正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉞[懐王かいおう〕(義帝ぎてい)・懐公かいこうしん〕(子圉しぎょ)・懐叙かいじょ]です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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か㉞

懐(かい)

懐王かいおう〕(義帝ぎてい

生年不詳〜紀元前206年没。しん末の西楚せいそ国君こくくん(在位:紀元前208年~紀元前206年)。懐王かいおう熊槐ゆうかい)の孫。せいゆうしん

楚王に即位する

の滅亡後、懐王かいおう熊槐ゆうかい)の孫・熊心ゆうしんは地方にのがれ、羊の放牧を生業なりわいとして隠遁いんとん生活を送っていた。

しん二世皇帝にせいこうてい元年(紀元前209年)7月、陳勝ちんしょう呉広ごこうが「大澤だいたくの変(陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱)」を起こしたが、しん将軍しょうぐん章邯しょうかんに敗れ、反乱はわずか6ヶ月で鎮圧された。

これを知った大将軍だいしょうぐん項燕こうえんの子・項梁こうりょう項羽こうう叔父おじ)は、諸将を薛県せつけんに召集して後事を協議した。

この時、居巣県きょそうけん出身の范増はんぞう項梁こうりょうの元をおとずれて「民心をつかむには楚王そおうの子孫をおうに立てることが必要だ」と提案したので、項梁こうりょう懐王かいおう熊槐ゆうかい)の孫・熊心ゆうしんを探し出しておうに立て、「懐王かいおう」と号して盱眙県くいけんみやこに定めた。

趙国救援

しん二世皇帝にせいこうてい2年(紀元前208年)9月、「定陶ていとうの戦い」で項梁こうりょう章邯しょうかんに敗れて戦死すると、軍は撤退し、呂臣りょしん彭城ほうじょうの東に、項羽こうう彭城ほうじょうの西に、劉邦りゅうほう碭県とうけんに駐屯した。

懐王かいおうは恐れてみやこ盱眙県くいけんから彭城ほうじょううつし、みずか項羽こうう呂臣りょしんの軍をひきいると、呂臣りょしん司徒しと、その父・呂青りょせい令尹れいいんとし、劉邦りゅうほう碭郡とうぐんちょうとして武安侯ぶあんこうに封じ、碭郡とうぐんの兵をひきいさせた。

当時、ちょう国は何度も国に救援を求めていた。そこで懐王かいおうは、せい国の使者・高陵君こうりょうくんけん)が推挙した宋義そうぎして上将軍じょうしょうぐんとし、項羽こうう長安侯ちょうあんこうに封じ魯公ろこうと号させて次将じしょうとし、范増はんぞう末将まっしょうとしてちょう国への援軍を命じ、この宋義そうぎの軍を卿子冠軍けいしかんぐんと称した。

項羽こううしん軍が叔父おじ項梁こうりょうを殺したことをうらみ、劉邦りゅうほうと共に関中かんちゅうを攻めることを懐王かいおうに願い出たが、諸将は項羽こううの残忍さを理由にして同意せず、代わりに劉邦りゅうほうが単独で西に向かい関中かんちゅうを攻めることとなった。

またこの時懐王かいおうは、最初にしん都・咸陽かんように侵攻した将軍しょうぐん関中王かんちゅうおうとすることを約束する。(懐王かいおうやく

鉅鹿の戦い

宋義そうぎ安陽あんようまで来ると、数十日間そこに滞在して進軍をこばんだため、これに怒った項羽こうう宋義そうぎを刺殺して兵権を奪ってしまったので、懐王かいおう項羽こうう上将軍じょうしょうぐんとしてちょう国の救援に向かわせた。

項羽こううは諸侯をひきいて鉅鹿きょろくまで進軍すると、「鉅鹿きょろくの戦い」で王離おうりひきいるしん軍の主力に決定的な勝利をおさめたので、天下はその威名に震え上がり、諸侯は先を争って降伏。項羽こううは「諸侯上将軍しょこうじょうしょうぐん」を自任するほどの勢いを見せた。


しん二世皇帝にせいこうてい3年(紀元前207年)10月、劉邦りゅうほうが最初にしん都・咸陽かんように入り、秦三世しんさんせい子嬰しえいの降伏を受け入れたが、その後項羽こううの大軍が到着すると子嬰しえいを殺害してしまった。

項羽こうう懐王かいおう関中王かんちゅうおうとすることを望んだが、懐王かいおうの返答は「約定やくじょう通り(劉邦りゅうほう関中王かんちゅうおうとする)」だった。項羽こううは、懐王かいおうが自分を信用していないことを知り、また懐王かいおうの命令を聞く気もなかったことから、諸将に「懐王かいおう項氏こうし擁立ようりつしたが、懐王かいおうに戦功なく、しん帝国を滅亡させた功績は、この項羽こうう将軍しょうぐん各位にある」と言い、その場にいる誰もが納得した。

義帝と尊称される

紀元前206年正月、項羽こうう懐王かいおうとうとんで義帝ぎていと呼び、傀儡かいらいとした。

2月、項羽こううみずかしんの滅亡に功績のあった諸将を王侯おうこうに封じ、劉邦りゅうほう漢王かんおうとすると、自分自身は「西楚せいそ覇王はおう」と名乗り、彭城ほうじょうみやこに定めた。

その直後、項羽こうう義帝ぎてい懐王かいおう)に長沙郡ちょうさぐん郴県ちんけんうつることを強要し、その途上、英布えいふらに命じて義帝ぎてい懐王かいおう)を殺害させた。

この項羽こううによる義帝ぎてい懐王かいおう)殺害は、後に漢王かんおう劉邦りゅうほう項羽こううを攻める際の、開戦理由の1つとなった。


懐公かいこうしん〕(子圉しぎょ

生年不詳〜紀元前636年没。春秋しゅんじゅう時代のしんの第23代国君こくくん(在位:紀元前637年〜紀元前636年)。父はしん恵公けいこうせいいみなぎょ

公子こうし夷吾いごのち恵公けいこう)がりょうに亡命していた時、梁伯りょうはくりょう国君こくくん)が公子こうし夷吾いごに娘の梁嬴りょうえいめあわせ、1男1女が生まれた。梁伯りょうはくがこれをうらなうと「男は人の臣となり、女は人のめかけとなるだろう」と出たので、男の名をぎょ(養馬を担当する賤臣せんしん)、女の名をしょうとした。


恵公けいこう6年(紀元前645年)、しん繆公ぼくこう穆公ぼくこう)が兵をひきいてしんに侵攻し、しん恵公けいこうはこれを韓原かんげんで迎え撃ったが、敗れてしん軍に捕らえられた。

恵公けいこうは、恵公けいこうの姉である繆公夫人ぼくこうふじんの助命たんがんにより許され、呂省りょせいらを国に帰して「私は国に帰ることはできるが、社稷しゃしょくの神に面目が立たない。きちじつうらなって(太子たいしの)子圉しぎょを立てよ」と告げさせた。

11月、恵公けいこうは国に帰ると引き続き国君こくくんの座にとどまり、「(異母兄弟の)重耳ちょうじは国外にいるが、諸侯の多くは重耳ちょうじしんに入ることを望んでいる」と言って、てきの地で重耳ちょうじを殺害しようとしたので、重耳ちょうじせいのがれた。

恵公けいこう8年(紀元前643年)、恵公けいこう太子たいしぎょを人質としてしんに入れた。

恵公けいこう10年(紀元前641年)、しんりょうを滅ぼした。

恵公けいこう13年(紀元前638年)、恵公けいこうやまいおかされた。人質としてしんにいた太子たいしぎょは「我が母の実家はりょうにあったが、りょうは今やしんに滅ぼされた。わたしは国外ではしんあなどられ、国内では孤立無援である。もし我が君(恵公けいこう)に万一のことがあったら、大夫たいふたちはわたしないがしろにして別の公子こうしを立てるだろう」と言い、その妻(しんの女)と共にしんに逃げ帰ろうとはかった。

すると妻は「あなたは1国の太子たいしでありながら、人質としてここにはずかしめられておられます。しんは私をあなたにわせてあなたの心をつなぎ止めようとしたのです。あなたはお逃げなさい。私はあなたについて行けませんが、人にらしはいたしません」と言い、子圉しぎょはついにしんへ逃げ帰った。

恵公けいこう14年(紀元前637年)、恵公けいこうが亡くなり、太子たいしぎょ国君こくくんに即位した。これがしん懐公かいこうである。


人質であった子圉しぎょが逃亡すると、しんは彼をうらみ、公子こうし重耳ちょうじさがし出してしんに入れようとした。

懐公かいこうは即位すると、しんが攻めて来ることを恐れ、国中に「重耳ちょうじに従って逃亡した者は、期日をさだめてこれを召集する。期日を過ぎても来ない者は、ことごとくその家を滅ぼす」と命令した。

狐突ことつ太子たいし申生しんせい御者ぎょしゃ)の子・もうえんは、重耳ちょうじに従ってしんにいたことがあったが、この召集に応じようとしなかったので、懐公かいこうは怒って狐突ことつを捕らえた。

すると狐突ことつは「私の子は、長い間重耳ちょうじに使えています。今、あの子らをすことは、君にそむくことを教えるようなものです。私からどうしてそのようなことを教えられましょう」と言ったので、懐公かいこうはついに狐突ことつを殺した。

しん繆公ぼくこう穆公ぼくこう)は重耳ちょうじしんに送り届けるために出兵し、一方で人をつかわして欒枝らんし郤穀げきこくらの一党を内応させた。

その結果、懐公かいこう髙梁こうりょうで殺害され、しんに入った重耳ちょうじ国君こくくんに即位した。これがしん文公ぶんこうである。


懐叙かいじょ

生没年不詳。尚書郎しょうしょろう

嘉禾かか年間(232年〜238年)頃、呂壱りょいつ秦博しんはく中書ちゅうしょとなって諸官庁や州郡の公文書の検査監督にあたった。

呂壱りょいつたちは、その職掌しょくしょうを利用して次第に勝手な権限を振るうようになり、やがては専売品や山・沢の産物を自由にし、他人の悪事の摘発てきはつにあたっては、どんな些細ささいなことでもみな上聞し、その上、でっち上げのスキャンダルを大袈裟おおげさに取りげることによって重臣たちを傷つけ、無辜むこ(何の罪もないこと)の者たちを罪におとしいれた。顧雍こようたちもみな彼の告げ口のために譴責けんせきを受けたのである。


後に呂壱りょいつの悪事が発覚してごくつながれると、顧雍こようごくおもむいて罪状の取り調べを行ったが、顔色をやわらげて事件に対する申し開きをさせた。

当時尚書郎しょうしょろうであった懐叙かいじょは、呂壱りょいつ面罵めんばしてはずかしめたが、顧雍こよう懐叙かいじょとがめて「官にはさだまった法律があるのだから、そんなことをしてはならぬのだ」と言った。


呉書ごしょ顧雍伝こようでんが注に引く徐衆じょしゅう三国評さんごくひょうでは、顧雍こようの行為について「もし呂壱りょいついつわりの申し立てをした場合には、その罪をゆるさなければならなくなる」と非難し、懐叙かいじょの行為については「懐叙かいじょには元々呂壱りょいつに対する私怨しえんもなく、他への配慮をする必要もなかった。だから彼が呂壱りょいつののしはずかしめたのは、純粋に悪をにくむ気持ちからであった。不仁ふじんなものをにくむことは、すなわちじんなる態度なのであり、顧雍こよう懐叙かいじょとがめ立てしてはならなかったのである」と、懐叙かいじょ擁護ようごしている。


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