正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(88)東周とうしゅう韓氏かんし春秋しゅんじゅう時代のしん大夫たいふから国を建て、戦国せんごくの七雄の1つに数えられるようになった韓氏かんし)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

東周韓氏系図

東周韓氏系図

東周とうしゅう韓氏かんし系図


この記事では東周とうしゅう韓氏かんしの人物、

についてまとめています。

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か(88)東周韓氏

第1世代[韓原武子(韓武子)]

韓原武子かんげんぶし韓武子かんぶし

生没年不詳。

かんしん大夫たいふ韓氏かんしが建てた国)の祖先はしゅうと同姓の姫氏きしである。

その後裔こうえいしんに仕え、韓原かんげんに封ぜられた。これが韓武子かんぶしで、韓武子かんぶしの3代後の韓厥かんけつが、封地の名を取って韓氏かんしを名乗るようになった。


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第4世代[韓献子(韓厥)]

韓献子かんけんし韓厥かんけつ

生没年不詳。曽祖父そうそふ韓原武子かんげんぶし韓武子かんぶし)。子に韓穆子かんぼくし韓無忌かんむき)、韓宣子かんせんし韓起かんき)。

しん景公けいこう3年(紀元前597年)、しん司寇しこう屠岸賈とがんかは、霊公れいこう弑逆いぎゃく(殺害)したぞく趙盾ちょうとん誅殺ちゅうさつしようとして乱を起こしたが、目的を達する前に趙盾ちょうとんが死んでしまった。すると屠岸賈とがんか趙盾ちょうとんの子・趙朔ちょうさく誅殺ちゅうさつしようとしたので、韓厥かんけつはこれを止めたが、屠岸賈とがんかは聴き入れなかった。

そこで韓厥かんけつは、そのことを趙朔ちょうさくに告げて亡命させようとしたが、趙朔ちょうさくは「あなたが『絶対に趙氏ちょうし祭祀さいしを絶やさない』と約束してくださるなら、死んでもうらみはありません」と言ったので、韓厥かんけつはそれを承諾した。

その後、屠岸賈とがんか趙氏ちょうし趙朔ちょうさく)を誅殺ちゅうさつすると、韓厥かんけつは病気と称して引きもった。また、程嬰ていえい公孫杵臼こうそんしょきゅう趙氏ちょうしの孤児・趙武ちょうぶかくまっていたが、韓厥かんけつはそのことを知っていた。


しん景公けいこう11年(紀元前589年)、韓厥かんけつ郤克げきこくと共に8百じょうの兵をひきいてせいち、せい頃公けいこうあんで破って逢丑父ほうちゅうほを捕らえた。こうしてしん六卿りっけいもうけ、韓厥かんけつはその内の1つのけいの位を得て、献子けんし韓献子かんけんし)と号した。


しん景公けいこう17年(紀元前583年)、(景公けいこうが)病気となったため占ったところ、「大業をげなかった者がたたりをなしている」と出た。

これに韓献子かんけんし韓厥かんけつ)が「趙成季ちょうせいき趙盾ちょうとんの父・趙衰ちょうし)の功績をたたえ、今は(子孫が絶えて)祭祀さいしが行われていない」ことを言上すると、景公けいこうは感じ入って「その子孫は残っているのか?」とうた。

そこで韓献子かんけんしが(程嬰ていえい公孫杵臼こうそんしょきゅうかくまわれている)趙武ちょうぶのことを言上すると、趙武ちょうぶは元通りの田地と封邑ほうゆうを与えられ、趙氏ちょうし祭祀さいしを継続することができた。


しん悼公とうこう7年(紀元前566年)冬10月、韓献子かんけんしは隠居した。


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第5世代[韓穆子(韓無忌)・韓宣子(韓起)]

韓穆子かんぼくし韓無忌かんむき

生没年不詳。父は韓献子かんけんし韓厥かんけつ)。弟に韓宣子かんせんし韓起かんき)。

しん悼公とうこう7年(紀元前566年)冬10月、父・韓献子かんけんし韓厥かんけつ)が隠居を申し出て、病身の公族こうぞく韓無忌かんむき韓穆子かんぼくし)に後を継がせようとしたが、韓無忌かんむき韓穆子かんぼくし)はそれを断って言った。


詩経しきょうに『夜明けも晩もいとわないが、行く道につゆが多いのはどうしたら良いのだろうか』とあり、また『みずから仕事を手掛けない者を庶民は信頼しない』とあります*1

無忌わたくしは不才ゆえ、人にゆずるのがよろしいと存じます。(弟の)韓起かんき韓宣子かんせんし)]に継がせてください。と交際のある賢人の田蘇でんそは、を『仁を好む』と評しております。

詩経しきょうに『つつしんでなんじの職位を大切につとめ、正直さを大切にせよ。神はそれをご覧になって、大きな幸福を与えてくださるだろう』とあります*2

民をあわれみ恵むことが「徳」、真っ直ぐなものを更にただすのが「正」、曲がったものを真っ直ぐにただすのが「直」、この3つが1つに和したものが「仁」です。仁を好む者ならば、神は大きな幸福を与えてくださるでしょう。に継がせるのがよろしいではありませんか」


韓献子かんけんし韓厥かんけつ)は韓起かんき韓宣子かんせんし)を朝廷に使わして隠居し、晋侯しんこう悼公とうこう)は韓無忌かんむき韓穆子かんぼくし)の人物を「仁」と評して、公族こうぞく大夫たいふの筆頭とした。

脚注

*1原文:「豈不夙夜,謂行多露」詩経しきょう召南しょうなん行露こうろ。「弗躬弗親,庶民弗信」詩経しきょう小雅しょうが節南山せつなんざん

*2原文:「靖共爾位,好是正直,神之聽之,介爾景福」詩経しきょう小雅しょうが小明しょうめい


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韓宣子かんせんし韓起かんき

生没年不詳。父は韓献子かんけんし韓厥かんけつ)。子に韓貞子かんていし韓須かんしゅ)。兄に韓穆子かんぼくし韓無忌かんむき)。

父・韓献子かんけんし韓厥かんけつ)が亡くなると、その後を継いで居州きょしゅううつり住んだ。

しん平公へいこう14年(紀元前544年)、季札きさつが使者としてやって来て「晋国しんこくまつりごとは、結局、かんちょうに帰すだろう」と言った。

しん頃公けいこう12年(紀元前514年)、韓宣子かんせんし韓起かんき)はちょうと共に祁氏きし羊舌氏ようぜつし封邑ほうゆう・10県を分割した。

しん定公ていこう15年(紀元前497年)、韓宣子かんせんし韓起かんき)は趙簡子ちょうかんし趙鞅ちょうおう趙武ちょうぶの孫)と共に范氏はんし中行氏ちゅうこうしった。


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第6世代[韓貞子(韓須)]

韓貞子かんていし韓須かんしゅ

生没年不詳。父は韓宣子かんせんし韓起かんき)。子に韓簡子かんかんし韓不信かんふしん)。

父の韓宣子かんせんし韓起かんき)が亡くなると、その後を継いで平陽へいよううつり住んだ。


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第7世代[韓簡子(韓不信)]

韓簡子かんかんし韓不信かんふしん

生没年不詳。父は韓貞子かんていし韓須かんしゅ)。子に韓荘子かんそうし韓庚かんこう)。

父の韓貞子かんていし韓須かんしゅ)が亡くなると、その後を継いだ。


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第8世代[韓荘子(韓庚)]

韓荘子かんそうし韓庚かんこう

生没年不詳。父は韓簡子かんかんし韓不信かんふしん)。子に韓康子かんこうし韓虎かんこ)。

父の韓簡子かんかんしが亡くなると、その後を継いだ。


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第9世代[韓康子(韓虎)]

韓康子かんこうし韓虎かんこ

生没年不詳。父は韓荘子かんそうし韓庚かんこう)。子に韓武子かんぶし韓啓章かんけいしょう)。

父の韓荘子かんそうし韓庚かんこう)が亡くなると、その後を継いだ。

韓康子かんこうし韓虎かんこ)は趙襄子ちょうじょうし魏桓子ぎかんしと共に知伯ちはくを破り、その土地を分割した。こうして3国(かんちょう)の領土は益々拡大し、諸侯しょこうしのぐ程となった。


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第10世代[韓武子(韓啓章)]

韓武子かんぶし韓啓章かんけいしょう

生没年不詳。父は韓康子かんこうし韓虎かんこ)。子に韓景侯かんけいこう韓虔かんけん)。

父の韓康子かんこうし韓虎かんこ)が亡くなると、その後を継いだ。

かん武子ぶし2年(紀元前423年)、かんていってその国君である幽公ゆうこうを殺害した。


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第11世代[韓景侯(韓虔)]

韓景侯かんけいこう韓虔かんけん

生年不詳〜かん景侯けいこう9年(紀元前400年)没。父は韓武子かんぶし韓啓章かんけいしょう)。子に韓烈侯かんれっこう韓取かんしゅ)。

かん武子ぶし16年(紀元前409年)に父の韓武子かんぶし韓啓章かんけいしょう)が亡くなると、その後を継いだ。

かん景侯けいこう元年(紀元前408年)、かんていって雍丘ようきゅうを取った。

かん景侯けいこう2年(紀元前407年)、かん負黍ふしょていに敗れた。

かん景侯けいこう6年(紀元前403年)、かんちょうと共に諸侯の列につらなることができた。

かん景侯けいこう9年(紀元前400年)、かん陽翟ようてきていに包囲された。この年、韓景侯かんけいこう韓虔かんけん)が亡くなった。


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第12世代[韓烈侯(韓取)]

韓烈侯かんれっこう韓取かんしゅ

生年不詳〜かん烈侯れっこう13年(紀元前387年)没。父は韓景侯かんけいこう韓虔かんけん)。子に韓文侯かんぶんこう韓猷かんゆう)。

かん景侯けいこう9年(紀元前400年)に父の韓景侯かんけいこう韓虔かんけん)が亡くなると、その後を継いだ。

かん烈侯れっこう3年(紀元前397年)、かん宰相さいしょう俠累きょうるい刺客しかく聶政じょうせいに殺害された。

かん烈侯れっこう9年(紀元前391年)、かん宜陽ぎようしんの攻撃を受け、6つのゆうを奪われた。

かん烈侯れっこう13年(紀元前387年)、韓烈侯かんれっこう韓取かんしゅ)が亡くなった。


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第13世代[韓文侯(韓猷)]

韓文侯かんぶんこう韓猷かんゆう

生没年不詳。父は韓烈侯かんれっこう韓取かんしゅ)。子に韓哀侯かんあいこう韓屯蒙かんとんもう)。

かん烈侯れっこう13年(紀元前387年)に父の韓烈侯かんれっこう韓取かんしゅ)が亡くなると、その後を継いだ。この年、文侯ぶんこうが亡くなった。

かん文侯ぶんこう2年(紀元前385年)、かんていって陽城ようじょうを取った。また、そうって彭城ほうじょうに至り、そうの国君を捕らえた。

かん文侯ぶんこう7年(紀元前380年)、かんせいって桑丘そうきゅうに至った。ていしんに反した。

かん文侯ぶんこう9年(紀元前378年)、かんせいって霊丘れいきゅうに至った。

かん文侯ぶんこう10年(紀元前377年)、韓文侯かんぶんこう韓猷かんゆう)が亡くなった。


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第14世代[韓哀侯(韓屯蒙)]

韓哀侯かんあいこう韓屯蒙かんとんもう

生年不詳〜かん哀侯あいこう3年(紀元前374年)*3没。父は韓文侯かんぶんこう韓猷かんゆう)。子に韓懿侯かんいこう韓若かんじゃく)。

かん文侯ぶんこう10年(紀元前377年)に父の韓文侯かんぶんこう韓猷かんゆう)が亡くなると、その後を継いだ。

かん哀侯あいこう元年(紀元前376年)、かんちょうと共に晋国しんこくを分割した。

かん哀侯あいこう2年(紀元前375年)、かんていを滅ぼしてていに都をうつした。

かん哀侯あいこう3年(紀元前374年)*3韓哀侯かんあいこう韓屯蒙かんとんもう)が公族こうぞく韓厳かんげん弑逆しいぎゃく(殺害)された。

脚注

*3史記しき韓世家かんせいかの原文では「哀侯あいこう6年(紀元前371年)」だが、竹書紀年ちくしょきねんしゅう烈王れつおう2年(紀元前374年)に『韓山堅(韓厳)賊其君哀侯』とあり、こちらが一般的なようである。以下西暦はこれに従う。


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第15世代[韓懿侯(韓若)]

韓懿侯かんいこう韓若かんじゃく*4

生没年不詳。父は韓哀侯かんあいこう韓屯蒙かんとんもう)。子に韓昭侯かんしょうこう韓武かんぶ)。

かん哀侯あいこう3年(紀元前374年)に父の韓哀侯かんあいこう韓屯蒙かんとんもう)が公族こうぞく韓厳かんげん弑逆しいぎゃく(殺害)されると、その後を継いだ。

かん懿侯いこう2年(紀元前373年)、かん馬陵ばりょうで破った。

かん懿侯いこう5年(紀元前370年)、恵王けいおう宅陽たくようで会同した。

かん懿侯いこう9年(紀元前366年)、かん澮水かいすいほとりで破った。

かん懿侯いこう12年(紀元前363年)、韓懿侯かんいこう韓若かんじゃく)が亡くなった。

脚注

*4おくりな韓共侯かんきょうこう韓恭侯かんきょうこう韓荘侯かんそうこういみな韓若山かんじゃくざんとも。


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第16世代[韓昭侯(韓武)]

韓昭侯かんしょうこう韓武かんぶ*5

生年不詳〜かん昭侯しょうこう30年(紀元前333年)没。父は韓懿侯かんいこう韓若かんじゃく)。韓宣恵王かんせんけいおう韓康かんこう)。

かん懿侯いこう12年(紀元前363年)に父の韓懿侯かんいこう韓若かんじゃく)が亡くなると、その後を継いだ。

かん昭侯しょうこう元年(紀元前362年)、しんかん西山せいざんを破った。

かん昭侯しょうこう2年(紀元前361年)、そうかん黄池こうちを取った。かんしゅを取った。

かん昭侯しょうこう6年(紀元前357年)、東周とうしゅうって陵観りょうかん邢丘けいきゅうを取った。

かん昭侯しょうこう8年(紀元前355年)、申不害しんふがいかん宰相さいしょうとなった。(申不害しんふがいは)法術をおさめて政道を行ったため国内が治まり、(彼が宰相さいしょうの間は)諸侯が侵略して来なかった。

かん昭侯しょうこう10年(紀元前353年)、韓姫かんきが主君の悼公とうこう*6弑逆しいぎゃく(殺害)した。

かん昭侯しょうこう11年(紀元前352年)、韓昭侯かんしょうこう韓武かんぶ)がしんに行った。

かん昭侯しょうこう22年(紀元前341年)、申不害しんふがいが亡くなった。

かん昭侯しょうこう24年(紀元前339年)、しんが来て宜陽ぎようを攻めた。

かん昭侯しょうこう25年(紀元前338年)、旱魃かんばつがあった。高門(牌楼はいろう)の造営に取りかかった。

(当時、にいた大夫たいふ・)屈宜臼くつぎきゅうが言った。


昭侯しょうこうはこの門を出られないだろう。なぜか?『時』を得ていないからである。わたしの言うところの『時』とは日時のことではなく、人にとっての『有利な時』『不利な時』のことだ。

昭侯しょうこうはかつて、有利な時でも高門(牌楼はいろう)を作らなかった。昨年はしん宜陽ぎようを攻められ、今年は旱魃かんばつがあったというのに、昭侯しょうこうは民の危急を憂慮ゆうりょせず、かえって益々奢侈しゃし贅沢ぜいたく)になった。

これを『時絀挙贏じちゅつきょえい窮地きゅうちおちいってもなお、贅沢ぜいたくぎょうぎょうしい)』と言う」


かん昭侯しょうこう26年(紀元前337年)、高門(牌楼はいろう)が完成した。

かん昭侯しょうこう30年(紀元前333年)、昭侯しょうこうが亡くなった。果たして屈宜臼くつぎきゅうの言葉通り、この門から出られなかった。

脚注

*5韓昭釐侯かんしょうきこう韓釐侯かんきこう韓昭僖侯かんしょうきこうとも。

*6しん静公せいこうとする説がある。


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第17世代[韓宣恵王(韓康)]

韓宣恵王かんせんけいおう韓康かんこう

生年不詳〜かん宣恵王せんけいおう21年(紀元前312年)没。父は韓昭侯かんしょうこう韓武かんぶ)。子に韓襄王かんじょうおう韓倉かんそう)。

かん昭侯しょうこう30年(紀元前333年)に父の韓昭侯かんしょうこう韓武かんぶ)が亡くなると、その後を継いだ。

かん宣恵王せんけいおう5年(紀元前328年)、張儀ちょうぎしん宰相さいしょうとなった。

かん宣恵王せんけいおう8年(紀元前325年)、かん将軍しょうぐん韓挙かんきょを破った。

かん宣恵王せんけいおう11年(紀元前322年)、韓宣恵侯かんせんけいこう韓康かんこう)がおう号を称した。ちょう区鼠おうそで会同した。

かん宣恵王せんけいおう14年(紀元前319年)、しんかんえんで破った。

かん宣恵王せんけいおう16年(紀元前317年)、しんかん修魚しゅうぎょで破り、かん将軍しょうぐんそう申差しんさ観沢かんたくで捕虜とした。

韓氏かんしかんの国)の危急に際し、公仲こうちゅう韓王かんおう韓宣恵王かんせんけいおう)に言った。


与国よこく(味方の国)をたのみとするべきではありません。

しんは長らくとうとしており、おう韓宣恵王かんせんけいおう)には(しん宰相さいしょう・)張儀ちょうぎを頼りにしん和睦わぼくし、まいない(お礼の贈り物)として名都1ゆうを献上して、武具を整えしんと共に南下してつのがよろしいでしょう。

これぞ『1をもって2にえるはかりごと(一易二之計)』にございます」


韓王かんおう韓宣恵王かんせんけいおう)はこれを聴き入れ、公仲こうちゅうの出発の準備を整えて、まさに西に向かいしん和睦わぼくしようとした。

楚王そおうはこれを聞くと大いに恐れ、陳軫ちんしんしてこれを告げた。すると陳軫ちんしんは、


しんは長らくとうとしておりましたが、今またかんの名都を1つ手に入れ、武具を整えて、しんかんが兵を合わせてとうとしております。これはしんが神にいのって求めていたことで、今すでにこれを得ました。は必ずたれましょう。

おう楚王そおう)にはわたくしの言葉を聴き入れて四方の国境の内側を警戒し、ぐんを起こして『かんを救う』と言って道路に戦車を満たし、「多くの車馬を従え、十分な幣物へいもつ(贈り物)を持たせた使者」をかんに派遣して、おう楚王そおう)がかんを救うものと韓王かんおう韓宣恵王かんせんけいおう)に信じ込ませていただきたい。

例えかんが我が方の救援を受け入れなかったとしても、必ずおう楚王そおう)の行いを『徳』と感じ、決して(しんと)軍をつらねて侵攻して来ることはないでしょう。が単独で攻めて来たとしても、案ずるには及びません。

もしかんしんとの和親をったなら、しんは必ずや激怒してかんを深くうらをむでしょう。かんが南のと交われば必ずしんかろんじ、しんかろんじれば必ずやしんへの応待もうやまいを欠くでしょう。これが『しんかんの兵によるわずらいを除く方法』です」


そこで楚王そおうは四方の国境の内側を警戒させ、ぐんを起こして「かんを救う」と言った。また道路に戦車を満たし、「多くの車馬を従え、十分な幣物へいもつ(贈り物)を持たせた使者」をかんに派遣して韓王かんおう韓宣恵王かんせんけいおう)に言った。

不穀ふこく*7の国()は小国ながら、すでに全兵力を出しました。願わくは、大国(かん)には思う存分しんと戦っていただきたい。不穀ふこく*7げてかんじゅんじます」

韓王かんおう韓宣恵王かんせんけいおう)はこれを聞くと大いに喜び、公仲こうちゅうしんに派遣することを中止した。

すると公仲こうちゅうは、


「いけません。実際にかんとうとしているのがしんであり、いつわりに『かんを救う』と言っているのがです。おう韓宣恵王かんせんけいおう)はいつわりをたのんで強大なしんと断絶し、軽々しくその敵となろうとしておられますが、必ずや天下の物笑いとなるでしょう。

その上、かんは兄弟の国ではありませんし、元から約束してしんとうとはかっていたわけでもありません。今すでに(しんかんを)とうとしているので、は『かんを救う』と言っているのです。これは陳軫ちんしんはかりごとに違いありません。

加えて、おう韓宣恵王かんせんけいおう)はすでに人をって(和睦わぼくの使者を送ることを)しらせています。今行かなければ、しんあざむくことになります。

軽々しく強大なしんあざむいて謀臣ぼうしんを信じてしまわれたなら、恐れながらおう韓宣恵王かんせんけいおう)は、必ずや後悔なされることになるでしょう」


と言っていさめたが、韓王かんおう韓宣恵王かんせんけいおう)は聴き入れず、ついにしんとの関係をった。これに大いに怒ったしんは増兵してかんち、大いに戦ったが、の援軍は来なかった。

かん宣恵王せんけいおう19年(紀元前314年)、かん岸門がんもんで大敗し、太子たいし韓倉かんそうを人質としてしん和睦わぼくした。

かん宣恵王せんけいおう21年(紀元前312年)、かんしんと共にを攻めて将軍しょうぐん屈丐くつかいを破り、丹陽たんようで8万人を斬首した。この年、韓王かんおう韓宣恵王かんせんけいおう)が亡くなった。

脚注

*7おうへりくだって使う一人称。


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第18世代[韓襄王(韓倉)]

韓襄王かんじょうおう韓倉かんそう

生年不詳〜かん襄王じょうおう16年(紀元前296年)没。父は韓宣恵王かんせんけいおう韓康かんこう)。子に韓嬰かんえい韓釐王かんきおう韓咎かんきゅう)、韓蟣蝨かんきしつ

かん宣恵王せんけいおう21年(紀元前312年)に父の韓宣恵王かんせんけいおう韓康かんこう)が亡くなると、その後を継いだ。

かん襄王じょうおう4年(紀元前308年)、しん武王ぶおう臨晋りんしんで会同した。その秋、しん甘茂かんぼうかん宜陽ぎようを攻撃させた。

かん襄王じょうおう5年(紀元前307年)、しん宜陽ぎようを陥落させ、6万人を斬首した。この年、しん武王ぶおうが亡くなった。

かん襄王じょうおう6年(紀元前306年)、しん武遂ぶすいを返還した。

かん襄王じょうおう9年(紀元前303年)、しんが再び武遂ぶすいを奪った。

かん襄王じょうおう10年(紀元前302年)、太子たいし韓嬰かんえいしんに参朝して帰った。

かん襄王じょうおう11年(紀元前301年)、しんかんってじょうを取った。しんと共にって将軍しょうぐん唐眛とうばつを破った。

かん襄王じょうおう12年(紀元前300年)、太子たいし韓嬰かんえいが亡くなり、公子こうし韓咎かんきゅう公子こうし韓蟣蝨かんきしつ太子たいしの地位をめぐって争ったが、当時、韓蟣蝨かんきしつは人質としてにいた。

蘇代そだい韓咎かんきゅうに言った。

蟣蝨きしつ韓蟣蝨かんきしつ)は逃亡してにおり、楚王そおう蟣蝨きしつかんかえしておうに立てることに熱心で、すでに今、楚兵そへい10余万人が方城ほうじょうの外に待機しています。あなた韓咎かんきゅう)はなぜ楚王そおうに、雍氏ようしかんの属国)のかたわらに万室(万戸)の都邑とゆうを築かせないのですか。もし築かせれば、かんは必ず(雍氏ようしを)救うために兵を起こし、あなたはその軍の将軍しょうぐんに選ばれるでしょう。

そうなれば、あなたかんの兵をひきい、蟣蝨きしつを奉じてかんに迎え入れれば、必ずやあなたかんに封ぜられるでしょう」

韓咎かんきゅうがそのはかりごとに従い、雍氏ようしを包囲すると、かんしんに救援を求めたが、しんはすぐに出兵せず、公孫昧こうそんまいつかわしてかんに入れた。

公仲こうちゅう公孫昧こうそんまいに「あなたしんかんを救うとお考えですか?」とたずねると、公孫昧こうそんまいは「秦王しんおうは『南鄭なんていから藍田らんでんに出兵し、あなた韓咎かんきゅう)を待つ』とおっしゃられました。ご期待に沿えないかと」と答えた。

公仲こうちゅうが「あなたもやはりそうお考えですか?」と言うと、公孫昧こうそんまいはまた答えて言った。


秦王しんおうは必ずや張儀ちょうぎ故智はかりごとに従うでしょう。威王いおうりょうを攻めた時、張儀ちょうぎ秦王しんおうに『と共にを攻めたならば、は折れてに入るでしょう。かんは元より与国よこく(味方の国)ですから、しんは孤立します。(しんとしては)出兵してを強めるに越したことはありません』と申し上げました。(その結果、)は大いに戦い、しんはそのすきに乗じて西河せいがの外を侵略して帰ったのです。

現在しんは、おもてではかんくみすると言いながら、その実、かげではと親しくしています。あなたかん)はしんの援軍を待って軽々しくと戦うお考えでしょうが、かげで『しんかんたすけない』ことを知っていますので、必ずや応戦するでしょう。

もしあなたかん)がに勝てば、しんあなたかん)と共に三川さんせん雍氏ようし)を救って帰り、もしあなたかん)がに勝てなければ、三川さんせん雍氏ようし)をふさいでこれを守り、あなたかん)は[三川さんせん雍氏ようし)を]救うことはできません。秘かにあなたかん)のためにこれを心配します。

しんの)司馬庚しばこうは3度、の都・えいに往復し、甘茂かんぼう宰相さいしょう昭魚しょうぎょしょうで会見しております。(表向きは)おさめる(かんを攻めるのをめる)ためと言っておりますが、その実、密約があるらしいのです」


公仲こうちゅうが恐れて「それでは、どうしたら良いだろうか?」とたずねると、公孫昧こうそんまいは答えて言った。

あなたは必ずかんを先にしてしんあとにし、ご自身(のはかりごと)を先にして張儀ちょうぎ(のはかりごと)をあとにし、すみやかにかんせいと連合させるべきです。そうすれば、せいは必ずかんあなたに一任するでしょう。あなたにくむべきは張儀ちょうぎ(のはかりごと)であって、しんとの友好を害する必要はないのです」

こうして雍氏ようしの包囲をいた。


蘇代そだいはまた、しん太后たいこうの弟・羋戎びじゅうに言った。


公子こうし韓咎かんきゅう*8は『しん公子こうし韓蟣蝨かんきしつかんかえす』ことを恐れております。あなたはどうしてかんのために『質子ちし(人質:韓蟣蝨かんきしつ)をかんかえす』よう、に求めないのですか?

楚王そおうがこれを聴き入れて質子ちし韓蟣蝨かんきしつ)をかんかえしたならば、公子こうし韓咎かんきゅう*8は『しん公子こうし韓蟣蝨かんきしつを立てる意思がないこと』を知って、必ずやかんしんと連合させるでしょう。

しんかんを味方としてに迫れば、えてせいと連合しようとはしないでしょう。そうなればせいは孤立いたします。

また、あなたかんのために質子ちし(人質)を求め、が聴き入れなければ、かんうらみを持つことになります。かんせいと挟撃してを包囲すれば、は必ずあなたを尊重するでしょう。

あなたしんの力を背景に、かんのために徳を積めば、公子こうし韓咎かんきゅう*8は必ず国をげてあなたの命令に従うでしょう」


こうした事情により、ついに韓蟣蝨かんきしつかんかえることができず、かん公子こうし韓咎かんきゅう太子たいしに立てた。

かん襄王じょうおう13年(紀元前299年)*9斉王せいおう魏王ぎおうかんに来た。

かん襄王じょうおう14年(紀元前298年)、かん斉王せいおう魏王ぎおうと共にしんを撃ち、函谷関かんこくかんに至った。

かん襄王じょうおう16年(紀元前296年)、しんかん河外かがい武遂ぶすいを与えた。襄王じょうおうが亡くなった。

脚注

*8原文:公叔伯嬰。韓嬰かんえいはすでに亡くなっており、文脈から公子こうし韓咎かんきゅうとした。

*9史記しき韓世家かんせいかの原文には年代の記載なし。ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ史記しきの記述に従った。


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第19世代[韓釐王(韓咎)]

韓釐王かんきおう韓咎かんきゅう

生年不詳〜かん釐王きおう23年(紀元前273年)没。父は韓襄王かんじょうおう韓倉かんそう)。子に韓桓恵王かんかんけいおう韓然かんぜん*10)。兄に韓嬰かんえい。弟に韓蟣蝨かんきしつ

かん襄王じょうおう16年(紀元前296年)に父の韓襄王かんじょうおう韓倉かんそう)が亡くなると、その後を継いだ。

かん釐王きおう3年(紀元前293年)、かん公孫喜こうそんきに命じ、しゅうの兵をひきいてしんを攻めさせたが、しんは24万人のかん軍を破り、伊闕いけつ公孫喜こうそんきとりこにした

かん釐王きおう5年(紀元前291年)、しんかんえんを陥落させた。

かん釐王きおう6年(紀元前290年)、かんしんに、武遂ぶすいの200里(約86km)四方の地を与えた。

かん釐王きおう10年(紀元前286年)、しんかん軍を夏山かざんで破った。

かん釐王きおう12年(紀元前284年)、[韓襄王かんじょうおう韓倉かんそう)は]しん昭王しょうおう西周せいしゅうで会同し、しんたすけてせいを攻めた。せいが敗れてせい湣王びんおうが逃亡した。

かん釐王きおう14年(紀元前282年)、しんと両しゅうの間で会同した。

かん釐王きおう21年(紀元前275年)、かん暴捐ぼうえんに命じてを救わせたが、しんに敗れて暴捐ぼうえん開封かいほうに敗走した。

かん釐王きおう23年(紀元前273年)、ちょうかん華陽かようを攻めた。かんしんに危急を告げたが、しんは救援しなかった。

これにかん相国しょうこくは、陳筮ちんぜいに「事態は急を要します。あなたは病気の身で恐縮ながら、(秦城しんじょうまで)1泊の使者に立っていただきたい」と要請し、陳筮ちんぜいは(しんおもむにいて、しん相国しょうこく・)穰侯じょうこう魏冉ぎぜんと会見した。

そこで穰侯じょうこうが「あなたつかわして来たのだから、緊急事態なのだな?」とたずねると、陳筮ちんぜいは「急ぐほどではありません」と答えた。

すると穰侯じょうこうは怒って「ではなぜあなたあるじは使者をしたのだ?頻繁ひんぱんに使者をして弊邑へいゆうに危急を告げているのに、あなたが『急ぐほどではない』と言うのはなぜだ?」と言った。

陳筮ちんぜいがこれに答えて、

かんという国は、本当に急を要するのなら、態度を変えて他国(ちょう)に従いましょう。まだ『急ぐほどではない』からこそ、こうしてまた使者を立てたのです」

と言うと、穰侯じょうこうは「あなたおうしん昭王しょうおう)に会う必要はない。今すぐかんに援軍を出そう」と言った。

それから8日で援軍が到着し、ちょう華陽かようの城下で破った。

この年、韓釐王かんきおう韓咎かんきゅう)が亡くなった。


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第20世代[韓桓恵王(韓然)]

韓桓恵王かんかんけいおう韓然かんぜん*10

生年不詳〜かん桓恵王かんけいおう34年(紀元前239年)没。父は韓釐王かんきおう韓咎かんきゅう)。子に韓王安かんおうあん韓安かんあん)。

かん釐王きおう23年(紀元前273年)に父の韓釐王かんきおう韓咎かんきゅう)が亡くなると、その後を継いだ。

かん桓恵王かんけいおう元年(紀元前272年)、かんえんった。

かん桓恵王かんけいおう9年(紀元前264年)、しんかんけいを陥落させ、汾水ふんすいほとりに城を築いた。

かん桓恵王かんけいおう10年(紀元前263年)、しんかん太行山たいこうざんち、かん上党郡じょうとうぐん郡守ぐんしゅ上党郡じょうとうぐんげてちょうに降伏した。

かん桓恵王かんけいおう14年(紀元前259年)、しんちょう上党郡じょうとうぐんを陥落させ、馬服君ばふくくん趙奢ちょうしゃの子(趙括ちょうかつ)の士卒・40余万人を長平ちょうへいで殺害した。

かん桓恵王かんけいおう17年(紀元前256年)、しんかん陽城ようじょう負黍ふしょを陥落させた。

かん桓恵王かんけいおう22年(紀元前251年)、しん昭王しょうおうが亡くなった。

かん桓恵王かんけいおう24年(紀元前249年)、しんかん城皋じょうこう滎陽けいようを陥落させた。

かん桓恵王かんけいおう26年(紀元前247年)、しん上党郡じょうとうぐんことごとくを陥落させた。

かん桓恵王かんけいおう29年(紀元前244年)、しんかんの13城を陥落させた。

かん桓恵王かんけいおう34年(紀元前239年)、韓桓恵王かんかんけいおう韓然かんぜん*10)が亡くなった。

脚注

*10韓桓恵王かんかんけいおういみなぜんとするのはwikipediaより。出典不明。


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第21世代[韓王安(韓安)]

韓王安かんおうあん韓安かんあん

生年不詳〜没。父は韓桓恵王かんかんけいおう韓然かんぜん*10)。

かん桓恵王かんけいおう34年(紀元前239年)に父の韓桓恵王かんかんけいおう韓然かんぜん*10)が亡くなると、その後を継いだ。

かん王安おうあん5年(紀元前234年)、しんかんを攻め、危急にひんしたかんは諸公子こうし韓非かんぴ韓非子かんぴし)をしんに派遣したが、しん韓非かんぴ韓非子かんぴし)を引きとどめて殺害してしまった。

かん王安おうあん9年(紀元前230年)、しん韓王安かんおうあん韓安かんあん)をとりこにし、かんの地のことごとくを手に入れて潁州郡えいしゅうぐんとした。

ここにかんはついに滅亡した。

脚注

*10韓桓恵王かんかんけいおういみなぜんとするのはwikipediaより。出典不明。


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