正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧⑳[華覈かかく華錡かき華元かげん華彦かげん華佗かだ華尃かふ)・華当かとう華雄かゆう]です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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 か⑳

華(か)

華覈かかく永先えいせん

生没年不詳。揚州ようしゅう呉郡ごぐん武進県ぶしんけんの人。

初め揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん上虞県じょうぐけん県尉けんいとなり、後に典農都尉てんのうといをつとめたが、文章や学術の才能を評価されて中央に入り、秘府郎ひふろうに任命され、中書丞ちゅうしょじょうに昇進した。

永安えいあん6年(263年)、しょくによって併合された時、華覈かかくは宮門において上奏文を献上して、景帝けいてい孫休そんきゅう)に蜀漢しょくかんの滅亡を報告した。

元興げんこう元年(264年)、孫晧そんこう孫皓そんこう)が即位すると、徐陵亭侯じょりょうていこうに封ぜられた。

宝鼎ほうてい2年(267年)、孫晧そんこう孫皓そんこう)が農繁期のうはんきの領民を動員して、新しい贅沢ぜいたくな宮殿(顕明宮けんめいきゅう)の造営を始めると、華覈かかく上疏じょうそしてこれをいさめたが、孫晧そんこう孫皓そんこう)は聞き入れなかった。

後に東観令とうかんれいに昇進し、右国史ゆうこくしを兼任することになった時、華覈かかく上疏じょうそして辞退しようとしたが、孫晧そんこう孫皓そんこう)は、華覈かかくが古典に精通し、博覧にして多くの知識を備えており、礼楽を楽しみ、詩書に深く心を寄せる人物であることから、適任であるとして、辞退を許さなかった。

またこの当時、官倉に備蓄がないにもかかわらず、世間の風潮は奢侈しゃしに流れていたので、華覈かかくはまた上疏じょうそして「現在、天下は分裂し、凶暴な者どもが満ち満ちて、兵士たちは国境地帯に釘付けになって、甲冑かっちゅうを脱ぐいとまもないのでございますから、財貨を生み出す源泉を豊かにし、官庫の備蓄を十分なものとされずにいて良いものでしょうか」と忠告した。


孫晧そんこう孫皓そんこう)は華覈かかくが老齢であることから、浄書(清書)していない草稿(下書き)のまま上奏することを許す、特別の待遇を与えた。

華覈かかくは、幾度いくども時務(その時その時の急務)に対処するための方策を上申し、また立派な人物や能力のある者を推薦し、罪過のあった者の取りなしをするなど、たてまつった上書は百通以上にのぼったが、それらはそれぞれに政事を裨益ひえき(役に立つこと)するところがあった。

天冊てんさく元年(275年)、小さなことで譴責けんせきを受けて官を免ぜられ、それから数年後に亡くなった。

韋曜いよう華覈かかくが時事を論じた上奏文は、共に広く世間に伝え読まれた。


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華錡かき

生没年不詳。孫権そんけんそば近くに仕えた旧臣。

諸葛恪しょかつかく孫権そんけんの5男・孫奮そんふんいさめるために送った手紙の中に登場する。

諸葛恪しょかつかくはその手紙の中で、

華錡かきは先帝(孫権そんけん)のおそば近くに仕えた旧臣であって、真心があり正しい人物でありますから、その意見を受けれて任用されるべきでありますのに、聞けば、華錡かきに対して腹を立てられ、彼を捕縛しているとの風聞もございます」

と、華錡かきの扱いについて孫奮そんふんいさめている。


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華元かげん

生没年不詳。商丘しょうきゅう(現:河南省かなんしょう商丘市しょうきゅうし)の人。父は華御事かぎょじ。曾祖父に華督かとく春秋しゅんじゅう時代のそう大夫たいふ右師ゆうし宰相さいしょう

そう昭公しょうこう9年(紀元前611年)、そうの国人は無道な昭公しょうこうに不満を持っていたが、昭公しょうこうの弟・鮑革ほうかくは賢明で士に対して謙虚だった。これより先、襄公じょうこう夫人ふじん王姫おうき)は公子こうし鮑革ほうかくと私通しようとしたが、鮑革ほうかくが受け付けなかったのでかえって鮑革ほうかくを助け、国人に恩恵をほどこした。大夫たいふ華元かげんの進言によって鮑革ほうかく右師ゆうしとなった*1

昭公しょうこうりょうに出た時、夫人ふじん王姫おうき衛伯えいはくに命じて昭公しょうこうを攻め殺させ、杵臼しょきゅう昭公しょうこう)の弟・鮑革ほうかくが立った。これが文公ぶんこうである。


そう文公ぶんこう4年(紀元前607年)春、ていに命ぜられてそうに攻めてきた時、そう華元かげん将軍しょうぐんとした。

華元かげんは戦いの初めに羊を殺して将兵に振る舞ったが、華元かげん御者ぎょしゃは羊のあつものの分け前にあずからなかったことをうらんで、(華元かげんを乗せたまま)ていの陣営に駆け込んだため、華元かげんてい軍の捕虜となり、そう軍は敗れた。そうは兵車百じょう・文馬(良場)4百頭をもって華元かげんの返還を求めたが、華元かげんはそれらの受け渡しが終わる前に脱出してそうに帰った。


そう文公ぶんこう16年(紀元前595年)、の使者がそうを通過し、そうがかつてのうらみによっての使者を捕らえたので、この年の9月、荘王そうおうそうの都を包囲した。

そう文公ぶんこう17年(紀元前594年)、は依然として包囲を続け、5月になっても包囲は解けず、そうの城中は危急にひんし、食糧が尽きた。

華元かげんは夜分ひそかにの将・子反しはんと会見した。子反しはんがこれを荘王そうおうに告げると、荘王そうおうは「城中はどういう有り様か」とたずねた。子反しはんは「人の骨をくだいてまきにして炊飯し、子と子を取り換えて食っているそうです」と華元かげんに聞いたことを伝えた。

荘王そうおうは「それはまことであろう。我が軍でさえあと2日分の兵糧しかないのだからな」と言い、華元かげんが真実を告げたことを「良し」としていくさをやめて去った。

そう文公ぶんこう22年(紀元前589年)、文公ぶんこうが亡くなり、子の共公きょうこう)が立った。

この時華元かげんは、先例を破って今までになく豪華に文公ぶんこうほうむったので、君子らは華元かげんを「臣道を尽くさない者だ」とそしった。


そう共公きょうこう元年(紀元前589年)、華元かげんの将・子重しちょうしんの将・欒書らんしょと親しかったので、そうしんと双方に盟約した。

そう共公きょうこう13年(紀元前576年)、共公きょうこうが亡くなり、華元かげん右師ゆうしとなり、魚石ぎょせき左師さしとなった。司馬しば唐山とうさん太子たいしを攻め殺し、華元かげんをも殺そうとした。華元かげんしん出奔しゅっぽんしようとして黄河こうがまで来たが、魚石ぎょせきに止められて引き返し、唐山とうさん誅殺ちゅうさつして共公きょうこうの末子・せいを立てた。これが平公へいこうである。


魏書ぎしょ文帝紀ぶんていぎ黄初こうしょ3年(222年)、首陽山しゅようさんの東に寿陵じゅりょう(生前に作る陵墓)を築き、葬礼の制度を制定して述べた中に、

宋公そうこう文公ぶんこう)に対して厚葬がなされた時、君子は華元かげん楽莒がくきょを臣道に外れていると評したが、それは主君の悪を放置したと考えたからである」

とあるが、裴松之はいしょうし孫盛そんせいの「昔、華元かげんそう文公ぶんこうのために厚葬を行ったので、君子は君を悪の中にて去ったと判断した」という言葉を注に引いている。

魏書ぎしょ明帝紀めいていぎ裴松之はいしょうし注にも「華元かげん楽莒がくきょそう文公ぶんこうのために厚葬を行った」ことが引用されており、また、呉書ごしょ陸遜伝りくそんでんが注に引く晋陽秋しんようしゅうには、当時の人々が、陸抗りくこう羊祜ようこの関係を「敵同士でありながら互いにあざむかなかった華元かげん子反しはんが今の世にも現れたのだ」と評判したことがせられている。

脚注

*1史記しき宋微子世家第八そうびしせいかだいはちより。しゅんじゅうでんかんきゅうぶんこうでには「国人は公子こうしほうを奉じて夫人ふじん王姫おうきを後見とした。この時華元かげん右師ゆうしとした」とある。


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華彦かげん

生没年不詳。袁譚えんたんの腹心。

曹操そうそうによって青州刺史せいしゅうししに任命された袁譚えんたんは、田楷でんかいらし、建安けんあん元年(196年)には東方の孔融こうゆうを攻撃して海岸地帯まで軍威を輝かせた。

当時、青州せいしゅうの住民は主君がいない状態であったため、喜び勇んで袁譚えんたんを主君とあおいだが、袁譚えんたんは小人を信任し、身近にありふれた低俗ていぞくな言葉を好んで受けれ、思い通りに振る舞って奢侈しゃし淫蕩いんとうおぼれ、農業の苦労を理解していなかった。

華彦かげん孔順こうじゅんはみな邪悪な小人であったにもかかわらず、信頼して腹心の部下とし、王脩おうしゅうらはまったく無視されて、ただ官位にいているだけであった。


華佗かだ元化げんか華尃かふ

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんの人。またの名を華尃かふ華旉かふ)。

徐州じょしゅうに出て学問をし、いくつかの経書に通じた。沛相はいしょう沛国はいこく太守たいしゅ)であった陳珪ちんけい孝廉こうれんに推挙し、太尉たいい黄琬こうえんは自分の幕府に辟召まねいて官職につけようとしたが、いずれも断った。

養性ようじょうの術に通暁つうぎょうしており、当時の人々は「彼の年がもう百歳にもなるはずだ」としたが、見たところは若々しかった。

また薬品の処方に詳しく、病気治療のために薬をせんじる場合には、数種の薬材をもちいるだけで、目分量でちゃんと調合をして、はかりなどをもちいることはなかった。薬を煮終わると病人に飲ませ、後の養生法を告げてそのまま立ち去ったが、例外なく快癒かいゆした。

きゅうえる時には、1、2ヶ所だけで、それぞれの箇所にも7、8回を出なかったが、病気はそれですぐ治った。

はりを打つ時には、患者に「これこれの場所まで刺すが、もし痛みがあったら言いなさい」と言い、患者が「痛みがありました」と言うと、すぐさまはりを抜いた。病気はこれだけでやがて治った。

もし病気が内部でり固まってしまって、はりも薬も役に立たず、切開する必要がある場合には、患者に彼特製の麻沸散まふつさん(麻酔薬)を飲ませた。飲むと間もなく、患者は酔っ払って死んでしまったように、なんの感覚もなくなり、そこで患部を切り取った。

病気が腸の中にある場合には、腸を切り取ってきれいに洗い、縫合ほうごうして膏薬あぶらぐすりをつけてマッサージをすると、4、5日でほぼ痛みがなくなる。患者はずっと気がつかないままで、1ヶ月もつと全快するのであった。

広陵太守・陳登

広陵太守こうりょうたいしゅ陳登ちんとうが病気にかかり、胸がつかえ、顔がてらてらして食事が進まなかった。

華佗かだは脈をみて言った。「府君ふくん太守たいしゅの尊称)の胃の中には数しょうの虫がいて、内部でれ物になりかかっております。生臭物なまぐさものを食べられたために起こったのです」そこでせんじ薬を2しょう(約400ml)つくり、まず1しょう(約200ml)を飲ませ、しばらくして残りを全部飲ませた。

間もなく3しょう(約600ml)の虫をいた。頭が赤くてみなうごめき、半分はまだ生魚のさしみの形を残していた。これで陳登ちんとうの苦しみは治り、華佗かだは「この病気はこの後3年目にきっと再発します。もしその時良い医者がおれば、お救いすることができましょう」と言った。

その言葉の通り3年目に病気が再発したが、その時には華佗かだがいなかったため、はたして陳登ちんとうは死んでしまった。

曹操

曹操そうそうは評判を聞いて華佗かだし寄せ、華佗かだは常時、曹操そうそうそばはべることになった。曹操そうそうには頭痛の持病があって、発作が起こるといつも心が乱れ、目もくらんでしまうほどであったが、華佗かだおうかくまくはりを打つと、打つそばから苦痛が引いていった。

李通夫人

李将軍りしょうぐん李通りつう)の夫人が重い病気にかかり、華佗かだを呼んで脈をみさせた。華佗かだが「流産をされてまだ胎児たいじりておりはせん」と言うと、李通りつうは「実は流産をして、胎児たいじはもうりたのだ」と言った。華佗かだは「脈によれば、胎児たいじはまだ残っております」と言ったが、李通りつうが「そんなことはない」と言い張るので華佗かだはそのまま去り、夫人もやや良くなった。

その後百日余りして再発し、李通りつうはもう一度華佗かだを呼んだ。華佗かだは「脈はまだ胎児たいじが残っていることを示しています。元々双子ふたごが生まれるはずであったのが、後のが生まれることができぬまま死亡し、からびて母親の脊椎せきついに固着しているため、痛みを起こしているのです」と言った。

そこで、華佗かだせんじ薬を飲ませてはりを打つと、夫人は出産の時のようにひどい陣痛を訴えた。華佗かだは「この死んだ胎児たいじは久しくからびていたので、自然に出る事ができません。誰かにさぐり出させる必要があります」と言い、はたして1体の死んだ男の胎児たいじさぐり出された。手足はそろっており、色が黒く、その身のたけは1尺(約24.2cm)ばかりだった。

曹操の怒りを買う

華佗かだは元々士人しじん(庶民より上の身分)であったのに、医者としてしか扱われないことから、常々心にくやしく思っていた。

曹操そうそうが天下に号令するようになった後、重病にかかったことがあり、華佗かだ1人に診察させたが、この時華佗かだは「これを完治させるのはほぼ不可能です。絶えず治療につとめられれば、ご寿命を延ばすことはできます」と言った。

また華佗かだは、これまで久しく家に帰ることができていなかったので、この機会に「家にある書物と処方が必要でございます。それを取ってすぐ戻って来たいと思います」と願い出たが、家に帰ると、妻の病気を理由にたびたび休暇の延長を願って戻らなかった。

曹操そうそうは何度も手紙を送って呼び寄せようとし、さらには郡や県の役所に命じて強制的に戻らせようとしたが、華佗かだは自分の腕前をたのみに他人のろくむことを嫌い、どうしても家を離れようとしなかった。

曹操そうそうは大いに腹を立て、取り調べの使者をおくって「もし彼の妻が病気であれば、小豆あずき40こく下賜かしして休暇の期限を延ばしてやるように。もし嘘であれば、すぐさま捕らえて護送するように」との命令を与えた。

結局、華佗かだの嘘が明らかとなり、華佗かだは早馬で護送されて許県きょけんの獄につながれ、取り調べを受けて罪状を認めた。

荀彧じゅんいくは「華佗かだの腕はまことたくみで、人々の生命も彼の腕1本にかかっております。よろしく大目にみてゆるしてやってくださいますように」といのちいをしたが、曹操そうそうは「心配するな。天下にこんなねずみのごときやからが他にいないことがあろうか」と言い、華佗かだを厳しい拷問ごうもんにかけた。

華佗かだは死にのぞんで、「これで人の生命を救うことができる」と言って獄吏ごくりに1巻の書物を与えたが、獄吏ごくりは法をおそれて受け取ろうとはしなかった。華佗かだいて押しつけようとはせず、火を求めてその書物を焼いてしまった。


華佗かだの死後、曹操そうそうの頭痛は完全に治りきっていなかった。曹操そうそうは「華佗かだにはこれを治すことができた。あいつめはわしの病気を完全に治さずにいて、自分が重んぜられるようはかっていたのだ。だからわしがあいつを殺さなかったとしても、結局わしのこの病気を根本から取り除いてはくれなかったに違いない」と言ったが、後にかわいがっていた息子の倉舒そうじょ曹沖そうちゅう)が危篤きとくになると、曹操そうそうは「華佗かだを殺してしまったことが残念だ。そのために、この子をむざむざ死なせることになってしまった」となげいた。


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華当かとう

生没年不詳。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんの不服従民。

建安けんあん8年(203年)、揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん建安県けんあんけん漢興県かんこうけん呉興県ごこうけん)、南平県なんぺけんで再び反乱が起こり、孫権そんけん南部都尉なんぶとい賀斉がせいに討伐を命じた。

会稽郡かいけいぐんの不服従民、

  • 洪明こうめい洪進こうしん苑御えんぎょ呉免ごめん華当かとうら5人はそれぞれ1万戸を指揮して漢興県かんこうけん呉興県ごこうけん)に本営を連ねて置き、
  • 呉五ごごは6千戸をひきいて大潭だいたんに本営を置き、
  • 鄒臨すうりんは6千戸をひきいて蓋竹がいちくに本営を置いて、

それぞれ揚州ようしゅう豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)・余汗県よかんけんまで兵を進めた。

賀斉がせいは兵の一部を余汗県よかんけんの守備にとどめて洪明こうめいらの討伐に出陣し、続けざまに勝利をおさめて洪明こうめいを斬ると、呉免ごめん華当かとう洪進こうしん苑御えんぎょらは降伏。その後方向を転じて蓋竹がいちくち、軍が大潭だいたんせまると残りの敵将も降伏した。この戦いの中で斬首された者は6千人に達し、名のある頭目はことごとく捕虜となった。


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華雄かゆう葉雄しょうゆう

華雄(かゆう)/葉雄(しょうゆう)

生没年 ?〜191年
出身地 『三国志演義』では関西かんせい
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい献帝けんてい董卓とうたく

董卓とうたく配下の都尉とい

董卓とうたくが朝廷で権力を握ると反董卓とうたく連合が決起。胡軫こしんに従って陽人聚ようじんしゅうに侵出した孫堅そんけんを迎撃に出るが、胡軫こしんを嫌った呂布りょふが偽情報を流したため胡軫こしん軍は敗北。混乱の中で華雄かゆうは斬られ、獄門ごくもん(さらし首)にかけられた。

『三国志演義』では、鮑忠ほうちゅう祖茂そも兪渉ゆしょう潘鳳はんほうを次々に討ち取る活躍を見せるが、その後関羽かんうに瞬殺され、関羽かんうの強さを強調する役目をになう。


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【三国志人物伝】総索引