正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(88)東周韓氏(春秋時代の晋の大夫から国を建て、戦国の七雄の1つに数えられるようになった韓氏)です。
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目次
- 1 系図
- 2 か(88)東周韓氏
- 2.1 第1世代[韓原武子(韓武子)]
- 2.2 第4世代[韓献子(韓厥)]
- 2.3 第5世代[韓穆子(韓無忌)・韓宣子(韓起)]
- 2.4 第6世代[韓貞子(韓須)]
- 2.5 第7世代[韓簡子(韓不信)]
- 2.6 第8世代[韓荘子(韓庚)]
- 2.7 第9世代[韓康子(韓虎)]
- 2.8 第10世代[韓武子(韓啓章)]
- 2.9 第11世代[韓景侯(韓虔)]
- 2.10 第12世代[韓烈侯(韓取)]
- 2.11 第13世代[韓文侯(韓猷)]
- 2.12 第14世代[韓哀侯(韓屯蒙)]
- 2.13 第15世代[韓懿侯(韓若)]
- 2.14 第16世代[韓昭侯(韓武)]
- 2.15 第17世代[韓宣恵王(韓康)]
- 2.16 第18世代[韓襄王(韓倉)]
- 2.17 第19世代[韓釐王(韓咎)]
- 2.18 第20世代[韓桓恵王(韓然)]
- 2.19 第21世代[韓王安(韓安)]
- 3 【三国志人物伝】総索引
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
東周韓氏系図
東周韓氏系図
この記事では東周韓氏の人物、
- 韓原武子(韓武子)
- 韓献子(韓厥)
- 韓穆子(韓無忌)
- 韓宣子(韓起)
- 韓貞子(韓須)
- 韓簡子(韓不信)
- 韓荘子(韓庚)
- 韓康子(韓虎)
- 韓武子(韓啓章)
- 韓景侯(韓虔)
- 韓烈侯(韓取)
- 韓文侯(韓猷)
- 韓哀侯(韓屯蒙)
- 韓懿侯(韓若)
- 韓昭侯(韓武)
- 韓宣恵王(韓康)
- 韓襄王(韓倉)
- 韓釐王(韓咎)
- 韓桓恵王(韓然)
- 韓王安(韓安)
についてまとめています。
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か(88)東周韓氏
第1世代[韓原武子(韓武子)]
韓原武子(韓武子)
生没年不詳。
韓(晋の大夫・韓氏が建てた国)の祖先は周と同姓の姫氏である。
その後裔が晋に仕え、韓原に封ぜられた。これが韓武子で、韓武子の3代後の韓厥が、封地の名を取って韓氏を名乗るようになった。
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第4世代[韓献子(韓厥)]
韓献子(韓厥)
生没年不詳。曽祖父は韓原武子(韓武子)。子に韓穆子(韓無忌)、韓宣子(韓起)。
晋の景公3年(紀元前597年)、晋の司寇・屠岸賈は、霊公を弑逆(殺害)した賊の趙盾を誅殺しようとして乱を起こしたが、目的を達する前に趙盾が死んでしまった。すると屠岸賈は趙盾の子・趙朔を誅殺しようとしたので、韓厥はこれを止めたが、屠岸賈は聴き入れなかった。
そこで韓厥は、そのことを趙朔に告げて亡命させようとしたが、趙朔は「子が『絶対に趙氏の祭祀を絶やさない』と約束してくださるなら、死んでも恨みはありません」と言ったので、韓厥はそれを承諾した。
その後、屠岸賈が趙氏(趙朔)を誅殺すると、韓厥は病気と称して引き籠もった。また、程嬰と公孫杵臼が趙氏の孤児・趙武を匿っていたが、韓厥はそのことを知っていた。
晋の景公11年(紀元前589年)、韓厥は郤克と共に8百乗の兵を率いて斉を伐ち、斉の頃公を鞍で破って逢丑父を捕らえた。こうして晋は六卿を設け、韓厥はその内の1つの卿の位を得て、献子(韓献子)と号した。
晋の景公17年(紀元前583年)、(景公が)病気となったため占ったところ、「大業を遂げなかった者が祟りをなしている」と出た。
これに韓献子(韓厥)が「趙成季(趙盾の父・趙衰)の功績を称え、今は(子孫が絶えて)祭祀が行われていない」ことを言上すると、景公は感じ入って「その子孫は残っているのか?」と問うた。
そこで韓献子が(程嬰と公孫杵臼に匿われている)趙武のことを言上すると、趙武は元通りの田地と封邑を与えられ、趙氏の祭祀を継続することができた。
晋の悼公7年(紀元前566年)冬10月、韓献子は隠居した。
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第5世代[韓穆子(韓無忌)・韓宣子(韓起)]
韓穆子(韓無忌)
生没年不詳。父は韓献子(韓厥)。弟に韓宣子(韓起)。
晋の悼公7年(紀元前566年)冬10月、父・韓献子(韓厥)が隠居を申し出て、病身の公族・韓無忌(韓穆子)に後を継がせようとしたが、韓無忌(韓穆子)はそれを断って言った。
「『詩経』に『夜明けも晩も厭わないが、行く道に露が多いのはどうしたら良いのだろうか』とあり、また『親ら仕事を手掛けない者を庶民は信頼しない』とあります*1。
無忌は不才ゆえ、人に譲るのがよろしいと存じます。(弟の)起[韓起(韓宣子)]に継がせてください。起と交際のある賢人の田蘇は、起を『仁を好む』と評しております。
『詩経』に『慎んで汝の職位を大切に務め、正直さを大切にせよ。神はそれをご覧になって、大きな幸福を与えてくださるだろう』とあります*2。
民を憐れみ恵むことが「徳」、真っ直ぐなものを更に正すのが「正」、曲がったものを真っ直ぐに正すのが「直」、この3つが1つに和したものが「仁」です。仁を好む者ならば、神は大きな幸福を与えてくださるでしょう。起に継がせるのがよろしいではありませんか」
韓献子(韓厥)は韓起(韓宣子)を朝廷に使わして隠居し、晋侯(悼公)は韓無忌(韓穆子)の人物を「仁」と評して、公族大夫の筆頭とした。
脚注
*1原文:「豈不夙夜,謂行多露」『詩経』召南・行露。「弗躬弗親,庶民弗信」『詩経』小雅・節南山。
*2原文:「靖共爾位,好是正直,神之聽之,介爾景福」『詩経』小雅・小明。
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韓宣子(韓起)
生没年不詳。父は韓献子(韓厥)。子に韓貞子(韓須)。兄に韓穆子(韓無忌)。
父・韓献子(韓厥)が亡くなると、その後を継いで居州に徙り住んだ。
晋の平公14年(紀元前544年)、呉の季札が使者としてやって来て「晋国の政は、結局、韓・魏・趙に帰すだろう」と言った。
晋の頃公12年(紀元前514年)、韓宣子(韓起)は魏・趙と共に祁氏と羊舌氏の封邑・10県を分割した。
晋の定公15年(紀元前497年)、韓宣子(韓起)は趙簡子(趙鞅:趙武の孫)と共に范氏と中行氏を伐った。
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第6世代[韓貞子(韓須)]
第7世代[韓簡子(韓不信)]
第8世代[韓荘子(韓庚)]
第9世代[韓康子(韓虎)]
韓康子(韓虎)
生没年不詳。父は韓荘子(韓庚)。子に韓武子(韓啓章)。
父の韓荘子(韓庚)が亡くなると、その後を継いだ。
韓康子(韓虎)は趙襄子、魏桓子と共に知伯を破り、その土地を分割した。こうして3国(韓・趙・魏)の領土は益々拡大し、諸侯を凌ぐ程となった。
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第10世代[韓武子(韓啓章)]
韓武子(韓啓章)
生没年不詳。父は韓康子(韓虎)。子に韓景侯(韓虔)。
父の韓康子(韓虎)が亡くなると、その後を継いだ。
韓の武子2年(紀元前423年)、韓が鄭を伐ってその国君である幽公を殺害した。
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第11世代[韓景侯(韓虔)]
韓景侯(韓虔)
生年不詳〜韓の景侯9年(紀元前400年)没。父は韓武子(韓啓章)。子に韓烈侯(韓取)。
韓の武子16年(紀元前409年)に父の韓武子(韓啓章)が亡くなると、その後を継いだ。
韓の景侯元年(紀元前408年)、韓が鄭を伐って雍丘を取った。
韓の景侯2年(紀元前407年)、韓が負黍で鄭に敗れた。
韓の景侯6年(紀元前403年)、韓は趙・魏と共に諸侯の列に連なることができた。
韓の景侯9年(紀元前400年)、韓の陽翟が鄭に包囲された。この年、韓景侯(韓虔)が亡くなった。
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第12世代[韓烈侯(韓取)]
韓烈侯(韓取)
生年不詳〜韓の烈侯13年(紀元前387年)没。父は韓景侯(韓虔)。子に韓文侯(韓猷)。
韓の景侯9年(紀元前400年)に父の韓景侯(韓虔)が亡くなると、その後を継いだ。
韓の烈侯3年(紀元前397年)、韓の宰相・俠累が刺客の聶政に殺害された。
韓の烈侯9年(紀元前391年)、韓の宜陽が秦の攻撃を受け、6つの邑を奪われた。
韓の烈侯13年(紀元前387年)、韓烈侯(韓取)が亡くなった。
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第13世代[韓文侯(韓猷)]
韓文侯(韓猷)
生没年不詳。父は韓烈侯(韓取)。子に韓哀侯(韓屯蒙)。
韓の烈侯13年(紀元前387年)に父の韓烈侯(韓取)が亡くなると、その後を継いだ。この年、魏の文侯が亡くなった。
韓の文侯2年(紀元前385年)、韓が鄭を伐って陽城を取った。また、宋を伐って彭城に至り、宋の国君を捕らえた。
韓の文侯7年(紀元前380年)、韓が斉を伐って桑丘に至った。鄭が晋に反した。
韓の文侯9年(紀元前378年)、韓が斉を伐って霊丘に至った。
韓の文侯10年(紀元前377年)、韓文侯(韓猷)が亡くなった。
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第14世代[韓哀侯(韓屯蒙)]
韓哀侯(韓屯蒙)
生年不詳〜韓の哀侯3年(紀元前374年)*3没。父は韓文侯(韓猷)。子に韓懿侯(韓若)。
韓の文侯10年(紀元前377年)に父の韓文侯(韓猷)が亡くなると、その後を継いだ。
韓の哀侯元年(紀元前376年)、韓は趙・魏と共に晋国を分割した。
韓の哀侯2年(紀元前375年)、韓が鄭を滅ぼして鄭に都を徙した。
韓の哀侯3年(紀元前374年)*3、韓哀侯(韓屯蒙)が公族の韓厳に弑逆(殺害)された。
脚注
*3『史記』韓世家の原文では「哀侯6年(紀元前371年)」だが、『竹書紀年』の周の烈王2年(紀元前374年)に『韓山堅(韓厳)賊其君哀侯』とあり、こちらが一般的なようである。以下西暦はこれに従う。
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第15世代[韓懿侯(韓若)]
韓懿侯(韓若)*4
生没年不詳。父は韓哀侯(韓屯蒙)。子に韓昭侯(韓武)。
韓の哀侯3年(紀元前374年)に父の韓哀侯(韓屯蒙)が公族の韓厳に弑逆(殺害)されると、その後を継いだ。
韓の懿侯2年(紀元前373年)、魏が韓を馬陵で破った。
韓の懿侯5年(紀元前370年)、魏の恵王と宅陽で会同した。
韓の懿侯9年(紀元前366年)、魏が韓を澮水の旁で破った。
韓の懿侯12年(紀元前363年)、韓懿侯(韓若)が亡くなった。
脚注
*4諡は韓共侯、韓恭侯、韓荘侯、諱は韓若山とも。
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第16世代[韓昭侯(韓武)]
韓昭侯(韓武)*5
生年不詳〜韓の昭侯30年(紀元前333年)没。父は韓懿侯(韓若)。韓宣恵王(韓康)。
韓の懿侯12年(紀元前363年)に父の韓懿侯(韓若)が亡くなると、その後を継いだ。
韓の昭侯元年(紀元前362年)、秦が韓の西山を破った。
韓の昭侯2年(紀元前361年)、宋が韓の黄池を取った。魏が韓の朱を取った。
韓の昭侯6年(紀元前357年)、魏が東周を伐って陵観と邢丘を取った。
韓の昭侯8年(紀元前355年)、申不害が韓の宰相となった。(申不害は)法術を修めて政道を行ったため国内が治まり、(彼が宰相の間は)諸侯が侵略して来なかった。
韓の昭侯10年(紀元前353年)、韓姫が主君の悼公*6を弑逆(殺害)した。
韓の昭侯11年(紀元前352年)、韓昭侯(韓武)が秦に行った。
韓の昭侯22年(紀元前341年)、申不害が亡くなった。
韓の昭侯24年(紀元前339年)、秦が来て宜陽を攻めた。
韓の昭侯25年(紀元前338年)、旱魃があった。高門(牌楼)の造営に取りかかった。
(当時、魏にいた楚の大夫・)屈宜臼が言った。
「昭侯はこの門を出られないだろう。なぜか?『時』を得ていないからである。吾の言うところの『時』とは日時のことではなく、人にとっての『有利な時』『不利な時』のことだ。
昭侯はかつて、有利な時でも高門(牌楼)を作らなかった。昨年は秦に宜陽を攻められ、今年は旱魃があったというのに、昭侯は民の危急を憂慮せず、却って益々奢侈(贅沢)になった。
これを『時絀挙贏(窮地に陥ってもなお、贅沢で仰々しい)』と言う」
韓の昭侯26年(紀元前337年)、高門(牌楼)が完成した。
韓の昭侯30年(紀元前333年)、昭侯が亡くなった。果たして屈宜臼の言葉通り、この門から出られなかった。
脚注
*5韓昭釐侯、韓釐侯、韓昭僖侯とも。
*6晋の静公とする説がある。
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第17世代[韓宣恵王(韓康)]
韓宣恵王(韓康)
生年不詳〜韓の宣恵王21年(紀元前312年)没。父は韓昭侯(韓武)。子に韓襄王(韓倉)。
韓の昭侯30年(紀元前333年)に父の韓昭侯(韓武)が亡くなると、その後を継いだ。
韓の宣恵王5年(紀元前328年)、張儀が秦の宰相となった。
韓の宣恵王8年(紀元前325年)、魏が韓の将軍・韓挙を破った。
韓の宣恵王11年(紀元前322年)、韓宣恵侯(韓康)が王号を称した。趙と区鼠で会同した。
韓の宣恵王14年(紀元前319年)、秦が韓を鄢で破った。
韓の宣恵王16年(紀元前317年)、秦が韓を修魚で破り、韓の将軍・鯁と申差を観沢で捕虜とした。
韓氏(韓の国)の危急に際し、公仲が韓王(韓宣恵王)に言った。
「与国(味方の国)を恃みとするべきではありません。
秦は長らく楚を伐とうとしており、王(韓宣恵王)には(秦の宰相・)張儀を頼りに秦と和睦し、賂(お礼の贈り物)として名都1邑を献上して、武具を整え秦と共に南下して楚を伐つのがよろしいでしょう。
これぞ『1をもって2に易える計(一易二之計)』にございます」
韓王(韓宣恵王)はこれを聴き入れ、公仲の出発の準備を整えて、まさに西に向かい秦と和睦しようとした。
楚王はこれを聞くと大いに恐れ、陳軫を召してこれを告げた。すると陳軫は、
「秦は長らく楚を伐とうとしておりましたが、今また韓の名都を1つ手に入れ、武具を整えて、秦と韓が兵を合わせて楚を伐とうとしております。これは秦が神に祈って求めていたことで、今すでにこれを得ました。楚は必ず伐たれましょう。
王(楚王)には臣の言葉を聴き入れて四方の国境の内側を警戒し、師を起こして『韓を救う』と言って道路に戦車を満たし、「多くの車馬を従え、十分な幣物(贈り物)を持たせた使者」を韓に派遣して、王(楚王)が韓を救うものと韓王(韓宣恵王)に信じ込ませていただきたい。
例え韓が我が方の救援を受け入れなかったとしても、必ず王(楚王)の行いを『徳』と感じ、決して(秦と)軍を連ねて侵攻して来ることはないでしょう。楚が単独で攻めて来たとしても、案ずるには及びません。
もし韓が秦との和親を絶ったなら、秦は必ずや激怒して韓を深く怨をむでしょう。韓が南の楚と交われば必ず秦を軽んじ、秦を軽んじれば必ずや秦への応待も敬いを欠くでしょう。これが『秦・韓の兵による楚の患を除く方法』です」
そこで楚王は四方の国境の内側を警戒させ、師を起こして「韓を救う」と言った。また道路に戦車を満たし、「多くの車馬を従え、十分な幣物(贈り物)を持たせた使者」を韓に派遣して韓王(韓宣恵王)に言った。
「不穀*7の国(楚)は小国ながら、すでに全兵力を出しました。願わくは、大国(韓)には思う存分秦と戦っていただきたい。不穀*7は楚を挙げて韓に殉じます」
韓王(韓宣恵王)はこれを聞くと大いに喜び、公仲を秦に派遣することを中止した。
すると公仲は、
「いけません。実際に韓を伐とうとしているのが秦であり、偽りに『韓を救う』と言っているのが楚です。王(韓宣恵王)は楚の偽りを恃んで強大な秦と断絶し、軽々しくその敵となろうとしておられますが、必ずや天下の物笑いとなるでしょう。
その上、楚と韓は兄弟の国ではありませんし、元から約束して秦を伐とうと謀っていたわけでもありません。今すでに(秦が韓を)伐とうとしているので、楚は『韓を救う』と言っているのです。これは陳軫の謀に違いありません。
加えて、王(韓宣恵王)はすでに人を遣って(和睦の使者を送ることを)報せています。今行かなければ、秦を欺くことになります。
軽々しく強大な秦を欺いて楚の謀臣を信じてしまわれたなら、恐れながら王(韓宣恵王)は、必ずや後悔なされることになるでしょう」
と言って諫めたが、韓王(韓宣恵王)は聴き入れず、ついに秦との関係を絶った。これに大いに怒った秦は増兵して韓を伐ち、大いに戦ったが、楚の援軍は来なかった。
韓の宣恵王19年(紀元前314年)、韓は岸門で大敗し、太子・韓倉を人質として秦と和睦した。
韓の宣恵王21年(紀元前312年)、韓は秦と共に楚を攻めて楚の将軍・屈丐を破り、丹陽で8万人を斬首した。この年、韓王(韓宣恵王)が亡くなった。
脚注
*7王が謙って使う一人称。
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第18世代[韓襄王(韓倉)]
韓襄王(韓倉)
生年不詳〜韓の襄王16年(紀元前296年)没。父は韓宣恵王(韓康)。子に韓嬰、韓釐王(韓咎)、韓蟣蝨。
韓の宣恵王21年(紀元前312年)に父の韓宣恵王(韓康)が亡くなると、その後を継いだ。
韓の襄王4年(紀元前308年)、秦の武王と臨晋で会同した。その秋、秦が甘茂に韓の宜陽を攻撃させた。
韓の襄王5年(紀元前307年)、秦が宜陽を陥落させ、6万人を斬首した。この年、秦の武王が亡くなった。
韓の襄王6年(紀元前306年)、秦が武遂を返還した。
韓の襄王9年(紀元前303年)、秦が再び武遂を奪った。
韓の襄王10年(紀元前302年)、太子・韓嬰が秦に参朝して帰った。
韓の襄王11年(紀元前301年)、秦が韓を伐って穰を取った。秦と共に楚を伐って楚の将軍・唐眛を破った。
韓の襄王12年(紀元前300年)、太子・韓嬰が亡くなり、公子・韓咎と公子・韓蟣蝨が太子の地位を巡って争ったが、当時、韓蟣蝨は人質として楚にいた。
蘇代が韓咎に言った。
「蟣蝨(韓蟣蝨)は逃亡して楚におり、楚王は蟣蝨を韓に還して王に立てることに熱心で、すでに今、楚兵10余万人が方城の外に待機しています。公(韓咎)はなぜ楚王に、雍氏(韓の属国)の傍らに万室(万戸)の都邑を築かせないのですか。もし築かせれば、韓は必ず(雍氏を)救うために兵を起こし、公はその軍の将軍に選ばれるでしょう。
そうなれば、公は韓・楚の兵を率い、蟣蝨を奉じて韓に迎え入れれば、必ずや公は楚・韓に封ぜられるでしょう」
韓咎がその計に従い、楚が雍氏を包囲すると、韓は秦に救援を求めたが、秦はすぐに出兵せず、公孫昧を遣わして韓に入れた。
公仲が公孫昧に「子は秦が韓を救うとお考えですか?」と尋ねると、公孫昧は「秦王は『南鄭から藍田を経て楚に出兵し、公(韓咎)を待つ』とおっしゃられました。ご期待に沿えないかと」と答えた。
公仲が「子もやはりそうお考えですか?」と言うと、公孫昧はまた答えて言った。
「秦王は必ずや張儀の故智に従うでしょう。楚の威王が梁を攻めた時、張儀は秦王に『楚と共に魏を攻めたならば、魏は折れて楚に入るでしょう。韓は元より魏の与国(味方の国)ですから、秦は孤立します。(秦としては)出兵して魏を強めるに越したことはありません』と申し上げました。(その結果、)魏と楚は大いに戦い、秦はその隙に乗じて西河の外を侵略して帰ったのです。
現在秦は、陽では韓に与すると言いながら、その実、陰では楚と親しくしています。公(韓)は秦の援軍を待って軽々しく楚と戦うお考えでしょうが、楚は陰で『秦が韓を援けない』ことを知っていますので、必ずや応戦するでしょう。
もし公(韓)が楚に勝てば、秦は公(韓)と共に三川(雍氏)を救って帰り、もし公(韓)が楚に勝てなければ、楚は三川(雍氏)を塞いでこれを守り、公(韓)は[三川(雍氏)を]救うことはできません。秘かに公(韓)のためにこれを心配します。
(秦の)司馬庚は3度、楚の都・郢に往復し、甘茂は楚の宰相・昭魚と商・於で会見しております。(表向きは)璽を収める(楚が韓を攻めるのを止める)ためと言っておりますが、その実、密約があるらしいのです」
公仲が恐れて「それでは、どうしたら良いだろうか?」と尋ねると、公孫昧は答えて言った。
「公は必ず韓を先にして秦を後にし、ご自身(の計)を先にして張儀(の計)を後にし、速やかに韓を斉・楚と連合させるべきです。そうすれば、斉・楚は必ず韓を公に一任するでしょう。公が憎むべきは張儀(の計)であって、秦との友好を害する必要はないのです」
こうして楚は雍氏の包囲を解いた。
蘇代はまた、秦の太后の弟・羋戎に言った。
「公子・韓咎*8は『秦や楚が公子・韓蟣蝨を韓に還す』ことを恐れております。公はどうして韓のために『質子(人質:韓蟣蝨)を韓に還す』よう、楚に求めないのですか?
楚王がこれを聴き入れて質子(韓蟣蝨)を韓に還したならば、公子・韓咎*8は『秦や楚に公子・韓蟣蝨を立てる意思がないこと』を知って、必ずや韓を秦・楚と連合させるでしょう。
秦・楚が韓を味方として魏に迫れば、魏は敢えて斉と連合しようとはしないでしょう。そうなれば斉は孤立いたします。
また、公が韓のために楚に質子(人質)を求め、楚が聴き入れなければ、韓は楚に怨みを持つことになります。韓が斉・魏と挟撃して楚を包囲すれば、楚は必ず公を尊重するでしょう。
公が秦・楚の力を背景に、韓のために徳を積めば、公子・韓咎*8は必ず国を挙げて公の命令に従うでしょう」
こうした事情により、ついに韓蟣蝨は韓に還ることができず、韓は公子・韓咎を太子に立てた。
韓の襄王13年(紀元前299年)*9、斉王と魏王が韓に来た。
韓の襄王14年(紀元前298年)、韓は斉王・魏王と共に秦を撃ち、函谷関に至った。
韓の襄王16年(紀元前296年)、秦が韓に河外と武遂を与えた。襄王が亡くなった。
脚注
*8原文:公叔伯嬰。韓嬰はすでに亡くなっており、文脈から公子・韓咎とした。
*9『史記』韓世家の原文には年代の記載なし。ちくま学芸文庫『史記』の記述に従った。
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第19世代[韓釐王(韓咎)]
韓釐王(韓咎)
生年不詳〜韓の釐王23年(紀元前273年)没。父は韓襄王(韓倉)。子に韓桓恵王(韓然*10)。兄に韓嬰。弟に韓蟣蝨。
韓の襄王16年(紀元前296年)に父の韓襄王(韓倉)が亡くなると、その後を継いだ。
韓の釐王3年(紀元前293年)、韓は公孫喜に命じ、周・魏の兵を率いて秦を攻めさせたが、秦は24万人の韓軍を破り、伊闕で公孫喜を虜にした
韓の釐王5年(紀元前291年)、秦が韓の宛を陥落させた。
韓の釐王6年(紀元前290年)、韓が秦に、武遂の200里(約86km)四方の地を与えた。
韓の釐王10年(紀元前286年)、秦が韓軍を夏山で破った。
韓の釐王12年(紀元前284年)、[韓襄王(韓倉)は]秦の昭王と西周で会同し、秦を佐けて斉を攻めた。斉が敗れて斉の湣王が逃亡した。
韓の釐王14年(紀元前282年)、秦と両周の間で会同した。
韓の釐王21年(紀元前275年)、韓は暴捐に命じて魏を救わせたが、秦に敗れて暴捐は開封に敗走した。
韓の釐王23年(紀元前273年)、趙と魏が韓の華陽を攻めた。韓は秦に危急を告げたが、秦は救援しなかった。
これに韓の相国は、陳筮に「事態は急を要します。公は病気の身で恐縮ながら、(秦城まで)1泊の使者に立っていただきたい」と要請し、陳筮は(秦に赴にいて、秦の相国・)穰侯・魏冉と会見した。
そこで穰侯が「公を遣わして来たのだから、緊急事態なのだな?」と尋ねると、陳筮は「急ぐほどではありません」と答えた。
すると穰侯は怒って「ではなぜ公の主は使者を寄越したのだ?頻繁に使者を寄越して弊邑に危急を告げているのに、公が『急ぐほどではない』と言うのはなぜだ?」と言った。
陳筮がこれに答えて、
「彼の韓という国は、本当に急を要するのなら、態度を変えて他国(趙・魏)に従いましょう。まだ『急ぐほどではない』からこそ、こうしてまた使者を立てたのです」
と言うと、穰侯は「公が王(秦の昭王)に会う必要はない。今すぐ韓に援軍を出そう」と言った。
それから8日で援軍が到着し、趙・魏を華陽の城下で破った。
この年、韓釐王(韓咎)が亡くなった。
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第20世代[韓桓恵王(韓然)]
韓桓恵王(韓然*10)
生年不詳〜韓の桓恵王34年(紀元前239年)没。父は韓釐王(韓咎)。子に韓王安(韓安)。
韓の釐王23年(紀元前273年)に父の韓釐王(韓咎)が亡くなると、その後を継いだ。
韓の桓恵王元年(紀元前272年)、韓が燕を伐った。
韓の桓恵王9年(紀元前264年)、秦が韓の陘を陥落させ、汾水の旁に城を築いた。
韓の桓恵王10年(紀元前263年)、秦が韓を太行山で撃ち、韓の上党郡の郡守が上党郡を挙げて趙に降伏した。
韓の桓恵王14年(紀元前259年)、秦が趙の上党郡を陥落させ、馬服君・趙奢の子(趙括)の士卒・40余万人を長平で殺害した。
韓の桓恵王17年(紀元前256年)、秦が韓の陽城と負黍を陥落させた。
韓の桓恵王22年(紀元前251年)、秦の昭王が亡くなった。
韓の桓恵王24年(紀元前249年)、秦が韓の城皋と滎陽を陥落させた。
韓の桓恵王26年(紀元前247年)、秦が上党郡の悉くを陥落させた。
韓の桓恵王29年(紀元前244年)、秦が韓の13城を陥落させた。
韓の桓恵王34年(紀元前239年)、韓桓恵王(韓然*10)が亡くなった。
脚注
*10韓桓恵王の諱を然とするのはwikipediaより。出典不明。
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第21世代[韓王安(韓安)]
韓王安(韓安)
生年不詳〜没。父は韓桓恵王(韓然*10)。
韓の桓恵王34年(紀元前239年)に父の韓桓恵王(韓然*10)が亡くなると、その後を継いだ。
韓の王安5年(紀元前234年)、秦が韓を攻め、危急に瀕した韓は諸公子の韓非(韓非子)を秦に派遣したが、秦は韓非(韓非子)を引き留めて殺害してしまった。
韓の王安9年(紀元前230年)、秦は韓王安(韓安)を虜にし、韓の地の悉くを手に入れて潁州郡とした。
ここに韓はついに滅亡した。
脚注
*10韓桓恵王の諱を然とするのはwikipediaより。出典不明。
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