正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉚(解弘・解儁・解𢢼・解楊)です。
スポンサーリンク
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
スポンサーリンク
か㉚
解(かい)
解弘
生没年不詳。魏のある官庁の小役人(有司徒吏)。
当時[魏の文帝(曹丕)の時代]の制度では、親の死に遭った下役は、百日後にはみな役務に復帰することになっていた。
ある官庁の小役人(有司徒吏)だった解弘の父が亡くなり、後に戦があって、勅命を受けて役務に当たらなければならなかったが、解弘は重病を理由に免除を申し出た。
これに「お前は曾参・閔子騫*1でもないのに、どうして毀*2などと言うのだ?」と怒りの詔勅が下され、すぐさま逮捕して厳しく取り調べさせた。
廷尉の高柔は、彼が本当に大変やつれ果てているのを見ると、上奏して「よろしく寛大な処置をとられますように」と具申した。
そこで文帝(曹丕)は「孝であることよ、解弘。よって彼を許す」と詔を下した。
脚注
*1共に孝子として名高い孔子の弟子。
*2喪に服して悲しみのために痩せ衰えること。
「解弘」の関連記事
解儁
生没年不詳。護烏丸校尉・田豫の部将。
魏の文帝(曹丕)の初め[黄初元年(220年)]、北狄(北方の蛮族)が強盛となり、国境地帯に侵入して騒がせた。
そこで文帝(曹丕)は、南陽太守の田豫を持節護烏丸校尉とし、牽招・解儁と共に鮮卑族を監督させた。
「解儁」の関連記事
解𢢼(解忄剽 )
生没年不詳。曹操の部将。
建安20年(215年)3月、張魯征討のため西に出陣した曹操は、秋7月、陽平関に到達した。
張魯は弟の張衛と将軍の楊昂らを陽平関に立て籠もらせた。彼らは山を横切って10余里(約4.3km)にわたって城を築いており、攻撃したが陥せなかったので軍を引き揚げた。
張魯軍が、大軍が引き揚げたのを見てその守備を解くと、曹操は秘かに解𢢼(解忄剽 )・高祚らに険しい山を登らせて夜襲させ、散々にこれを撃ち破り、その将・楊任を斬り、進撃して張衛を攻めた。
張衛は夜陰に紛れて遁走し、張魯は総崩れとなって巴中に逃亡した。
「解𢢼」の関連記事
解楊(解揚・子虎)
生没年不詳。春秋時代の晋の大夫。
晋の霊公2年(紀元前619年)春、晋の霊公は、解揚を派遣して衛に匡と戚の地を返還した。
晋の霊公13年(紀元前608年)秋、楚の荘王が陳と宋に攻め込むと、晋の趙盾は軍を率いて宋の文公、陳の霊公、衛の成公、曹の文公と合流し、鄭を討伐して陳と宋を救援したが、この時、晋軍は北林で楚の蒍賈の軍と遭遇し、解揚は楚軍に捕らえられた。
※その後、解揚は晋に帰国したようである。
晋の景公6年(紀元前594年)、楚がまた宋を攻め、宋は晋に救援を求めた。晋の景公は宋を救援しようとしたが、大夫の伯宗は「鞭は長くとも馬の腹までは届かない(晋では楚に敵わない)」と考え、景公には「援軍を送らないように」と言いながら、解揚を宋に派遣して「晋の援軍が来る」と伝えさせ、宋が楚に降伏してしまうことを防ごうとした。
ところが、解揚が宋に向かう途中、鄭を通過しようとしたところで鄭国人に捕らえられ、身柄を楚に送られてしまった。
すると楚の荘王は、解揚に賄賂を渡し、宋に「晋の援軍は来ない」と言わせようとした。解揚は最初は拒否していたが、荘王の度重なる説得を受け、ついにこれを承諾する。
そこで荘王が、解揚を楼車(高い楼が設置された偵察用の車)の上に登らせたところ、解揚は宋国人に向かって「晋の援軍はまもなく到着しますぞっ!」と叫んだ。
これに大いに怒った荘王は彼を殺そうと思い、人を遣って「お前は承諾したにもかかわらず、なぜ約束を破ったのか?潔く刑を受けよっ!」と告げた。
すると解揚はこれに答えて言った。
「君王(荘王)は私に賄賂を贈ったが、それは『義』の意味を理解していない行いだ。国君の命令を受けて国を出たからには、命令を放棄するくらいなら死を選ぶ。賄賂で心を動かすはずがないではないか。下臣があなたの王(荘王)の申し出を承諾したのは、偏に国君の命令を果たさんがためである。死して命令を果たせるのならば本望だ。寡君(景公)に死を賭して『信』を守る臣下あり。下臣は死に場所を得た。これ以上何を望むというのか」
この言葉を聞いた荘王は、解揚を釈放して帰らせた。
スポンサーリンク