正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「い」から始まる人物の一覧②京兆尹けいちょういん韋氏いし韋端いたん韋康いこう韋誕いたん)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

南郡蒯氏系図

京兆尹韋氏系図

京兆尹けいちょういん韋氏いし系図


この記事では京兆尹けいちょういん韋氏いしの人物、

についてまとめています。


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い②(京兆韋氏)

第1世代(韋端)

韋端いたん

生没年不詳。司隷しれい京兆尹けいちょういんの人。子に韋康いこう韋誕いたん

孔融こうゆうは、韋端いたんに送った手紙の中で韋端いたんの2人の子を賞賛し、「2つの真珠(韋康いこう韋誕いたん)がドブ貝(韋端いたん)の中かられるとは思いも寄らなかった」と冗談を言った。

涼州牧りょうしゅうぼくをつとめ、建安けんあん元年(196年)には司隷校尉しれいこうい鍾繇しょうようと共に馬騰ばとう韓遂かんすいの争いを仲裁する使者となり、建安けんあん13年(208年)にはまた、馬騰ばとうを朝廷に招聘しょうへいする使者となった。

その後、中央に召されて太僕たいぼくに転任するが、その際、子の韋康いこうが代わりに涼州刺史りょうしゅうししとなり、韋端いたんもと従事じゅうじをつとめていた楊阜ようふ別駕従事べつがじゅうじとした。


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第2世代(韋康・韋誕)

韋康いこう元将げんしょう

生年不詳〜建安けんあん18年(213年)没。司隷しれい京兆尹けいちょういんの人。父は韋端いたん。弟は韋誕いたん荀彧じゅんいくの推挙により曹操そうそうに仕えた。

孔融こうゆうは、韋康いこうの父・韋端いたんに送った手紙の中で、韋康いこうのことを「底知れぬ才能が輝き渡り、度量が大きく、意志が強く、世に優れた人材」と賞賛した。涼州牧りょうしゅうぼくから太僕たいぼくに転任した父の代わりに涼州刺史りょうしゅうししとなる。

建安けんあん16年(211年)、「潼関どうかんの戦い」に敗れた馬超ばちょうは、翌年、曹操そうそう鄴県ぎょうけんに帰還すると、再び隴山ろうざん一帯の郡県を呼応させ、張魯ちょうろの援軍と合わせて1万余の軍勢で冀県きけん韋康いこうを攻撃した。

韋康いこうは正月から8月まで抵抗したが、官吏が傷つき死ぬのをあわれみ、楊阜ようふ趙昂ちょうこうが止めるのをきかずに降伏する。馬超ばちょうは入城すると、張魯ちょうろの部将・楊昂ようこう韋康いこう太守たいしゅを殺させたので、州民は悲しみいたみ、いきどおりを感じない者はいなかった。


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韋誕いたん仲将ちゅうしょう

生没年不詳。司隷しれい京兆尹けいちょういんの人。父は韋端いたん、兄は韋康いこう

孔融こうゆうは、韋誕いたんの父・韋端いたんに送った手紙の中で、韋誕いたんのことを「うるわしい性格は誠実にあふれ、人情味と真心があり、一門をたもつ主人の風格がある」と賞賛した。

建安けんあん年間(196年〜220年)に郡の上計吏じょうけいりとなったが、特別に侍中じちゅうに任命される。

太和たいわ年間(227年〜233年)に武都太守ぶとたいしゅとなるが、能書家のためみやことどめられて再度侍中じちゅうに任命され、その後は中書監ちゅうしょかん大鴻臚だいこうろ光禄大夫こうろくたいふの官をもって退職し、75歳で亡くなった。

韋誕いたんには文才があり文章を作るのが上手く、篆書てんしょ邯鄲淳かんたんじゅん草書そうしょ張伯英ちょうはくえい張芝ちょうし)、印章の鑑定法は陳長文ちんちょうぶん陳羣ちんぐん)に学び、邯鄲淳かんたんじゅん衛覬えいき韋誕いたんはいずれも書が上手なことで名声があった。

魏氏ぎし王朝)の宝器の銘文はすべて韋誕いたんの書だと伝えられる。


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【三国志人物伝】総索引