正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「い」から始まる人物の一覧①です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次

壱・壹


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い①(伊・夷・位・壱・依・威)

伊(伊夷模・伊尹・伊健妓妾・伊氏・伊声耆・伊籍・伊存)

伊夷模いいも

生没年不詳。句麗王くりおう高句麗王こうくりおう)・伯固はくこの次男。伯固はくこが亡くなると、兄の抜奇ばつきおろかだったので、国人たちは共議して伊夷模いいもおうに立てた。

建安けんあん年間(196年〜220年)に公孫康こうそんこう高句麗こうくりに攻撃を加えると、王位を継げなかったことをうらみに思っていた抜奇ばつき公孫康こうそんこうに降伏したので、伊夷模いいもはやむなく別に新しい都を建てる。

高句麗こうくり伊夷模いいも)は再び玄菟郡げんとぐんに攻撃をかけるが、玄菟郡げんとぐん遼東郡りょうとうぐんおもむいた抜奇ばつきと連合してこれを撃ち破った。

伊夷模いいもには嫡子ちゃくしがなく、灌奴部かんどぶ高句麗こうくりの部族の1つ)の女との間に生まれた位宮いきゅうが王位を継いだ。

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伊尹いいん

生没年不詳。名は

いんしょう)王朝の成立に大きく貢献し、阿衡あこう宰相さいしょう)として初代おう天乙てんいつ湯王とうおう)を補佐した名宰相さいしょう

天乙てんいつ湯王とうおう)の死後、その孫・太甲たいこうの無道をとがめてとうに追放したが、3年後、太甲たいこうの反省を知って再びおうに迎えた。

前漢ぜんかん霍光かくこうと共に、簒奪さんだつを正当化する目的としてその名が語られる。


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伊健妓妾いけんぎしょう

生没年不詳。涼州りょうしゅう盧水ろすい胡族こぞく(異民族)。治元多ちげんたらと涼州りょうしゅうで反乱を起こす。

文帝ぶんてい曹丕そうひ)は「張既ちょうきでなければ涼州りょうしゅうを安定させることはできない」と、鄒岐すうきえて張既ちょうき涼州刺史りょうしゅうししに任命して討伐に当たらせ、張既ちょうきは後続部隊の到着を待たずに強行軍で進撃を重ね、これを散々に撃ち破った。《魏書ぎしょ張既伝ちょうきでん

また、魏書ぎしょ文帝紀ぶんていぎには、「黄初こうしょ2年(221年)11月、鎮西将軍ちんぜいしょうぐん曹真そうしんは大勢の将軍しょうぐん及び州郡の兵に命令を下し、反乱を起こした蛮族ばんぞく治元多ちげんた盧水ろすい封賞ほうしょうらを討伐して撃ち破り、河西かせいは平定された」とあり、この中の盧水ろすい伊健妓妾いけんぎしょうであり、張既ちょうき曹真そうしんの下で戦ったものと思われる。


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伊氏いし

娥皇がこう娥肓がもう娥娙がけい倪皇げいこう后肓こうもう)と女英じょえい女瑩じょえい女匽じょえん)。生没年不詳。神話時代の三皇五帝さんこうごていの帝王の1人・しゅん后妃こうひ

ぎょうしゅんの人格を見極めるために2人の娘・娥皇がこう女英じょえい降嫁こうかさせ、しゅん天子てんしに即位すると娥皇がこうこうとなり女英じょえいとなった。しゅん蒼梧そうごで死ぬと、2人は湘水しょうすいに身を投げて神になったとされる。

かん前漢ぜんかん)王朝の初め、しんが学問を滅ぼした後を受け継いで、不完全な資料を採集して「天地の祭」の制度を整えた際、皇皇后地こうこうこうち(「地」を示す方形の丘に祭る大地の神)に配祀はいしされた。


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伊声耆いせいぎ伊聲耆いせいぎ

生没年不詳。倭国わこく大夫たいふ倭王わおうの使者。

正始せいし4年(243年)、倭王わおうは再び大夫たいふ伊声耆いせいぎ掖邪狗ややこら8人を使者に立て、生口せいこう(奴隷)、倭錦わきん絳青こうせいかとりぎぬ綿衣めんい帛布はくふ丹木たんぎ、[犭付*1、短弓とその矢を献上し、掖邪狗ややこらはそろって率善中郎将りつぜんちゅうろうしょう印綬いんじゅたまわった。

前回の使者は景初けいしょ2年(238年)。また、正始せいし元年(240年)に帯方太守たいほうたいしゅ弓遵きゅうじゅん建中校尉けんちゅうこうい梯儁ていしゅんらを派遣して倭王わおうに位を仮授かじゅし、みことのりと金、しろぎぬ錦罽きんけい、刀、鏡、采物さいぶつ(身分をあらわすいろどりのある旗や衣服)を下賜かししているが、当時は使者を通じて感謝の気持ちを表しただけだったので、その正式な返礼と、少帝芳しょうていほう曹芳そうほう)の元服の祝いを兼ねたものと思われる。

脚注

*1羊に似た獣。またはとも。


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伊籍いせき機伯きはく

生没年不詳。兗州えんしゅう山陽郡さんようぐんの人。

若い頃から同郷の劉表りゅうひょうもとに身を寄せていたが、劉備りゅうび荊州けいしゅうに入ると常にき来して頼りにした。劉表りゅうひょうの死後は劉備りゅうび随行ずいこうして南に向かい長江ちょうこうを渡り、つき従って益州えきしゅうに入った。

劉備りゅうび益州えきしゅうを平定すると、左将軍さしょうぐん劉備りゅうび)の従事中郎じゅうじちゅうろう(参謀副官)となり、簡雍かんよう孫乾そんけんらに次ぐ待遇を受けた。


伊籍いせきへの使者となった際、孫権そんけんは「伊籍いせきは才気あふれる弁舌家である」と聞いて、逆に弁辞べんじ(弁舌)によって彼を屈服させてやろうと思い、伊籍いせきが入って来て拝礼したところで、

「無道の君主に仕えると苦労するだろう?」

と言ったところ、伊籍いせきはすぐさま、

「1度拝礼して1度つだけのことで、簡単な仕事です」

と答えた。伊籍いせきの機知はすべてこのようであったので、孫権そんけんは見事だと大層感心した。

のち昭文将軍しょうぶんしょうぐんに昇進し、諸葛亮しょかつりょう法正ほうせい劉巴りゅうは李厳りげんと共に蜀科しょくかしょくの法律)を作った。


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伊存いそん

生没年不詳。大月氏王だいげっしおう*2の使者。

前漢ぜんかん哀帝あいてい元寿げんじゅ元年(紀元前2年)に、博士弟子はくしていし景盧けいろ浮屠ふとの経典(仏陀ぶっだの仏典)を口授くじゅ(口伝えに教えること)した。

脚注

*2月氏げっしは紀元前3世紀〜1世紀頃にかけて東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族の国家。紀元前2世紀に匈奴きょうどに敗れて中央アジアに移動し、大月氏だいげっしと呼ばれるようになった。


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夷(夷廖)

夷廖いりょう

生没年不詳。後漢ごかん末期の交阯刺史こうししし交州刺史こうしゅうしし)・張津ちょうしんの部将(部隊長)。

張津ちょうしんが度重なる軍事行動に辟易へきえきした配下の部将に殺害されると、人格者として名高い頼恭らいきょうが新たに交阯刺史こうししし交州刺史こうしゅうしし)となるが、その頼恭らいきょうも、劉表りゅうひょうが任命した蒼梧太守そうごたいしゅ呉巨ごきょに追い出されてしまう。

その後、呉巨ごきょが推挙した歩騭ほしつ交阯刺史こうししし交州刺史こうしゅうしし)に着任すると、張津ちょうしんもとで部将であった夷廖いりょう銭博せんはく粛清しゅくせいされた。


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位(位宮・位居)

位宮いきゅう

生没年不詳。句麗王くりおう高句麗王こうくりおう)。先代・伊夷模いいもめかけの子。

曾祖父そうそふきゅうと同じく、生まれてすぐに目を開けて辺りを見回すことができたことから、位宮いきゅうと名付けられる*3。力が強く勇敢で、乗馬や狩猟にたくみだった。

遼東りょうとう公孫淵こうそんえんの元からのがれたの使者を救って臣下の礼をとる一方で、の命令を受けの使者を斬ってその首をに送り、景初けいしょ2年(238年)には、主簿しゅぼ大加たいかつかわし数千人をひきいて太尉たいい司馬懿しばい公孫淵こうそんえん討伐に加勢する。

その後、たびたび遼東郡りょうとうぐん西安平県せいあんぺいけんに進入して略奪を働いていたことから、正始せいし5年(244年)に幽州刺史ゆうしゅうしし毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)の討伐を受け、2万の兵で迎え撃つも、敗北を重ねた位宮いきゅうはただ1人妻子を連れて逃げ隠れたため、句麗くり高句麗こうくり)のみやこは破壊された。

翌年、毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)が再び征討を行うと、位宮いきゅうはついに買溝ばいこうへと逃げ、玄菟太守げんとたいしゅ王頎おうきに追撃されて散々に撃ち破られた。

脚注

*3句麗くり高句麗こうくり)では似ていることを「」と言う。

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位居いきょ

生没年不詳。夫余王ふよおう麻余まよの兄の子。夫余ふよ大使たいし

麻余まよ夫余王ふよおうに即位すると、位居いきょ大使たいしの位につき、財貨をしまず人々にほどこしたので、国人たちはみな彼につき従った。

毎年みやこに使者を送って貢ぎ物を献上し、正始せいし年間(240年~249年)に幽州刺史ゆうしゅうしし毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)が句麗くり高句麗こうくり)を討伐した際には、毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)が派遣した玄菟太守げんとたいしゅ王頎おうきに対し、大加たいか犬加けんか)の位の者にみやこの外まで出迎えさせて軍糧を供出した。

また、すえ叔父おじそむこうとしたので、すえ叔父おじとその子を殺し、没収した財産に帳簿をつけてに差し出した。


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壱・壹(壱与)

壱与いよ壹與いよ)[台与とよ臺與とよ)]

生没年不詳。倭国わこく女王じょおう卑弥呼ひみこの親族の娘。

卑弥呼ひみこの死後倭国わこくには男のおうが立ったが、国中の者が心服せず、殺し合いが続いて千人以上の使者が出た。そこで、卑弥呼ひみこの親族の娘・壱与いよが13歳でおうに立てられると、国中もやっと安定した。

倭国わこくつかわされていた帯方郡たいほうぐん塞曹掾史さいそうえんし張政ちょうせいは、檄文げきぶんによって壱与いよに立派な政治を行うように教えさとした。

壱与いよは、大夫たいふから率善中郎将りつぜんちゅうろうしょうに任命された掖邪狗えきやくら20人をつかわして張政ちょうせいらの帰還を送らせ、そのままの朝廷におもむいて男女の奴隷30人を献上し、白珠(真珠)5千こう青大句珠せいだいくしゅ翡翠ひすい勾玉まがたま)2個、異文雑錦いぶんそうきんの織物)20匹を貢ぎ物として納めた。


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依(依慮)

依慮いりょ

生没年不詳。夫余王ふよおう夫余王ふよおう麻余まよの子。

夫余王ふよおう麻余まよが死ぬと、その子の依慮いりょが6歳でおうに即位した。

この記述の前に「夫余ふよの習俗(習慣・風俗)として、天候が不順で五穀ごこくみのらない時には、そのとがおうにあるとされ、おうは退位すべきだとか、おうを殺すべきだという意見が出されるのが常であった」とあり、麻余まよはこの習俗によって殺害されたものと思われる。

しん武帝ぶてい司馬炎しばえん)[在位:しん泰始たいし元年〜太熙たいき元年(265年〜290年)]の時代、夫余国ふよこく依慮いりょ)は頻繁ひんぱんしん西晋せいしん)に朝貢したが、太康たいこう6年(285年)に鮮卑せんぴ慕容部ぼようぶ慕容廆ぼようかいに襲撃されて自殺した。


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威(威王〔斉〕・威王〔楚〕)

威王いおうせい

戦国せんごく時代、せい田斉でんせい)の第4代君主(在位:紀元前356年~紀元前320年)。生年不詳〜紀元前320年没。おうとしては初代となる。いみな田因斉でんいんせい。父はせい田斉でんせい)の第3代君主・桓公かんこう孫臏そんぴん孫子そんし)が配下の将軍しょうぐん田忌でんき食客しょっかくとなった。

即位から9年の間、政務に興味を示さず酒色にふけっていたため、次々に領土を奪われていたが、淳于髠じゅんうこんの言葉*4を切っ掛けに人事を刷新さっしんし、奪われた領土を回復する。

「配下の将軍しょうぐん章子しょうし謀叛むほんした」という密告を信じなかったことから、君主が臣下を信頼した例として曹植そうしょくが語った。

脚注

*4淳于髠じゅんうこんが、謎掛けが好きな威王いおうに「王宮の庭に、3年の間飛ばず鳴かずの鳥がいます。何という鳥かご存知ですか」と問いかけると、威王いおうは「その鳥は、1度飛べば天上まで飛翔し、鳴けば人を驚かすだろう」と答え、以降行いを改めた。


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威王いおう

戦国せんごく時代、の第40代君主(在位:紀元前339年~紀元前329年)。生年不詳〜紀元前329年没。おうとしては武王ぶおうから20代目となる。いみな熊商ゆうしょう。父はの第39代君主・宣王せんこう

紀元前333年、せい宰相さいしょう田嬰でんえいあざむいたため、威王いおうせいを討伐して徐州じょしゅうでこれを破り、せい田嬰でんえいの追放をせまった。

この時、斉人せいじん張丑ちょうちゅうが「おう威王いおう)が徐州じょしゅうで勝利なされたのは、田盼子でんはんしせいもちいられなかったからです。田盼子でんはんしは国に功績のある名将ですが、田嬰でんえい申紀しんきもちいました。もし田嬰でんえいが追放されれば、田盼子でんはんしもちいられることになるでしょう。これはにとって不都合なことです」と言ったため、威王いおう田嬰でんえいを追放させることを取りやめた。


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【三国志人物伝】総索引