170年【漢:建寧けんねい3年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

スポンサーリンク

170年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉宏りゅうこう霊帝れいてい
皇太后 竇太后とうたいごう桓思竇皇后かんしとうこうごう
皇后

朝廷

官職 人物
太傅たいふ 胡広ここう
司徒しと 許訓きょくん
司空しくう 劉囂りゅうごう橋玄きょうげん
太尉たいい 郭禧かくき聞人襲ぶんじんしゅう
執金吾しつきんご 董寵とうちょう(〜9月)
五官中郎将ごかんちゅうろうしょう 董重とうちょう
使匈奴中郎将しきょうどちゅうろうしょう 張奐ちょうかん
度遼将軍とりょうしょうぐん 皇甫規こうほき
破羌将軍はきょうしょうぐん 段熲だんけい

地方官

官職 人物
玄菟太守げんとたいしゅ 公孫琙こうそんよく
丹陽太守たんようたいしゅ 陳夤ちんいん
鬱林太守うつりんたいしゅ 谷永こくえい


スポンサーリンク


170年の主な出来事

出来事
1月
  • ひど飢饉ききんが起こり、河内郡かだいぐんで妻が夫を食い、河南郡かなんぐんで夫が妻を食う。
3月
  • 日食が起こる。
  • 東羌とうきょうを平定した段熲だんけい洛陽らくように戻されて侍中じちゅうに任命される。
4月
  • 太尉たいい郭禧かくき罷免ひめんされ、太中大夫たいちゅうたいふ聞人襲ぶんじんしゅう太尉たいいに任命される。
7月
  • 司空しくう劉囂りゅうごう罷免ひめんされる。
8月
  • 大鴻臚だいこうろ橋玄きょうげん司空しくうに任命される。
9月
  • 執金吾しつきんご董寵とうちょうが投獄されて獄中で死亡する。
  • 済南国せいなんこくで賊が蜂起し、東平陵県とうへいりょうけんを攻める。
  • 鬱林太守うつりんたいしゅ谷永こくえいが恩徳と威信によって烏滸おこの民10余万人を帰順させる。
  • 宋鄷そうほうの娘・宋氏そうし掖庭えきてい(後宮)に入り貴人きじんとなる。


スポンサーリンク


170年の三国志群雄勢力図

170年の三国志群雄勢力図

凡例

建寧けんねい3年(170年)の三国志群雄勢力図

170年の情勢

170年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。

特記事項

大規模な飢饉

1月、河内郡かだいぐん河南郡かなんぐんで大規模な飢饉がありました。

このような場合、桓帝かんていの治世であれば、広く意見を求めて民衆を救済する施策を実施していましたが、何らかの救済が行われた記録はありません。

執金吾しつきんご董寵とうちょうが獄死

董寵とうちょうは、霊帝れいていの母・孝仁皇后こうじんこうごう董太后とうたいごう)の兄にあたる人物で、霊帝れいていが即位して孝仁皇后こうじんこうごう永楽宮えいらくきゅうに迎えられると執金吾しつきんごに任命されました。

董寵とうちょうは、孝仁皇后こうじんこうごうの名をかたって罪(贈収賄?)を犯していたことが発覚し、投獄されて獄死しました。

烏滸おこの民

烏滸おこ烏滸蛮おこばん)とは中国大陸の南方に住む異民族のことで、後漢書ごかんじょ霊帝紀れいていぎの注に引く広州記こうしゅうきには「食人と鼻から水を飲む風習がある」と記されています。

ですが、当時の漢民族は「辺境の異民族は野蛮である」という先入観を持っていますので、どこまで本当かは分かりません。


170年【建寧けんねい3年】は、大きな出来事が少ない1年でした。

この年、のち霊帝れいてい皇后こうごうとなる宋氏そうし掖庭えきてい(後宮)に入り、貴人きじんとなっています。また、この宋氏そうしは、167年に勃海王ぼっかいおうに復帰した劉悝りゅうかいきさきの一族でした。

他の年を見る場合はこちら

三国志年表