阜城県、南宮県、扶柳県、
下博県、武邑県、観津県、経県、
堂陽県、武遂県、饒陽県、安平県、
南深澤(南深国)の13城。
郡治所
信都県
特記事項
- 信都県には絳水と呼沱河があります。
- 阜城県はもとの昌城です。
- 経県には西に漳水があり、渡し場の薄落津があります。
- 堂陽県はもとは鉅鹿郡に属しました。
- 武遂県はもとは河間国に属しました。
- 饒陽県には無蔞亭があります。もとは饒と呼ばれ、涿郡に属しました。
- 安平県はもとは涿郡に属しました。
- 南深澤(南深国)はもとは涿郡に属しました。
河間国(かかんこく)
河間国の場所
河間国は文帝が置いたのが始まりで、世祖(光武帝)によって廃され、信都郡に属しましたが、永元2年(90年)に和帝によって元に戻されました。洛陽(雒陽)の北2,500里に位置します。
河間国の領城地図
河間国の領城
戸数 / 人口
93,754戸 / 634,421人
領城
楽成県、弓高県、易県、武垣県、
中水県、鄚県、高陽県、文安県、
束州県、成平県、東平舒県の11城。
郡治所
楽成県
特記事項
- 易県はもとは涿郡に属しました。
- 武垣県はもとは涿郡に属しました。
- 中水県はもとは涿郡に属しました。
- 鄚県はもとは涿郡に属しました。
- 高陽県には葛城があります。もとは涿郡に属しました。
- 文安県はもとは勃海郡に属しました。
- 束州県はもとは勃海郡に属しました。
- 成平県はもとは涿郡に属しました。
- 東平舒県はもとは勃海郡に属しました。
清河国(せいがこく)
清河国の場所
清河国は高帝(劉邦)が置いたのが始まりで、建和2年(148年)に桓帝が甘陵に改名しました。洛陽(雒陽)の北1,280里に位置します。
清河国の領城地図
清河国の領城
戸数 / 人口
129,964戸 / 760,418人
領城
甘陵県、貝丘県、東武城県、鄃県、
霊県、繹幕県、広川県の7城。
郡治所
甘陵県
特記事項
- 甘陵県はもとの厝で、安帝が改名しました。
- 霊県は、和帝の永元9年(97年)に復しました。
- 広川県には棘津城があります。もとは信都郡に属しました。
趙国(ちょうこく)
趙国の場所
趙国は秦の邯鄲郡が始まりで、高帝(劉邦)が改名しました。洛陽(雒陽)の北1,100里に位置します。
趙国の領城地図
趙国の領城
戸数 / 人口
32,719戸 / 188,381人
領城
邯鄲県、易陽県、襄国県、柏人県、
中丘県の5城。
郡治所
邯鄲県
特記事項
- 邯鄲県には叢台があります。
- 襄国県には檀台、蘇人亭があります。もとの邢国で、秦は信都としましたが、のちに項羽が改名しました。
勃海郡(ぼっかいぐん)
勃海郡の場所
勃海郡は高帝(劉邦)が置いたのが始まりで、洛陽(雒陽)の北1,600里に位置します。
勃海郡の領城地図
勃海郡の領城
戸数 / 人口
132,389戸 / 1,106,500人
領城
南皮県、高城侯国、重合侯国、浮陽侯国、
東光県、章武県、陽信県、脩県の8城。
郡治所
南皮県
特記事項
- 東光県には胡蘇亭があります。
- 陽信県は、延光元年(122年)に復しました。
- 脩県は、もとは信都郡に属しました。
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