正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(89)韓非(かんぴ)(韓非子(かんぴし))です。

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凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次

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か(89)韓非(韓非子)

韓非(韓非子)

韓非(かんぴ)(韓非子(かんぴし))

生年不詳〜韓王安(かんおうあん)の6年(紀元前233年)没。韓(かん)の諸公子(こうし)。

学問の志向

刑名(けいめい)*1・法術(ほうじゅつ)の学を好んだが、黄老(こうろう)(黄帝(こうてい)・老子(ろうし))の学に帰着した。

韓非(かんぴ)は口吃(こうきつ)(どもり)だったので弁舌は不得手としていたが、よく書物を著(あらわ)した。

李斯(りし)と共に荀卿(じゅんけい)(荀子(じゅんし))に師事したが、師の荀卿(じゅんけい)自身も「才能では韓非(かんぴ)に及ばない」と思っていた。

脚注

*1名と実が一致しているかどうかを窮極(きゅうきょく)まで追究することを、国を治めるための主眼とする考え方。戦国(せんごく)時代の申不害(しんふがい)、商鞅(しょうおう)、韓非(かんぴ)らが主張した学説。

『韓非子』を著す

韓(かん)の国土が削(けず)り弱められているのを見る度(たび)に、韓非(かんぴ)はしばしば書簡をもって韓王(かんおう)を諫(いさ)めたが、韓王安(かんおうあん)は韓非(かんぴ)の意見を採用しなかった。

こうしたことから韓非(かんぴ)は、

「為政者(いせいしゃ)が国を治めるために、法制を明らかにし、権力で臣下を制御し、国を富(と)まし兵を強くし、人材を求めて賢人を用(もち)いることに務(つと)めないばかりか、反対に軽薄で淫(みだ)らな蠹(と)(木食い虫)を用(もち)い、しかも彼らを功労や実績のある者の上位に置いている」

ことを苦々(にがにが)しく思い、また、

「儒者(じゅしゃ)は文を用(もち)いて法を乱し、俠者(きょうしゃ)(遊侠(ゆうきょう)の徒(と))は武をもって禁を犯(おか)している。泰平無事な時には名声ある文人を寵用(ちょうよう)するのも良いが、国家危急の時には甲冑(かっちゅう)の武人を任用するべきである。今は国家危急の時であるのに、国家は役に立たない者を養い、役に立つ者を用(もち)いない」

と思っていた。

こうして韓非(かんぴ)は、廉直(れんちょく)(行いが潔白で正直)な人物が邪(よこしま)で枉(ま)がった臣下のために用(もち)いられないことを悲しみ、過去の時代の成功と失敗の変化を観察して、「孤憤(こふん)」「五蠹(ごと)」「内外儲(ないがいちょ)」「説林(ぜいりん)」「説難(ぜいなん)」などの諸篇、10余万字に及ぶ書を著(あらわ)した。これが『韓非子(かんぴし)』である。

韓非(かんぴ)が遊説(ゆうぜい)の困難さを知って著(あらわ)した「説難篇(ぜいなんへん)」は、そのことについてとても詳しく書かれているが、彼自身は遊説(ゆうぜい)の甲斐(かい)なく禍(わざわい)を免(まぬか)れることができず、秦(しん)において命を落とすこととなった。

『韓非子(かんぴし)』説難篇(ぜいなんへん)
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「説難篇(ぜいなんへん)」には次のように述(の)べられている。(原文に「見出し」はありません)

遊説(ゆうぜい)の困難さ

凡(およ)そ遊説(ゆうぜい)の困難さとは、自分の知識をもって相手を説得することの困難さではなく、また自分の弁舌をもって相手に自分の意志を徹底させたり、自分が縦横無尽に語り尽くすことの困難さでもない。

凡(およ)そ遊説(ゆうぜい)の困難さとは、相手の心情を洞察し、相手の心情に自分の意見をうまく当てはめることの困難さである。

相手が高い名声を求めているのに大きな利益が得られると説(と)けば、俗物(ぞくぶつ)として卑(いや)しめられ、必ず遠ざけられる。逆に相手が大きな利益を求めているのに高い名声が得られると説(と)けば、見識がなく世俗に疎(うと)いと見なされて、決して用(もち)いられることはない。

相手が内心大きな利益を求めながら、表面的には高い名声を求めている場合、これに高い名声が得られると説(と)けば、表面では用(もち)いる振りをしても内心では秘かに疎(うと)んじる。逆に大きな利益が得られると説(と)けば、内心秘かにその言葉を受け入れながらも表面ではその者を遠ざける。

このような機微(きび)(心の微細な動き)をこそ、よく知っておかなければならない。


そもそも物事は、秘密が保持されることによって成功し、言葉の漏洩(ろうえい)によって失敗するものである。

遊説者(ゆうぜいしゃ)は、ともすると(君主が)心に秘めている事柄に言及することがあるが、このような者は命が危(あや)うい。

また貴人(貴族)に小さな過失がある場合、遊説者(ゆうぜいしゃ)が殊更(ことさら)に正論を言い立ててその落ち度を追求しようとすれば、やはり命が危(あや)うい。

遊説者(ゆうぜいしゃ)が、まだ(君主の)厚い恩情に浴(よく)してもいないのに知恵を尽くして語ったならば、その主張が実行されて功績を上げても遊説者(ゆうぜいしゃ)の徳とはされず、(主張が)実行されずに失敗すれば、(何か邪魔をしたのではないかと)疑われる。このような者もまた命が危(あや)うい。

また、貴人(貴族)が(他人から)計(はかりごと)を得て功績を上げようとしている場合、遊説者(ゆうぜいしゃ)がその計(はかりごと)を知っていたならば、命が危(あや)うい。

(君主が)表ではあることを行うように装(よそお)い、裏では別のことを行おうとしている場合、遊説者(ゆうぜいしゃ)がそのことを知ってしまうと命が危(あや)うい。

人がとてもできないと思っていることを強制したり、止(や)めたくないと思っていることを止(や)めさせようとすると、命が危(あや)うい。

ゆえに、


大人(君主)に対して名君・賢主について論ずれば「(名君と比較して)自分(君主)を非難している」と勘(かん)ぐられ、細人(つまらない人物)について論ずれば「自分(遊説者(ゆうぜいしゃ))を売り込んでいる」と看做(みな)される。

君主が寵愛(ちょうあい)する者について論ずれば「(君主が寵愛(ちょうあい)する者を)利用して取り入ろうとしている」と思われ、君主が憎(にく)む者について論ずれば「自分(君主)を試している」と思われる。

言葉を飾らず省略して簡潔に表現すれば「無知な者」として侮(あなど)られ、溢(あふ)れる言葉を尽くし、他の事柄を引いて証拠立てれば「冗長(じょうちょう)だ」と思われる。

事柄に順応して意見を述(の)べれば「臆病ゆえに自説を語り尽くさない」と言われ、事柄を広く捉(とら)えて自由に自説を述(の)べれば「横柄(おうへい)で傲慢(ごうまん)だ」と言われる。


これらが遊説(ゆうぜい)の困難さであると、心得ておくべきである。

遊説(ゆうぜい)の秘訣

凡(およ)そ遊説(ゆうぜい)の秘訣は、相手の君主の誇(ほこ)りを満足させ、その恥じるところに触れないことにある。

君主が自分の計(はかりごと)に自信を持っている場合は、その計(はかりごと)の欠点を指摘してはならない。

君主が自分で勇気ある決断をしたと自認している場合は、それに盾突いて怒らせてはならない。

君主が自分の実力を高く評価している場合は、その困難さを指摘して(君主の)意気を挫(くじ)いてはならない。

君主と同じ計(はかりごと)を持つ者がいればその者を誉(ほ)めそやし、君主と同じ失敗をした者がいれば「それは失敗ではない」と取り繕(つくろ)うべきである。


この上もない忠義によって逆らわず、君主の言葉に対して攻撃や排斥をせず、その後に自分の意見や知識を披露する。これこそが君主に親しまれ、疑われずに自説を語り尽くせるようになるための秘訣である。

そうして長い月日を経(へ)て君主の恩情が厚くなった後(のち)であれば、深く立ち入って計(はか)っても疑われず、君主と言い争って諫言(かんげん)しても罰せられないようになり、利害を明らかにして計(はか)って功績を立て、是非(ぜひ)を直言して我が身に錦(にしき)を飾(かざ)ることができるだろう。

このようにして、君主と臣下が互いに損(そこ)なうことがない信頼関係を築くことができれば、遊説者(ゆうぜいしゃ)の成功である。


殷(いん)の湯王(とうおう)の宰相(さいしょう)・伊尹(いいん)が料理人となり、秦(しん)の穆公(ぼくこう)の宰相(さいしょう)・百里奚(ひゃくりけい)が奴隷となったのは、みなこれを手段として君主に任用を求めたのである。この2人はいずれも聖人でありながら尚(なお)、世を渡るために身を汚(けが)したのであるから、なんら恥じることはない。

富豪の隣人と関其思(かんきし)

宋(そう)の国に1人の富豪がいたが、雨が降って彼の屋敷の牆(しょう)(垣根)が壊れた時のこと。

彼の子は「垣根を修理しないと盗賊が入って来ます」と言い、隣人の男(鄰人之父)も同じように忠告した。日が暮れると、彼らの言った通り盗賊の被害に遭(あ)って大きな財産を失ったが、その家では富豪の子を「とても賢い子だ」と称賛したが、隣人の男には疑いの目を向けた。


昔、鄭(てい)の武公(ぶこう)は、胡(こ)(北方異民族)を征伐しようとして自分の娘を胡(こ)の君主に娶(めあわ)せ、群臣に「吾(わたし)が出兵するなら誰を征伐するべきだろうか」と問(と)うた。

この時、関其思(かんきし)という者が「胡(こ)を征伐すべきです」と答えたが、武公(ぶこう)は「胡(こ)は兄弟の国である。子(おまえ)はなぜ『胡(こ)を征伐せよ』などと言うのか?」と言い、関其思(かんきし)を誅殺(ちゅうさつ)した。その後、これを伝え聞いた胡(こ)の君主が「鄭(てい)に対する防備」をしなくなると、鄭(てい)は胡(こ)を襲撃してその国を奪った。


この2人(隣人の男と関其思(かんきし))は共に正当な発言をしただけだが、酷(ひど)い例では処刑され、少なくとも嫌疑をかけられた。知恵を出すことが困難なのではなく、知恵の用(もち)い方が困難なのである。

衛(えい)の霊公(れいこう)の寵臣(ちょうしん)・弥子瑕(びしか)

昔、弥子瑕(びしか)という者が衛(えい)の君主・霊公(れいこう)に寵愛(ちょうあい)*2されていた。

衛(えい)の法律では「秘かに君主の車に乗った者は刖罪(げつざい)(足切りの刑)に処される」ことになっていたが、ある時、夜中に「母が病気になった」との知らせを受けた弥子瑕(びしか)は、偽(いつわ)って君主の車に乗り、宮門を出て母親を見舞った。

このことを聞いた霊公(れいこう)は「弥子瑕(びしか)は孝行者だ。母のために刖罪(げつざい)(足切りの刑)を犯すとはっ!」と言った。


またある時、弥子瑕(びしか)が霊公(れいこう)のお供をして果樹園で遊んだ時のこと。

弥子瑕(びしか)が一口桃を食べたところとても甘かったので、その食べさしを霊公(れいこう)に奉(たてまつ)った。すると霊公(れいこう)は「我(わたし)を愛してくれているのだな。自分が口をつけたことさえ忘れて、我(わたし)のためを思ってくれるとは」と言った。

やがて弥子瑕(びしか)の容姿が衰(おとろ)え、霊公(れいこう)の愛も冷めてしまうと、霊公(れいこう)は「この男はかつて偽(いつわ)って吾(わたし)の車に乗り、我(わたし)に食べさしの桃を食わせた不埒者(ふらちもの)である」と言って弥子瑕(びしか)を罪に問(と)うた。


弥子瑕(びしか)の行いは初めも後もの頃と変わっていないが、先には称賛されたことが後になって罪とされたのは、愛憎(あいぞう)が変わってしまったからである。

このように、主君に愛されている時は知恵が主君の求めに適(かな)ってますます親(した)しまれ、反対に憎まれている時は罪に当たるとしていよいよ疎(うと)まれるものであるから、諫言(かんげん)・遊説(ゆうぜい)の士は「主君の愛憎(あいぞう)の程度」を洞察(どうさつ)した上で説(と)く必要がある。


かの龍(りゅう)という蟲(ちゅう)(爬虫類(はちゅうるい))は、飼い慣(な)らせばその上に騎乗することができるが、喉(のど)の下に直径1尺(約23.1cm)ほどの逆鱗(げきりん)があり、人がこれに触れると必ずその者を殺すと言う。

主君にもまた逆鱗(げきりん)があり、遊説者(ゆうぜいしゃ)は主君の逆鱗(げきりん)に触れることがなければ、まずは成功に近づいたと言える。

脚注

*2ここで言う「寵愛(ちょうあい)」とは、霊公(れいこう)の男色相手としての寵愛(ちょうあい)を指す。

韓非の死

ある時、『韓非子(かんぴし)』を持って秦(しん)に来た者があった。その内の「孤憤(こふん)」「五蠹(ごと)」を見た秦王(しんおう)(後(のち)の始皇帝(しこうてい))が、「あぁ、寡人(わたし)はこの著者と会って交遊することができれば、死んでも悔(く)いはない」と言った。これに李斯(りし)が「これは韓非(かんぴ)が著(あらわ)した書物です」と言うと、秦王(しんおう)は「韓非(かんぴ)に会う手段」としてすぐさま韓(かん)を攻めた。韓(かん)の王安(おうあん)5年(紀元前234年)のことである。

韓王安(かんおうあん)はこれまで韓非(かんぴ)を用(もち)いてこなかったが、危急に及んで韓非(かんぴ)を使者として秦(しん)に派遣した。

秦王(しんおう)は韓非(かんぴ)が来たことを喜んだが、まだ彼を信用して登用するには至らなかった。この時、李斯(りし)・姚賈(ようか)らは「韓非(かんぴ)が用(もち)いられるようになれば、自分たちに不利となる」と思い、彼を謗(そし)って言った。


「韓非(かんぴ)は韓(かん)の公子(こうし)の末流です。今、王(おう)(秦王(しんおう))は諸侯(しょこう)を併呑(へいどん)しようと望まれておりますが、韓非(かんぴ)を登用しても結局は韓(かん)のために働き、秦(しん)のためにはならないでしょう。

これは人の情というもので、今、王(おう)(秦王(しんおう))が韓非(かんぴ)を登用せず、長らく留(とど)め置いたうえで帰されてしまうと、後(のち)に禍根(かこん)を残すことになります。酷法(こくほう)に照らして誅殺(ちゅうさつ)するべきです」


秦王(しんおう)は「その通りだ」と思い、韓非(かんぴ)を下吏(かり)に引き渡した。そこで李斯(りし)は、人を遺(や)って韓非(かんぴ)に毒薬を届けさせ、自殺させようとした。韓非(かんぴ)は「秦王(しんおう)に直接弁解したい」と願ったが、謁見することはできなかった。

秦王(しんおう)は後(のち)にこれを後悔し、使者を派遣して赦免(しゃめん)しようとしたが、韓非(かんぴ)はすでに死んでいた。


申子(しんし)*3と韓子(かんし)(韓非(かんぴ))はいずれも書物を著(あらわ)し、後世に伝えられてこれらを学ぶ者が多かった。

脚注

*3戦国(せんごく)時代の法家(ほうか)の思想家・申不害(しんふがい)のこと。


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